君がいない未来を僕は選べない
その夢は、ひどく静かだった。
石造りの壁が作り出す静寂は息苦しいほど重く、色を失った光だけが、白い花々を照らし、誰かの祝福の場であることは、疑いようがなかった。
――結婚式だ。
そう理解するまで、少し時間がかかった。
自分がここに立っている意味を、頭が受け入れるのに、どうしても間が要る。
隣に、誰かがいる。
白い衣を纏っていることは分かる。裾が視界の端で揺れているのも見える。
けれど、顔が見えない。振り向こうとすると、焦点が合わないまま、輪郭だけがぼやけて溶けていく。
近くにいるはずなのに、距離がある。手を伸ばせば届く位置にいるはずなのに、触れられない予感だけが先に立つ。
声も、温度も、何も伝わってこない。まるで透明な壁が、二人の間に立ちはだかっているみたいだった。
周囲を見渡す。
列席者たちは皆、穏やかな顔で頷いている。母上も、父上も、騎士たちも。
誰一人として、この光景を疑っていない。
祝福の視線だけが、まっすぐこちらに注がれている。
正しい未来。問題のない選択。王子として、相応しい結婚。
形式も、立場も、周囲の期待も。何一つ欠けていないはずだった。
――それなのに、胸の奥がひどく冷えていく。
凍りついたような感覚が、じわじわと広がっていく。
誓いの言葉が進む。司祭の声が響いているはずなのに、音が遠い。
水の中で聞いているような、曖昧な響き。
自分が何を誓おうとしているのか、分からない。
隣にいる“誰か”に、伝えたい言葉が一つも浮かばなかった。
心の中が、ひどく空虚だった。
そこで、はっきりと気づいた。
この人じゃない。
理由はない。否定する材料もない。
ただ、決定的に――違う。
視線を巡らす。礼拝堂の中を、無意識に探している。
その瞬間、胸の奥が強く締めつけられた。
いつもなら見える場所に、彼女の姿がない。
騎士装束の青い影が、どこにもない。
その事実に気づいた瞬間、息が止まる。
祝福の光が、急に遠ざかり、温度が失われていく。
どれほど正しい形をしていても、どれほど祝福されていても、そこに意味はなかった。
足元が崩れ、視界が白く滲む。
礼拝堂の輪郭が、ゆっくりと溶けていった。
* * *
夢だと理解するまで、少し時間がかかった。
息を吸い込み、目を開ける。
自室の天井。
カーテンの隙間から、朝の光が静かに差し込んでいる。
現実と夢の境界が曖昧で、身体の感覚がまだ戻ってこない。
不意に温かい息が、頬のあたりをかすめた。
目を向けると、ベッドサイドに大きな顔があった。
首を少し傾けて、こちらを覗き込んでいる。
理由は分からないけれど、“何かあった”ことだけは察している。
そんな顔だった。
「……モコ?」
名を呼ぶと、おはようと言わんばかりに、額をそっとすり寄せてきた。
その様子に、胸の奥が少しだけ緩む。
存在を確かめるように撫でてやると嬉しそうに喉を鳴らした。
いつもの朝と、同じ手触りだった。
胸に手を当てる。シャツ越しに、心臓の鼓動を感じる。
少し早いが、もう乱れてはいなかった。
嫌な汗はない。ただ、胸の奥に残る、言葉にしにくい感覚。
冷たい石のような、重くて固い何か。
ノアがいない――それだけで、あんなにも息が詰まる。
彼女のいない未来を、これほどはっきり恐れる理由を、
僕はまだ、うまく言葉にできない。
人の時間は、竜のそれよりずっと短い。
それを思い出すたび、未来を語る言葉が、どこか怖くなる。
自分がいなくなったあとの、彼女の時間。
その長さを想像するだけで、胸が痛んだ。
いずれ一緒になる未来を、否定したことは一度もない。
むしろ、その覚悟は、もう自分の中にある。
けれど――
その未来を、ちゃんと彼女と共有できているのか。
王族である自分が、それを“正しさ”として押し付けていないか。
夢は、その不安を、静かに浮かび上がらせた。
扉を叩く音。軽く、二度。
「レックス? 起きてますか」
聞き慣れた声に、自然と肩の力が抜ける。
「あ、うん、起きてる」
扉が開き、ノアが部屋に入ってくる。
いつもの騎士装束。いつもの距離。
それだけで、胸の奥が落ち着いた。
「少し、顔色が良くないですね」
「……変な夢を見ただけ」
「どんな夢ですか?」
一瞬、言葉を探してから、静かに答える。
「結婚式だった」
ノアが、ほんの少し目を瞬いた。
「驚きました」
「僕も」
窓の外に視線を向ける。朝の光が、街の屋根を照らしている。
「相手がどうとかじゃない。ただ……君がいなかった」
ノアは何も言わず、こちらを見ている。
「それだけで、この未来は違うって、はっきり分かった」
沈黙が落ちる。
重くはない、考えるための間。
「……この前、話をしましたよね」
母上と父上とのことだ、とすぐに分かる。
「結婚の話も含めて、これからどうしていくか、って」
胸の奥で、静かに頷く。
「……私は、あの時の答えのままでいます」
その声には、迷いがなかった。
――彼女は、誰かに決められたままではいない。
「……無理、してない?」
思いのほか、素直な声が出た。
「していません」
きっぱりとした答え。
「むしろ……ちゃんと待ってくれているって、感じています」
少し間を置いて、続ける。
「それに、私も……今は、この距離がいいです」
胸の奥が、静かに温かくなる。
「……そっか」
それだけ返す。
結婚の話も、未来の形も、もう視界の中にはある。
でも、それを“今”に引きずり下ろす必要はない。
ノアは自分の足で歩いていて、僕はその隣で、同じ方向を見ている。
夢の中で欠けていたのは、彼女の姿じゃない。――彼女の意志だ。
それがここにある限り、焦る理由は、どこにもなかった。




