第6章:重なる偶然、芽生える疑惑
陽向の意外な一面を見てからというもの、凛は無意識のうちに彼のことを目で追うようになっていた。仕事の要領の悪さは相変わらずだが、他の部署の人間と楽しそうに話していたり、困っているパート社員に親切に教えたりする姿が、以前よりもずっと目に付く。彼がいるだけで、殺伐としがちなチームの空気が、どこか和らいでいる気さえした。
そんなある日の会社帰り。凛は一人、駅前のカフェに立ち寄っていた。少しだけ気分転換をしてから帰ろうと思ったのだ。カプチーノを片手に、スマートフォンを取り出し、HALとのチャットを開く。彼との会話は、今や日々の楽しみという以上に、心の支えになっていた。
RinRin: 『HAL、聞いて。最近、あのポンコツ後輩の意外な一面を見て、ちょっと驚いてるんだ』
RinRin: 『仕事はできないと思ってたけど、なんていうか、人に好かれる才能があるっていうか…』
自分の部下のことを、まるで友人のようにHALに報告している。少し奇妙な状況だが、他に話せる相手もいないのだから仕方ない。凛がチャットに夢中になっていると、カラン、とドアベルが鳴り、一人の男性客が入ってきた。
(あれは…結城くん?)
偶然にも、同じカフェに入ってきたのは陽向だった。彼は凛には気づかず、カウンターでコーヒーを注文している。別に声をかける義理もない。凛は気づかないふりをして、再びスマートフォンに視線を落とした。その時、注文を終えて席を探していた陽向のスマートフォンが、ポケットの中で一瞬、ぶぅっと震えて光ったのが、視界の端に見えた。
(……気のせい、か)
HALにメッセージを送った、まさにそのタイミングで。まさか、そんな偶然。凛は軽く頭を振って、その考えを打ち消した。日本中に、このSNSのユーザーが何人いると思っているのか。あり得ない。
しかし、その数日後。凛の心に、消えない疑惑の種を植え付ける出来事が起こる。
プロジェクトの会議中、議論が紛糾し、停滞していた。凛は状況を仕切り直そうと、少し気取った言い回しでこう言った。
「この件、これ以上話し合っても進展は望めませんね。一度ペンディングにするのではなく、完全にリセットして、前提条件から考え直しましょう」
「ペンディングではなく、リセット」。それは凛が好んで使う、彼女らしい表現だった。メンバーは「了解です」と頷き、会議は一旦お開きになった。
その夜。またしても疲れ果てて帰宅した凛は、HALに今日の会議の愚痴をこぼしていた。
RinRin: 『今日も会議が長引いて最悪…。全然話がまとまらないの』
HAL: 『お疲れ様です。そういう時って、本当に疲れますよね』
いつものように優しい返信をくれるHAL。その次の言葉に、凛は凍り付いた。
HAL: 『煮詰まってしまったお仕事の話、一度リセットして考え直してみませんか?ペンディングにするんじゃなくて』
「……え?」
凛は思わず声を漏らした。画面を二度見、三度見する。
ペンディングではなく、リセット。
今日、自分が会議で使ったばかりの、それも少し特徴的な言い回し。それを、なぜHALが?
偶然? 今日、HALの職場でも、誰かが同じことを言った?
あり得なくはない。しかし、先日のカフェでの一件が、脳裏をよぎる。メッセージを送った瞬間に光った、彼のスマートフォン。そして、今日のこの言葉。
偶然が、重なりすぎている。
凛の優秀な頭脳が、猛烈な勢いで回転を始めた。
HALは、自分の仕事の状況をよく理解している。愚痴に登場する「ポンコツ後輩」のことを、まるで自分のことのように語ることがあった。そして、時々、自分の身近で起きたこととリンクするような発言をする。
まさか。
まさか、HALの正体が。
「……結城、陽向?」
自分の口からその名前が出た瞬間、心臓が大きく脈打った。馬鹿な、あり得ない。しかし、一度芽生えた疑惑の種は、凛の心の中で急速に根を張り、じわじわと広がっていく。もし、そうだとしたら? 自分の愚痴を、弱音を、全て、あの後輩に聞かれていたとしたら?
凛は、背筋がすうっと寒くなるのを感じた。鋭い洞察力を持つ彼女は、偶然の積み重ねの先に、信じがたい真実の輪郭を捉え始めていた。




