言葉になった想い
夜の城は、昼の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
眠れなくて部屋を出た。夜風に吹かれながら歩いていると、中庭の噴水のそばで、ノアが夜空を見上げていた。
「……君も、眠れないの?」
思わず声をかけるとノアは少し驚いたように振り向いて、それからふっと微笑んだ。
「はい。なんだか落ち着かなくて」
言葉を交わすだけで、胸のざわめきが少し静まった。
それだけで、この夜が少し特別に思えた。
「少し、歩こうか」
ふたりで並んで歩く夜の回廊は、昼間とはまるで違う世界のようだった。
言葉がなくても、不思議と居心地は悪くなかった。
「レックスは……こういう夜、好きですか?」
ぽつりと、ノアが尋ねる。
「そうだね。誰もいない時間って、ちょっと特別な気がする。君は?」
「私は……すこし、怖いと思っていました。でも今は、静かで、きれいだなって思います」
ノアがふと立ち止まる。
顔を上げて、月を見上げたまま、声を落とす。
噴水の縁に腰かけて、僕たちはしばらく黙って夜を眺めていた。
「……この前の祠でのこと、まだ考えていて」
彼女の横顔が、月の下で少しだけ翳って見えた。
「……あの場所に遺された想いに触れた時、想いを伝えなかった後悔や悲しみが流れ込んできて……。自分の想いまで、それに引き込まれていくのが分かりました。……でも同時に、“どうか同じようにはならないで”って、誰かに囁かれた気もして」
その声音はかすかに震えていて、けれどどこか覚悟のようなものも滲んでいた。
祈りのように静かで、でももう祈りだけでは終わらせたくない――そんな想い。
急に名前を呼ばれて、僕は思わず顔を向ける。
ノアの瞳が、まっすぐに僕を見ていた。
「だから今夜は、私も……ちゃんと“言葉”で伝えたくて」
彼女の言葉を聞きながら、胸の奥が少し痛んだ。
僕はずっと、態度でなら伝えてきたつもりだった。
傍にいる時間で、視線で、仕草で。
けれど結局、肝心な言葉だけはずっと口にできなかった。
王子としての責任だとか、立場だとか、そんなものを言い訳にして、怖がっていただけなのかもしれない。
でももう、逃げたくなかった。
「僕もずっと、伝えたかったことがあるんだ」
言いかけて、喉が詰まった。
心臓の鼓動がやけに近く聞こえる。
怖い。
……いや、怖いって何だ。王子だろ僕。もっと堂々としろ。
ただ好きな人に想いを伝えるだけじゃないか――。
なのに、どうして剣を握るより手が震えるんだ。
もう逃げるな。ここで引いたら、一生後悔する。
「物心ついた頃から君はずっと僕のそばにいて……それが怖いくらい当たり前になってた。でもある日、気づいたんだ。もし君がいなくなったら、もう僕は“王子”でも“僕”でもいられないって。――だから、もう隠せない」
息を整えるように、ひとつだけ間を置く。
そして――。
「君のことが、好きだ」
ノアはどこか泣き出しそうな顔で、けれど確かに微笑んでいた。
「……知って、ました」
その一言に、息が止まった。
驚きよりも先に、胸の奥がじわりと熱くなる。
「でも……私は騎士で。今は神竜でもあって。だから、自分からは言えませんでした」
静かにこぼされたその声には、彼女が抱えてきた迷いと、ほんの少しの安堵が混じっていた。
その姿が、あまりにも彼女らしくて、胸が締めつけられる。
けれどノアは、少しだけ俯いて――ぽつりと、言葉をこぼした。
「ほんとうに……竜でも、いいんですか?」
その声は、ほんのわずかに震えていた。
表情には出さなくても、彼女の中にある迷いが滲んでいた。
僕は、迷わず言葉を返した。
「人でも、竜でも……君が君でいてくれることが、僕にとっては一番大切なんだ」
そして、ノアはそっと頷いた。その目に、ほんの少し涙がにじんでいた。
ふたりの間に、風が通り抜ける。
夜の空気は少しひんやりしていたけれど、心は不思議と穏やかだった。
モコが、いつのまにかそっと近くに座っていた。
大きな目を細めて、こちらを見ている。「ようやく言えたね」とでも言いたげに。
ノアが、少しだけ口を開いた。
ほんの少し迷うように視線を揺らしてから、それでも――しっかり僕を見つめて言った。
「……私も、レックスのことが好きです」
その言葉は、風のようにやさしくて、でも確かに胸に届いて、焼きつくようにあたたかかった。
心臓が跳ねる。喉が熱くなる。けれど、それ以上は言葉にならなかった。
僕はただ、彼女の笑顔を見ていた。
何も言えなくても、きっとそれで伝わっていると思えた。
――想いを伝えるって、こんなにも怖くて、あたたかい。
嬉しさに任せて、僕は思わずノアの手を取っていた。
「レックス?」
驚いた顔で見上げるノアを、そのまま抱き上げて――ぐるぐる回る。
「ちょ、ちょっと!?」
ノアの声が夜の庭に跳ねて、僕は思わず笑っていた。
抑えきれない喜びが、体中を駆け抜けていく。
地面に降ろすと、ノアは少し頬を赤らめ、それでも怒らず、ただ少しだけ困ったように笑っていた。
「……急に、どうしたんですか」
「わからない。ただ、嬉しくて」
そう答えると、ノアはふっと吹き出して、小さく笑った。
その笑顔が、月明かりの下でいつもより柔らかく見えた。
誰かを好きになるって、祈ることと、似ている気がする。
今日この夜に、ようやく僕たちは言葉にして、届け合って、それをちゃんと受け止められた。
祈りではなく、願いでもなく、これはただの――恋のことば。
……後になって知ったのだけれど、あの夜の僕たちの声は、中庭じゅうに響いていたらしい。
翌朝、神官長の笑いを堪えた顔が忘れられない。