3 結界粉砕
「お前は誰だ?」
下田の鍋田浜、春先の灰の水曜日であるからか、陸から海へと吹く夜風にゴビ砂漠からの黄土の匂いがする。冷たい風を感じているせいか、黄土の匂いは、感情を噴き消してしまうほど背筋を凍らせる。
「お前は誰だ?」
誰もいないはずの庭に向かってトウヤが叫ぶ。いや、そこには確かに黄土の影がいた。
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ユウトが叡智の依り代アサトを退けたあと、トウヤはアサトたちとは異なって独自に叡智を信奉する影の動きがあることを悟っていた。先日までチエを追い込んでいた奴らも、その影に動かされていた。今や、全てのカードを使い果たした今、影が直接にチエに手を伸ばしてくることは確実。その影は黄土の影だった。
いま、トウヤは庭に姿を現した黄土の影に、今まで感じたことのない恐怖を感じた。それは武器のような杵と棒を両手に持った人影、黄土色の炎のような衣に包まれた姿だった。
「俺かい…、おれは明龍様の眷属、不空羅が一人、ナーガダルマ」
「明龍? 誰だ、それは? そして、なぜここに来た」
「愚問だな。いや、あんたたち御使いにはわからんかもしれないから、念のため教えてやろう。あんたの許にかくまわれているチエをもらいうけに来たんだよ」
確かに、チエはトウヤの別荘、鍋田浜荘に隠れていた。
「なぜだ。すでに叡智はアサトたちが召喚済みだ。それなら生贄はもはや必要ないはずだ」
「そうだ、叡智はすでに依り代のアサトの許に来た。そいつらは自在力を使えるとしても、人間たちの導き方が生ぬるいんだ。それゆえ明龍様、つまり叡智の教令身である明龍様が、動こうとしている。俺たちは明龍様に由来する龍人力を使って、全て俺たちに歯向かう人間どもを調伏し、その人間をたぶらかすあんたたち御使いを滅ぼし尽くすのさ。そのために、あんたのところにいるチエを頂く。そして、明龍様を召喚するのさ」
「そうはさせるか 明龍だと? 人間を調伏するだと? 人間に与えられた自由を奪うだと? そんなことを許してたまるか」
「それはあんたたち御使いのつよがりか。おのれの不足をわきまえない者どもよ。あんたはチエをかくまっているつもりだろうが、だいぶ前から俺たちに情報が筒抜けだぜ」
「なんだと・・・・」
トウヤはナーガダルマを捕まえようとした。だが、ナーガダルマはふっと姿を消してしまった。
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次の日の朝、トウヤはチエに話をした。
「チエ、あんたは明るいうちにここから逃げろ」
「トウヤさん、どうしたんですか」
「あんたは狙われている」
トウヤのひきつった顔。それは今までチエの見たことのないトウヤの恐怖の感情。チエはようやく自分に迫る危険を感じた。しかし、誰が? そしてなぜこんな下賤の女を標的にするのだろうか。なぜわざわざこんな不浄の女を求めるのだろうか。いや、それほどチエ自身の愚かさ、穢れが許されないものなのだろうと納得できた部分があった。
「私は人間。全ての地が裏切り者の人間ゆえに呪われ、その呪いの対象である人間です」
「確かに、人間は天から呪いを受けた。しかし、あんたは許された存在だ、いや愛され選ばれた存在だ」
「私は不浄の女。この体を男たちにさらした下賤な女。私を愛したがゆえに、先輩は死んでしまった。それゆえ私は許されてはいけない存在、愛されてはいけない存在なんです。だからいっそのこと、死んで消えてしまうべきなのです。このままあの人たちにつかまって殺された方がいい・・・・」
トウヤはチエの言葉に戸惑った。どうしたら逃げてくれるのか、どう言えば逃げてくれるのか。
「黒木ユウト君は、君の先輩は、君を案じて・・・・」
「それで先輩は私の犠牲になってしまった・・・。もう、これ以上私のために犠牲者が出るなんて」
「君が生きていなければいけないんだ。君を大切にしたいという思いのものがまだいるのに・・・・」
「誰ですか? だって、先輩はもうこの世にいない…」
「蒼翼という者がいる・・・・」
「蒼翼さん…」
「彼は君を助け続けてきたはずだ。少なくとも彼の思いは・・・・」
「でも、あの方はなぜそんなに・・・・」
「だから・・・・」
