第2話 その1 ある日の魔女の一日
時は5月中旬。
春の柔らかな風が、人々の頬を優しく撫で、いたずらっぽく髪を揺らす。風の妖精の子供達は、緑の少ない都会の中でも、行き交う人々を動く森と見立てて、快活に走り回っているようだ。
数週間前に『春の嵐』という、積乱雲の姿をした獰猛な巨鳥が襲来し、暴雨と稲妻を両足に抱えて、日本列島を飛び回った時とは違う。
むしろ見えざる怪物が去った後だからこそ、そよ風達が心置きなく、無邪気に街中を駆け回っているのかもしれない。
……そんな街中の、とあるオープンカフェのテラス席で、黒い長髪と琥珀色の瞳を持つ、スーツ姿の一人の女性が、ブレンドコーヒーを片手に、店の外の景色を観測するように眺めていた。
あらゆる方向から様々な速度で、人々が乗り物のように入り乱れている。人の群れが女の瞳に映る。いつも通りの都会の平日だった。当たり前の光景が当たり前のように、昨日も今日も、そして恐らく、明日も明後日も繰り返される。
しかし、無機質で不規則な集団行動を傍観するために、女は景色を眺めている訳ではなかった。
誰の苦悩を解決するべきか、悩める人々を定めるために、彼女は人の群れを見ていたのである。
全ての人々の胸に、今にも雷が溢れ落ちそうな黒雲が燻っている。心臓を覆う程度の小さな雲もあれば、背中にのしかかって人を圧殺しようとしているかのように見えるサイズの雲もあった。
瞳にある力を宿すと、苦悩が暗雲の形となって、可視化されるようになるのだ。
「――次は誰の元に行って、悩みを解決しようかな」
呟いてから、スーツ姿の女はコーヒーを一杯あおる。同時に強風が、鋭く太い音とともに彼女の側を勢いよく横切って、黒髪を大きく、そして乱暴に揺らした。どうやら風の妖精の子供達のテンションは、最高潮に達しているらしかった。風の肩が、女の体にぶつかってしまったのか、カップ内のコーヒーが少し彼女の顔にかかる。
……春の嵐も気分が高揚したから、あれほど暴れたのだろうか?
女は俯いたまま、鼻から下を濡らした黒くて芳醇な滴を拭き取ろうと、紙ナプキンのスタンドに手を伸ばした。
『ある力』を使えば、顔についた滴など簡単に払えるのだが、不特定多数の人間が交わる店内では、おいそれと力を使用する訳にはいかなかった。
その『ある力』とは、率直に表現すれば魔法だった。女の目に黒雲が見えていたのも、魔法の力によるものだった。
女の名前はアルフェラッツ。彼女は魔女だった。
★ ☆ ★
魔界からやってきた魔女アルフェラッツは、魔法で人々の悩みを解決するため、そして、未知の世界である無界――魔界側の住人が名づけた現実世界の呼称で、魔法の『無』い世『界』を省略したものである――を冒険するため、今日もせわしなく、空や大地を駆け回っている。
ところが近年、苦悩を抱えた人間が年々増加する傾向にあり、それに比例して悩みを取り除く仕事が増えつつあるため、『無界を色々回ってみる、という目的は放棄せざるを得ないかな』――という心情が、最近、彼女の心を少しずつ蚕食しつつあった。
二週間前は、頭のよくない子供に頭脳が冴える魔法をかけた。
先週は、友達と喧嘩した少年に仲直りのアドバイスを授けた。
そして昨日は、ゴミ屋敷と化した家の中を掃除した。
無論、仕事を放棄しようと思えば放棄できる。苦悩の解決に雇用主が存在しないのだから、勝手に休むことも可能だ。加えてノルマなどもないので、自分に合ったペースと量で、魔法使いの活動を行なっても構わない。
実際に、勤勉な魔法使いは、毎日使命を果たそうと奔走しているし、マイペースな魔法使いは、悠々自適なスローライフを過ごしている。
