5 逃避行
ガードマンは、夜の闇の中を別荘の外へとチエを導き出した。彼は、残されたミツオとカズキ、そして覚羅とその手下たちに、動くことを許さなかった。さらに彼は、夜の風景がすべて見えるかのように、チエをかばいつつぐんぐん進んでいく。すべてのことがガードマンの意に添うように動き、止まり、整えられていた。そうして入り込んだ浜の漁師小屋の中で、ガードマンはチエに静かに言い含めた。
「これから、彼らから逃げ続けなければなりません。彼らは人間ですが、彼らには以前あなたを襲ってきた不空羅・虚空羅地という影の存在も一緒に行動しています。彼らは永遠の過去から今の時を待っていたと言っていました。彼らが存在し始めた時から、あなたをいけにえとして狙っていたのでしょう。ですから、彼らに跡を追われないように彼らの活動の拠点を破壊していかなければなりません・・・・。」
チエを力づくで捉えようとした不空羅、虚空羅、そして連なる人間たちは、滅空を成してそれを拠点とし、末法の始まりと称して涅槃へ調伏した人間を強制的に収容しようと準備し始めている。その初穂が、明龍召喚の生贄となるはずのチエだった。ユウトは彼らがチエに近づけないようにするために、彼らの拠点となる滅空を粉砕しようと考えた。
「ナーガダルマは俺を滅ぼし去ることができると思って、結界の発生源の渦動つまり太極の技を見せびらかした。それなら、彼らは渦動つまり太極によって虚空・滅空を成しているに違いない。なれば、渦動つまり太極を粉砕すればいいはずだ・・・・」
ユウトはそう考えつつ、今後の戦いの覚悟を固めていた。
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「初めての逃飛行ですが、お任せください」
何か飛ぶものにチエを乗せるというのだろうか。このガードマンはやはりポンコツだ。そう思って我に返ると、後ろでチエを支えていたガードマンが声をかけてきた。
「つきました。ここで動かず待っていてください」
今いるのは山の上。ふと空を見上げると、夜の闇の天空に星のみが照らす双曲線、三次曲線の飛行機雲が空に描かれ、そのままガードマンの背中に続いていた。
「翼よ、大きく広がりて彼女を守り切れ」
そういうと、ガードマンは空中を見つめて走り出し、暗闇に消えた。チエは金縛りにあったように動くことができなかった。
ユウトは、滅空を見つけていた。しばらく見つめていたのは渦動中心を見定めるためだった。方向を定めての一撃が渦を消し去り、滅空の中に隠れていた虚空羅、虚空羅が吐き出されるように地上に投げ出される。その不意を突くように、ユウトは目の前のすべての怪物たちを粉砕し尽くした。
チエの視界にも、ガードマンの発した一撃とそれを反射したオーラが粉々になって光を失う光景が見えた。
「さあ、行きましょう」
戻って来たガードマンは、何事もなかったようにチエの背後に再び立った。一瞬の時の流れを感じたところで、また別の場所に立っている。そして、またガードマンの一撃と粉々になるオーラがあった。
このような一瞬の飛行と一瞬の滅空への打撃が何度も繰り返したうえ、行き着いたところは廃棄されたお堂のような廃墟だった。
「ここならば、奴らは襲ってこないでしょう。いくつもの滅空を粉砕してきていますから」
一人の老人が二人の後を飛ぶようにして、静かに後を付けてきていた。ユウトがもつ黄土のストールは自在力を有するがゆえに、老人は龍人力を使ってユウトを追い続けることができた。そして、彼はユウトがチエを必ず伴って逃げていることを知っていた。
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それはユウトの不覚だった。チエが金縛りになった上にユウトまで動けなかった。二人が唯一動かすことのできたのは、両目だけだった。
「お二人さん」
呼びかけたのは康煕。ユウトにとってその老人は、脱出してきた別荘でマサヨに引っ張ってこられていただらしのない老人のはずだった。マサヨにこっぴどく叱られて意気消沈するはずだった。ユウトは彼だけ監視対象から外していた。
「チエさんは、俺がもらっていくよ」
そう言うと康煕は軽々とチエを抱えて暗闇の空中へかき消えていった。
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「康煕さん、あなたはミサオさんを裏切ってまで、なぜこんなことを・・・・」
「本来は俺たちの仕事ではなかったんだがな。アサトも衆羅もあんたを利用するはずだったんだが・・・・。いまは俺たちが利用する番となったのさ、だが、不空羅、虚空羅ばかりか、カズキもイサヨも役に立たなかった」
「アサトさんたちが諦めたのに、今回はあなた方が私を襲ってくるの?」
