第8章:知ってしまった彼の戸惑い
全ての真実を知ってしまった翌日、結城陽向の会社での振る舞いは、明らかにぎこちないものになっていた。
(どうしよう、どうしよう……)
デスクでPCに向かいながらも、彼の意識は常に斜め前の席にいる橘凛に集中していた。彼女の一挙手一投足が気になって仕方がない。凛が眉間に皺を寄せれば「俺のせいで機嫌が悪いんじゃないか」、ため息をつけば「俺の存在がストレスなんじゃないか」と、全てをネガティブに結びつけてしまう。
RinRinの正体が凛であると知ってしまった今、彼女が放つ「氷の女帝」のオーラは、昨日までの比ではなく、鋭利な刃物のように陽向の心に突き刺さった。
(RinRinさんは、昨日の夜、あんなに追い詰められていたんだ…)
彼女の弱さを知ってしまったからこそ、現実世界の彼女の完璧な姿が、痛々しいほどの強がりに見えた。そして、そのストレスの原因の一端が自分にあるという事実が、重くのしかかる。
「これではダメだ」と陽向は思った。自分がこんな状態では、今まで以上にミスを連発し、さらに彼女の負担を増やしてしまう。そう考えた陽向は、一つの決意をした。
――HALとしてではなく、部下・結城陽向として、全力で彼女を支えよう。
そう決めてからの彼の行動は、健気で、そしてどこか空回りしていた。
まず、凛が仕事をしやすいように、先回りして雑務を片付け始めた。シュレッダーのゴミを捨て、給湯室のコーヒーメーカーを洗浄し、共有フォルダの乱雑なデータを整理する。凛が頼む前に、だ。
「結城くん、最近よく気が利くわね」
他の先輩社員に褒められても、陽向は「いえ、そんな…」と曖昧に笑うだけ。彼の目的は、ただ一人、凛の負担を少しでも減らすことなのだから。
また、彼は凛の様子を今まで以上に注意深く観察するようになった。彼女がモニターを睨みつけている時間が長くなると「目が疲れているんだな」と察し、そっと自分のデスクに常備している目薬を差し出そうとして、直前で「いや、気持ち悪いか」と思いとどまる。彼女が昼食を抜いているのを見れば「忙しいんだな」と考え、休憩室の机に「お疲れ様です」と書いた付箋を貼った栄養ドリンクをこっそり置いてきたりした。
凛は、そんな陽向の変化を「少しは成長したのかしら」と、概ね好意的に解釈していた。HALのアドバイス通りに褒めた効果が出ているのだと。しかし、時折見せる彼の挙動不審な態度や、妙に遠慮がちな距離感には、わずかな違和感を覚えて首を傾げることもあった。
一方、夜の顔であるHALとしての陽向は、さらに困難な状況に立たされていた。
RinRin(凛)からのメッセージは、相変わらず彼の心を抉る。
RinRin: 『今日もポンコツが変に気を遣ってきて、逆にやりづらい…』
(うっ……俺のことだ……)
RinRin: 『でも、まあ、いないよりはマシかな。少しは役に立ってる気もするし』
(よかった……!)
一喜一憂しながら、陽向はこれまで通り、優しい言葉を紡ぎ続ける。しかし、その一言一言に、どうしても現実の凛への想いが滲み出てしまう。
HAL: 『RinRinさんが頑張っている姿を、きっと彼は一番近くで見ているんですよ。だから、力になりたいんです。少し空回りしているのかもしれませんが、どうか彼の気持ちを分かってあげてください』
それはもはや、第三者としてのアドバイスではなかった。RinRinに向けた言葉でありながら、同時に、凛に向けた陽向自身の心の叫びだった。
(橘リーダー、気づかないでくれ。でも、少しでいいから、俺の気持ちに気づいてほしい)
そんな矛盾した願いを抱えながら、陽向は二つの世界で綱渡りを続ける。彼の健気な努力と空回りは、凛がその理由に全く気づいていないという、もどかしいすれ違いをさらに加速させていくだけだった。




