第1話 その7 和解と別離
「樹!」
翌日の放課後、黒田樹のいるクラスの前で待機していた木戸明弘は、樹が教室から出てくると同時に、己の中の勇気を総動員して声をかけた。
「え!? あ、明弘……」
樹は戸惑いの色を隠さず、喧嘩中の友人の名前を口にした。それは、あの時の喧嘩で彼に失望したからではなく、どのように接すればいいのか判らないという困惑から来る狼狽だった。
明弘は樹少年から一旦視線を外し、昨夜授かった、黒髪の魔女のアドバイスを脳内で振り返る。
少年の苦悩を受け取った魔女アルフェラッツは、口下手を克服する方法を明弘に伝えた。
コミュニケーションは別に、会話のキャッチボールが上手ければいいという訳ではない。球の飛距離が短くてもいいし、変化球を投げてもいい。もっと言えば、デッドボールを起こしてしまっても構わないのだ。
問題はそれを、いかにしてカバーするかである。
口下手を直すのに必要なもの。それは、言葉を一度咀嚼するための第二の胃袋である。
余計な一言を付け加えたり、たまに痛烈な発言をしてしまう時があるなら、それを吐き出す前に、自分の言葉を相手に向けて表出していいものかどうかを、確認すればいいのだ。
明弘は言霊に不必要な武器を持たせてしまうタイプなので、それを行うだけでも大きく変わることができる――と、アルフェラッツは悠々と語るのだった。
「そ……それだけですか?」
「そう、それだけよ」
アルフェラッツは海外のホームドラマさながらに肩を竦めた。
このアドバイスを、エプロン姿の魔女から教示された時、明弘は『あまりにも単純過ぎる』と動揺し、これで大丈夫なのか? と不安を漏らしたが、シンプルイズベストという言葉が存在するように、単純である方が却って上手くいく、とアルフェラッツは返したため、彼女の言葉を信じることにした。
黒髪の魔女に言わせれば、心配に心配を重ね、あれこれ思考を巡らせるから、不安と思慮の大迷宮に迷い込んだ挙句、攻略できずに頭を抱えることになるのだ。
助言を終えたアルフェラッツは、「さて」と枕を置き、真剣という塗料が混ぜられた朝焼け色の瞳を、少年に向けた。
「今から明弘くんに、ちょっとした魔法をかけようと思うの」
「魔法ですか?」
「いや、魔法と言うよりは、おまじないかな。明日になったら解けるレベルの小さな魔法。それであなたの同意が欲しいけど……いいかしら?」
「……いいですよ」
少年は詳細な説明を求めず、静かに頷いた。 それは魔女に対する警戒心が完全に消滅した、ささやかな証だった。
「じゃあ、いくわよ」
それが魔法をかける合図だった。明弘の頭上にアルフェラッツの右手がかざされた。手のひらから降ってくる、ピンクの淡い光を放つ鱗粉が髪の上に舞い落ちる。少年の頭に触れた途端、光は雪のように溶けて消えた。魔法がかかったのだ。
「……これでおしまい」
「一体、何の魔法をかけたんですか?」
今さらながら、明弘は魔法の内容を訊ねる。
「仲直りが上手くいくおまじないよ」
夜色の髪を持つ魔女は、月に人格が宿ったような、静かな微笑を浮かべて答えた。優しく光を照らすような穏やかな笑みだったが、どことなく影もあった。
明弘少年は、その表情の理由を訊ねようとして、やめた。『きっと、樹との和解が上手くいくことを祈っているからだろう』と解釈し、訊くだけ野暮なことだと感じたからである。
だが明弘少年は、己にかけられた魔法の正体を、当然ながら気づいていなかった。
アルフェラッツがかけた魔法は、実は仲直りを成功させるおまじないではなく、『帰宅した途端に自分やクラズと関わった記憶が消滅する』という、別れの挨拶だった。おまじないは、『もう明弘少年の胸の内に秘められた勇気で解決できる』と確信したため、その念を込めた光の粉を振りかけなかった。
あの時の魔女の顔は、笑顔色で無言のさよならを伝えようとして、思わず寂寥のインクを数滴こぼしてしまった、別離のシグナルだったのである。
★ ☆ ★
最後の別離の伏線を考察することなく、回想を終えた明弘少年は、改めて樹少年に視線を向けた。
大丈夫。俺にはアルフェラッツさんのアドバイスとおまじないがついている。絶対に上手くいく!
