第1話 その6 決意
人は様々な負の外的要因によって精神的に追い詰められると、否応なしに視野狭窄を起こし、結果的に目の前の選択肢の数を、著しく減らしてしまうものである。それはどのような人間であろうが例外はなく、限られた中での選択によっては、最悪の結末に至ってしまう場合もある。
理不尽や圧力という名の、迫り来る透明な分厚い壁によって、視界や行動の自由が阻害される。
見えざる堅牢な障壁を破ろうと、もがいてあがいて状況を打破しようと試みるも、最終的には万策尽きて、疲れ果てて倒れてしまう。
しかも視野が狭くなっているため、他人の力を借りよう、うまく工夫しよう、といった発想の転換が難しくなる。
だから大抵はバッドエンドを迎えてしまうのだ。
木戸明弘の心理状態はまさに、視野が狭くなって追い詰められた人間のそれだ、と話を聞いたアルフェラッツは思った。同時に、でもそれは仕方のないことだ、という感想も、その時に抱いた。
魔女は少年の告白を聞いた時に、『彼の悩みが燻り続けているのは、二人の間に友情を築いた素材に原因があるからだ』という答えにたどり着いた。その素材とは、親友で現在絶縁中の、黒田樹の委員長気質だった。
口下手な明弘は時々、同級生や先輩後輩との間に、誤解や反感といった、小さないざこざを起こしていた。それを度々救っていたのが樹少年だった。
樹は、人と人の間に立つ仲介人となって、会話の歯車に油を注したり、言葉の欠落を埋めて翻訳したりと、コミュニケーションが円滑に回るように、あれこれ工夫を凝らしてくれていた。
その仲介人の存在が消失したらどうなるか?
小さないざこざが次々と生まれ、細胞に憑いたウイルスのように増殖してしまう。
口下手によって、多くの火種を無闇に生産した明弘は、次第に無口になって孤立したのではないか? 彼の悩みが異常なスピードで大きくなったのは、それが原因なのではないか――? そのような仮説を、少年の告白を聞いた後、アルフェラッツは構築した。
単に仲違いをしたのであれば、一時的に他の友人と絡めばよい。そうすれば、ある程度、精神的苦痛は緩和されるし、その友人達が明弘少年の力となって、樹少年との仲を修復するための突破口を共に見つけてくれるはずだ。
それに、好ましくない仮の結末だが、『他の友人と親交を深める』という別のベクトルで上手く事が運べば、黒田樹の存在を忘却の対岸に押しやることができる。形が何であれ、他に友人がいれば、彼らが明弘の精神的な避難所の役割を果たしてくれる。
だが、そうでない場合はどうか。友人が少なく(あるいはおらず)、相談相手もおらず、しかも口下手なら、魔女の仮説通りの結末を迎えてしまうだろう。
そうなると仲直りを願うより、口下手を矯正することを願った方が、後々、友情の架け橋を維持することに困難しないはずだ。謝るのは本人の勇気の扉を開けば解決できるし(本人もその意向を表している)、それに、先の新しい願いが扉を開く鍵となって、彼に自信を与えてくれる。
アルフェラッツは、現実世界に来て、人々の苦悩を取り払う十数年間で、相手が本当は何を望んでいるのかを看破し、どのような願いが相手をより幸せにできるのかを思慮する洞察力を身につけた。
それは時折、同じ志を持つ彼女の仲間から、お節介や老婆心と揶揄の種にされたが、当の本人は、さほど気にしていなかった。『人々を幸せにする』という目的を果たす以上、魔法使いは、あれこれ気を回してしまうものだろう。私のは他人のそれよりちょっと強いだけ。彼女はそう思っている。
しかし、真の願いを悟っても、相手を諭すことはしなかった。彼女はあくまでヒントを提示するのみで、本当の苦悩という迷宮から脱出するためのルートを啓蒙しなかったのである。
自分の推論に絶対的な自信を持っていないから、何だか誘導しているみたいな気がするから、というのもあるが、一番の理由は、『本当の悩みは本人に気づかせた方がいい』という考えを抱いているからだった。
