第01伝【一等星の帰還】―前編―
基本的に前編は物語導入部分、後編はカードバトル部分になります。
2008年・東京。
〈レジェンダリーグ第1回世界大会優勝は、まさかまさかの最年少参加者の天才アンバサダー、星永辰巳選手だぁぁぁぁ!! その精練されたプレイングたるや、まさに全てのアンバサダー達の目指す“一等星”に相応しいと言えるのではなかろうか!!!〉
大会MCが声高らかに優勝を宣言し、まだ8歳という年若い少年『星永 辰巳』を表彰台に誘導する。
黄金に輝く優勝トロフィーを両手に握って掲げる少年の姿に対して、観客席からその光景を見つめているポニーテールの少女『冨士ヶ峰 愛理』は瞳を輝かせながら頬を赤らめていた。
(星永くん。私の、王子様だわ……!)
攻撃重視の戦術を得意とする星属性の性質を巧みに活かし、見事優勝を勝ち取った辰巳の姿は、愛理にとっては正に理想の王子様といった感じだった。
その様子を横に居る銀髪の少年『月ノ守 琥鉄』は面白くなさそうに顔を歪めてからモニターに映る辰巳を睨み付ける。
「僕だって、塾になんか行かないで大会に出てれば……」
きっと、愛理の王子様になっていたのは自分だったはずだ。そう言いたげに大会中ずっと手を握り締めながら、懐から取り出したスマートフォンを見つめて歯痒い気持ちを抱いた。
あの場所に立っていたのは自分なのにと、その悔しさが心の底から沸き上がってくるのだ。
しかし、琥鉄が好意を寄せる愛理はそんな事には全然気付かず、ひたすらに辰巳の姿ばかりを両目に焼き付けていた。
こうして、2008年に開催された『Lands of the Monarch社』(通称『LotM社』)主催による第1回目の『Legend.a.League』の世界大会が終了したのだった。
『レジェンダリーグ』。
それはあらゆる宇宙・惑星・世界・国家に存在する強者達『レジェンド』が一同に集結した夢の祭典。
プレイヤーはそんな曲者揃いのレジェンド達を束ねて彼らの闘いを盛り上げることから『アンバサダー』と呼ばれ、最強の『チーム』を作りレジェンダリーグの頂点を目指すのだ。
新進気鋭の企業『ロトム社』が運営する全く新しい形のカードゲームであり、実際のゲームでは従来の紙媒体によるのカードを集めたデッキと、ゲームを行う上で必須なアプリをダウンロードしたスマートフォンにより自身が使役するレジェンド達の管理をする。これら両方をカードゲーム中で使用するのがレジェンダリーグの最大の特徴だ。
これにより、レジェンダリーグはまさにアナログとデジタルを融合させた画期的なカードゲームとして、世界中で大ヒットを記録することになる。
しかも、これを生み出したのはロトム社に所属する最年少ゲームデザイナー『太陽院 千隼』という少女であり、アプリの運営までこなしているのだから驚きである。
そんなわけでゲームデザイナー並びに世界大会初代優勝者が共に最年少ということで、このレジェンダリーグは子供大人の垣根を越えて幅広い年齢層に受け入れられた。
そしてロトム社はレジェンダリーグの更なる人気獲得のために特殊なバトルシステムの導入を第1回世界大会の5年後である2013年に発表した。
その名も『Direct Link Trial System』――通称『DLTシステム』である。ロトム社が開発した特殊粒子によって形成された特殊な空間内において場所・時間・天気一切関係なくカードバトルが可能となり、何よりも使役するレジェンドが実体化するという部分が強くアピールされ、宣伝用のデモバトルの開催も同時に発表された。
デモバトルの対戦カードは話題の辰巳と千隼であった。片や初代大会からチャンピオンの座を防衛している天才アンバサダー、片やレジェンダリーグを発案・開発した天才ゲームデザイナー。
デルタシステム正式導入のためにも全国のアンバサダー達に大いに期待されたまさに世紀の一戦。
しかし、その結末はかなり意外な形で幕を下ろすことになる。
――〈本日17時頃、東京トイショーにて開催されたレジェンダリーグのデルタシステムを用いたデモバトルにて、初代大会優勝経験者である星永辰巳さんが重傷を負い、都内の病院に搬送されました。命に別状は無いとの事ですが、意識不明であるとの事です〉――
ロトム社が開発したデルタシステムには1つ重大な問題点があった。
なんと、実体化したレジェンドによるダメージさえも現実のものとしてプレイヤーに襲い掛かるのだ。
このニュースをテレビで知った愛理は頭の中が真っ白になってただただ言葉を失っていた。
「そんな、星永くんが……」
この時、愛理は辰巳と同じ13歳。憧れの少年が倒れたニュースはあまりにも衝撃的であった。
当時の愛理はすぐに辰巳が入院したという病院に向かったが、生憎面会謝絶だったので辰巳には会えなかった。仕方ないので中庭に向かい、そこで顔を包帯で覆った少年と会ったのを覚えてる。
「前も後ろも見られないのなら、せめて上だけでも見たらいいわ。下ばっかりじゃ、気分が滅入るばかりよ」
