第1章:氷の女帝とオンラインの騎士
【登場人物紹介】
◆橘 凛 29歳
本作の主人公。企画開発部第一チームのリーダー。類稀なる美貌と、一切の妥協を許さない完璧な仕事ぶりから「氷の女帝」と恐れられている。過去のトラウマから、他人に弱みを見せることを極端に嫌う。唯一のストレス発散方法は、顔も知らない男友達「HAL」とのSNSでのチャット。アカウント名は「RinRin」。ここでは仕事の愚痴や弱音を吐き出す、等身大の女性。
◆結城 陽向 23歳
凛の部下。新卒2年目。いつもニコニコしていて人当たりが良く、癒し系として周囲に可愛がられている。しかし、要領が悪くミスが多いため、凛からは「一番仕事ができない後輩」と認識されている。実は観察眼に優れ、人の心の機微を察するのが得意。凛のことも密かに尊敬し、憧れている。SNSでのアカウント名は「HAL」。正体不明の女性「RinRin」の愚痴を聞き、的確で優しいアドバイスをすることが日々の癒し。
朝の光が差し込む高層ビルのオフィス。その一角にある企画開発部第一チームは、凛とした静寂に包まれていた。その静寂の中心にいるのが、チームリーダーの橘凛だ。寸分の狂いもなく結い上げられた夜会巻き、アイロンのかかった白いシャツにタイトスカート。一分の隙もないその姿は、まるで精巧な氷の彫像のようだった。
「結城くん」
凛の鈴を転がすような、しかし温度のない声が響く。呼ばれた結城陽向は、子犬のようにびくりと肩を震わせた。
「は、はい!」
「この資料、昨日お願いしたものと数字が違うわ。第五ページのグラフ、参照データが先々月のものになっている。確認しなかったの?」
「す、すみません!すぐに修正します!」
慌てて頭を下げる陽向に、凛は冷ややかな視線を一瞥するだけ。「今日中に」と短く告げると、再び自分のモニターへと向き直った。周囲の同僚たちは、息を殺してそのやり取りを見守っている。誰もが知っているのだ。橘凛という女が、いかに完璧で、いかに厳しいかを。彼女の完璧すぎる仕事ぶりの前では、どんな言い訳も通用しない。だからこそ、彼女は畏敬と、少しの恐怖を込めて「氷の女帝」と呼ばれていた。
凛は、そんな周囲の空気を気にする素振りも見せず、猛烈な勢いで仕事を片付けていく。キーボードを叩く音はリズミカルで、迷いがない。複数のプロジェクトを同時に管理し、次々と的確な指示を飛ばす。その姿は美しく、そして近寄りがたい。凛自身も、それでいいと思っていた。弱みを見せるくらいなら、一人で完璧であり続ける方がずっと楽だ。過去のトラウマが、彼女にそう信じ込ませていた。誰かに期待すれば、裏切られる。優しくすれば、足元を掬われる。ならば最初から、心を閉ざして鉄の仮面を被ってしまえばいい。
定時を少し過ぎた頃、凛は誰よりも早くオフィスを後にした。高級ブランドのバッグを揺らし、ハイヒールの音を響かせながら歩く姿は、まるで戦場から帰還する女王のようだ。しかし、オートロックのマンションのドアを開け、一人きりの部屋に入った瞬間、彼女を包んでいた鎧は音を立てて崩れ落ちる。
「……疲れた」
ハイヒールを脱ぎ捨て、ソファに深く沈み込む。完璧な夜会巻きを無造作にほどくと、艶やかな黒髪がふわりと肩に落ちた。冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターを一口飲み、大きく息を吐く。そして、おもむろにスマートフォンを手に取った。慣れた手つきでSNSアプリを開くと、そこには一つのチャットルームが存在した。相手の名は「HAL」。
RinRin: 『聞いてよHAL、今日もウチのポンコツ後輩がやらかして…』
スマートフォンの画面に映るのは、「氷の女帝」の顔ではない。仕事のストレスに顔を歪める、ごく普通の二十九歳の女性、「RinRin」だ。送信ボタンを押すと、堰を切ったように言葉が溢れ出す。
RinRin: 『なんであんな簡単なミスするのかな?注意力散漫すぎ!』
RinRin: 『こっちの身にもなってほしい。尻拭いばっかりで、自分の仕事が進まないんだけど!』
顔も知らない、声も知らない。ただ、このチャットルームの中だけで繋がっている相手。HALは、いつもRinRinの愚痴を静かに聞いてくれる。決して否定せず、責めもせず、ただただ受け止めてくれる。だからこそ、凛は唯一、この場所でだけ素直な自分をさらけ出すことができた。
しばらくすると、スマートフォンが短く震えた。HALからの返信だ。
HAL: 『お仕事お疲れ様です、RinRinさん。今日も大変でしたね』
HAL: 『毎日完璧に仕事をこなしているRinRinさんだからこそ、小さなミスが気になってしまうのかもしれませんね。でも、あまりご自分を追い詰めないでくださいね』
その優しい言葉に、凛の強張っていた表情が、初めてふわりと和らいだ。HALの言葉は、いつも不思議な力を持っていた。荒んだ心を、そっと撫でてくれるような温かさがある。
RinRin: 『ありがとう、HAL。いつも聞いてくれて嬉しい』
HAL: 『どういたしまして。RinRinさんの心が少しでも軽くなるなら、僕も嬉しいです』
凛は、HALからの返信を何度も読み返した。ポンコツ後輩に苛立ち、完璧を演じることに疲れ果てた心が、じんわりと温まっていくのを感じる。この人がいなければ、自分はとっくに限界だったかもしれない。画面の向こうにいる、見ず知らずのオンラインの騎士。彼とのこの秘密の関係だけが、氷の女帝・橘凛を支える唯一の逃げ場所だった。




