4 再びの呪縛
「おじさま、明るくならないうちにおうちへお帰りになって」
チエは何も言わずに彼を外へ送り出した。チエを買った男は、かつて世話になった老齢の男、林康煕だった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
トウヤがいなくなった今、ナーガダルマのような不空羅もしくは虚空羅に代わる何かが、いや別の手先の人間がチエを捕らえに来るに違いない。ユウトにはそれが明らかだった。そして、チエはまだ下田の鍋田浜、トウヤのいた別荘に住んでいた。
トウヤを失った別荘は、守り手のいない砦のようなものだった。すでにトウヤの書斎も、リビングももう使われていない。チエはそこで惰性で生活しているに過ぎなかった。今までの依存的な生活にけりをつけるために、チエは最近下田で働き口を見つけた。それは、下田のとある旅館の中居。高卒のチエは、そのぐらいしか働き口はなかった。
・・・・・・・・・・・・・・・
最近、別荘の周りは工事関係者の往来が激しい。鍋田浜に面したホテルのプールと庭園、浜に至る階段の付け替え工事が始まっている。今は工事車両の警備とともにこの別荘の周りを、その警備と交通整理のためにガードマンが立つようになった。
チエは朝早くにトウヤの家を出る。下田のホテルの中居は朝が早い。そんな時刻でも彼はもう立っている。工事関係者が来る4時間も前から、立っていることになる。そして、チエが下田でもう一つの仕事をして帰宅する深夜でも、そのガードマンは立っている。いつ帰り、いつ寝ているのだろうか。チエにとっては、やはりガードマン男は謎だった。
「道路は右側を歩いてください。側溝に気をつけて……。」
毎朝通りかかるチエに、そのガードマンは声をかける。
「はい、こちらの方へ。どうぞ」
そう言いながら、彼は下を向きながら後ろ向きでチエを導くのだが、そのまま側溝に足を突っ込むことが常。
「いやいや、気にしない。あなたの安全が第一ですから」
下を向きながら、そうつぶやいてチエを送り出している。
工事車両が煩雑に出入りするようになった。ガードマン男は、それでもホテルへのアプローチ口ではなく、なぜか坂の下で待ち構えるようになった。チエのいる別荘でさえ、坂の上なのに。
「おーい、ガードマン、どこにいるんだ?」
「はい、ここ」
「何が『はい、ここ』だよ。お前、なんで坂の上で誘導しないんだよ」
「はい、坂だから止まれないことがあると思って…ここでどうやったら止まれるかを研究していました」
「そんなことは要らないんだよ。もっとまじめにやってくれよ」
工事責任者がガードマンを怒鳴っている。またガードマンが車の来ないところに立っていたらしい。
どうやら、この男はポンコツガードマンだった。
・・・・・・
ある日を境に、ガードマンの警備が厳しくなった。いや、巡回を増やし、きめ細かくなったといったほうがいいかもしれない。交通整理にすぎないガードマンがそこまでやるのだろうか・・・・。
チエが別荘を出る早朝に、すでにポストに投函されているメモがあった。
『パトロールしました。今夜も異常なしです』
「あの人、毎日こんなメモを入れていくんですよ」
「でも、ガードマンとしての職務の一環なんでしょ?」
警察は取り合ってくれない。工事会社の関係者たちも同じような反応を示した。チエの苦情は、誰にも取り合ってもらえなかった。
「ねえ、あなた、なんでこんなメモを入れているの?」
チエはついにガードマンを捕まえてとっちめた。
ユウトは、チエが後ろから話しかけてくることを予想していなかった。思わず帽子を深くかぶり、無言で立ち去ろうとした。
「まって!」
顔を見られてはいけない。勘の鋭いチエが気が付かないはずがない。
「あなたの安全のためですから」
ユウトはそういうと、俊足で坂の上に登って行ってしまう。着物姿で追いつけないチエは、見送るしかなかった。
「おい、ガードマン、お前も気づいているだろ?」
ある日、現場の親方が話しかけてきた。
「なんですか?」
「お前、黄土色の怪人が出没しているんだぜ、気付いていないのかよ」
「黄土色の怪人?」
