第9章:嵐のプレゼンテーション
プロジェクトの集大成である、役員プレゼンテーション当日。企画開発部第一チームの誰もが、緊張した面持ちで会議室に集まっていた。その中心で、最終チェックを行っていた凛の顔色が、さっと変わった。
「……嘘でしょう」
凛の口から、か細い声が漏れる。彼女が見つめるPCの画面には、プレゼンの根幹をなす売上予測データが表示されていた。しかし、その数値に、致命的なエラーが見つかったのだ。参照していたマーケティング会社の最新レポートが、ごく一部、誤った数値のまま反映されてしまっている。このままでは、全てのシミュレーションが根底から覆る。
「どうした、橘」
他のメンバーが異変に気づき、凛の周りに集まる。
「データにミスが……。このままでは、プレゼンはできないわ」
凛の言葉に、チーム全体がパニックに陥った。プレゼン開始まで、あと三十分しかない。今からデータを修正し、関連する全てのスライドを直すのは、物理的に不可能だ。
完璧主義者である凛ですら、顔面蒼白になり、絶望に唇を噛みしめる。彼女の頭の中は真っ白だった。チームの努力、費やした時間、全てが水泡に帰す。リーダーとしての責任を、どう取ればいいのか。彼女が呆然と立ち尽くしていた、その時だった。
「――橘リーダー!」
力強い声と共に、結城陽向が立ち上がった。その手には、一つのUSBメモリが握られている。
「僕が、バックアップで調べていた代替案のデータがあります!」
「……代替案?」
凛は、信じられないという顔で陽向を見た。
「はい。今回のプランAが最も効果的だとは思いますが、万が一、市場の反応が想定と違った場合のプランBとして、別のアプローチからの事業展開も個人的にシミュレーションしていました。こちらのデータを使えば、メインのコンセプトは維持したまま、根拠となるデータを差し替えることが可能です!」
陽向の言葉に、チームの全員が目を見張った。なぜ、彼がそんなものを?
陽向は、凛の目をまっすぐに見つめて言った。
「リーダーが、いつも夜遅くまで残業しているのを知っていましたから。プレゼンのプレッシャーで、夜もあまり眠れていないことも」
その言葉は、凛の胸に深く突き刺さった。眠れていないこと。それは、HALにだけこぼした弱音だった。
『プレゼンが怖くて、最近よく眠れないんだ』
『失敗したらどうしようって、ずっと考えてしまう』
陽向は、HALとして彼女の苦労を聞いていた。だからこそ、彼は動いていたのだ。リーダーである凛が、万が一、窮地に陥った時に、自分が彼女を支えられるように。彼女の逃げ道を用意できるように。ポンコツと罵られても、陰で一人、膨大な時間を費やして準備を進めていたのだ。
「結城くん……」
「時間がありません。皆さん、手分けしてスライドを修正しましょう!僕が差し替えるデータを指示します!」
いつものおどおどした姿は、そこにはなかった。陽向は冷静沈着に、しかし情熱を持って、チームメンバーに次々と指示を飛ばしていく。その姿は、まるで百戦錬磨の指揮官のようだった。
凛も、我に返った。今は感傷に浸っている場合ではない。
「……分かったわ。やりましょう」
凛の言葉を合図に、チームは一丸となって修正作業に取り掛かった。陽向が的確にデータを提示し、凛がそれを最適な形でプレゼン資料に落とし込み、他のメンバーが誤字脱字やデザインの最終調整を行う。奇跡的なチームワークだった。
そして、プレゼン開始五分前。修正は、ギリギリで完了した。
「……以上で、私からのプレゼンテーションを終わります」
役員たちを前に、凛は堂々とした態度で締めくくった。急遽差し替えたとは思えない、完璧な内容だった。質疑応答も、陽向の用意した代替案のデータが強力なバックアップとなり、凛は全ての質問に淀みなく答えることができた。
プレゼンテーションは、役員たちの賞賛の拍手の中、大成功に終わった。
会議室を出た瞬間、チームから歓声が上がる。その中心で、メンバーから労いの言葉をかけられている陽向の姿を、凛は少し離れた場所から見つめていた。
「ポンコツ後輩」という評価は、今、この瞬間、完全に覆された。彼は、ただの癒し系男子ではない。愛する人を、そしてチームを、その身を賭して守り抜く、有能で献身的な「騎士」だった。その事実に、凛の胸は感謝と、それだけでは説明のつかない熱い感情で満たされていた。