……己を奮い立たせるように、無言で自分にそう言い聞かせた後、一度、深呼吸してから、友人に向かってはっきりと口を開いた。
「あの時は本当にごめん!」
明弘は頭を下げた。勢いに任せていたが、それは純粋な本心だった。
「俺……俺、先にお前がレギュラー入りしたのが、羨ましくて仕方なかったんだ。それに――」
続く言葉を選ぼうと口ごもる。
「それに、置いて行かれたような……取り残されたような気がして、勝手に変に暴走して、ボロクソ言ってしまったんだ」
言い訳がましいな、と感じてしまったのか、声が少し、か細くなる。
「それで、俺――」
「もういいよ」
絶縁直前の際に樹が発した言葉が、明弘の謝罪を遮った。一瞬、明弘少年の顔に、絶望の色が侵食しかけたが、声の調子が、あの時の失望に満ちたそれでなく、自分と他者との間を取り持つ時のそれだと知って、顔を覆いかけた暗雲が払拭された。
ゆっくりと顔を上げると、苦笑を浮かべる友人の顔が、そこにはあった。
「別に怒ってないよ。それに俺の方こそ、何かごめん」
困ったように頬を掻きながら、樹は言う。
「正直、明弘があそこまでキレるとは思わなかったから、話しかけにくかったんだ」
「俺、そんなにキレてたのか……」
「正直怖かったぞ」
樹少年の顔から思わず笑みがこぼれた。つられて明弘も笑う。二人の間の時計の針が、六日分、光の速さで逆転した。
「とりあえず――」と、明弘は口を開いた。数分前の堅苦しさはもうない。
「樹、今さらだけどレギュラー入りおめでとう。次の試合、頑張ってくれよな。俺もいつかお前に追いついてみせるから」
「明弘……」
「それに」
と、一旦言葉を切った後、改めて、もう一つの決意を口にした。それは魔女に告白した願いだった。
「口下手を直していこうと思うんだ。会話の手助けをしてくれるお前がいなくなって、自分の孤立っぷりを身にしみて理解したから、少しずつでも改善したいんだ」
結局、魔女は口下手を直す魔法をかけてはくれなかった。実際にかけたのは、仲直りが成功するおまじないだった。
しかし、その代わり、明弘少年は大きなものを三つ手に入れた。それは、新たな二つの決意と、今まで以上に強く固く結ばれた友情だった。
魔女に教わった方法で、口下手を克服してみせる。
そしていつかレギュラー入りを果たしてみせる。
明弘の決意を、樹少年は「そうか」と深く頷いてみせた。友人が、空白の六日間で大きく変わったという事実を、彼は理解したのである。
「じゃあ明弘、今日の部活は俺も付き合うよ」
「本当か!?」
「そりゃあ、お前にはレギュラー入りしてもらわないと。二人揃って大会で活躍するっていう夢が、まだ叶ってないからな」
樹は軽口を叩いてみせた。もう二人の間を阻む壁も、不穏な暗雲も、何も存在しなかった。
こうして、木戸明弘と黒田樹の友情の架け橋は、無事に修復された。橋の崩落から修復まで、六日が費やされた。
崩落の原因は、明弘少年の感情の爆発による、突発的な事故。初めてのケースだったために、補修方法が判らずに立ち往生していたが、黒衣を纏った、とある協力者の登場によって、補修を完遂させることができた。
「ほら、早く部室に行くぞ」と、樹は明弘少年の背後に回り込み、背中を押す。
明弘は突然のプッシュに戸惑いつつ、「ちょっと待ってくれよ!」と困惑した笑みを浮かべて、樹少年に押されるがままに足を進めた。
★ ☆ ★
『――これで一件落着、だな』
「そうね。本当によかったわ」
木戸明弘少年と黒田樹少年が、仲睦まじく部室へと向かう光景を瞳に映しながら、使い魔クラズは主人の肩の上で独語した。
魔女アルフェラッツも使い魔の独り言に反応して、黒くて大きな三角帽子を縦に揺らした。
魔法使いが現実世界で生きるためのルールの一つに、『悩みの解決を最後まで見届けねばならない』というものが存在する。
これは文面通り、一度相手の苦悩に関わったら解決するまで責任を持て、という戒めの意が込められている。
人々の悩みを解決するという使命を胸に抱いている彼女も、そのルールを、真面目な優等生が校則を守るみたいに遵守していた。
アルフェラッツはルールに基づき、己の使命が完遂したことを直接確認するために、明弘少年が家を出た時から、透明化の魔法を自分と自分の使い魔にかけて、ずっと見守っていたのである。
朝から明弘を監視していたのは、彼がいつ、どのタイミングで樹に謝るかを、計りかねていたからだった。朝のHRが開始する前に、早くわだかまりを消そうと友人のもとに向かうかもしれないし、突然、不安と臆病の濃霧が明弘の心を曇らせて、謝罪決行の日を明日に持ち越す可能性もある。
魔法で未来を予知することも不可能ではないが、それには多くの道具がいるし、手間がかかるため、目視で確認した方が遥かに早いのだ。
