祈りの森に眠るもの
春の陽がやわらかく差し込む執務室で、僕は書状に目を通していた。
ときに、静けさというものは、別のざわめきを連れてくる。
朝の光が中庭を包み、風が白い花を揺らしている。
ノアはゆっくりと息を整えると、竜の姿へと変わった。
ほんの一瞬の出来事なのに、何度見ても、胸の奥がざわめく。
「オルティアの祠か……。一人で行くの?」
「はい。穏やかな森ですから。夕刻までには戻ります」そう言って、彼女は首を傾ける。
どこか照れくさそうな仕草が、人のときと変わらない。
「……うん。気をつけて行ってらっしゃい」
声にすると、思っていたよりずっと優しい響きになった。
ノアは小さく頷くと、翼を広げた。
風がふっと頬を撫で、白銀の翼が陽を返す。
モコが鳴いて見上げる。僕も同じように見上げた。
青空の向こう、彼女の影が少しずつ小さくなっていく──
オルティアの森で、“誰もいないのに祈りの声が響く”という報せが届いたのは、今朝のことだ。
近くの村人は怯え、ストーリア大聖堂が調査を決めた。
聖騎士としてノアはその任を受けた。
その背中を見送りながら、僕は小さく息を吐いた。
穏やかな日差しの中で、心だけが妙に落ち着かない。
──まるで、春風の中に何か不穏なものが混じっているような。
* * *
日が傾きはじめても、ノアは戻らなかった。
普段なら時間にきっちりしている彼女が、報告も寄越さない。
執務室の時計を何度も見ては、ため息ばかりが増えていく。
視線は報告書の文字を追っているのに、内容はまるで頭に入らない。
紙をめくる手が止まるたびに、時計の針の音が大きく聞こえた。
その頃から、モコがそわそわと落ち着きをなくした。
しっぽをぱたぱた揺らし、扉の前を何度も往復している。
まるで「何かあったんじゃないか」とでも言いたげに。
嫌な予感が、理屈よりも先に心を掴んだ。
僕は椅子を蹴って立ち上がり、外套を取る。
「おやおや、勇ましいねぇ」
角を曲がったところで、金の杖の先が床を軽く叩く音。
イスズ神官長が立っていた。
白衣の裾を揺らし、どこか探るように僕を見る。
「もしかして……ノアの件?」
「ええ。戻らないんです。……止めないでください」
「止めないよ。止めたって聞かないでしょ?」
いつもの軽い調子。けれどその目の奥には、どこか真剣な色があった。
「……気をつけてね。春の森って、思ったより冷えるから」
「ありがとうございます」
「それと――帰ってきたら、ちゃんと報告してよ。“無事でした”ってね」
軽く杖を振って、彼女は背を向けた。
僕はすぐに外套を羽織り、モコの背に乗って城を飛び出した。
* * *
オルティアの祠は、森の奥にひっそりと残る小さな祈りの場だった。
戦火を逃れたとはいえ、石造りの壁には風雨の跡が色濃く残っている。
日が落ちかけた空の下、風が妙に重い。
木々の間を抜ける風に混じって、たしかに歌のような響きがあった。
人と、竜と、どちらの声ともつかない哀しみの調べ。
ノアの姿は、祠の前にあった。
膝をついて祈りを捧げる姿は、あまりに静かで、あまりに美しかった。
でも、そこには何か“苦しさ”が滲んでいるようにも見えた。
「……ノア!」
声をかけると、彼女がこちらを振り向く。
少し驚いたような顔をして、すぐに笑った。
「殿下……どうしてここに」
「帰ってこないからだよ。……心配するなってほうが無理だ」
その言葉に、ノアは一瞬だけ目を見開いて、それから小さく微笑んだ。
「ごめんなさい。でも、もうすぐ終わります。……そう、思ってたんですけど」
彼女の声がかすかに震える。
その時だった。風がうねり、祠の奥から淡い光と影が浮かび上がる。
──人と、竜。
影は互いに触れようとするが、何度もすれ違う。
まるで届かぬ想いを繰り返すように。
「彼らは、恋をしていたのです」
ノアがぽつりとつぶやいた。
「戦の混乱の中で引き裂かれ、命を落としました。それでも、想いだけが残って……“もう、誰にもこんな悲劇を繰り返させたくない”と」
風が強まる。
森の奥から、泣き叫ぶような声が響く。
それは、届かなかった想いがまだこの場所で泣いているようだった。
モコが身を伏せ、低く唸る。
僕はノアに駆け寄り、腕を掴んだ。
「ノア、離れて!」
「駄目です。彼らは怒っているんじゃありません……“私”に反応しているんです」
ノアは唇を開きかけて、言葉を飲み込んだ。
風が、悲鳴のように森を揺らす。
「──私も、竜で、そして……」
それ以上、彼女は何も言わなかった。
けれど、僕には分かってしまった。
その先の言葉を。
「ノア、もういい。君が壊れてしまう!」
「……大丈夫です。分かりました。彼らは、伝えられなかった想いを……誰かに伝えたかっただけなんです」
ノアの瞳が光を宿す。
彼女は手を合わせ、祈りの言葉を紡ぐ。
「あなたたちの想いは、届きました。もう悲しみの中で眠らないで。愛は、壊すものじゃなく、誰かを生かすものだから──」
祠の光がゆっくりと消えていく。
残されたのは、夜風と静寂。
モコが「きゅーう」と鳴いて、ノアに頭を寄せた。
ノアは小さく笑って、その頭を撫でる。
「ありがとう、モコ。……そして、殿下も」
「本当に、君が無事でよかった」
そう言いながら、彼女の肩に外套を掛けた。
細い肩が小さく震えた気がして、心臓が痛む。
「殿下……私、少し怖かったです。彼らの想いがあまりに強くて、引きずり込まれてしまいそうで。でも……あなたの声が聞こえて、戻れました」
「なら、これからも呼ぶよ。何度でも」
ノアは一瞬きょとんとして、それから微笑んだ。
頬が少し赤いのは、気のせいじゃないよね。
* * *
帰り道、ノアは少しだけ僕の隣を歩く距離を縮めていた。
「……ごめんなさい。私のせいで、場が乱れました」
「謝らなくていい。君が祈ってくれたから、彼らはきっと救われたよ」
彼女は俯いて、それでもほんの少し、微笑んだ。
「殿下が来てくださって、嬉しかったです」
森の木々の間から星空がのぞいていた。
モコが大きく伸びをして、翼を広げる。
その風が、ノアの髪を揺らした。
少しの沈黙。
歩くたびに草を踏む音だけが響く。
「ところでさ。今は二人きりなんだけど……いつもみたいに“レックス”って呼んでくれないの?」
ノアが立ち止まる。
ぱちぱちと瞬きをしてから、困ったように眉を下げた。
「えっ……あ、癖で……その……」
慌てて言葉を詰まらせるノアの顔が、月明かりの下でほんのり赤い。
その反応があまりに可愛くて、笑いをこらえるのに苦労した。
「……あの、もう……からかわないでください」
「ごめんごめん。つい、ね」
モコが横で「きゅっ」と鳴く。まるで“いつものふたりだ”とでも言いたげに。
「──ノア。次は、一緒に祈ろう。……君が一人で泣かなくて済むように」
ノアは少しきょとんとして、それから微笑んだ。
「……はい。約束です、レックス」
その笑顔が眩しくて、何も言えなかった。
祠に眠る非恋の歌は、今ようやく静かに眠った。
けれど僕の胸の中では、新しい恋の鼓動が止まらない。