どういう経緯でそう言ったのかは覚えていない。それでも、下ばかり向いて愛理と目を合わせてくれない少年に対して励ましのつもりで言ったのは覚えている。結局、少年は最後まで名乗らなかったので名前は不明のままだが。
さて、一方で気になるデモバトルの勝敗の結果だが、まさかの千隼の勝利であったという。千隼はどうやらデルタシステムによるダメージのフィードバックを事前にロトム社から告知されていたらしく、使用したデッキは防御タイプの月属性。これにより1ダメージも喰らう事なく辰巳の攻撃を全て防いで勝利したようだった。
途端に全国メディアによってデルタシステムの危険性が報じられ、またレジェンダリーグ自身も危険なカードゲームとして世間に認知されてしまった。
今回の最大の被害者である辰巳は、その13歳という若さ故にデルタシステムによるダメージのフィードバックによって精神的な傷を抱えてしまい、レジェンダリーグの世界からその姿を消してしまったのだった。
ここから5年間はレジェンダリーグの闇の歴史と呼ばれており、ロトム社による名誉回復並びにデルタシステムの大幅な見直しに尽力されていた。これにより、なんとかレジェンダリーグの人気が再燃する事に成功した。
デルタシステムに関してはダメージのフィードバックがある程度緩和されたものの、2018年には厚生省から『デルタシステム使用における年齢制限』が通達され、デルタシステム使用は免許制度となることでひとまず落ち着くことになる。
――――そしてさらに時は流れて2年後の2020年。
「えー……、主に流通業に力を入れておりました『冨士ヶ峰グループ』は、事業不振を理由にこの度、社長交代を行うということに至りました」
ハンカチを拭う齢55ほどの男。その髪には黒と白が無造作に混ざっており、またその表情には疲弊からなのか覇気が感じられず、額に浮かぶ汗は報道陣からのフラッシュの光を反射している。
彼の名前は『冨士ヶ峰 裕理』。冨士ヶ峰グループを社長として30年間支えてきた男であるが、ここ数年の事業悪化により社長交代という形で退陣することになってしまった。
「では、次の社長は副社長である入部豊満氏なのでしょうか?」
報道陣の記者は裕理の隣で沈黙を貫いている副社長『入部 豊満』を名指ししながら裕理に尋ねる。
一方、その質問は裕理にとって中々答えづらいものらしく、「ええと……」と気まずそうにチラッと豊満の表情を伺い、乾いた笑い声を出しながら答える。
「いえ、豊満く――」
「社長。場を弁えて下さい」
裕理がうっかりいつものノリで「豊満くん」と言おうとしたのを、豊満は間髪入れずに一言言って止める。
裕理はすぐに閉口し、小声で「ごめん、ありがとう」と謝罪した。余談だが、裕理と豊満は幼馴染みで古くからの腐れ縁であり、豊満は少々頼りない裕理の補佐をしてきた。
裕理は「ゴホン」と軽く咳をしてから、改めて記者に答える。
「失礼。次の社長は副社長の入部ではなく、……ええと、その……」
肝心の部分に迫るにつれてどんどん声が小さくなっていき、しまいには「あはは……」と気の抜けた愛想笑いを浮かべてしまう始末。
その情けない光景に、豊満は溜め息を吐きながら「いい加減、腹をくくれよ」と両手で自身の顔を隠したくなってしまうのを必死に隠す。
「次期社長は、この私よ!」
すると突然、記者会見を行っていた部屋の扉――すなわち、報道陣の真後ろに位置する大きな扉が開かれ、快活そうな少女の声が部屋中に木霊した。
突然の声とその内容に、報道陣の面々の中でどよめきが生じ、今まで裕理と豊満の方へと向けられていたカメラのフラッシュは声のした方向へと向けられる。
声のした少女の方へ顔を向けると、そこにはリクルートスーツを着こなしながらしたり顔で佇む少女の姿と、さらにその後方には執事服を着たメガネの青年が控えていた。
「あの、貴女は一体……?」
記者が戸惑い気味に少女にそう尋ねると、少女は大きな声で「ズバリお答えするわ!」と、記者から向けられたマイクを奪取して声高々に言い放つ。
「よく覚えてなさい。私の名前は『冨士ヶ峰 愛理』! そこの前社長の娘で、この冨士ヶ峰グループを再興させる最終兵器よ!」
そう言うとマイクを投げ飛ばし、後方の執事がそれをキャッチすると同時に愛理に扇子を渡す。
愛理は受け取った扇子を広げると「オーッホッホッホッ!」と悪役令嬢のような高笑いを浮かべ、周りの報道陣はそんな冨士ヶ峰グループの新社長の姿を紙面に飾るために大量のカメラのフラッシュを焚いた。
彼女はそれを気分よく受け入れる一方、裕理はガクッと肩を落として大変落ち込んでおり、豊満はそんな裕理の肩に手を乗せる。
「もっと大人しく入場しろと言ったのに……。しかも、アホおやじって……」
「どんまい、裕理。愛理ちゃんは派手好きだからな。……まあ、お前がアホなのは俺も同感だが」
「そんな、豊満く~ん……」