そう答えながらユウトはいよいよだと覚悟をした。この時のためにガードマンを選んでおいてよかったと確信した。再び来るであろう呪いから、チエを秘密裏に確実に守り切る。そのために、いままでとは異なる近さで絶えず気づかれないように守り切る。その決意と裏腹に、今までとは異なる変な高揚感と緊張感があった。
確かに、チエの近くに黄土色の怪人が、いや、怪人たちがうごめいていた。彼らは明龍に仕える不空羅の兄弟分である虚空羅。明龍が直接ではなく呪いによる制御術をもってチエを強制的に涅槃へと調伏しようとしていた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
太陽が水平線に沈もうとするとき、鍋田浜荘ではチエはそこで一人分の夕食の準備をしているところだった。
突然のことだった。そのチエの住まいに、老婦人が康煕を引きずって入り込んできた。
「うちの康熙をたぶらかすなんて、どこの商売女だ!」
チエは一瞥と同時に相手が誰かを悟った。老婦人は激しい言葉を投げつけてくる。
「うちの旦那を取るつもりなのかい」
「ま、マサヨさん・・・・」
チエは思わず顔を伏せた。その答えによってマサヨはチエであることを知った。
「え、あんた、チ、チエさん!」
マサヨは後ろの康熙をにらみつけた。
「康煕、あんた、まさか…チエさんを…買ったのかい…。なんてことを・・・・」
マサヨは長い間連れ添った夫を見つめた。その顔は今までの康煕の顔ではなかった。
「マサヨ、お前も分かっただろう。チエは根っからの娼婦となり下がった。それによって、これからのことが定まった。俺はそれを確かめたんだ」
「なんてことを。あんた、チエを何だと思っていたの?」
「長い間、この時を待っていたんだ」
「あんた、何を言っているの」
そういうと康煕は今まで見たことのないほどの忿怒の顔つきとなってマサヨを睨んだ。
「あのユウトという蒼翼の騎士め。あいつは我々をことごとく阻止し尽くしてきたのだ。だが、今や直接チエを奪取すべき時」
マサヨはその異様さに言葉を失った。それと同時に、玄関のドアがふたたび開いた。
入ってきたのはチエの見知っている男女たち。そして、ミツオ、カズキ、そして覚羅ヨシゾウだった。
「あんた誰だよ」
ミツオたちはマサヨを睨みながら部屋にずかずかと入りこんだ。マサヨは気っ風の良い芸者らしく、睨かえすと、その横にカズキと、覚羅ヨシゾウがいることに気づいた。
「覚羅さん、カズキさん、あんたらはここに何をしにきたの…。まさか、あんたら、この女に暴力を振るってこんなことをさせているの? なんてことを…」
ミツオは、いらいらし始めた。
「うるせえなあ。お前はおれたちのじゃまをするってえのか? いちいちうるせえことを言いやがる。俺はなア、やくざ張っているんだぜ。ただじゃあ返さねえからな」
「ふん、こんなか弱い女をいじめて搾取しやがるなんて、ただのチンピラじゃないか」
「姉さん、ずいぶん威勢のいいことを言うが、」
覚羅がすごんだ。
「あまり調子こいていると、生きていけないぜ」
マサヨは黙るしかなかった。
・・……………
チエは絶望のあまり、死んだはずのユウトの名を呼んだ。すると、ドアも空いていない室内に、ぼおっと蒼い光がともると、あのガードマンが立っていた。その男のオーラはまだ青く光っている。
「おのれ、蒼翼の騎士、またしても邪魔をするか」
康煕の今までにない大声は、周囲を睥睨するかのようなオーラを放った。
「下がれサタン。そのうちに、時が来る。そのときこそ、その正体、その悪の所業、天に明らかにして打ち滅ぼうしてやる」
「ほう、その言葉そのまま返してやる。永遠の過去より待ち焦がれた末法の世、いずれ我々のことわりの時。いかな蒼翼の騎士と言っても人間の部分が残っているんだろ。それなら、力づくで涅槃への引導を渡してやる」
ガードマンはその蒼翼によってチエの周りの人間たちを吹き飛ばしつつ、チエの脇に立った。
「先輩・・・・」
ユウトはその呼びかけに答えず、チエをかばった。
「俺は蒼翼、ガードマンとなって今まで控えておりました。今はここから逃げましょう」
逃げ出そうとする二人をミツオとカズキ、そして覚羅が囲んだ。
「おめえ、簡単に逃げられると思うなよ」
ユウトが手をかざすと、周りの人間たちは動けなかった。ユウトは大事そうにチエを導いて下田の夜に消えていった。