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1 暗転

「ユウトさんは死んだんだってな」

 カズキはそういった。校庭を見ていたチエは涙目で振り返る。窓の外、彼女が先ほどまで見つめていた放課後の校庭には、雪が降り始めていた。保健室登校は続いているものの、チエの生活は惰性で動いているだけだった。

「こんな私のために死んじゃうなんて……。」

 チエは言葉が続かない。辛い現実に背を向けようとするように、彼女は再び外に顔を向ける。校庭に面した窓は、結露のせいか、やかんの湯気のせいか、チエの目に映る外の風景は歪み、目をつぶらざるを得なかった。

 涙をこらえようとする努力は、さらに涙を増す。流れ落ちる涙が、声を震わす。やがて声と涙が嗚咽となって噴き出した。


 ユウトが死んだとチエが聞かされてから二ヶ月後、保健室に来たばかりのチエにアヤコは一度だけ厳しく現実を見ろといったことがある。

「死んだ人は帰ってこないわ」

 その声に、チエは振り返ってかぶりを振った。アヤコを見つめるチエの涙目は叱咤も慰めも、会話さえも拒否している。それでもアヤコは続けた。

「どんなに嘆いても帰ってこないわよ。それが現実なの!。いつまで泣いているの?。しっかりしなさい」

 その日からチエは、アヤコのどんな声掛けにも無言だった。もちろん、チエもわかっている。遠くから見守っていてくれたユウトは、もうこの世にいない。その現実を前にして、チエは歯を食いしばってギリギリで耐え続けていた。

 そうして三月、チエとカズキたちは卒業し、カズキは鳶に就職。チエは親代わりのマサヨたちが経営する中華食堂で働き始めた。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 チエと小久保カズキが結婚したのは、林康煕が発病した年の6月だった。それを機会に、馴染みの小久保家の援助もあって、マサヨはチエとともに支えていた康煕の中華食堂をたたみ、康熙の転地療養のために二人だけで下田へと去っていった。

 チエとカズキの結婚は、康煕もマサヨもまた小久保家のみんなも祝福した。よい舅、姑。離れていても下田にいる親代わりのマサヨと康煕。よい親族たちに囲まれて、チエは幸せのはずだった。カズキが負傷するまでは…。

 カズキが現場で傷を負うと、結婚生活は小さく暗転した。カズキの稼ぎが途絶え、一家の稼ぎはチエはガススタンドのバイト代のみとなった。一度悪い方へと転がり始めると悪い弾みがつく。傷がいえたはずのカズキは復職せず、遊び歩く。加えてキャバレーに入れあげ、果てはホステスとの浮気。しまいには、ホステスに貢ぐ金のためにチエの稼ぎ全てを持ち出すようになっていた。


「あなた、今夜もお出かけなの?」

「そうだ、さんざん過程でお前と一緒にいてやったんだから、ストレス解消に出かけてもいいはずだぜ」

「でも、あなたの上着のポケットにあったこのマッチ、この店の女に会いに行くんでしょ」

「あ、そのマッチね。そうだよ、女だよ。だからどうしたんだっていうんだ。みんなお前が悪いんだ。お前のために結婚してやったのに、優しいのは怪我が治った時までだったよな」

「だって、あなた、働こうとしなかったじゃないの」

「疲れたから少し休んでいただけじゃねえか」

「少し? へえ、一年間も遊び歩いたからたしなめただけじゃないの」

「たしなめた? へえ、休みたいって言ったら、あまえだって? なまけだって?」

「私だけがアルバイトで働くだけだったじゃないの!」

「そうだよ、お前は夫に尽くすのが当たり前だろう」

「でも、あなた、私の稼いだお金まで全部使い切ったくせに」

「俺はどうせ働けねえんだ。せっかく美人と結婚したんだ。美人のお前を働かせてせいぜい稼がせてもらうぜ」

 カズキの勝手な理屈とチエの詰り。それがこの数か月もの間、夜な夜な繰り返されている。そして、義母までが、稼ぎの少なさとカズキの浮気をチエのせいだといってを責めるばかり。誰もチエを助けかばう者はいなかった。

「チエ、カズキがこんなことになったのは、あんたに原因があるんだからね。」


 チエは稼ぐために、夜のホステスに身をやつすようになった。ただホステスは、彼女が好きで始めたわけではない。日々の暮らしのため、生きるためのはずだった。

 彼女の新しい職場は歌舞伎町の一等地に立つ雑居ビル。毎夜午後七時になれば、「サムタイムアデイ」に男たちが女を買いに来る。二十歳になったばかりのチエは売れっ子キャバクラ嬢なのだが、ホステスと言ってもピンからキリ、彼女の稼ぎはもっぱら営業の終わる午後九時からのアフター。

「あたしもお酒、飲んでもいいかしら? お客さんは上品だからアフターに行きたい」

 男の膝に手、男の腕に胸を接触させながら、チエは教えられたとおりに語り掛ける。それが客の男の欲望を膨らませ、煽りにあおる。


 こうして、毎日の稼ぎがあり、その日の稼ぎはカズキや義母に渡していた。それがいつの間にか全ての稼ぎは店の経営者中村イサヨから直接カズキや義母たちにわたるようになっていた。その状態から、イサヨが大金をカズキに渡すのは早かった。

「何よ、これ。私の稼ぎが私に来ないの?」

 イサヨは、嘲りながらチエを睨んだ。

「あんたの稼ぎはあんたのものじゃないの! あんたの旦那のものなのさ。とはいっても、あいつには大金を渡したからね、あんたが稼いだものは借金の返済に充てさせてもらうよ・・・・。それから、ここから逃げようったって、逃げられないからね」

 カズキがイサヨに借りた借金…のはずが、いつのまにか全てはチエが借りた形にすり替えられ、チエはどこにも逃げられなくなっていた。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 ユウトは、遠く聖杯城での修行を始めたばかりだった。しばらくチエのいるところへ戻ることはかなわない。だが、遠くにいてもユウトはチエを思う。それゆえに、チエの現実はユウトの目の前にはっきりとさらされていた。

「清楚なはずの彼女が、なぜ・・・カズキはチエさんを奈落の底へ沈めやがった。アサトたちは彼女にとりつくことがないはずなのに・・・カズキは誰に従っているのか。誰の手先なのか」

 チエを襲う者はもういないと見込んで修行を始めたのだが、チエはユウトの前で身を沈め、日ごとに滅びの道を転がり落ちていく。

「今すぐ、ここを出してください。俺は彼女を救いに行かなければ…」

 ユウトの懇願が聞き入れられるはずもなかった。ユウトにもわかっている・・・・。無言で耐え続けるチエの姿、目の前で自らの心を殺し転落していくチエの姿、毎夜繰り返される娼婦の肢体のなまめかしさに、ユウトは血のにじむ唇を震わせながら苦しみ続けた。

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