トホホ。そんな泣き声を出しながら豊満と共に撤収作業に入る。
最早、報道陣の注目は既に愛理の方へ向かってしまっており、裕理と豊満が記者会見の撤収作業をしていても気にも止めない。
そのことが裕理にはさらに悲しいとこである。
フラッシュの光にご満悦な様子の愛理に対し、記者はあることを尋ねる。
「それで、愛理新社長。冨士ヶ峰グループはこれまで流通事業が主だったわけですが、具体的に新社長はどのような方針で会社経営をしていくのでしょうか?」
「決まっているわ」
記者からの問いかけに対し、記者会見の様子を撮影していたカメラを掴んで自分の方へ向かせて、これまた声高々に宣言する。
「これから私が率いる冨士ヶ峰グループは元々の流通事業で得たノウハウに加えて、新たに電子ネットワーク産業に参入し、またその足掛かりとして、レジェンダリーグへの参加をここに宣言しますわ!」
『おぉ……っ!』
レジェンダリーグへの参加。全くの予想外な言葉に、報道陣の面々は互いに顔を見合わせて「冨士ヶ峰グループもついにレジェンダリーグに参加するのか」とこれからの展開に期待するような声が出てくる。
一方、気になることが一点浮かび上がってくる。
「冨士ヶ峰グループ名義でレジェンダリーグに参加するということですが、実際にアンバサダーとして試合を行うのは愛理新社長なのでしょうか?」
「いいえ、私ではありませんわ。自慢ではないけれど、私はアンバサダーとしての腕前はド底辺ですのよ」
「……ホントに自慢じゃないですね」
あまりにも自信満々に言うものだから、質問した記者側もどう返答すればいいのか困惑する。
そこで、愛理の後方に控える執事服を着た青年にマイクを向ける。
「それでは、試合は貴方が……? あと、差し支えなければお名前等も教えていただけないでしょうか?」
記者から向けられた言葉に対し、執事服を着た青年はメガネをクイッと上げてから首を横に振る。
「いえ、私はレジェンダリーグの経験がないので。……それと、私はそこの副社長である入部豊満の息子の『入部満月』で、愛理お嬢様の執事として仕えております」
執事服の青年――『入部 満月』はそう答えると父である豊満に軽く会釈し、それに対し豊満も「愛理ちゃんを頼むぞ」とサムズアップを向ける。
さて、冨士ヶ峰グループのレジェンダリーグへの参加。一体、誰がアンバサダーとして実際に試合に赴くのか。
愛理でもない、満月でもない。とすれば、あとの候補は。
『ま、まさか……』
そこへ、報道陣は再び撤収作業中だった裕理と豊満の方へ向く。
『まさか、2人のうちのどちらかが……?』
裕理は再び報道陣の注目が自分達に向いたかと思うと満更でもなさそうに「フフン♪」とドヤ顔で笑ってみせる。
「そう。試合にはこの僕が――」
「社長、余計な見栄を張らないで下さい。うちの満月と同じでルールすらろくに理解してないでしょ」
「――……。ちょっとぐらい悦に入らせてくれよ! 豊満くんだってレジェンダリーグのルール知らないでしょ!?」
「俺は社長と違って現役カードゲーマーなので、ルールは熟知してますよ。……まあ、お世辞にも試合に出られるほどの腕前ではないですが」
「うっそ、そんな堅物そうな顔してカードゲーマーなん?!」
「余計なお世話だ」
裕理と豊満の会話からして、この2人がレジェンダリーグの試合に選手として出場するわけではないことは明らかだ。
そこで、記者は愛理にマイクを向ける。
「では、一体誰が……。冨士ヶ峰グループの社員なのでしょうか?」
「いいえ。レジェンダリーグで実際に試合に出てもらう方は他にいます」
「それは一体……?」
困惑した様子の記者に対し、愛理は「ふふ……」と意味ありげに微笑む。
「冨士ヶ峰グループを優勝へ導く鍵、――それはまさしく、あの“一等星”!」
愛理の言った“一等星”という言葉に、記者は目を見開く。
「一等星というと……もしやあの?!」
「そう、私の王子様である『星永辰巳』その人よ!」
「ぶっ?!」
頭に手拭いを巻いてラーメン屋でせっせと働く青年は、店内に備え付けられたテレビから聞こえてきた愛理の声に思わず吹き出してしまった。
そこで、今までテレビに向けていなかった視線を、初めてテレビ画面に映る愛理に向ける。
「……どこかで見たことあるけど、誰だ? つーか王子様って何だよ、初耳だっての」
青年は愛理の姿に見覚えがあるものの、どこで見かけたのか、もしくはどこで出会ったことがあるのか思い出そうとするが、さっぱり思い浮かばない。
そうしていると、他の客や店主もテレビの内容に注目が集まる。
「あの冨士ヶ峰グループもついにレジェンダリーグに本格参戦か」
「みたいだな。それにしても星永辰巳って誰だ?」
すると客のその会話に、ラーメン屋の店主が「チッチッチッ」と人差し指を左右に振りながら入ってくる。
「お客さん、星永辰巳の名前を知らないってことはさてはモグリだね?」
「モグリ? そんなに凄い人なのかい、その星永って選手は」
