神竜様、縁談ラッシュ中
レガリアとの戦いから、ようやく王都にも静けさが戻った。
街は修復を終え、政務も落ち着きを取り戻している。
僕たちも少しずつ、いつもの日常へ戻りつつある──
……そう、思っていた。
その日、王宮に分厚い文書束が届いた。
「……また“神竜様”宛の“ご縁談”でございます」
分厚い文書束を抱えた書簡係が困ったように報告する。
その場にいた王妃殿下──母シルビアは優雅に封を切り、慎重に文面へ目を通す。
……のだが、なぜかイスズ神官長の姿もあった。
「いやぁ~、戦後ってのはどこも縁談ラッシュだねぇ。神竜さまの美貌と功績、欲しい国は山ほどあるさ」
「イスズ神官長。ここは王族の執務室です。何のご用で?」
「ん? 用っていうか、通りかかったら面白そうな気配したんで」
イスズは屈託なく笑い、封筒の山を指さした。
「だってさ、神竜さまのご縁談だよ? 覗かないわけにいかないじゃん」
母上はため息まじりに微笑んだ。
「神官長、あなたまで混じると余計に話がややこしくなりますわ」
「まぁまぁ。冷やかし半分、興味半分。で、この相手は……あー、“財宝一式と領地三つ”。
いやはや、見事なまでに下心丸出しだねぇ」
「こちらは“年齢不詳、出自記載なし”ですわね。……礼を欠いております」
母上は穏やかな声のまま、文面の欠点を指摘した。
「神竜である以前に、娘同然に思っているノアを国政の駒のように扱う書き方など、論外ですわ。……破棄を」
「りょーかい。アタシの方でも“大聖堂的見地から失礼につき却下”って書いとくね」
「……それ、勝手に出す気ですよね?」
「もちろん!」
イスズが楽しげにペンを構える姿に、僕は頭を押さえた。
そんな中、当のノアはというと、少し離れた椅子で静かに首をかしげている。
「……ご縁談、とは?」
筆が止まり、室内の空気が一瞬だけ凍る。
イスズが軽く笑いながら説明した。
「要するに“結婚のお申し出”。神竜さま、世界の象徴。縁を結びたい国はそりゃ山ほどあるってわけ」
「け、結婚……? な、なぜ私に……?」
ノアの素朴な疑問に、母上は優しく微笑んだ。
「それほどに、あなたが人々の希望になっているのですよ。──けれど、“望まれたから応える”必要はありません。あなた自身の望みを大切になさい」
ノアは戸惑いながらも小さく頷いた。
その隣で、胸の奥がじわじわと熱を帯びていく。
……いや、じわじわどころじゃない。
「殿下、こちら外交経路を通さず、直接届いております」
書簡係が差し出す追加の束。
僕の動揺に気づく者は、誰ひとりいない。
まあ、気づかれても困るけれど。
「……規定違反だ。破棄を」
「かしこまりました」
胸の中で警鐘が鳴ってる。落ち着け王子、理性を保て。……保てるか?