それに直に見届けた方が、無事に使命を果たした――と、安心することができる。
そのような事情や理念もあり、アルフェラッツは、時を選ばないが手順が煩雑な予知よりも、時機が不明でも心に実質的な安堵を与えてくれる目視を好んだ。
姿を隠し、二人の少年の成り行きを、校舎の窓から見守っていた魔女と使い魔は、明弘の心に燻る黒い靄が払拭されたのを確認できた。
『太陽のような笑顔』という比喩表現が存在するが、胸の内の暗雲が吹き払われた明弘少年の顔は、まさに比喩にふさわしいものだった。
『……なあアルフ』
クラズは明弘と樹の、遠のく背中を見守りながら、嘴を開いた。
『本当にこれでよかったのかよ?』
「よかったって?」
『明弘に、さよならを言わなくて』
アルフェラッツの顔に、わずかに雲がかかる。
この魔女は苦悩を解決した相手から離れる時、別れの言葉を一言も言わず、記憶消去の魔法をかける。それは勿論、木戸明弘も例外ではなく、誰に対しても、最後は自分と関わった記憶が全て消える魔法をかけ、何も言わずに姿を消すのだ。
そもそも、苦悩の解決後に記憶を消すのは、魔法使いのルールなので、別に挨拶をした後に魔法をエンチャントしても問題はないが、アルフェラッツは『さよなら』を言わずに去っていた。
今までは普通に別れの挨拶を告げてから、記憶を消して立ち去っていたが、数年前、幼い子供の悩みを解決してから、挨拶とともに魔法をかけようとした際に、注射を嫌がるみたく激しく泣かれたことに心を痛めて以降、上記の手段を用いて、相手と自分の辛さを軽減させていた。
当然、彼女に使役されている、黒い小鳥の姿をした使い魔も、主人の意向を汲んでいるし、理解もしていた。
それでも訊かずにいられなかったのは、明弘と樹を見つめる魔女の琥珀色の瞳に、寂寥に似たような色を見出したからである。
「やっぱり黙ってお別れするのは悲しいけど……でも、そうでもしないと、しんみりしちゃうから――」
『いや、しんみりしちゃうのは、別れた記憶を持ってるお前だけだろ』
辛辣な台詞を吐くクラズ。
『まあ、お前のことだから、「アイツ」の顔が頭ん中でちらついたってのも、あるんだろ』
「………………」
図星を突かれて、雲が魔女の顔を完全に覆ってしまった。
アルフェラッツには自分と同じ、三人の魔法使いの友人がいるが、その中の一人が、二年ほど前から行方をくらませているため、音信不通になっている。厳密には行方不明ではなく、彼女の前『だけ』に姿を現そうとしないのだ。自分以外の他の友人とは、何度も会って、顔を合わせているというのに。
魔法使いの使命に関しては、私情などは一切挟まないアルフェラッツだが、明弘少年のような境遇を見ると、どうしても連想せずにはいられない。
今の今まで、悩みの解決に集中して、自分自身の事柄を蚊帳の外に置いていたが、使命が完遂した後になると、気が緩んで思い出してしまうのだ。
『心配すんな、いつか会えるさ』
クラズは飛び立って、主人を励ました。
「本当にそう思う?」
『アルフは何もしてないんだろ? 「アイツ」の性格からして、理不尽なことでキレるような性格じゃないだろうしさ。お前の不用意な言動で怒った――なんてことは、きっとないと思うぜ』
使い魔の叱咤で、魔女の顔に陽光が差し込んだ。
アルフェラッツが、そのことを思い出して落ち込む度に、クラズが励ますというやりとりが、もう何度も交わされている。いくら己に原因が見当たらないと思おうが、のっそりと押し寄せてくる不安の低気圧を自力で追い払うことは、魔法使いでもできなかった。その度に、彼女の頭上に傘をさしてくれるのがクラズだった。
「そうよね……きっと会えるわよね」
『そうそう! 「情けは人の為ならず」だったか? お前は、たくさんの人のために悩みを解決しているんだから、いつかラッキーが訪れるさ』
アルフェラッツが見返りを求める人間ではない、と理解はしているが、クラズは主人を元気づけるために、敢えてこの論法を用いた。
当のアルフェラッツも使い魔の意図を汲み、深く突っ込むことなく笑顔を見せた。
「……ありがとうクラズ、ちょっと元気出たわ」
『ま、いいってことよ』
軽口を叩いて、黒い小鳥は魔女の頭の上に乗った。
「じゃあ、そろそろ次の悩める人を探しましょうか」
そう言うとアルフェラッツは箒を手元に出現させて、その上に跨って空を飛び、学校を後にした。
★ ☆ ★
彼女の名前はアルフェラッツ。人々の悩みを解決し、人々を幸せにするために、魔法の国から現実世界にやって来た、夜色の髪と朝焼け色の瞳を持つ魔女である。
そんな彼女は、今日も悩める人達の苦悩を解決するため、幸せの光を振りまきながら、大空を駆け巡る。
第1話 おしまい