「凄いなんてものじゃない。わずか8歳という若さで世界の頂点に立った人だよ」
「8歳とはそりゃあ凄い! でも、ならなんで今はメディアで報じられないんだ? そんなに凄い人なら、今だってバリバリ現役だろうし」
客から言われた言葉に店主は少し複雑そうな表情を浮かべると、横目で青年の顔を伺う。
青年はそのアイコンタクトに気付くと、苦笑しながら頷く。
「まあその、な。昔、デルタシステムの事故があっただろ」
「ああ、東京トイショーで行われたデモバトルの。え、まさか……」
もしやその事故で亡くなったのかと客の顔が青くなると、店主は慌てて首を横に振る。
「死んでない死んでない! 今でもピンピンしてるっての! ……ただ、その際の事故での体験がトラウマになっちまってな。とてもじゃないが、当時13歳の子にはレジェンダリーグを続けていくのは難しかったのさ」
「なるほど。……まだ中学に入りたてぐらいの年齢なら仕方ないよな」
客達が神妙に頷くと、店主はそこで会話を切り上げて配膳をしている青年に声をかける。
「おい、タツ! お前ももうあがっていいぞ!」
「いいんですか?」
青年は店内を見渡す。現在、午後7時。
店内の客数は片手で数えられるほどしかいないが、いつもならここからどんどん増えていく。
店主は今年で72、その奥さんは68で現在は身体の不調で店の奥の部屋で寝込んでいる。
青年としては、稼ぎ頭である店主に負担をかけるわけにはいかないので、できるだけ業務を続けるつもりだった。
しかし、店主はニッコリと微笑む。
「ああ、いいんだよ。最近、ここいらでハイカラなレストラン街が出来ちまったからな。余程の常連さんじゃなきゃ皆そっちに行くだろうよ」
「だけど……」
「家内の様子を見てやってくれ。こっちは寝てろって言ってんのに、あいつ、目を離すとすぐ起き上がって掃除とかしようとするからな」
そう笑ってみせる店主に「それなら」と青年に頷き、頭に巻いていた手拭いを解いて、店内の奥の部屋の扉を開けた。
「女将さーん」
「……女将さんなんて上等なもんじゃないよ、あたしゃ」
扉を開けた先で青年を迎え入れたのは気品のある初老の女性。
女性は布団を体に掛けながらも、上体だけは起こして部屋の中に置かれたテレビを点けていた。
しかも、見ていたのはよりにもよって、あの愛理の記者会見の様子だったようだ。
「……。タマミさん、寝ていた方がいいですよ」
「こんな面白いニュースをやってたんじゃ、おちおち寝られやしないよ。……あんたも隅に置けないじゃないか、あんな別嬪さんに“王子様”だなんて」
店主の妻である女性『タマミ』は「オホホ」と笑いながら青年を見つめる。
一方の青年はうんざりしたように「違いますよ」と否定する。
「あんな人、俺は知りませんよ。勝手に言ってるだけです」
「でも、良い機会じゃないのかい。ここでこんな老いぼれ2人組の面倒を見るより、よっぽど」
タマミはそう青年に言い聞かせて笑う。それから、青年の後方へと視線を向ける。
「あんたもそう思うだろ?」
「……老いぼれで悪かったな」
すると、そこにはタマミの夫である店主が複雑そうな表情を浮かべて腕を組んで立っていた。
「トシヒコさん……」
青年は目を見開いて店主――『トシヒコ』の姿を見て目を見開く。
「お店の方は」
「今日はもう客が来なさそうなんで店仕舞いさ。……それより全く、大人しく寝とけって言ってんのに」
トシヒコはタマミにそう小言を言うが、その声音にはタマミの身を案じているのが伝わってきて、タマミの行動を咎めているという風ではない。
トシヒコの言葉にタマミは「カカカ!」と笑い、ニヤリと意地悪そうな表情を浮かべる。
「生憎、あたしがお利口さんじゃないのはあんたがよく知ってるだろ」
「ああ、よ~く知ってるよ」
トシヒコは溜め息を吐く。だから心配なんだろうが、という言葉を飲み込んでから青年に言う。
「タツ。俺もタマミの言うように、これはお前にとってチャンスなんじゃないかと思ってる」
「いや、俺は……」
「お前がここにいてくれることで俺もタマミも大変感謝してる。……だがな、同時にお前の貴重な時間を奪ってるようで申し訳ないとも思ってるのさ」
「……」
「タツ、そろそろ前に進んでもいいんじゃないか」
前に進む。トシヒコからのその言葉が青年の中で重くのしかかる。
ずっと目を背け続けてきた現実が、自分の目前までもう逃げられないように押し寄せてきたような感覚だ。
青年が何も言えないでいると、トシヒコは机の上に置いてある買い物篭を手に取って青年に渡す。
「まあ、いきなりこんなこと言われても戸惑うだけだろう。買い物でもして、1人でゆっくり考えな」
「……はい」
青年は受け取った篭の中を見ると、そこには購入リストが記載されたメモが1枚あった。
青年は一度頷くと、愛用している日常着である白いフード付きのジャケットを着てそのまま店の裏口から出て買い物に向かった。
「レジェンダリーグ、か……」
その言葉を口にしただけで、右手が震える。
