第5章:彼の意外な一面
プロジェクトが中盤に差し掛かったある日、チームは大きなトラブルに見舞われた。納品予定の仕様について、取引先から「聞いていた話と違う」と厳しいクレームの電話が入ったのだ。責任者である凛が、受話器を片手に神経を尖らせていた。
「いいえ、先日の打ち合わせでご承認いただいた仕様書通りです。議事録もございます」
凛は冷静に、しかし有無を言わせぬ口調で応対する。彼女の主張は正論だった。しかし、感情的になっている相手には、その正論がかえって火に油を注いでいた。
「理屈はいいんだよ!こっちが納得できないと言ってるんだ!」
受話器の向こうから、怒声がオフィスにまで微かに響く。チームの空気が凍りつき、誰もが固唾をのんで凛の様子を見守っていた。凛の眉間の皺が、さらに深くなる。このままでは埒が明かない。どうやってこの場を収めるべきか、思考を巡らせていた、その時だった。
「……橘リーダー、すみません。代わります」
静かだが、芯の通った声。声の主は、結城陽向だった。彼はいつの間にか凛の隣に立ち、真っ直ぐな目で受話器を見ていた。
「あなたに何ができるの」
凛は苛立ちを隠さずに言った。こんな緊急事態に、普段ミスばかりの彼が出てきて事態が悪化したら目も当てられない。しかし、陽向は怯まなかった。
「お願いします。少しだけ、時間をください」
その真剣な眼差しに、凛は一瞬、言葉を失った。いつものおどおどした彼とは違う。何か確信めいたものを感じ、凛は半信半疑のまま、しぶしぶ受話器を手渡した。
陽向は受話器を受け取ると、深呼吸を一つして、穏やかな声で話し始めた。
「〇〇様、お電話代わりました。わたくし、本プロジェクト担当の結城と申します。この度は、私どものご説明が至らず、ご不快な思いをさせてしまい、誠に申し訳ございません」
まず、彼は深々と頭を下げた。電話の向こうには見えないはずなのに、その誠意は声色を通して伝わるかのようだった。凛のような理論武装ではなく、まず相手の感情を受け止め、真摯に謝罪する。その姿勢に、電話の向こうの相手の語気が少しだけ和らいだのが分かった。
「……それで、どうしてくれるんだ」
「はい。もしよろしければ、〇〇様が今回の仕様で最も懸念されている点、ご納得いただけない点を、改めて詳しくお聞かせ願えないでしょうか。私どもの認識と、〇〇様のお考えに齟齬があった部分を、まずは正確に理解させていただきたく存じます」
陽向の口調は、あくまで穏やかで丁寧だった。相手を論破するのではなく、寄り添い、話を聞く姿勢を徹底している。彼は相手の不満を一つ一つ丁寧に聞き出し、相槌を打ち、時折「なるほど、その点にご懸念があったのですね」「おっしゃる通りです。その部分の説明が足りておりませんでした」と、相手の言葉を的確に要約し、共感を示した。
凛は、隣でそのやり取りを聞きながら、瞠目していた。彼は、相手が本当に言いたいこと、怒りの裏にある不安や要望を、驚くほど正確に汲み取っていた。それは、ただ謝るだけの低姿勢とは違う。優れた観察眼と共感能力がなければできない、高度なコミュニケーションスキルだった。
十分ほど話しただろうか。あれほど怒り狂っていた取引先の担当者は、すっかり落ち着きを取り戻していた。
「……まあ、君がそう言うなら、一度持ち帰って検討しよう。来週、改めて時間をくれ」
「ありがとうございます!それでは、代替案も含めて、改めて弊社からご連絡差し上げます」
陽向は最後まで丁寧に対応し、静かに受話器を置いた。そして、安堵の息をついて凛に向き直り、「すみません、勝手なことをして…」と頭を下げた。
オフィスは、静まり返っていた。誰もが、陽向の鮮やかな手腕に呆気に取られている。凛もまた、同じだった。
仕事の要領は悪い。資料作りも遅い。しかし、彼には自分にはない武器がある。人の心を解きほぐし、動かす力。それは、どんな正論や完璧なデータよりも、時に強い力を発揮する。
今まで「ポンコツ」としか見ていなかった後輩の、まったく予想外の一面。凛は、軽い衝撃と共に、陽向という人間を完全に見誤っていたことに気づかされた。彼に対する評価が、「マイナス」から、一気に「プラスマイナスゼロ」、あるいはそれ以上に揺れ動いた瞬間だった。