彼女が“望まれたから”なんて理由で誰かの隣に立つ未来なんて──想像するだけで胃が痛い。
頭では分かっているのに、感情だけが勝手に暴走する。
母上が封を閉じて言う。
「王国としての対応は、冷静に。神竜様のご意思を最優先に」
「はいはい。……で、王子は平気? 顔が見事に青、赤、白って三段階だったけど」
「……イスズ神官長、退室をお願いします」
「えぇ~、今いいとこなのに」
「退室をお願いします」
僕の低い声に、イスズは肩をすくめながらも「じゃ、また見物に来るね」と笑い、小さく手を振って部屋を出ていった。
* * *
護衛体制強化の提案をまとめ、近衛隊へ提出する。
その書類を見たイストが淡々と眉を寄せた。
「殿下、これは“安全確保”というより“監視”と読まれかねません」
「監視じゃない。予防だ」
「過剰は逆効果です」
イストは筆を置き、冷静に言う。
「……落ち着いておられますか」
その一言に、ハッとする。
そこへ、ノアの父──騎士団長のユーノス・ライトエースが静かに姿を現す。
いつも通り落ち着いた足取りで歩み寄り、低い声で一言。
「殿下。焦りは、判断を誤らせます」
僕は反射的に「落ち着いてます」と答えた。
けれど、ユーノスの目は厳しく、まるで僕の内心を見透かしているようだった。
「ノアは、自身の立場を理解しています。殿下が過剰に動けば、あの子は“国のために”と自分を犠牲にしかねません」
そこで一度、ユーノスは言葉を切り、わずかに目を細めた。
「あの子は強いが、それゆえに無理をする……誰か一人でも、彼女の“本当の願い”に気づいてくれれば、話は変わるのでしょうが」
その声音には、責めるような色はなかった。
ただ、静かで、そしてほんの少し──僕の背中を押すような響きがあった。
胸の奥がざわつく。
まるで、「君が言わなければ、彼女はまた自分を差し出すぞ」と。
いや、そこまで言われていないのに、僕の中で勝手にそう聞こえてしまう。
……分かっている。
分かっている。けれど、言葉にすれば壊れてしまいそうで、まだ踏み出せないんだ。
* * *
夕刻の中庭。
白い小花が風に揺れ、空の色は淡く茜に染まっている。
芝で寝転ぶモコをノアが撫でていた。
「レックス」
ノアが振り返る。
その蒼の瞳に、少しだけ笑ったような光が宿っていた。
それが、どうしようもなく嬉しかった。
「さっきの“縁談”のことだけど……」
言い出した瞬間、喉がひどく乾いた。
「ぼ、僕は──いや、その……君の気持ちを一番に考えたい」
噛んだ。完璧に噛んだ。
ノアがわずかに目を瞬く。その小さな仕草が、余計に心臓に悪い。
「誰かに決められるんじゃなくて、君がどうしたいかで選んでほしい」
「私の……気持ち」
「うん」
ノアは小さく息を吸い、真っ直ぐに僕を見る。
「私は“神竜”です。……もし、国のためになるなら、私は──」
「待って」
気づけば、声が出ていた。
「それって……“誰かのために”って、自分を後回しにする言い方だろう? 君がそういうふうに笑うの、僕は見たくない」
ノアは驚いたように目を瞬き、そして少し微笑んだ。
モコが「自分もそう思う」と、言わんばかりに「きゅう」と鳴き、お腹を見せていた。
「……私、レックスに言われると、すぐ甘えてしまいそうで。いけないですね、騎士なのに」
「……甘えてくれていい。君が、君でいてくれるなら、それだけでいい」
言ってから、自分の顔が熱くなる。
ノアは頬を染めてごまかすようにモコのおなかを撫でた。
「……ありがとうございます」
回廊の影でイスズが「進捗0.5」と囁き、すぐに母上の控えめな咳払いが混じる。
聞こえなかったふりをした。
「もし……私が、自分の気持ちだけで選んでいいのなら──」
ノアは少しだけ俯き、言葉を探すように間を置いた。
「……私は、たぶん、“王国”じゃなくて……誰か一人のために、動いてしまう気がします」
ノアはそこで、ふっと目を伏せた。
その先を言わないまま、静かに口を閉じる。
けれど僕には、なんとなく分かってしまった。
その“誰か”に、自分が含まれているのだと。
いや、そうだったらいいなと、勝手に思ってしまっただけかもしれないけれど──
胸の奥が、ぎゅっと熱くなる。
甘くて、少し苦しくて、それでも嬉しい気持ちが、言葉を詰まらせる。
「……その“一人”は、きっと、すごく嬉しいと思う」
それしか言えなかった。
でもノアは、小さく目を伏せて、静かに微笑んだ。
「……よかった」
風が静かに花を揺らす。
その笑顔を見ているだけで、胸の奥が少し痛くて、あたたかかった。