第3章:交わらない視線、交わる言葉
週が明けると、新しい大型プロジェクトが本格的に始動し、企画開発部第一チームは戦場のような慌ただしさに包まれた。リーダーである凛の緊張感は普段にも増して張り詰め、オフィスにはピリピリとした空気が流れている。
「この市場調査、甘いわ。もっと深掘りして。今日の午後までに再提出」
「クライアントへの提案資料、コンセプトがぶれてる。もう一度練り直して」
凛の指示は的確だが、一切の妥協がない。チームメンバーは皆、彼女の完璧さに必死で食らいついていた。そんな中、結城陽向はいつにも増して空回りしていた。
「すみません、このデータ、どこのフォルダに保存すれば…」
「橘リーダーに確認してからと思ったんですが、今お忙しそうで…」
良かれと思ってした行動が裏目に出たり、小さな判断に迷って時間をロスしたり。焦れば焦るほど、思考は悪循環に陥る。凛の視線が突き刺さるたびに、陽向の背筋は凍りついた。
「結城くん、さっきから何をしているの。手が止まっているわよ」
「す、すみません!」
凛からすれば、陽向の存在そのものがストレスだった。なぜこんなに仕事ができないのか。なぜ指示を待つばかりで、自分で考えようとしないのか。多忙を極める中で、彼の世話まで焼いている余裕はなかった。チームの足を引っ張る存在に、凛の苛立ちは募るばかりだった。
その夜、凛は疲れ果てて自宅のソファに倒れ込んだ。体も心も鉛のように重い。プロジェクトのプレッシャーと、陽向への苛立ちで、精神は限界に達していた。震える手でスマートフォンを掴み、HALとのチャットルームを開く。もう、彼に泣きつくしか、この感情の捌け口はなかった。
RinRin: 『もう限界』
RinRin: 『あいつ、なんでこんなに仕事できないの?』
RinRin: 『私のチームにいる意味ある?って本気で思う。もう顔も見たくない』
普段よりもずっと強い、棘のある言葉。送信しながら、自分でも酷いことを言っている自覚はあった。しかし、そうでもしないと感情の堤防が決壊してしまいそうだった。すぐに、HALから返信が来る。いつもより、少し間があったような気がした。
HAL: 『RinRinさん、お疲れ様です。……よっぽど、追い詰められているんですね』
その短い言葉に、凛の目から涙がぽろりとこぼれた。そうだ、私は追い詰められている。誰にも言えないこの苦しさを、HALだけは分かってくれる。
RinRin: 『ごめん、酷いこと言って。でも、もうどうしたらいいか分からないの』
しばらくの沈黙の後、HALから送られてきたのは、いつもの優しい慰めだけではなかった。
HAL: 『僕の個人的な考えですけど…その人は、もしかしたら貴方に認められたくて、焦っているだけかもしれません』
凛は、その言葉にハッとした。認められたくて、焦っている? あの能天気な顔のどこにそんな感情が。
HAL: 『すごく仕事ができる上司に憧れて、力になりたいのに、空回りばかりしてしまう。そういう経験、僕にもあります。そういう時って、何をしても上手くいかないんですよね』
HALの言葉は、まるで陽向の心を代弁しているかのようだった。陽向自身が書いているとも知らずに、凛はその言葉を食い入るように見つめた。
HAL: 『だから、もしRinRinさんが少しだけ試してみる気があるなら……一度、小さなことでもいいから褒めてあげてみてはどうでしょうか?』
RinRin: 『褒める?あいつを?』
HAL: 『はい。「ありがとう」とか「助かった」とか、本当に些細なことでいいんです。認められているって実感できれば、その人も落ち着きを取り戻して、本来の力を出せるようになるかもしれません』
HALの提案は、凛にとって目から鱗だった。あのポンコツ後輩を、褒める? 考えたこともなかった。しかし、HALの言葉には不思議な説得力があった。それは、彼自身の経験に基づいた、切実な響きを伴っていたからだ。オフィスでは決して交わることのない二人の視線。しかし、スマートフォンの画面を通して、彼らの言葉は確かに交わっていた。陽向が、無自覚に「氷の女帝の攻略法」を、女帝自身に教えている。そんな皮肉でコミカルな状況が、今まさに生まれていた。凛は、HALの言葉を胸に刻み込むように、何度も何度も読み返した。もう限界だと思っていた。藁にもすがりたい。その一心で、凛は小さく頷いた。