チエは戸惑い迷うしかなかった。逃げるべきところも、どうすべきかも、わからなかった。
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夕闇に染まる鍋田浜。常緑広葉樹林にうまく隠されたトウヤの別荘は暗闇に沈んだまま。チエは闇の静けさの中別荘を出た。
チエはまだ迷っていた。心の中はすでに覚悟を固めている。殺される覚悟を。ただ、それでもチエを守ってきた蒼翼という男を思い出し、ただ彼のために生きぬかなければならないという思いだけが残っている。
ユウトは、歯がゆい思いを持ちつつチエの姿を見つめている。まだ聖杯城での修業は終わっておらず、チエの許へ駆けつけ守ることは許されていない。ただ、今まで通りチエの周りを警戒する御使いたちに任せ、見守るしかなかった。ただ、ユウトだけが気付いていたことがあった。
「トウヤさん、影が近づいている。気付いていますか」
「何も見えんぞ」
ユウトにだけ不空羅たちの動きが感じられた。衆羅の黄土のストールを身に着ける者のみが感じる、濃い黄土のストールの者たちの動き。
「逃げろ、チエさん」
叫ぶユウトの声が届いたのか、やっと逃げ出し始めたチエ。だがどこに・・・・。チエはためらいつつ鍋田浜の海岸線へと出ていく。左へと行けば遊歩道。その先にえびす島、誰もいない橋を渡り切り、岩陰に身を潜めた。
月明かりに白波が目立ち始める。その白波に沖からの白波が進み、左右に広がるとその中心に人影が立った。
「あなたは誰なの?」
その人影は応えず、同じ人影が一つ、二つと増えていく。やがて前後に一列、二列・・・。チエはその光景に見とれ、圧倒されていく。その隊列はまるでローマ軍団・・・。
「あ、あなたたちは誰なの?」
「俺は明龍様の眷属、不空羅が一人、ナーガダルマ。あんたをもらい受けに来た」
「私は不浄の身。それゆえ、もう衆羅たちは私を求めない。なのに、あなた方不空羅はなぜ私を求めるの?」
「不浄の身。堕落しきっているがゆえに周りを煩悩の渦に巻き込むものとなったお前は、強制的に寂静に至らしめる」
「私を死に至らしめる・・・・殺すつもりなのね」
「そうだ。それによって、末法の世をもたらす初めての調伏だ。もっとも汚らわしく、もっとも忌み嫌うべき存在の者よ。それにより明龍様を召喚できる。ここで力づくで涅槃に入れ込まん。死ね」
「そうね、私は人間であるうえ、不浄の身、殺されて当然の身。私は殺されるだけましなのね・・・・・」
チエは、自らの身柄を海へと投じようとした。
「だめだ、ここで死んではいけない」
いつの間にか、チエの後ろにトウヤが立っていた。指をくわえて眺めることしかできないユウトの心に応じるように、トウヤはチエを後ろからかばう。それをナーガダルマが遮った。
「ここで死んでもらう」
その言葉と同時に不空羅の大軍は、渦動を作るようにして海面から上昇し全空中を満たしはじめた。それに応じるようにトウヤが手を挙げると、星空いっぱいに光の大軍、天の大軍が現れる。上昇する黄土と赤の光、下降してくる蒼と白の光。両勢力が互いを飲み込むほどの勢いに達した時、両陣営は相手方へと殺到し始めた。互いに蒼い光矢、赤い火矢がいかけられ、何人もが倒れる。それを顧みずに互いがぶつかり合う。
だが、突撃してくる御使いたちは次第に打ち落とされていった。不空羅たちの渦動が作る渦動結界が御使いたちの力を奪っていた。
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すでにトウヤは倒れ、援軍の御使いたちも全て身動きできずにいた。それを見切ると、不空羅たちはゆっくりとチエとを取り囲んだ。
「へりくだった砕けた魂を、天は見殺しにはしない。けっして捨て置かない」
ユウトはそうつぶやいた。戦いを見つめていたユウトは、いまようやく訓練を終え、聖杯城を飛び出した。次の瞬間、ユウトは真新しい蒼翼を煌めかせ、不空羅の大軍の背後を突いた。虚を突かれたナーガダルマの結界は不意に乱れはじめた。
「今、行くよ。チエさん」
結界がさらに乱流のように方向を失うと、ユウトは結界の隙を突き、倒れているチエの傍に立った。
「チエさん、さあ今逃げるんだ。」
「そうはさせるか」