時間は午後7時30分を過ぎたあたり、すっかり外は暗くなり、街灯のネオンが街を照らしている。
トシヒコが言ったように、このあたりには最近大規模なレストラン街が出来てしまったが故に、あの老夫婦の営むラーメン屋への客数もすっかり目に見えて減ってしまった。
すると。
「……」
突如、青年の横に白い車が寄り添うように止まり、さらにあからさまにクラクションが鳴らされた。
この車の主は明らかに青年に用事があるのだろう。
青年は買い物へと向かう足を一度止め、白いフードを深く被って顔を隠すようにしてから車の方へと向かう。
そうすると、後部座席側の窓がが下がり、車に乗っていた人物が顔を出した。
「ごきげんよう。今日は良い夜ね」
「君は……」
顔を出したのは、他でもない愛理だった。
どうしてここに、という疑問もあるが、それ以上に面倒なことになりそうなのは火を見るより明らかだ。
「少し話をしてみない?」
「いや、俺は用事が」
青年が愛理からの申し入れを断ろうとすると、いつの間にか青年の隣には満月が立っていた。
「お時間は取らせません。どうぞ、お嬢様の隣へお座り下さい」
「うおっ?!」
突然真横にいるものだから、青年は思わず仰け反ってしまい驚いた声をあげる。
満月はゆっくりと頭を下げる。
「失礼しました。どうぞ」
青年に謝罪すると、愛理の隣の席側のドアを開ける。
満月は一見物腰が柔らかそうで、言動も丁寧だが、顔はいたって真顔で少し圧のある様子だ。
有無を言わせない雰囲気で、青年は仕方なくその指示に従って車内に入り、愛理の隣に座ってからドアを閉める。
満月は青年が車に乗ったことを確認すると、運転席に乗り込んでシートベルトを着けてから車を発進させる。
青年は車窓から流れる夜の景色を見つめながら、愛理と満月の双方に問いかける。
「俺をどこへ連れていく気だ?」
「まだ、どこへも連れていきませんわ。少しこの辺りを回っていくだけ、夜のドライブを楽しみましょう?」
「……」
先ほどの記者会見を見た青年からすれば、愛理がなぜ自分を呼び止め、このように拉致同然のやり方を取ったのかは想像するに及ばない。
「星永辰巳くんで、間違いないわね」
「……。どうだろうな」
彼女の言葉はその文面だけなら疑問系だが、口から出た響きはこちらに対して確信を持っている。
これは質問ではなく、ただの確認だ。
「私の記者会見は見てくれたかしら」
「……」
たとえ「見てない」と嘘を言ったところで、この車内という密室空間では逃げられない。
この場から逃げるための方法を模索するために沈黙を選ぶ。
しかし、愛理は決して青年を逃がす気はない。
「私、沈黙は肯定と見なすことにしているの」
「……だとしたら、何だ」
「決まってるでしょう。私は、貴方と正式に契約を持ちかけに来たんですのよ」
「レジェンダリーグに出場する選手としてか」
「ええ」
青年はうんざりするように顔を伏せる。
「俺が最後に試合をしたのは、あのデモバトルの日だ」
「よく覚えていますわ」
「なら、分かるだろ!」
愛理に対して湧くのは、たった1つ。怒りだ。
ずっと大人しく生きてきたのに、これからだってそうやって生きていこうと思っていたのに。
どうして今になって、自分をあの世界へ連れ戻そうとするのか。
「7年だぞ!? もう、7年もレジェンダリーグに触れていない! カードの知識もセンスも、はっきり言って化石同然だ! 俺なんかよりもっと優秀なプレイヤーがいるだろうが!」
「確かに、そうかもしれませんわね」
「だったら、なんで!」
「それでも、私は貴方がいい」
愛理は青年の両頬を両手で包むと自分の方へと向かせて、その瞳をジッと見つめる。
「貴方が、いいの」
「……だから、なんで……」
なんで、自分なんかが。
その言葉は、彼女の強い意思の宿る瞳によって明確に口から出なかった。
愛理は青年に言う。
「貴方は他の人とは違う。貴方は全てのアンバサダーにとっての一等星。目指すべき到達点」
「……そんなものは、過去の栄光にすぎない」
「だとしても、現在においても貴方の記録を抜いた人間はいない。だからこそ、今なお貴方の伝説は色褪せず、人々の記憶に色濃く残っている」
そんな、大それたものじゃない。
青年は思う。
今と昔では、プレイ人口やカードプールの違いがある。
昔にできたことが、今の世の中では達成しづらくなっただけ。自分はただ、勝ち逃げしただけだ。
そう言いたいのに、青年の口から言葉が出てこない。
愛理はなおも青年に告げる。
「あの第1回世界大会。あの舞台での貴方の輝きを、私は忘れられない。私は、もう一度あの輝きを見たい」
「それは、もう……」
とっくのとうに失われている。
そう言おうとした青年の言葉を止めるように、愛理は言い募る。
「これだけは覚えておいてほしいの。私の会社を救えるのは、世界でただ1人。星永辰巳くん、貴方だけよ」
そして、青年の手を両手で包み込んだ。
