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言えないくせに隣にいる  作者: 篁 玖月
想いが届いた、そのあとは

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8/9

君がいない未来を僕は選べない

 その夢は、ひどく静かだった。


 石造りの壁が作り出す静寂は息苦しいほど重く、色を失った光だけが、白い花々を照らし、誰かの祝福の場であることは、疑いようがなかった。


 ――結婚式だ。


 そう理解するまで、少し時間がかかった。

 自分がここに立っている意味を、頭が受け入れるのに、どうしても間が要る。


 隣に、誰かがいる。


 白い衣を纏っていることは分かる。裾が視界の端で揺れているのも見える。

 けれど、顔が見えない。振り向こうとすると、焦点が合わないまま、輪郭だけがぼやけて溶けていく。


 近くにいるはずなのに、距離がある。手を伸ばせば届く位置にいるはずなのに、触れられない予感だけが先に立つ。

 声も、温度も、何も伝わってこない。まるで透明な壁が、二人の間に立ちはだかっているみたいだった。

 周囲を見渡す。

 列席者たちは皆、穏やかな顔で頷いている。母上も、父上も、騎士たちも。

 誰一人として、この光景を疑っていない。

 祝福の視線だけが、まっすぐこちらに注がれている。


 正しい未来。問題のない選択。王子として、相応しい結婚。


 形式も、立場も、周囲の期待も。何一つ欠けていないはずだった。


 ――それなのに、胸の奥がひどく冷えていく。


 凍りついたような感覚が、じわじわと広がっていく。


 誓いの言葉が進む。司祭の声が響いているはずなのに、音が遠い。

 水の中で聞いているような、曖昧な響き。


 自分が何を誓おうとしているのか、分からない。

 隣にいる“誰か”に、伝えたい言葉が一つも浮かばなかった。

 心の中が、ひどく空虚だった。


 そこで、はっきりと気づいた。


 この人じゃない。


 理由はない。否定する材料もない。


 ただ、決定的に――違う。


 視線を巡らす。礼拝堂の中を、無意識に探している。

 その瞬間、胸の奥が強く締めつけられた。


 いつもなら見える場所に、彼女の姿がない。

 騎士装束の青い影が、どこにもない。


 その事実に気づいた瞬間、息が止まる。

 祝福の光が、急に遠ざかり、温度が失われていく。

 どれほど正しい形をしていても、どれほど祝福されていても、そこに意味はなかった。


 足元が崩れ、視界が白く滲む。

 礼拝堂の輪郭が、ゆっくりと溶けていった。


 * * *


 夢だと理解するまで、少し時間がかかった。


 息を吸い込み、目を開ける。


 自室の天井。

 カーテンの隙間から、朝の光が静かに差し込んでいる。


 現実と夢の境界が曖昧で、身体の感覚がまだ戻ってこない。


 不意に温かい息が、頬のあたりをかすめた。


 目を向けると、ベッドサイドに大きな顔があった。

 首を少し傾けて、こちらを覗き込んでいる。

 理由は分からないけれど、“何かあった”ことだけは察している。

 そんな顔だった。


「……モコ?」


 名を呼ぶと、おはようと言わんばかりに、額をそっとすり寄せてきた。

 その様子に、胸の奥が少しだけ緩む。

 存在を確かめるように撫でてやると嬉しそうに喉を鳴らした。

 いつもの朝と、同じ手触りだった。


 胸に手を当てる。シャツ越しに、心臓の鼓動を感じる。

 少し早いが、もう乱れてはいなかった。


 嫌な汗はない。ただ、胸の奥に残る、言葉にしにくい感覚。

 冷たい石のような、重くて固い何か。


 ノアがいない――それだけで、あんなにも息が詰まる。


 彼女のいない未来を、これほどはっきり恐れる理由を、

 僕はまだ、うまく言葉にできない。


 人の時間は、竜のそれよりずっと短い。

 それを思い出すたび、未来を語る言葉が、どこか怖くなる。


 自分がいなくなったあとの、彼女の時間。

 その長さを想像するだけで、胸が痛んだ。


 いずれ一緒になる未来を、否定したことは一度もない。

 むしろ、その覚悟は、もう自分の中にある。


 けれど――

 その未来を、ちゃんと彼女と共有できているのか。

 王族である自分が、それを“正しさ”として押し付けていないか。


 夢は、その不安を、静かに浮かび上がらせた。


 扉を叩く音。軽く、二度。


「レックス? 起きてますか」


 聞き慣れた声に、自然と肩の力が抜ける。


「あ、うん、起きてる」


 扉が開き、ノアが部屋に入ってくる。

 いつもの騎士装束。いつもの距離。


 それだけで、胸の奥が落ち着いた。


「少し、顔色が良くないですね」


「……変な夢を見ただけ」


「どんな夢ですか?」


 一瞬、言葉を探してから、静かに答える。


「結婚式だった」


 ノアが、ほんの少し目を瞬いた。


「驚きました」


「僕も」


 窓の外に視線を向ける。朝の光が、街の屋根を照らしている。


「相手がどうとかじゃない。ただ……君がいなかった」


 ノアは何も言わず、こちらを見ている。


「それだけで、この未来は違うって、はっきり分かった」


 沈黙が落ちる。

 重くはない、考えるための間。


「……この前、話をしましたよね」


 母上と父上とのことだ、とすぐに分かる。


「結婚の話も含めて、これからどうしていくか、って」


 胸の奥で、静かに頷く。


「……私は、あの時の答えのままでいます」


 その声には、迷いがなかった。


 ――彼女は、誰かに決められたままではいない。


「……無理、してない?」


 思いのほか、素直な声が出た。


「していません」


 きっぱりとした答え。


「むしろ……ちゃんと待ってくれているって、感じています」


 少し間を置いて、続ける。


「それに、私も……今は、この距離がいいです」


 胸の奥が、静かに温かくなる。


「……そっか」


 それだけ返す。


 結婚の話も、未来の形も、もう視界の中にはある。

 でも、それを“今”に引きずり下ろす必要はない。


 ノアは自分の足で歩いていて、僕はその隣で、同じ方向を見ている。


 夢の中で欠けていたのは、彼女の姿じゃない。――彼女の意志だ。

 それがここにある限り、焦る理由は、どこにもなかった。


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