1話 地下研究室のリーゼ
春の陽光が石畳に降り注ぐ午後、ヴァルトハイム伯爵邸の地下研究室だけは季節を知らなかった。
窓のない石造りの部屋。壁際の棚にはびっしりと小瓶が並んでいる。琥珀色、深緑色、乳白色——様々な色の液体が揺れ、乾燥させた植物の束が天井から吊るされていた。青臭さと薬品の香りが混じりあった独特の匂い。一般的な貴族令嬢の部屋とはほど遠い空間で、リーゼ・ヴァルトハイムは今日も一人、乳鉢を動かしていた。
「ドクムギの抽出成分……前回より三割減。ブラックフェンネルの精油と七対三で混合して、加熱は六十度以下を維持」
呟きながら手を止めない。焦げると成分が変性する。この工程が一番神経を使った。
やがて小瓶の中の液体が、じわりと色を変えた。濁った緑から、透き通った琥珀色へ。
リーゼは息をついた。
上手くいった。
この瞬間だけは、前世も今世も変わらない。物質が変化するあの静かな高揚感。手の中で何かが生まれる感覚。研究室の薄暗さも、漂う薬草の臭いも、その瞬間だけは全部消えた。
——前世。
リーゼには、この世界に生まれる前の記憶がある。
前の世界は、魔法も魔草も存在しない、ひどく地味な場所だった。白衣を着て、蛍光灯の下で、ひたすら実験を繰り返す毎日。製薬会社の研究員だったらしい。「らしい」というのは、自分の名前すら朧げになっているからだ。ただ、研究の記憶だけは妙に鮮明に残っている。
猛毒を持つ植物や菌類から有効成分を抽出し、薬を作る研究だった。
フグの毒から作る鎮痛剤。ヤドクガエルの毒から作る筋弛緩剤。ボツリヌス菌の毒素を利用した治療薬。毒と薬は、紙一重だ。いや、正確には同じものだ。用量と用途と精製の方法が、毒を薬に変える。
その知識ごとこの世界に生まれ落ちたリーゼにとって、魔法植物が豊富なこの世界は天国のようなものだった。前世には存在しなかった魔草が、これほど豊富な魔力成分と薬効成分を持っているとは。毒性の強い種ほど、うまく扱えば劇的な効果をもたらす。
リーゼが研究室に籠もり始めたのは、十五歳の頃だった。
今は二十二歳。七年間、ひたすら毒草と向き合ってきた。
小瓶を光にかざして観察しながら、リーゼは研究ノートに数字を書き込んだ。分厚いノートは、すでに三冊目に突入している。配合の比率、加熱温度と時間、原料の採取時期による成分の変化——前世の知識と今世の実験データを組み合わせた、七年間の集大成。
このポーションは、市販品とは根本的に違う。
現在、ヴェルディア王国で流通しているポーションのほとんどは、安全な薬草を原料にした「表面治癒型」だ。切り傷や打ち身を塞ぐことはできるが、失った手足を戻すことはできない。重篤な感染症にも効かない。高品質とされる上級ポーションでさえ、骨折を数時間で治す程度が限界だった。
だがリーゼが作るポーションは、四肢の欠損を完全に再生できる。
難病も、感染症も、治せる。
毒草の成分を極限まで精製し、魔力を持つ触媒と組み合わせることで、人体の自然治癒力を数百倍に引き上げる。前世の製薬技術と、この世界の魔法植物の力が合わさって初めて実現できることだ。
問題は——誰も信じないことだった。
「リーゼお嬢様はまた地下に籠もっておられる」
頭上から使用人たちの声が漏れてくることがある。石造りの天井は薄く、廊下の音がよく通った。
「毒草ばかり触って、気味が悪い」
「あのお方が伯爵家の跡取りでなければよかったのに」
聞こえているのにわかっていて言っている声。リーゼは慣れていた。気にしないと決めていた。研究が進む方が大事だ。他人の評価より、ノートの数字の方が正直だ。
棚から別の小瓶を取り出す。先月完成させた万病散。透き通った薄青色の液体が揺れる。これはどんな感染症にも効く。実験用のネズミで何度も確認した。魔草由来の成分が血中に入ると、異物を認識して無力化する仕組みだ。前世でいえば、広域スペクトラムの抗生物質に近い。
市場に出回っているポーションでは、到底できないことだ。
でも——誰も必要としていなかった。
というより、誰も見向きもしなかった。毒草を使っているというだけで、王都の薬師組合には門前払いにされた。父に相談しても「危なっかしいことはやめなさい」と言われた。婚約者のアルベルトは「そんな研究より社交の勉強をしろ」と眉をひそめた。
変人。
それがリーゼについた呼び名だった。
気にしない、と思っていた。思っていたのだが——七年間、一人で研究を続けながら、たまに考えることがある。前世でも、似たような人間だったのだろうか、と。白衣を着て蛍光灯の下で黙々と実験を繰り返す、誰とも打ち解けられない研究員。そういう人間だったから、この性格のまま転生してきたのかもしれない。
まあ、いい。
リーゼはノートを閉じた。研究は進んでいる。それで十分だ。
そのとき、扉をノックする音がした。
コンコン、と二回。遠慮がちで、それでいて慣れた叩き方。
「リーゼ姉様、いらっしゃいますか」
甘い声だった。
「入っていい」
扉が開くと、ふわりとバラの香水が漂ってきた。石造りの研究室に似合わない、甘くて華やかな香り。
クローリア・ヴァルトハイム。リーゼの妹、三歳下。栗色の巻き毛に大きな瞳、どこか舞台に立つ女優のような整った顔立ち。花が咲いたような笑顔を持ち、社交界では「ヴァルトハイムの宝石」と呼ばれている。
姉妹で並ぶと、よく人が驚いた。
「リーゼお嬢様のご姉妹とは思えない」と。
リーゼはそのたびに曖昧に笑った。自分でもそう思っていたから。
「また研究中ですか、姉様。お夕食の時間ですよ」
クローリアが室内を見回す。棚に並ぶ小瓶と乾燥植物の束を、少し眉をひそめながら。
「あとにする。今いいところだから」
「もう……毎日毎日」
クローリアはため息をついた。困ったような、諦めたような表情。それからふと、棚の一角に目を止めた。
「それ、新しいポーションですか」
「そう。先週から配合を変えて試してる」
「……また毒草で作っているんですか」
声に、微妙な何かが混じっていた。不安、とも取れる。軽蔑、とも取れる。
「毒草じゃないと作れないから」
リーゼは淡々と答えた。クローリアはそれ以上何も言わなかった。
「早く来てくださいね。お父様が待っています」
そう言い残して、妹は扉を閉めた。
またバラの香りが漂い、そして消えた。
リーゼは研究ノートを棚にしまい、手を洗って、地下の階段を上り始めた。
石段を踏みしめながら、ふと思った。
クローリアが研究室に来るのは珍しい。最近、なぜか顔を出すことが増えていた。
何か用があるのだろうか。
——その答えが、三日後に明らかになるとは、このとき思いもしなかった。




