魔法基礎学
前書き
この本を手に取った学徒諸君は、少なくとも魔法学を学ぶ意思がある者だろう。
罷り間違えて、座学ではなく実践を中心に教えて欲しいと望むのならば、“魔法基礎学”ではなく各種“初級魔法”の講義に出席することをお勧めする。
この講座では、魔法の“基礎”、つまりは根幹を学ぶ。
魔法基礎学とは、魔法という自然の理を超越した超自然的な概念である魔法の根底にあるのは何なのか、この世界の真実を探求する学問である。
これは魔術師としての絶対的な課題の一つだ。
有史以前から幾年も探求され、そして未だに“解明”できていない。
この講義ではその魔術師の探求の歴史に触れ、その奥深さを知り、自身の手で更なる発展に臨むための知識を学ぶ。
この講義の受講者の未来が明るい事を願う。
***
第一章 魔法
1-1 魔法の定義
最初にこの講義の受講者に伝えなければならない事は、まず魔法とは何かということである。
前書きを読んで身構えていた者にとっては些か拍子抜けに感じるかもしれないが、そもそも魔法基礎学とはこの定義や範囲を調べていた学問だ。それだけ重要な事なことであり、この講義では最初から最後までこの疑問を取り扱うと言っても過言ではない。
現代で広く使われている魔法の定義を簡潔に記せば、
「魔法とは、自然の理を超越する現象」
ということだ。
一般的に超自然などと呼ばれる。
そんな物、子供でも分かると思った者もいるかもしれない。しかし本当にそうだろうか。
文字に起こせばそれだけの事なのだが、実はこれは極めて判断が難しい。
例えば、手を打ち合わせれば音が鳴る。一般的に拍手などと呼ばれるこの行為。これは自然な事だ。
手の運動エネルギーが空気の振動に変換されて鼓膜を揺らす。たったそれだけの自然な理。当然これ自体は魔法ではない。
では、落雷はどうだろうか。これも純粋科学の観点から言えばただの放電現象である。
しかし落雷は太古より、“神が下した裁きの光”として認識されてきた。曰く、その下には悪魔が居り、跡形もなく消し去っているのだと。
こう認識してしまえば当然自然などと言う理の範疇ではなくなり、落雷は太古から超自然の現象として扱われてきた。
これは古代から現代への流れの中で、魔法が自然へと認識が変わってしまった事柄の一つだ。
似たような例はいくつもある。
長期保存のために食品を塩漬けにすると言うのは世界各地で行われてきた手段だ。これは塩分濃度が高い環境で繁殖する細菌が稀で、腐敗しにくくなっているというだけの話だ。
しかし、この効果から塩を魔除けとして使用する地域もある。細菌やその繁殖と言う知識が無ければ、こう判断するのもある程度は納得できる流れだ。
これも純粋科学(魔法の影響を排除した完全自然の法則)の発展によって、魔法の領域が狭まった典型例と言えるだろう。
つまり、今現在魔法だと思われている儀式の中には、純粋科学的な根拠が潜んでいる可能性もあるのだ。
ここでもう一度先程述べた魔法の定義を見てみると、自然の理を超越する、とある。
自然の理とはつまり、純粋科学の範囲の事だ。しかし前述した通り、純粋科学の範囲は拡張を続けている。この世界から魔法の影響を完全に取り除くことはできないので無限に拡張を続ける事はないが、それでもこれから先どこまで広がりを見せるのか見当も付かない。
この魔法の定義は、そんな状況である現代ではもはや意味をなしていないのである。
それでもこうして現代にまで受け継がれているのは、新しい定義の設定がそれだけ難航しているという証明でもある。
少々頭の回転が速い学生は、“魔力”を基準にして新しい定義が出来ないのかと考える者がいるだろう。
中々に鋭い視点だ。事実、大半の魔術師はその観点から新しい定義を探っている。
しかし残念ながら、未だに例外のない完全な定義を見つけ出すことはできていない。
なぜそこまで難しいのだろうか。
次はその魔力について語ろうと思う。
***
1-2 魔力
講義概要に記した通り、受講者諸君はおそらく魔術師として勉学に励む者達だろう。
ならば一度は魔法を行使したことがあるに違いない。そもそも入学試験の段階で、魔術師としての才を見せなければならないのだから当然だ。
つまり、この講義を受講している者は、ほぼ確実に魔力という物の存在をある程度認識していると言うことになる。
しかしこれは一体何なのであろうか。そう疑問に思ったことはあるだろうか。
魔術師は感覚的に魔力という存在を認識している。
魔法を使えば疲れるし、魔力が回復する怪しげな薬を飲めば多少体調も良くなったりする。中には魔力を消耗し過ぎて意識をなくしたことがある者も居るだろう。
重要のなのは、この魔力とは一体何なのかということだ。
結論から言えば、魔力とは
