第7章:【彼視点】王子様の正体バレ
結城陽向にとって、RinRinとのチャットは、もはや生活の一部であり、心のオアシスだった。仕事で落ち込んでも、彼女の愚痴を聞き、励ますことで、自分もまた元気をもらえる。彼女が自分のアドバイスを素直に聞いてくれて、少しずつ職場環境が改善していると報告してくれるのが、何よりも嬉しかった。
『HALのアドバイスのおかげで、後輩がちょっとだけ成長したみたい』
『今日は、トラブルをうまく収めてくれて、見直しちゃった』
そんな報告を聞くたびに、陽向は自分のことのように喜んだ。もちろん、その「後輩」が自分自身であるとは、微塵も疑っていなかった。RinRinさんの会社にも、俺みたいな不器用な後輩がいるんだな。頑張れよ、と心の中でエールを送るくらいだった。
プロジェクトの正念場、役員プレゼンを数日後に控えた夜。陽向はいつものように、帰宅後のリラックスタイムにRinRinとのチャットを楽しんでいた。今日の彼女は、かなり切羽詰まっているようだった。
RinRin: 『プレゼン直前なのに、問題が山積み…』
RinRin: 『明日、急遽クライアントの〇〇部長が来社することになって、その対応もしなくちゃいけない。もう時間が足りない!』
そのメッセージを読んだ瞬間、陽向の指がぴたりと止まった。
(クライアントの、〇〇部長…?)
その名前には、聞き覚えがあった。いや、聞き覚えどころではない。つい数時間前、チームリーダーである橘凛が、チームメンバーにだけ、緊急で共有した情報そのものだったからだ。
『――というわけで、明日の午前十時に、急遽〇〇部長が来社されることになりました。プレゼン前の最終確認のためです。皆さん、対応よろしくお願いします』
それは、チームのごく一部の人間しか知らない、内部情報のはずだ。なぜ、RinRinがそれを知っている?
陽向の心臓が、どくん、と嫌な音を立てた。
まさか。
そんなはずはない。
今まで考えないようにしていた、いくつものピースが、頭の中でカチリ、カチリと音を立ててはまっていく。
RinRinの職業は、自分と同じ、企画系の仕事。
彼女には「氷の女帝」と恐れられるほど仕事ができる上司がいる……いや、違う。彼女自身が、部下から恐れられるほど仕事のできる上司だ。
そして、その部下には「ポンコツ」な後輩がいる。
最近、そのポンコツ後輩を少し褒めたら、すごく喜んでいたらしい。
――思い当たる。自分が凛に「ありがとう」と言われた、あの日。太陽のような笑顔、と凛は言っていた。いや、RinRinは言っていた。
RinRinの口調。どこか男勝りで、サバサバしているけれど、根は真面目で脆い。凛が時折見せる、厳しい表情の裏にある何かと、重なって見える。
悩みの内容。プロジェクトの進行、クライアントとの関係、そして、仕事ができない後輩への苛立ち。それは全て、橘凛が抱えていてもおかしくない悩みだ。
そして、決定的な、今日の内部情報。
「…………うそだ」
陽向は、声にならない声で呟いた。スマートフォンを持つ手が、小刻みに震えている。
全てのピースが、一つの結論を指し示していた。
自分が毎晩、画面の向こうで癒やしてきた、可哀想で、でも頑張り屋なオンラインの姫君、「RinRin」。
その正体は、自分が心の底から憧れ、そして、同時に恐れている「氷の女帝」。
――橘凛。
その事実を悟った瞬間、陽向は全身から血の気が引くのを感じて、凍り付いた。
今まで自分が送ってきたメッセージが、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。
『あなたの上司も、きっと本当は優しい人ですよ』
『一度、小さなことでもいいから褒めてあげてみては?』
『その人は、もしかしたら貴方に認められたくて、焦っているだけかもしれません』
全部、全部、彼女自身に言っていたのだ。自分のことを棚に上げて、偉そうにアドバイスをしていた。しかも、彼女が愚痴っていた「ポンコツ後輩」は、他の誰でもない、自分自身のことだったのだ。
「あああああ……」
陽向は頭を抱えて、その場にうずくまった。羞恥、驚愕、そして何よりも、彼女の弱音を、その愚痴の対象である自分が聞いてしまっていたという事実。それは、彼女にとって最大の裏切りではないのか。
オンラインの王子様気取りでいた自分が、とんでもない道化だったことに、陽向はようやく気づいた。これから、どんな顔をして彼女に会えばいいのか。そして、HALとして、彼女に何と返信すればいいのか。陽向は、完全に思考停止に陥ってしまった。