アルフェラッツは使命に関しては、前者のような目覚ましい勤労精神の所有者だったため、毎日、雛の餌を探す鳥のように空を飛び回り、鳥と同じく餌を求める蟻の如く地上を歩き回っていた。
勿論、彼女は『魔法が使える』以外は普通の人間なので、疲れた時や体調を崩した時は休むし、気分転換の趣味も、香水の収集や天体観測におしゃれなど、いくつか持っている。
それでも黒髪の魔女の勤勉ぶりは、ワーカーホリックと言っても過言ではないレベルのものだった。さながら、無趣味ないし使命が趣味なのではないか、と思わせるほどだった。
ほんのわずかではあるが、一時期、無界に来ている魔法使いの間で、『なぜアルフェラッツは悩みの解決に躍起になっているのか?』という噂が立ったこともあるくらいだ。一部の魔法使いが、直接アルフェラッツに訊ねたこともあったが、噂の渦中にいる本人は、人々が幸せに包まれて笑っている顔が好きだから、と返すだけで、具体的には何も教えてくれなかった。
黒髪の魔女が、なぜ使命に躍起になっているのかを説明するには、少々複雑な事情があるのだが、それはまた別の話である。
ただ一つだけ言えるのは、他人への奉仕以外の、他の理由で動いているということだった。
……会計を済ませてカフェから出たアルフェラッツは、人混みという大海の中に身を投じた。
実際に人の波に流されることなどないし、入り乱れる人々の中でどう動くべきかも、無界での長い生活の中で理解はしているが、ごくたまに、流されてしまうのではないか、と不安に駆られる時がある。今回は大丈夫だったが。
街中を歩いている時でも、魔力を瞳に宿し、悩める人々の探索をしていた。朝焼け色の双眼に黒い雲が映し出されている。
魔法の見えざるコンタクトレンズを介して、黒髪の魔女の瞳に映る光景は、さながら積乱雲がそのまま地表に降下しているようで、周囲が黒い霧と化していた。自分自身が巨大な雲海の中にいるみたいだった。箒に跨って空を飛ぶ時にたまに味わう感覚を、箒のいらないアスファルトの上でも、アルフェラッツは感じていた。
悩みを抱えた人々の探索には、苦悩を黒雲として可視化させる以外にも、感覚を研ぎ澄ませて悩みの電波を受信するという方法もある。
だが、このような人々が集まる場所では、前者の方を多用する場合が多い。
後者を公共空間で使用すると、人の会話や雑音が集中力を掻き乱すノイズとなって、苦悩のキャッチに支障が出るケースが多々あるからだ。
なので地上で悩める人を探す場合は、大抵、黒雲が見えるようになる魔法を使用するのである。
……やがてアルフェラッツは、この人の悩みを解決しよう、と、ある人物をターゲットに定めた。相手はくたびれた印象を抱かせる、痩せぎすの中年のサラリーマンだった。
連日の暴風雨に晒されて辟易した細い樹木のような男で、今にも折れそうな肢体を覆い隠すかのように、黒雲がサラリーマンを包み込んでいた。
スーツ姿の魔女は、行き交う人々から怪訝な目で見られないよう、男に向けてさりげなく、指先から淡いピンクのレーザービームを発射した。それは男の居場所が判る『しるし』だった。目標を定めたとしても、ストーキングする訳にはいかないのだ(悩みの解決を見届ける時は別だが)。
あの男がいつ仕事を終えて帰宅するか判らないし、アルフェラッツ自身も、使命解決のための準備をせねばならない。
魔法のマーキングをしたアルフェラッツは、人混みのプールから上がった。昼の今から使命決行の夜まで、時間と予定が空いてしまったが、この間、どうやって時間を潰すか、黒髪の魔女は考えていなかった。