「精神界と物質界に跨って存在する唯一の力」
の事だ。
魔法は精神界と物質界に跨って干渉し得る唯一の力であり、通常は両世界の“空間”を満たすように漂っている。
空気中、人体、水中、魔石の中……とにかく空間の広がりさえあればどこにでもあると言っても過言ではない。魔力が完全にない空間は特殊な環境であり、大規模な儀式でも行わない限りは存在し得ないのだ。
不心得者は魔力を“エネルギー”の一種なのだと主張する者も居るが、純粋科学の観点から見ても魔法学から見ても、間違いだと言わざるを得ない。極めて短慮な主張でありながら、それでいて感覚的に理解しやすい理屈なのが尚更質が悪い。
物理的なエネルギーの代表的なものは、薪に含まれる化学的エネルギーだろう。
燃焼という化学反応によって熱エネルギーに変換され、料理に使ったり暖を取ったりと幅広く使われる。他にも高い位置にある質量体、赤熱した鉄などありとあらゆる物にエネルギーは存在している。
では、魔力はこれらとどう違うのだろうか。
実は魔力は、エネルギーのような保存則が機能しない。
完全に魔法的影響から隔離された空間内の総物理エネルギー量は常に一定だが、魔力は魔力同士が増幅し合い、物理的な現象として作用する場合も独自の変換効率を持つ。その際にロスした魔力は完全に消失し、何かに変換されることもなく消えて行く。
精神界と物質界に干渉する唯一の存在として当然だと思うかもしれないが、これはエネルギーとして定義するには少々疑問が残る。
最も大きな問題は、魔力同士が増幅し合うことだろう。
これによって、一定空間内で増幅に必要な最小値(最小空間魔力定数という)の二倍の魔力さえあれば、無限大の物理的な仕事をすることができる。
これは一つの“界”の中で常に同じ量をグルグルと変換し合っている物理的なエネルギーとは、一線を画す性質である。
もちろん万能と言うことではない。
一定空間中で魔力が勝手に増幅する最大値(最大空間魔力定数)が決まっていて、放っておくだけで莫大な力が得られるわけではないのだ。
しかし、一度燃やせば灰になる薪と、何度でも使える魔力では全く違う性質を持っている事は確かだ。
魔力はエネルギーではなく、あくまでも力。
焚火を例えに話せば、薪ではなく炎の大きさこそが魔力である。
精神界と物質界に跨って干渉する唯一の存在として魔力を語ったが、ここで一つ疑問がある。
我々は精神と肉体を持っているが、我々自身はその二つの領域に跨ってはいないのだろうか。
この疑問の答えは、実は証明するのが非常に困難だ。通説は二つある。
まず一つ目は、我々は精神と肉体が実は別々に存在していて、意識を魔力に乗せて肉体に伝え合ってるのだという考えだ。
これは極めて単純な話で、魔力しか跨って存在していないのだから精神と肉体の間の仲介に魔力を使っているのだと言う、ある種素朴な考え方と言える。
魔術師は自身の魔力を消費し過ぎると、意識を失う。これはつまり、精神と肉体の接続が途切れた状態の事だ。
ではなぜ“意識がない間の精神の記憶”は無いのだろうか。逆に、走馬燈のように一瞬で長い時間を感じることもある。これは一体何なのか。
人間は物体の速度で時間を認識している。日の出から次の日の出までを一日、季節が一周する期間を一年、他にも心臓の鼓動や物体の振動の周期など、“速度を基準にして時間を設定”している。
逆に言えば、精神は何も認識できない状態では時間の流れさえも認識できない。
つまり、肉体との接続が切れた精神は、それ単体で何かをすることも感じることもなく、どれだけ時間が経過したのかも分からない状態であると言える。
そのため意識がない間の精神は、非常に長い時間を一瞬にも、一瞬を永遠にも感じることができるのだ。
また、自分の魔力が体調に影響する理由も明白だ。
精神と肉体を接続する魔力が消耗すれば、思い通りに体が動かなくなるし、その分だけ精神の干渉力を高めなければ体が動かないことになる。それを我々魔術師は“疲労”として認識しているのだ。
そう言われると、何だか言い分として正しい気がしてくるかもしれない。
しかし、本当にすべての人が精神と肉体を魔力で常時繋ぐなどという非常に高度な事を行っているのだろうか。この説は魔導の才がない存在も、魔力自体を無意識に操れているということを示唆している。
魔術師とは高慢なもので、その点が気になり始めると途端にこの説を信頼したくなくなっていく。
その疑問を解消した、ある意味強烈な仮説が一つある。
我々が精神だと認識している“自我”は、実は純粋科学の領域の物質的な現象に他ならない、という仮説だ。
魔力が精神界と物質界に跨って作用する唯一の存在であるのだから、ありとあらゆる生き物は“物質的な精神”を持っているのだという話だ。