うしろからナーガダルマが叫んだ。それと同時に再び渦動結界が形を戻しつつあった。これでは再び御使いたちはやられてしまう。
「ナーガダルマ、いま立ち去るならあんたによる明龍の復活を許そう。しかし、そうでなければ、あんたを粉砕する」
「お前は黄土のストールを奪ったユウト。蒼翼を身に着けたのか…。しかし半人前にもならない御使いが、何をできるというのか」
「俺は、確かに半人前にも至っていない。まだ人間だ。しかし今、黄土の力と合わせて蒼翼の力を使わせてもらう」
「そんなもので何かできるのかね。お前たち御使いなどは無力な存在、すぐに消えてなくなるものが何を言うか。まあ、消えてなくなる前に教えてやろう。この結界は明龍様の力による渦動つまり太極によって発せられるものさ。この力の前に、お前たちなど人吹きで消えてなくなるぜ。俺の龍神力をなめてもらっては困る」
「舐めているのはそちらではないのかね。警告は完了した。滅びよ」
ユウトは、話を聞きながら観察をした結果、結界を構成する渦動結界の流れとその源である渦動中心を見抜いていた。その中心に向けて蒼翼と自分の体とを突き刺す。その瞬間、結界を構成していた渦動が揺らめきながら薄くなり、不空羅大軍は霧散した。と同時にユウトは、不空羅ナーガダルマの濃い黄土のストールを剝ぎ取った。
ユウトは、すでに不空羅大軍の全体の動きから、一人の不空羅を中心にして多数に分身していることを突き止めていた。蒼翼による一刺しはその中心を狙った技。ナーガダルマは両断された残骸となっていた。
「結界や虚空を成すのに渦動結界を俺に明かしてしまうとは。ナーガダルマ。俺をなめ切っていたね」
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大きく息をついたユウトの視界には、大きく傷つき、天へと帰っていく御使いたちの姿。その下でようやくチエは正気を取り戻しつつあった。
「トウヤさん、トウヤさん」
トウヤはチエをかばって倒れたまま。ユウトもトウヤの異変に気付いていた。音もなくチエの後ろからトウヤの体を見てわかったことは、トウヤが二度と動くことはなく、次第に消えていくということだった。
「トウヤさん、私のために・・・・。やっぱり私は生きてはいけなかった」
チエの自らを諦めるその言葉は、改めてユウトを打ちのめす。
「チエさん、振り返えらないで。そして聞いてくれ」
チエは後ろからかけれた言葉に驚いた。その声はユウトの声だった。
「あなたはだれなの。先輩のはずはないのに・・・」
「チエさん、あんたは生きなければならない」
「私のために、多くのかたが犠牲になってきました。今トウヤさんが私の犠牲になって…」
「それは、彼が御使いだったから。御使いは人間のために作られた存在だから」
「でも、私は不浄の女。この体を男たちにさらした下賤な女。私を愛したがゆえに、先輩もトウヤさんも死んでしまった。それゆえ私はさらに許されてはいけない存在、愛されてはいけない存在になったんです。それなのに・・・」
「まだそんなことを言っているのか…。なぜわからないのか」
「その言い方…あなたは蒼翼さんね」
「そう、蒼翼・・・・。」
「あなたも御使いなのね?」
「半人前にもなっていない変わり種の騎士と言っておきましょう」
漂ってくるユウトの匂い。チエは耐えられずに振り返った。
チエの目の前に立っていた男は、蒼翼をチエの上に広げた男の姿、その顔はユウトによく似た顔。
「先輩…。生きていたの」
「いや、俺は蒼翼、あんたを幼い時から守り続けてきた者。ユウトは二度とあんたの前に姿を現さない」
「ではなぜあなたがここで私のために立っていたのですか」
「そ、それはあんたのために、あんただけのために存在する男だからだ」
「やっぱり、先輩なんでしょ。その言い方は先輩だもの」
「ち、ちがう」
「じゃあ、先輩はどこなの? そう、私は先輩が死んだ姿を見ていない。先輩は生きている。そしてその言葉は先輩のもの」
「ち、違う。もう俺は立ち去らなければならない」
「先輩・・・」
「ちがうぞ、いいか、ちがうからな」
ユウトはそう怒鳴りながら飛び去った。チエは、その姿を見送りながら一言つぶやいた。
「そう、違うわね。先輩なら私を一人にしないもの・・・・ やっぱり、あなたは蒼翼さんね・・・・、私、また一人になっちゃった」