第4章:氷解のきざし
HALのアドバイスは、凛の心に小さな波紋を広げた。あの結城陽向を褒める。想像するだけで、口の端がむず痒くなるような、あり得ない行為に思えた。しかし、HALの真摯な言葉を思い出すと、試してみる価値はあるのかもしれない、という気持ちが芽生えていた。どうせ何をやってもダメなら、一度くらい彼の言う通りにしてみてもいいだろう。半信半疑ながらも、凛は翌日、いつもより少しだけ意識して陽向の動きを観察することにした。
相変わらず、陽向はどこかおどおどとしていて、要領が悪い。凛が視線を送るだけで、びくりと肩を揺らす。これのどこを褒めろというのか。凛は早々に諦めかけた。
その日の午後、凛は急なクライアント対応に追われ、大量の資料を至急でコピーする必要に迫られた。他のメンバーは手が離せず、仕方なく陽向に声をかける。
「結城くん、この資料、50部コピーして。両面印刷で、ホチキスは右肩に二箇所。部署ごとに仕分けておいてくれる?」
矢継ぎ早に指示を出すと、陽向は「は、はい!」と緊張した面持ちで頷き、資料の束を受け取ってコピー室へと駆けていった。正直なところ、凛はあまり期待していなかった。どこか一部抜けたり、ホチキスの位置を間違えたり、何かしらのミスをするだろうと。
しかし、数十分後、デスクに戻ってきた陽向が差し出した資料は、完璧だった。
「橘リーダー、終わりました。こちら、ご確認をお願いします」
凛は受け取った資料の束をパラパラと捲った。印刷は鮮明で、抜けもない。ホチキスは指示通り、右肩に二箇所、綺麗に留められている。部署ごとの仕分けも完璧だ。あまりに完璧な出来に、凛は少し驚いた。いつもなら「ありがとう」の一言もなく受け取るだけだが、昨夜のHALの言葉が脳裏をよぎる。
『一度、小さなことでもいいから褒めてあげてみては?』
今だ。今しかない。凛は一度、小さく息を吸った。喉がカラカラに乾くような気がした。人を褒めるなんて、いつぶりだろう。
「……ありがとう。助かったわ」
自分でも驚くほど、ごく小さな声だった。か細く、ほとんど吐息のような謝意。しかし、静かなオフィスでは、その言葉は確かに陽向の耳に届いていた。
陽向は一瞬、きょとんとした顔で固まった。え、今、橘リーダーが、お礼を? 信じられない、という表情で凛を見つめる。凛は、彼の反応に居心地が悪くなり、ふいっと視線を逸らした。
次の瞬間、陽向の顔がぱあっと輝いた。
「はいっ!」
それは、今まで凛が見たことのない、太陽のような笑顔だった。ただの人懐っこい笑みとは違う。心の底から喜びが溢れ出しているような、満開の向日葵のような笑顔。その屈託のない笑顔を真正面から受け止めた瞬間、凛の心臓が、とくん、と不意に小さく跳ねた。
なんだ、今の。
動揺を悟られまいと、凛はすぐに無表情を取り繕い、仕事に戻るふりをした。しかし、胸の高鳴りはなかなか収まらない。ちらりと盗み見ると、自席に戻った陽向は、どこか嬉しそうに、そして先ほどよりもずっと落ち着いた様子でキーボードを叩いていた。その背中は、いつもより少しだけ頼もしく見えた。
その夜、凛は少しだけ浮き立つような気持ちで、HALにメッセージを送った。
RinRin: 『ねえ、HAL。今日、あなたの言う通りにしてみたの』
RinRin: 『ほんのちょっと、ありがとうって言っただけなんだけど』
RinRin: 『そしたら、あいつ、見たことないくらい嬉しそうな顔した…』
送信しながら、凛の口元には自然と笑みが浮かんでいた。あの太陽のような笑顔が、瞼の裏に焼き付いて離れない。
HAL: 『本当ですか!よかった!』
HAL: 『やっぱり、彼はRinRinさんに認めてもらいたかったんですよ。僕まで嬉しくなります』
HALの弾むような返信に、凛の心も軽く、温かくなる。結城陽向。いつも苛立ちの対象でしかなかった後輩。彼に対する認識が、ほんの少しだけ、しかし確実に変化し始めていることを、凛は自覚していた。それは、分厚い氷に、ほんの小さなひびが入ったような、微かな氷解のきざしだった。




