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あの一言が言えない

「殿下、こちらの調印内容をご確認いただけますか」


 文官が差し出した書状を受け取り、僕は視線を走らせた。

 国境沿いの小国との交易協定──数か月かけて調整してきた案件だ。

 これが無事に締結されれば、南方の物流が格段に安定する。


「文言は問題ありません。こちらで了承の旨を記して返しましょう」


 筆を走らせ、署名を終えると、室内の空気がほっと緩む。

 文官たちが一斉に安堵の息を吐く音が聞こえた。


王子としての僕は、少し“冷静すぎる”と思われているらしい。

 けれど、それが今の僕の役割だと分かっているし、務めるのに苦はない。


 ただ──


「──殿下、先日の慰霊行事の報告をお持ちしました」


 その声に、手を止める。

 視線を上げると、ノアが書状を抱えて立っていた。

 聖騎士としての口調は少し硬い。

 それでも、僕にはその奥の“ノアらしさ”が見えてしまう。


「ありがとう。……無事に終わった?」


「はい。大きな問題もありませんでした。ただ、北の丘にある祠が老朽化しているそうで……。もしよければ、次の巡回で私が確認してきます」


「……ありがとう。君が行ってくれるなら、皆も安心だろう」


「いえ、私はただ、できることをしているだけです」


 報告を受け取りながら、僕は机上の別の書状にも目を通す。

 隣でノアが、そっとその紙面を覗き込んだ。


「すごいです。私、報告書の三行目で混乱しました」


「三行目?」


「“該当部隊を以て同盟側へ再協議を要請する”って、結局“もう一回話す”ってことですよね?」


「……うん。つまり“話し合いが長引いた”の婉曲表現だよ」


「なるほど……そんなに回りくどいんですね」


「政治文書ってのは“怒ってないふりをする技術”だから」


「……難しいです」


 ノアが真顔で唸る。その真剣さがまた可笑しくて。


「まあ慣れだよ。ノアだって、すぐ慣れる」


「ほんとですか? ラクティス団長が“十年経っても慣れん”って言ってましたけど」


「あの人の十年は信用ならない! 朝会議の“すぐ行く”も一時間後なんだから!」


 勢い余って声が響く。文官たちがびくりと顔を上げた。

 慌てて咳払いし、姿勢を正す。

 ノアは小さく肩を震わせて笑っていた。


 ……ほんと、だめだ。政務では冷静にいられるのに、ノアが絡んでくると、まるで歯車が狂う。


 ──このところ、ずっとそうだった。

 彼女がエテルナに発つ朝、港で手を振ったあの日から。

 戻ってきた彼女は一段と逞しく、そして眩しくなっていた。


「“好きだ”って、言えばいいだけだろ?」


 いつだったか、ラクティス団長に冗談めかしてそう言われたことがある。

 言うは易し。だが、それができたら苦労しない。


 なにしろ、いざノアを目の前にすると、言葉が喉で詰まるのだ。

 感謝も、励ましも、謝罪でさえ言えるのに──「好きだ」だけが言えない。


「レックス? その……よければ、今日の報告の後で、少しだけ話せませんか?」


 その一言で、心臓が跳ねた。

 な、なにその前置き。そんな言い方、いろいろ期待しちゃうじゃないか。


 まさか──まさか、それは。

いや、でも、きっと違──いやいや、でも!


「う、うん。もちろん。……どこで?」


「えっと、あの……詰所の裏庭に、少しだけ花が咲いていて。そこ、静かなんです」


 ああ。それってつまり、ふたりきりの空間じゃないか。しかも“花”。

 僕はなんとか頷いたけれど、そのあとの政務の内容なんて、ほとんど頭に入ってこなかった。


 * * *


 日が落ちるころ、僕は約束の場所へと足を運んだ。

 春先の空気はまだ少し冷たく、頬を撫でる風が心を落ち着かせてくれる……ようで、全然落ち着かない。


 少し遅れて、ノアが現れる。

 手には小さな包み。何か甘い香りがした。


「……今日、お菓子をいただいて。レックスにも、って思ったんです」


 照れたように差し出された包みを受け取り、僕は「ありがとう」とだけ言うのが精一杯だった。


 話は、何てことのない世間話だった。

 訓練中にモコが転がって邪魔だったこと。

 近衛隊の新兵がイストに泣かされたこと。

 今朝見た夢の話まで、彼女は少しずつ話してくれた。


 そのどれもが、愛おしかった。

 けれど、愛おしいと思えば思うほど、言葉が出てこない。


 そろそろ、言おう。そう思った時だった。


「……レックスって、時々、すごく静かになりますよね」


 ノアが首をかしげる。


「ごめん、聞いてたよ。ただ、……」


 言いかけて、言葉が霧散した。

 今じゃない、まだ無理だ。彼女を困らせたくない。関係を壊したくない。

 そんな言い訳が、頭の中をぐるぐる回る。


「……ううん。話してくれて嬉しかったよ」


 結局、また逃げてしまった。

 だけど、ノアはにこっと笑って「そう言ってもらえると、嬉しいです」と答えた。

 その笑顔に、また一歩、恋が深まってしまう。


 言えない。けれど、見ていたい。

 それでもいいと思ってしまう、今の僕は──


「……ほんと、僕って、弱いな」


 誰にも聞こえない声で呟いた言葉に、ノアが不思議そうに首をかしげる。


「何か言いましたか?」


「いや、独り言。あ、きれいな夕焼けだなぁ」


 そのまま、空を見上げるふりをした。

 でも、視界の端にノアの笑顔がある。それだけで十分だった。

 言えないくせに、ずっと見てる。

 そんな自分に少し呆れながら、それでも今日もまた、僕は彼女の隣にいた。


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