「貴方が手に入るのなら、私は持ちうる全ての財を失ったって構わないわ」
「どうして、そこまで」
「決まっているわ」
愛理はそこでニコリと青年に対して微笑む。
「一目見たときから感じていたの。貴方は私の心の空に一際強く輝く一等星、世界で唯一の、私の王子様だって」
「……」
これは、決して世辞ではない。
色んな人間の裏面や汚い一面を垣間見てきた青年には分かる。
この少女の言葉は全て本気だ。本気すぎて、こちらが胸焼けを起こしてしまいそうだ。
気付けば、自分は帰路に着いていた。
ちょうど向かおうとしていたスーパーマーケットに車を止めてもらい、購入リストの品を買った。
その際、愛理から「また明日来る」と言われて別れた。
青年からすれば、正直言って意味が分からない。
決して、自分は価値ある人間ではない。
今でもこうして、レジェンダリーグのことを考えるだけで体が震えてしまう。
あの日の衝撃が、炎が、痛みが、声が、自分の心と身体を苛む。
あの忌まわしい日、自分は襲いくる痛みに決して弱音を吐かずに耐えていた。
相手の防御的な動きに対し、自分はそれを打ち砕くために打点を上げて攻め続けた。
攻め続けることこそ、自分のプレイングスタイルでもあったからだ。
だが、自分の攻撃は相手の防御に阻まれ、その反射ダメージが自分を襲う。
それを超えるために打点を上げて攻撃すれば、相手はそれさえを完封するほどの防御力を以て自分を迎え撃つ。
結果的に、より強烈なダメージが自分の身を襲う。
そして仕舞いには……。
自分と相手の切り札の衝突。それはあまりにも凄まじく試合会場はその衝撃で半壊。
辺りは炎に飲み込まれる中、自分はそこへ置き去りにされた。
両親は、まだ13歳の少年を助けもせず、早々に逃げてしまった。
助けられなくても、せめて助けを呼ぶだけでもしてくれたら良かったのに。
結局、自分を助けてくれた救助隊を要請したのは、自分と闘った対戦相手である千隼だった。
……とにかく、ショックだった。
それから先は何もかも、ショックの連続だった。
そう、自分は結局、ただの人形にしか過ぎなかったのだ。
それでも、自殺まで追い込まれていた自分を思いとどませてくれた少女がいた。
少女の言葉で自分は決して救われはしなかったが、こんなことを言ってくれる人がまだ世の中にはいるんだと、まだ生きてみようと思えた。
そう。その抜け殻のような存在が、今の自分なのだ。
天才アンバサダーと持て囃された自分は、あのデモバトルの日に、死んでしまったのだ。
今の自分は、目的もなくただ生きてるだけの、人形にも満たない惨めな存在だ。
それでも、あの少女に報いるためにも、これからの自分を見つけていこうと今日まで生きてきた。
そんな自分が、今更どんな面をさげてあの世界に舞い戻ろうと言うのか。
だから――。
「さっさと出ていけっていってんだろうが、この死に損ないが!」
突如として青年の耳を刺すような怒声。
顔を俯かせていた青年が顔を上げると、ラーメン屋の前にいるガラの悪い集団がトシヒコの胸ぐらを掴み上げていた。
トシヒコは「ぅぐっ……」と苦悶に満ちた声を漏らしており、ガラの悪い男達に言う。
「悪いが、わし等は死ぬまでこの土地から離れんぞ……」
「ならさっさと死んじまえよ!」
そう言ってトシヒコの顔をブン殴ろうとした男の腕を、青年は片手で強く握り締めて止める。
「っ!?」
男は目を剥いて青年を見つめる。
「だ、誰だお前!?」
「トシヒコさんを、離せ……っ!」
青年が男を殴ろうとその拳を振るおうとすると、トシヒコが慌てて「待て、タツ!」と制止した。
「タツ、殴っちゃ、駄目だ……っ!」
「どうして!」
「それは……」
トシヒコが言い淀むと、別の男が青年の腹に拳を打ち込む。
「ぐっ?!」
胃酸が上へと昇ってくるような感覚と鈍く重い痛み。
青年は痛む腹部を押さえて足元が崩れる。
そんな青年を見下ろすように、男――恐らくこの柄の悪い集団を率いているだろう上等な黒いスーツを着た男は、手首を軽くスナップさせながら言う。
「どこのどなたか存じ上げませんがね、大人の会話に入ってきてんじゃねえぞ」
「……1人の老人を、寄ってたかって痛め付けるのが、大人の会話なのかよ」
「俺らだって暴力を振るいたくて振るってるわけじゃないさ。このご老体が一言『うん』と頷いてくれれば収まる話に、延々と『No』で断り続けるのが悪いんだよ」
スーツの男がそう言うと、トシヒコは「勝手なことを……っ!」とスーツの男を睨み付ける。
「この商店街を潰そうとしている輩の言い分に、そう易々と頷いてたまるものか!」
「潰すんじゃない、切り替えるのさ」
スーツの男は両腕を広げながらその場で一回転して言い放つ。
「古くなった家電を新しいものに買い換えるのと同じ理屈だ。この商店街には未来がない、高齢者ばかりで、活気がなく、馴れ合いだけで淡々とかろうじて息を繋いでいる」
そうして、トシヒコに顔を近づけて言う。
「この街は生きてるんじゃない。生き恥を晒しているだけなんだよ」