いくら最適な環境を整えようが、最終的に卵が孵る場所は、母鳥の胸の中でなければならない。
その考えは魔女だけでなく、黒い小鳥の姿をした使い魔も、同じポリシーを所有していた。
明弘を助ける気はあっても、彼を答えの門戸へと導く気など、無論、毛頭ない。
『お前は黒田樹という友達を失くして、しょんぼりしてるんだろ? それなら、単純に「ごめんな」って言やぁいいのに、何でここまで引きずってんだよ?』
今みたいに、アルフに悩みをコクった時の感じで謝りゃいいだろ。
意表を突かれて呆然とする明弘に、クラズは続けて言う。その口振りは、独壇場でモノローグを演技する役者のようだった。
黒い小鳥の言葉で、はっとした少年は、頭の中の本棚をせわしなく引っ掻き回す。
樹に謝れない理由。それは彼と喧嘩したことがなかったからだ。『今まで前例がなかった』という事実が、明弘少年を困惑させると同時に、黒い靄を胸の中で無意識に育ててしまった。
樹は自分と他者とのコミュニケーションに、色々と手を回してフォローしてくれた。他人との間に、わずかに生じた火種を、彼は上手くオブラートに包んで翻訳してくれた。
それなのに、恩を仇で返すように、彼に暴言のシャワーを浴びせてしまった。
言ってはならないことを、明弘は感情に身を任せて口にしてしまったのだ。
『黒田樹が先にレギュラー入りをした』、『それによって周りが見えなくなった』という、二つの遠因と暴言が合わさってトリプルブーストが起こったとしても、もう少し自分が冷静になれば、あんなことが起きるはずなかったのだ。
――抜け駆けしやがって。
――俺と一緒に試合に出るんじゃなかったのかよ。
――腹ん中で俺のことを笑ってんだろ。
大会の出場メンバー発表の時、樹も激しく困惑したに違いない。外部からの力で、そして不可抗力とは言え、二人の間に交わされた約束を破ることになったのだから。
しかし明弘は、嫉妬、憤り、遺憾、取り残されたような感覚……、様々な負の感情の支配によって、結果として樹の背中を冷たく突き放した。
あの時の暴言は、友人の心に深手を負わせるどころか、怪我人の肢体を蹴飛ばすレベルの追い打ちをかけてしまった。
長い付き合いを経た間柄でも、超えてはならないラインは存在する。明弘はそれを超えてしまった。
――俺はやってはいけないことをやった。
――あいつは許してくれるだろうか?
そんな不安が明弘少年を臆病にさせてしまったのだ。生意気な黒い小鳥の言う通り、魔女に対して悩みを打ち明けた時のように謝ればいいのだ。だが、心が見えざる壁に塞がれて、なかなか謝罪に踏み込めずにいた。
……だが、その理由が、壁の正体が、今ようやく判った。
樹少年を失った今、なぜ苦しいのかが、やっと理解できた。
「……アルフェラッツさん」
「うん?」
「俺は……、俺は樹に謝りたいです。でも何て言えばいいのか判らないんです」
先ほどと同じ言葉を明弘は繰り返すが、声のトーンが先のそれとは対極的な、クレッシェンドとメゾフォルテに変わっていた。答えに辿り着き、ささやかな決意を固めた強さが、声に表れている。
「……それで、私は何をすればいいかしら?」
アルフェラッツは疑問形で、続きを言うように促した。
明弘は魔女を見据えて、はっきりと本当の願いを口にした。
「俺の……俺の口下手を直してくれませんか? もう二度と樹を傷つけないように、それと少しでも、あいつの助けが要らずに喋れるようになりたいんです」
明弘少年の『友人と仲直りしたい』という悩みは、『口下手を直したい』という悩みに昇華された。
これは、元の苦悩が変化したのではなく、魔女の想像通り、仲直りへの道が少年の勇気という魔法によって切り開かれたことの、何よりの証左だった。
魔女アルフェラッツは、「解ったわ、協力しましょう」と、夜色の髪を縦に振った。使い魔クラズも『ようやく気付いたな、この不器用野郎』と、茶化すような、けれども悪意のかけらがない軽口を叩いた。