バネが押し込まれて反発するが、バネ自体は反発する以外の力を持っていない。同じ様に、我々の意識や自我も周囲の環境に連鎖的に“反応”し続けているだけであり、自由意志や精神などとは呼べないのだと。
これが本当ならば、我々は無意識的に魔力を操って精神と肉体を接続する必要もなくなる。皆が高等なのではなく、平等に劣等だと言い切ってしまう素晴らしい仮説だ。
精神にのみ作用する薬なども、多少その効果の説明が簡単になる。精神が物理的な現象であるならば、そこに物質が直接影響を及ぼしても何の問題もないからだ。
しかし当然だが、こちらはこちらで疑問が残る。
この仮説を是とするならば、そもそも“精神が行使している”と思われてきた魔法は、一体どうやって発動しているのだろうか。事実として我々は魔法の行使が可能だ。それは完全に物理的な存在にも可能なのだろうか。
もちろん絶対的に不可能であると証明できたわけではない。
しかしこの仮説は、魔術学の根底を覆しかねない疑問を残しているのだ。
それでも支持されているのは、純粋科学が徐々にその領域を拡大しているからなのかもしれない。広がりを見せる新たな世界、人はそこに“夢”を感じずにはいられないのだ。
***
1-3 魔力と魔法
魔法は魔力によって発動する超自然の現象だ。例外はあるが、基本的には人知の及ぶ範囲ではその法則が適応される。
魔法の仕組みは諸説あるが、精神界側の魔力が魔術師の精神に反応して、物質界で“形”になるという流れは大抵共通している。様々な検証の結果これが正しそうだ、というだけなのでまだまだ仮説の域を出ない話でもあるのだが。
とにかく、精神界側の魔力がある特定の形になると、物質界では精神界の魔力と“同座標上”の魔力も同じ形になる。この性質を今まで“跨っている”と表現していたのだ。
物質界では精神界よりも“形”という物に非常に重要な意味を持つ。魔力が意味を持つと、自然の理よりも強制力を持つので超自然的な現象が起きるのだ。
狭義での魔法はこれらの性質から定義できる。昔からこの定義は存在していた。
しかし、残念なことにこれは魔法という物の一部でしかない。
魔力は空間中に一定値以上あるとお互いに増幅し合うと前述したが、増幅する速度と時間当たりの魔力消費量を調整すれば、永久に作動し続ける魔法というものが簡単に作れる。
魔法分類的には、“環境魔法”などと呼ばれている。
特殊な霧に覆われた森や、尽きる事のない金鉱山など、大きな魔法が自然環境を作り上げているのと同様の仕組みのためだ。
非常に繊細な魔法なのだが、同時に現代では既に確立した方式でもある。
最大空間魔力定数の大きな“魔石”を動力源にして、魔法を組み上げればいい。未だに稼働を続ける古代遺跡などの多くは、この仕組みが採用されている。
しかし、この環境魔法だと思われていた現象の中に、物質界で魔力が形を作っていない現象があることが発見された。
魔法水銀と白色金の反応もその一つである。
銀と金を体積比一対一で混ぜると、白色金という合金が出来る。
多少重いのが難点だが、最大空間魔力定数が他の金属に比べて高いという性質を持っているため、非常に高額な魔石の代わりに使用したり、魔術に必要な魔力の足しにしたりと活用の機会が多い素材だ。その上研磨以外の加工が難しい魔石に比べると、非常に加工難度が低いと言える。
これを金属生命体である魔法水銀に食べさせるとどうなるだろうか。
魔法水銀は飲み込んだ金属の性質を取り込むので、魔法水銀内の空間魔力定数が高くなるのだろうか。
しかし、実際にはそれだけでは済まない。
白色金を飲み込んだ魔法水銀は、僅か数秒で高熱を発し始める。その現象は劇的で、飼育用のガラスケースが融けて火事になった事件がある程だ。
長年この現象は、魔法定数の変化によって偶然環境魔法が作動している結果だと思われてきた。
しかしこの現象を詳しく調べると、何と物質界の魔力は大きく変動していないことが分かった。
環境魔法は魔力に作用して発動する魔法なので、当然この現象は環境魔法には分類されないことになる。
これは発見当時、魔術師たちの間で大問題となった。
純粋科学でも解明できず、当時の定義では魔法としても認められない。超自然の領域でありながら魔力を介していないのだから、当然とも言える。
今まで積み上げられてきたの魔法の根底が崩れかけた一大事であり、そしてそれは現代でも解明されていないいのだ。
魔法とも物理ともつかないこのような現象を、未解明魔法と呼ぶ。
これを魔法に分類してしまっているのが、魔法学が複雑化する最たる所以である。
詳しく調べた結果魔力が作用していない(少なくともそう見える)現象は他にも存在し、そして中には歴史的に魔法として扱われてきた物まである。
