第10章:雨上がりのオフィス
プレゼンの成功に沸いた興奮も、夜の訪れと共に静まっていった。後片付けや報告書の作成を終え、オフィスには凛と陽向の二人だけが残っていた。窓の外では、いつの間にか降り出した雨が、ガラスを静かに叩いている。まるで、今日の嵐のような一日を洗い流していくかのようだ。
「……結城くん」
静寂を破ったのは、凛だった。キーボードを打つ手を止めた陽向が、ゆっくりと顔を上げる。
凛は彼のデスクの前に立つと、深く、深く頭を下げた。
「本当に、ありがとう。あなたがいてくれて、助かったわ」
それは、儀礼的な言葉ではなかった。完璧主義者で、プライドの高い彼女が、心の底から絞り出した、紛れもない本心だった。今まで誰かに頭を下げることなど、滅多になかった。特に、年下の部下に対しては。
陽向は、慌てて椅子から立ち上がった。
「り、リーダー、頭を上げてください!僕が勝手にやったことですし、それに…」
彼は少し照れたように、はにかみながら言った。
「リーダーが頑張っているのを、一番近くで見てましたから」
その言葉と共に向けられた微笑み。それは、いつもの人懐っこい癒し系の笑顔とは、どこか違って見えた。困難を乗り越えた自信と、一人の男性としての頼もしさ。そして、凛に向けられた、隠しきれない温かい眼差し。
その笑顔を間近で見て、凛は自分の胸の鼓動が、先ほどからずっと速く、そして大きく鳴り響いていることに気づいた。
これは、プレゼンが成功した安堵感だけではない。彼に窮地を救われた、ただの感謝でもない。
もっと、別の感情だ。
彼が隣にいるだけで、心が温かくなる。彼の笑顔を見るだけで、胸が締め付けられるように苦しくなる。もっと、彼のことを知りたい。彼の隣に、いたい。
――ああ、そうか。私、結城くんのことが……。
凛は、自分の中に芽生えていた想いの正体に、はっきりと気づいてしまった。それは、間違いなく「恋」だった。
氷のように凍てついていたはずの心が、彼の太陽のような優しさと頼もしさに、完全に溶かされ始めている。
「……あなたの言っていた通りだったわね」
凛は、顔を上げてぽつりと呟いた。
「え?」
「ううん、こっちの話」
凛は小さく首を振った。HALとのチャットで言われた言葉が蘇る。『彼は、RinRinさんに認めてもらいたかったんですよ』。その通りだった。そして、認めたいのは、もう自分の方だった。
雨上がりのように澄み切った静かなオフィスで、二人の間の空気は、以前とは比べ物にならないほど優しく、そして甘いものに変わっていた。凛は、自分の頬が熱を持っているのを感じながら、目の前の頼もしい後輩から、どうしても目を離すことができなかった。