「そう、あんたは何も知らないらしいね。アサトがあんたを狙っていたのも、そして俺たちがあんたを狙っていた理由も。それは、あんたがチエと名付けられた時に始まっているんだ。あんたは、叡智の召還のためのいけにえでもあったし、龍明の召喚にも使える。今はあんたを虚空もしくは滅空へ沈めればすべてがうまくいくのさ…」
「叡智のため、龍明のため? それって、同じ存在なの?」
「そう、叡智には二面があるのさ、末法の世を迎えようとする今、その二つの召喚がなされれば、全てを人間すべてを虚空と滅空即ち絶空に入れ、十万億土を埋めることができる。」
「そんなことのためにあなたたちは、トウヤさんを消し去って、その上先輩を殺したのね」
「そうさ」
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ガードマンの姿のまま、ユウトが立っていたのはある山門の前だった。
「ここにいる」
ユウトにだけ聞こえるチエの鼓動が、山門の奥から聞こえていた。山門の奥には、廃寺が朽ちた姿をさらしている。山門の屋根はかやぶきだったのだろうか、屋根一面に草が高く生え、観音開きの門は外れ落ちている。山門までは数銃弾の階段。その奥へ少し登ったところに本院、別院、茶室、などという寺の廃墟があり、全て草に覆われて、強い夏日を遮っている。その先も階段がある。長らく人の登ったことのない階段は草が生え、注意深く見ていかないと道に迷いそうだった。
山門をくぐると、やはり衛兵役の不空羅、虚空羅が襲い来た。ユウトはそれらを平然と薙ぎ払い、露わになった石段の上へチエの居場所を感じながら登っていく。やがて、本宮のある平らな境内に至ると、そこには不空羅・虚空羅たちが並び仕組んだ円陣のような結界と、その奥に控えるカズキとユウキの姿とがあった。そして、最奥には、チエを縛り付けた柱とそれを持つ老人の姿が見えた。
「チエさんを返してもらおう」
ユウトはカズキを睨みつけながら大声を上げた。
「チエは俺のもんだ」
カズキはチエに近づきながらその髪に触れ、不敵にほほ笑んだ。
「チエにはここであらためて自分の生まれ乍らの業を見つめさせよう」
「何をさせるつもりだ」
ユウトは目の前の円形陣をどこから突破しようかと隙を探し続けた。そうしている間に、木に縛り付けられたチエの前に、男たちの幻影が現れた。チエにとって、それはチエの体の上を通り過ぎていった男たちの欲望の姿そのもの、弱い女をなぶり吸い尽くす搾取者の姿だった。
チエは無意識のままだったが、その幻影に悲鳴を上げ、泣き叫んでいた。それを見ながら、チエを縛り付ける木を抱えた康煕が言い切った。
「お前は不浄の身。堕落しきっているがゆえに周りを煩悩の渦に巻き込むものとなったお前は、強制的に寂静に至らしめる。さあ、末法の世における初めての調伏だ。もっとも汚らわしく、もっとも忌み嫌うべき存在の者よ。ここで、おのれの穢れの深さにより、全てをあきらめよ。それによりすべてを強制して清めるお力の方、明龍ヴィジャナーガカンマン様を召喚できる。さあ、ここで力づくで涅槃に入れ込まん。死ね」
ユウトは、円陣を攻めあぐねつつも、ここまでチエたちを追い込んだすべての者たちを睨みつけていた。燃え滾る祈りはゆっくりと指摘するような厳しい言葉となって発せられた。
「お前はチエさんを裏切り、娼婦とねんごろになった。その上チエさんを搾取し、痛めつけ、売り飛ばしながら、まだチエさんを迫害するのか」
「チエは俺のもんだ。骨の髄に至るまですべては俺のもんだ」
「お前は、イサヨたちとともに中学の時にチエさんを迫害した。反省しチエさんを助けていたと思えば、ふたたび裏切った。この裏切りは許せん。」
ユウトが怒りの声を上げると、その横からイサヨが顔を出した。
「チエ、チエって、うるさいにね。あんた、チエのご主人様なのかい。ちがうだろ! 何様だい。チエは私が借金のかたに保護しているんだ。カズキの借金はチエの借金。チエが払い済むまでチエの身柄は私のものだからね」
「チエさんを裏切り、搾取し、売り飛ばし、迫害し続け、挙句の果てに娼婦に貶めた罪…。許せん・・・・・。俺がチエさんのご主人様だと? 違うね。俺は黒木ユウト。チエさんを守り切ると祈りつつ誓いを立てた騎士、蒼翼だ。さて、ここまで名乗ったからには、お前たち、ただでは済まさんからな」
「お前に何ができるのかね。この結界を突破できるのかね」
「復讐するは、天のなされること。ここでの俺は俺ではない。ゆえにこれから成すことは、俺の力でなすものでもない。天から遣わされるのだ。さあ蒼翼の騎士の力を示そう」
ユウトは蒼翼を大きく広げるとともにそのすべての表面から発せられた光が、一瞬でチエを引き寄せ、ユウトの足元に移動させた。同時にユウトの目の前にいた眷属たちは吹き消され、イサヨたちは全て地にたたきつけられて動けない。康煕は一瞬それに対処することができなかった。