「……」
トシヒコは何も言えず、だが悔しそうに口元に力を入れる。
「我々“ドリームコーポレーション”は既にこの土地を買ったんだ。なら、こちらの指示に従ってもらうのが道理ってもんだろうが」
「ドリーム、コーポレーション……」
青年は目を見開く。ドリームコーポレーションと言えば、この近くの大規模なレストラン街を運営する企業だ。
そしてスーツの男の言葉が確かなら、ここもその傘下に入ってしまったことを意味する。
「それに、別に裸でここを出ていけとは言ってない。ドリームコーポレーションが運営する老人ホームへの入居だって支援するって言ってるんだせぇ?」
「ハンッ! お前らのような乱暴者が運営する老人ホームなぞ、願い下げだ!」
「だったら、すこーしばかり痛い目にあって入院してもらうしかねぇな」
スーツの男はそう言って拳を鳴らし、トシヒコに迫る。
「ま、待てっ!!」
青年はトシヒコを守るためにスーツの男を取り押さえようとするが、すぐにスーツの男に殴り飛ばされる。
「うっ!!」
「元気がいいのは結構だけどさ、ちーっとばかり黙っててくれや」
「……誰が、黙るかよ!!」
「はあ……」
スーツの男は溜め息を吐きながら、部下に目配せをする。
すると、部下は金属バットを手に持って青年を囲う。
「もう、喋るな」
スーツの男がそう言った瞬間、全員が金属バットを振り上げた。
「お待ちなさい、野蛮人」
その一言で、その場にいた全員の動きが止まった。
「あー?」
スーツの男が首を傾げると、そこには仁王立ちする愛理と、後方には満月が控えていた。
スーツの男の部下達は「なんだ、こいつ」と2人に襲いかかろうとするが、それをスーツの男が片手で止める。
「これはこれは。こんな寂れた商店街に何の用ですかな、今や落ち目の冨士ヶ峰のご息女様?」
「言ってくれるじゃないの。ドリームコーポレーションの馬鹿息子のくせに」
「馬鹿息子じゃなく、『夢野 栄喜』だって何回も言ってんだろうが。脳ミソ腐ってんのか、ああ?」
「腐ってるのは貴方の性根でしょう?」
スーツの男――『夢野 栄喜』は額に青筋を浮かべながら愛理を睨み付ける。
「本当に一々勘に障る方だよ、あんたは。冷やかしにきたならさっさと帰れや」
「そういうわけにもいかないのよね。ほら」
そう言って愛理は栄喜に自身のスマートフォンの画面を見せる。
そこには『レジェンダリーグ・企業の部・対戦者【ドリームコーポレーション代表:夢野 栄喜】』と表示されていた。
「……」
その表示を見て、栄喜は自分のスマートフォンを起動すると確かにレジェンダリーグ本部からの通知が来ており、そちらには『レジェンダリーグ・企業の部・対戦者【星永 辰巳】』と表示されていた。
そのことに栄喜は「こんな時に……」と舌打ちする。
「……それで、仕事がなくてお暇なお嬢様はわざわざ律儀に対戦を申し込んできたってわけか」
仕事がないという部分を強調するように言って、愛理を小馬鹿にするような表情を浮かべる。
一方、愛理は一瞬真顔になるが、すぐに目を細めて笑みを浮かべる。……厳密には薄目を開いており、口元こそ笑みを浮かべているものの、本当の意味では全く笑っていない。
「あら、さすがドリームコーポレーションさんは仕事に困ってないようでいいですわね」
「まあな」
「それじゃあ、わざわざカードバトルをするような時間なんてないでしょうから私の不戦勝でも構いませんわよね?」
「……なんだと?」
その一言は聞き捨てならない。そう言いたげに栄喜は愛理を睨む。
「今も絶賛そのお仕事中のご様子なようですし? でも残念ですわね、レジェンダリーグの試合は延期はできませんし、これ以上ドリームコーポレーションさんのご負担になるわけにはいきませんし」
「勝手なことを言ってんじゃねえぞ、この女っ!」
栄喜が愛理に殴りかかろうとすると、今まで後方に控えていた満月が空かさず愛理の前に立ちはだかる。
「退けよ、燕尾服野郎」
「お言葉ですが、貴方もアンバサダーならば暴力に訴えるのではなく、カードバトルで応じるのがセオリーなのではないでしょうか?」
「知ったような口を聞いてるんじゃねえ! 第一、肝心の星永辰巳の姿が見えねえじゃねえか!」
栄喜の口から出た『星永辰巳』という言葉に、青年は思わず肩を震わせてしまう。
栄喜の言葉に対し、愛理は「ご心配なく」と言って横目で青年の姿を見てから言う。
「彼なら既にここに来てますわ。それでも彼が貴方に対して名乗り出ないのは、彼にとって貴方が相手をするに値しないからですわ」
「んだと……?」
栄喜は愛理に食ってかかろうとするものの、その声音はどこかショックを受けているように震えている。
「彼にとってカードバトルは神聖なもの。それを暴力で汚すような人を彼が相手にするとお思いで?」
「それ、は……」
愛理の言葉に栄喜は狼狽えるものの、その様子を黙って見つめる青年は内心『いや、別にカードバトルを神聖なものなんて思ったことは一度もないけど』とツッコミをいれていた。
