とんでもない、を使うな
改めて思うことを書き殴ります
いきなりタイトルがケンカごしですみません。
以前「ございません」で投稿しましたが、なぜそう思って書いたか明確にしておきたくて再度投稿します。
小説家になろうに投稿されている多くの作者様が置かれている環境は、当然現代日本の日本語環境ですし、言語教育も会話環境も執筆に影響を与えていることと思います。
作品についての事を論じる上で、その時代背景や世界観はどうなっているかは重要なことで、設定に苦慮されたり綿密に工夫をされたりと、創作に掛ける熱意は読み手としていつも敬意を持って、ありがたく思いつつ楽しませていただいています。
さてここで言いたいことは「とんでもない」の変化として「とんでもございません」や「とんでもありません」が公的な見解として認められているのは論を待ちませんし、「申し訳」のことについても「ない」を変化させる言葉は問題ないのでしょう。
論点として重要なのは「トンデモ」は荒唐無稽の事象に使われるケースが多々あり、許容されたこと以上に本来の形から変化してきた現代日本の言語空間に意識が引きずられてしまうのです。
特に異世界もので貴族王族の立場にいる人物が発する言葉は、階級独特の言い回しなどを使っているはずなのに、日本語として使い勝手がいい言葉としての「とんでもない」が出てくるのは世界観的に違和感を持ってしまいます。
地の文や、転生や召喚で現代日本の人物が言うならまだ不自然さはそれほどありません。あくまで台詞として使うには一考の余地があるのではと思う次第です。
いきなり「使うな」は乱暴かも知れません。が、没入感を味わいたいのに、ちょっと冷めてしまったよ。という私個人の思うところですので、何卒ご寛恕いただけますように。
この話題に異論反論ありますよね。ご意見いただけるのでしたら、是非とも違和感のないと思う方からの見解をお聞かせいただけると嬉しいです。