そして人の群れから離れると同時に、長い時の空白が出来上がってしまったことに気づいて、数分後、魔女は頭を少し抱えるのだった。
★ ☆ ★
その夜、アルフェラッツは高層ビルの屋上で、エンジン音とクラクションを発する金属質の蛍の群れを眺めていた。羽根を持たぬ蛍達は尻を赤く輝かせながら、アスファルトの河川の中を、一定の秩序をもって前進と停止を繰り返している。その規則正しい行進は、まるで蟻の行列を連想させた。
アルフェラッツは蛍達から視界を外して顔を上げ、右手の位置をわずかに上げて指を鳴らした。スリット入りの丈の長いワンピース、レースの長手袋、そして鍔の半径がとても広い三角帽子。これが魔女の正装である。全ての色が喪服のように黒く、髪色と相まって、夜空と完全に同化してしまいそうだった。
しばらくして、どこからともなく、黒い小鳥が彼女のもとに飛んできた。翼を広げたまま、羽ばたかずに飛行する小鳥は、魔女の頭上――厳密には帽子の鍔の上――に止まる。
クラズ。それが黒い小鳥の名前であり、同時に黒髪の魔女の使役している使い魔である。フィンガースナップは帰参の合図だった。
「おかえりなさい、クラズ」
『おうよ。誰の悩みを解決するか、決めたのか?』
「勿論よ」
クラズの問いに、魔女は夜色の髪を縦に揺らし、手のひらから光を放った。白昼に目標として定めた男の姿が、ホログラムのように浮かび上がる。
『何つーか、いかにも人生に疲れました感満載なヤツだな』
率直過ぎる感想を言い放つ使い魔だった。
『これくらいの年代のヤツの悩みとなると、「仕事に疲れた」とか、「体がしんどい」とか、パターン化してくんだよな。ま、パターン化は、どの世代にも当てはまることだけどな』
「確かにそうだけど、例外もいっぱいあると思うわよ。今までがそうだったから、きっと今から解決する悩みも、私達が考えている悩みと違うかもしれないわ」
『例外なぁ……。例外がたくさんあるってのが、クソたるいんだよな』
「でも、ワンパターンな悩みなんて、却ってつまらないと思わない?」
『ハッ、それもそうだ』
クラズは十六分音符一つ分の笑い声を発する。少々シニカルめいた雰囲気を帯びた黒い小鳥のアクションに、アルフェラッツは困った表情を浮かべるしかなかった。
「で、クラズは何をしていたの?」
アルフェラッツはホログラムを手のひらから消して訊ねた。
『お前と一緒で、悩んでるヤツを探し回って適当にマーキングしてた。三人ほど目星つけたんだけどな。小学生のガキと、JKと、あとおばさん』
「マーキングだけで解決はしなかったのね」
『一応、お前に言っとこうと思ってな』
勝手にやれるんなら別によかったんだが、一応、俺は使い魔だからな。
お前のおかげで基本的には自由だけどよ、やっぱその辺はちゃんとしとかねーと。
そんなことを言って、クラズは数回瞬膜を閉じた。この黒い小鳥の姿をした使い魔は、口が悪く、生意気で奔放な性格ではあるが、己の主人や悩みを抱えた人物に対しては律儀な一面があった。
この一面のおかげで、苦悩の解決や相手との会話で、何度か助けられたこともある。使い魔は主人をサポートするだけでなく、魔法使いと一般人の間を取り持つ、潤滑剤としての役割も果たしてくれるのだ。
「じゃあ、そろそろ悩みを抱えた人の元へ行きましょう」
『おっ、もう行くか?』
ええ――と、アルフェラッツは、自分の側にある空間を、見えない手すりが存在するかのように、ゆっくりと一本の線をなぞった。虚空から一本の箒が出現した。魔法使いの移動手段の一つである。
黒髪の魔女は箒の上に跨り、ホバークラフトのようにゆっくりと浮かんだ後、そのまま夜空の中へと消えていった。