すると、愛理は「ならこうしましょう!」と両手を叩く。
「ドリームコーポレーションのバカキさんも仕事で忙しいでしょうし、せっかくだから1つ条件を提示しましょう」
「誰がバカキだ! 俺の名前は栄喜だっての!」
「私達が勝ったら、この商店街の土地の所有権を譲って下さる?」
「無視してんじゃねえぞ、ゴラァ! そしていきなり何言ってんだ、ゴラァ!」
愛理は青年の方へ向かって一度だけウインクをした。
愛理がこの土地をドリームコーポレーションから奪う。それはすなわち、トシヒコとタマミの2人が栄喜達からこの場を立ち退けと言われることをやめさせる唯一の方法に他ならない。
青年は小さく「どうして、そこまで……」と呟く。
一方、叫びすぎたために栄喜は息を切らしながら愛理に言う。
「はぁ……なら、俺が勝ったらどうするつもりだ」
「我が社の保有する株を全てドリームコーポレーションさんに差し上げますわ」
「なっ……」
愛理の口から飛び出した言葉に栄喜は目を剥く。いや、栄喜だけでなくこの場にいる者達が全員閉口してしまった。
事業悪化による社長交代があったとは言え、冨士ヶ峰グループは流通業においては未だに幅を利かせている財閥の1つ。
その株の譲渡とはすなわち、企業としての有効な手札が増えることを意味する。
こんな寂れた商店街の土地と、冨士ヶ峰の株全て。
あまりにも見合わないが、利は栄喜側に大いにある。
愛理は再度青年の方へ一瞬顔を向けてから、栄喜に問う。
「この条件でいかがかしら?」
「は、はは……後で吠え面かいても知らねえぞ……?」
「ええ、心配なさらず。私の一等星は、絶対、負けませんから」
自信満々にそう宣言する愛理に、青年は思わず笑ってしまう。
……全く、本人を前にしてプレッシャーを与えてくれるなよ、と。
誰も一言もバトルをするとは了承していないのに、話が一人歩きばかりして、最早逃げ道なんてあるはずもない。
「タツ……」
トシヒコの身を案じるような声に、一度だけ頷く。
トシヒコとタマミの老夫婦は、こんな自分を受け入れて支えてくれた恩人で、青年からすれば本当の家族以上に家族だった。
そんな2人の優しさに報いるには、彼らの居場所を守るには、自分はあまりにも無力で何も持っていない。
正面きってぶつかったところで、こうやって一方的にのされてしまうのがオチだ。
だが、トシヒコとタマミは青年に言った。
――「これは、お前にとってのチャンスだ」――
ああ、これは確かにチャンスだ。
自分には、栄喜達を追い払えるほどの腕っぷしの強さはない。
自分には、ここから追い出された老夫婦を養えるほどの甲斐性はない。
自分には、栄喜のドリームコーポレーションからここの土地を買い取るほどの資金はない。
そう、自分には、何もない。
ただ、それでも、そんな自分でもどうにかできる可能性が僅かでもあるのなら。
それはきっと、逃してはいけない、唯一無二のチャンスに他ならない。
栄喜は辺りを見回してながら愛理に言う。
「で? 星永辰巳はどこにいるんだよ。俺はこのバトルに乗ったぜ、ああ?」
「ですってよ、王子様」
愛理はそう言って青年に微笑む。
愛理の言う「王子様」という言葉に小さく笑いながら、青年は立ち上がる。
「ったく、俺は王子様っていう柄じゃないっての」
「…………あぁ?」
栄喜は怪訝そうに青年を見つめる。
「なんだよ、お前。まだやんのか?」
「……れだよ」
「ああ?」
青年の呟いた声に、栄喜は苛立ち気に声を荒げる。
「聞こえねえよ、文句あるならもっと声を張り上げろや!」
青年は、静かに一歩、また一歩と歩きながら栄喜との距離を詰める。
「な、なんだよ……?」
青年の行動がまるで読めない栄喜は、気味の悪いものでも見るかのように青年を見下ろす。
「俺だよ……」
そして、青年はついに自身の顔を隠すように深く被った白いフードに手をかけ、それを翻すようにしてめくってその相貌を露にする。
「俺が、………『星永辰巳』だ!!」
青年――『星永 辰巳』はありったけの声を張り上げ、栄喜を睨み付けるように自身の名前を叫んだ。
栄喜は言葉が失う。
「な、……なっ。……ほ、本当に……一等星が……」
「ああ、そうだ!」
自分が、他でもない自分こそが、7年前にレジェンダリーグから姿を消した星永辰巳。少々荒療治な気もするが、ずっと逃げてきた現実にようやく向き合う決心が着いた。
今は、今だけは、自分の力で誰かの居場所を守れるのなら、他人の前でこの名前を名乗ると決めたのだ。
愛理は「ようやくですわね」と呟くと、辰巳にスマートフォンを投げ渡す。
それを受け取った辰巳はスマートフォンを懐かしげに見つめる。
そう、レジェンダリーグの試合はスマートフォンを使用する。もうずいぶんと握ってなかった感触に、アンバサダーとしての魂が沸々と沸き上がってくる。
辰巳は、目の前に立つ自分の宿敵に宣言する。
「一等星が、お前の相手だ!」