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7 法万羅

「チエさんはどこか」

 叡智(ニヒルニャーナバーンクの支配する法万羅の結界時空域。その中に潜入したユウトは、アチャンスクにあるという隠された要塞をを探し歩いていた。アムールはすでに凍り付いている。その両岸にはみすぼらしい建物が続く。かすかに感じるチエの鼓動から、この両岸のどこかにチエがいることは確実だった。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 蒸し暑い程に加温された本堂。チエは儀式の場に向かうところだった。従うのは十数人のホストのような男たち。広い本堂に入り込むと、最奥の祭壇に向かって最前列に山田アサトが何かを祈っている。


ナム からたんなあ たらやーやー

ナム ありやーばあ りょうぎゃあてい

ちい しふらーやー ふじさーたあ

ぼー やー

まかさた  ぼーやー

まかきゃー るにきゃー

やー オン


 唱和する祈りの中、チエたちの列が続々と本堂の中に入り込む。ホストたちは左右に分かれ、座ると同時に唱和に参加していく。その中をチエが真っ直ぐに祭壇に向かって近づいていく。チエがアサトの横に立ち止まって腕を差し出すと、アサトがその手を受け取り、うやうやしく額にこすりつけた。

 こうして、今日の儀式が始まっていた。


 彼らが祈りを捧げているのは、チエが表す涅槃の姿。叡智(ニヒルニャーナバーンク)によって導かれるべき理想の姿だった。唱和の声が響く中で、チエは自らを捧げるような身振りをし、白い姿態を一瞬現さらす。それに応じてホストの男たちがチエを崇拝するように声を上げた。

 この時に祈りが終わり、チエの後ろに控えていたアサトの人相が変わった。髪の毛はチリチリとなり、切れ上がった目。先ほどまで怒りを覚えていた人間が急に柔和な作り笑いをしたような顔つきとなった。依り(タターガ)のアサトが叡智(ニヒルニャーナバーンクを憑依した瞬間だった。

「永遠の過去よりこの日この時が待たれていた。末法の世の救いを今実現するのじゃ。チエよ、お前は最も穢れた末法の初穂。どの人間よりもどの男女よりも穢れたお前は、このようにして穢れを丁寧に取り去れ。ついには涅槃に入れるであろう。」

 アサトが語り終えると、祭壇の近くに空間の歪が生じ虚空が生じた。

「さあ、チエ、いまこそ涅槃へと…」

 この言葉が終わらないうちに、ユウトがその本堂に足を踏み入れた。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


「ここだ。この奥にチエさんがいるに違いない」

 チエとともに行方をくらました叡智(ニヒルニャーナバーンク)、そして明龍(ヴィジャナーガカンマン)。彼らの起こす渦動結界には、どこかに中心となる原動力となるものがあるはずだった。イルクーツクの正教会で分析を終えたリディータたち聖杯城の同志たちは、その中心が巨大な渦動結界太極の中心、長白山であると推定した。そして、その仮説が正しければ、叡智(ニヒルニャーナバーンク)明龍(ヴィジャナーガカンマン)が本拠とする場所は、円弧上の日本列島、漢帝国の屈辱白登山、そして円弧上のアムール川流域にあるはずだった。


 ユウトはその推定に従ってアチャンスクに達した。付近のアムール川流域には、凍てついた針葉樹林の中に廃屋がいくつも散在している。あるものはアムールの凍り付いた両岸に見え隠れしている。またあるものは針葉樹林の奥に隠されている。それらを巡り歩きながら、ユウトはアムール川流域の複数のポイントからチエの鼓動の強さと方向を感じ取った。ようやくユウトは、アチャンスクの秘密要塞を見出した。そこにチエの囲われている法万羅の本拠が隠されているに違いなかった。


 微かだが確実に近くに感じられるチエの鼓動。ユウトはためらわずにその古い廃屋に入り込んでいった。入り込んだ扉の先にはもわっとした熱気が、下へ続く階段から上がってくる。ユウトが下へと降りていくとともに暗闇は深く、結界が強くなっていく。その結界に深くはまると、結界に充満していたチエの祈りのような思い、タターガのアサトのオーラ、ホストたちの濃い思念、そして今まで感じたことのない巨大な叡智(ニヒルニャーナバーンク)の存在感が、一度にユウトに襲い掛かった。


「ばかげたことを…」

 本堂で行われている儀式を一目見たユウトは、吐き捨てるように言った。その奥から、アサトの声が響き渡る。

「誰だ、寂静なる御堂を汚す者よ」

 立ち上がったアサトとチエを探すユウトの視線が絡み合った。アサトは怒って毛を逆立て、破邪長剣を手にした。振り下ろすと同時に光陰の矢がユウトへ放たれる。ユウトは平然と受け流し、それを見たアサトは怒りを込めてさらに矢を射る。しかし何も起こらなかった。

「チエさんを返してもらう」

「なんだと」

「チエさん。応えてくれ」

 それまでトランス状態だったチエはふと気が付き、本堂の入り口に立っているユウトを見つめた。

「なぜ、先輩がここへ?」

 ユウトは大声でチエに呼びかけた。

「チエさん、迎えに来た」

「だめ。ここにこないで」

「なぜだ」

 ユウトの姿を見た途端、チエの心は混乱し始めた。自らの不浄とユウトへの思慕、激情。それらがチエの心を揺さぶった。それがチエを変容させた。

 それは鬼の姿だった。


 本堂に響く怒声と悲鳴。鬼の形相となったチエを前に、儀式に加わっていた男女たちが本堂の出口へと殺到する。ユウトはそれを飛び越え、チエとアサトの前に立った。

「チエさん、さあ、俺と帰ろう」

「なぜ、追ってきたの? こんな私を・・・・」

 アサトは鬼となったチエの姿に驚愕したが、やっとのことで口を開いた。

「チエ、お前はまだあきらめきれていないんだな。執着がある。まだまだここでの働きが必要だ。さすれば鬼を克服できる。そして多くの男女たちを目覚めさせることができる」

「克服だと? 目ざめだと? チエさんに神殿娼婦をさせておいて、それが目覚めだというのか」

「神殿娼婦だと? そんな愚かしいことではない。チエの有する姿態の美をもって涅槃の理想を感じさせ、皆を涅槃へと導くのじゃ」

「それは偶像礼拝そのものではないか。そんなもの、俺は絶対に認めない。チエさんを返してもらう」

「そうはさせるか」

「黙れ、動くな、アサト、いや、叡智(ニヒルニャーナバーンクよ」

 ユウトはアサトの持っていた破邪長剣を蹴り上げて天井に突き刺した。それと同時に鬼のままのチエの手を取った。

「さあ、帰ろう」

「私には許されていないわ」

「天の意志は、チエさんを許している」

「そんなはずはないわ」

「いや、俺の目には明らかだ。あんたの背中には天からの愛が豊かに注がれ始めている。俺を信じて」

「私には、あきらめることしか許されていないの」

「俺と一緒に・・・・・」

「このまま死なせて」

 ユウトは、チエの絶望をまだ本当には理解していなかった。いや、愛を注がれているチエが絶望することが理解できていなかった。そのためらいが一瞬の隙を作った。

 チエは、ふと姿を消してしまった。アサトが結界を解いたとたんだった。鼓動も何もかも、チエの存在を示す全ての現象が消えていた。

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