幕間その1:シアバスさんの営業トーク
17話『汗はともかく筋肉は』で起きたことの、ちょっとした補足です。
尾行者が意を決して、ドアを押すと、鍵はかかっていなかった。ここぞとばかり、体を滑り込ませる。上階で多くの人の声や足音がするぶん、この階には人が居ないだろう、居ても少数だろうと思ってのことだ。
が、思っていた以上に、ひとが居た。
そしてドアに入り込むと同時に、汗の匂い、ひといきれ、あるいは視覚的な圧力とでもいうべきものが向けられる。それは壁際のベンチで火照った肌をさらすオーク族や、半獣化形態の獣人たちであり、暖炉脇で足をのばしている逞しい男女であり。鍛えあげた、あるいは鍛えつつある途上の身体がもつ、熱気である。
いやほんとうに暑いな?
ごうごうと燃える暖炉を見て、襟を緩めようとした尾行者のほうへ、分厚い肉壁を縫うように、細身の人物がやってくる。
「やあ、お客さん。こっちぁ裏口だよ。見ない顔だな、入門希望かい。
えぇ、奥がうるさい?
あのドスンドスンと太鼓はしゃーねぇんだよ、宴会とはまた違うんだ。精霊魔術で蒸し風呂を運営しててな、そう、この道場は蒸し風呂がついてんだ!
あっ、俺はシアバス、ここの(と言って、男は細い腕でこの半地下の広い部屋をぐるりと示した)責任者だ。うーん、うん、お兄さん悪くないね、今日ここに来たのは実にいいタイミング、どんぴしゃりだ。そろそろ恋のシーズンだ、だがシーズンに入ってから慌てるようじゃあ、計算違いも甚だしいってもんだ。
あーうん、わかるわかる、別にモテることだけが全てじゃあないさ?
だがなぁ、考えてもみなよ。
計算しつくした筋肉の美というのは、それだけで誰にも奪えない財産、自分だけの宝なんだ。お宝。分かるかな、どこかから持ってきたんじゃない。もともと自分が持っているもの、それが筋肉。肌にこびりついた垢を落とすように、鉄鍋の錆を落とすように、鍛えることで表に出してやるだけでいい。そう、分かってきたろ?
そうなんだよ。
誰にでもあるもの、それが筋肉なんだ。ただ効果的にやるには、計算された鍛錬、計算された栄養、専門の指導が必要なんだよ。自分ひとりであくせくやったって、誰か見てくれなきゃ、ちゃんと上手くなったかどうかわかんないだろ、そういうものさ。
月パスだと銀30枚、一日一度の鍛錬に、汗を流して筋肉をほぐれさす蒸し風呂とマッサージ付き。どうだい、兄さん、一日あたりなら銀貨1枚。計算するまでもなく、お安い……だろ? わーかってるじゃねぇか!
仕事のあとちょっと寄って、汗を流して、自分を磨く。シーズンが来て見りゃ絶対分かるさ、自分には魅力があるってことがな。お前さんを見る、周りの目が違うんだ。
筋肉痛?
まあそりゃなるときはままあるさ、分かるぜ、痛いのは嫌なもんだよ。だがなぁ、それは成長するための痛みってヤツだよ、兄さん。むしろ気持ちいい筋肉痛ってものがあるんだ、マッサージを受けたらわかる。どんだけ鍛錬で痛めつけても、自分は耐えて成長できてるんだ……そういう実感は、気持ちがいい痛みなんだよ。
何だ、持ち合わせがないって、ええ?
そんなら手付を置いてって、後日来た時支払いしてくれりゃ……なんだ帰っちまうのかよ(舌打ち)」
残念そうな営業トークを引きはがすように、尾行者は入ってきたドアから飛び出した。
彼は後日、同僚に
「うっかり入門するところだった」
と語ったとか、語らなかったとか。