これでは困ると言うことで、未解明魔法を含まない魔法の呼び方として魔術という呼称が生まれた。
魔術の定義もまた曖昧な部分を含んでいるが、概ね魔術師がその仕組みの概要を理解できた魔法を魔術と呼ぶ。
余談だが、これが魔術師という言葉の語源でもある。
この事件は魔術師が純粋科学を発展させる大きなきっかけにもなった。歴史的に見ても極めて重要な事件である。
ここまで聞いた受講者諸君の中には、未解明魔法を魔法に分類するのが間違いであり、そもそも魔力の関係しない現象はすべて純粋科学の領域、つまりは自然の理なのではないかと考える者も居ると思う。
しかし未解明魔法の半分以上は、魔力の影響を完全に遮断した特殊環境下では発現しない。
つまり我々には理解できないが、何らかの形で魔力が影響していることもまた確かなのだ。純粋科学が魔力の影響を完全になくした状況下での自然の理を調べる学問なので、当然こちらには分類されないのである。
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1-4 魔術
魔術とは、魔法の中でも魔術師が理解できる範囲の事象だ。
更に狭義になると、その中でも魔術師が行使できる魔法を魔術と呼ぶ場合もある。仕組み(物質界の魔力の形と起きる現象)が分かれば再現性があるのが一般的なので、ほぼ同義だと考えてもいい。自然に出来た大規模過ぎる環境魔法をここに含めるか含めないかの話でしかないからだ。
しかし、魔術師は本当に魔術を理解しているのだろうか。
実際現代の魔術師は、魔力の形とそれに応じて書き換えられる自然の理を知っているだけで、その“間”の因果を理解しているとは言い難いのではないだろうか。
世界で最も単純な魔術は、祈る事だ。
神でも精霊でも祖霊でも、もっと卑近に国王や教皇が相手でもいい。
とにかく誰か私の願いを叶えてくれと願うことは、世界で最も気軽に使われる魔術だと言えるだろう。
※
こういうことを言うと、熱心な信者からは「御神の奇跡」と魔法を一緒にするなと反論が来るのだが、はっきり言って神が魔法と言う概念を作り上げたのだから、魔法を使って願いが叶うのは実質的に神が願いを聞き届けたということに他ならない。
もちろん魔術師ならば学ぶ時は信仰と言う視点を捨てて冷静に物事を判断して欲しいのだが、信仰心に利点がないわけではないので一概にそう言い切るのも難しい。
利点と欠点を計算した上で、デメリットを可能な限り減らして利益を取る信心をお勧めする。
※
とにかく、祈りは最も単純な魔術だ。
精神に魔力が呼応して、物質界の理が書き換えられる。どのような形で願いが叶うのか、叶わないのかは祈りの方法、つまりは対象や作法、念じ方など様々な要素が絡み合う複雑なものだ。
それでもこれだけ単純に人々の欲望を実現できる魔術は他に存在しないだろう。理性よりも本能に近い魔術だと言ってもいい。
神に祈ると願いが叶う。
それは当然の様に思えるが、実に興味深い現象だ。
願い、つまりは精神が魔力を通して物質界を変容させているのだから、これは魔術の本質に近いと言える。
では、魔力がなぜ精神に反応するのだろうか。
そして魔力はなぜ物質界の理を書き換え得るのだろうか。
その答えは、創世まで遡る。
まず初めに認識しなければならない事は、この世界は創造主が居る、もしくは居たと言うことである。
世界中のありとあらゆる宗教で語られる創造主だが、近年では実は“同じ神”なのかもしれないなどという言説がある。それはやや乱暴な内容で、各宗教のアイデンティティの粉砕、冒涜だと言われ大いに話題になった。
それを支持するわけではないが、創造主はこの世界を“魔法”で作り上げた。これは自明である。
何せ創世だ。たったそれだけで、純粋科学の領域ではない事がはっきりと分かる。魔法と言う表現が気に入らない人向けに使い古された表現をすれば、“神秘”というやつだ。
神が作ったのだから、自然の理とは創造主が設定した概念、しきたりでしかないのだ。
自然に存在する理もまた、我々と同様に神の作った物なのだ。
だからどれだけ劣っているとはいえ、創造主と同じ手法である魔法は物質界を変容させることができる。
もちろん人の身で扱い得る魔法と創世は規模も正確さも大違いなので、魔術で起きるのは一時的な変容にしかならないのだが。
言ってみれば、魔法とは神から与えられた、世界を変更する権利である。
精神に魔力が反応するのは、神が物質界に存在しない精神存在だった名残である。もちろんこの話は神話毎に様々な問題があるのだが。
精神を持つ者は神の“作り物”だ。
神が魔法で世界を作り上げたのだから、模造品が同じ方法で物質界の理を多少書き換えても何ら不思議はないだろう。