第1話 その4 告白タイム
明弘少年の小さく静かな叫びは、夕食後、リビング内で静かに響き渡った。
カレーライスを食べ終えた後、魔女アルフェラッツは食器を洗うため、空になった器を魔法で浮遊させて、流し台へと向かった。明弘は無言のまま動かなかった。
無論、自分の目の前で、皿が未確認飛行物体と化した光景に絶句したからではない。それは三日前から見せつけられているし、その度に、わずかばかりの気持ち悪さを憶えたものの、何度も見れば、ある程度は慣れることができた。
問題は今である。今ここで自分を苦しめる悩みを告白しなければ、きっと後悔する。だが、後悔すると頭の中で理解していても、胸の辺りで言葉がつっかえて、声がなかなか出てこない。
こんな調子では悩みを解決してもらえない。
それ以前に、これだから自分はずっと苦しんでいるのだ。だから何が何でも言わなければ――
「ア、アルフェラッツさん!」
明弘のやや上ずった声がアルフェラッツの耳に届いた。
流し台の中で上演される予定だった、食器と水と洗剤の織り成す観客のいない小さなミュージカルは、開幕寸前で中止された。金属と陶器が水上でぶつかり合うような、乱暴な閉幕の音がキッチンから聞こえた。
「どうしたの?」
アルフェラッツは振り向く。
「お、俺の悩みを――解決してくれませんか?」
魔女アルフェラッツが木戸家に滞在して三日目の夜に、明弘少年はようやく、魔法が使えるレスキュー隊員に向かって救助の意思を表示した。魔女が相手から悩みを聞き出すか、少年が最後まで沈黙を通すか。互いに意識していない小さな駆け引きの勝者は、魔女の方に軍配が上がった。
魔女は小さく頷いて、テーブルに戻った。
★ ☆ ★
木戸明弘が抱えている悩みは、端的に要約すれば、『喧嘩した友達と仲直りしたい』という類のものだった。
明弘は魔女と出会う前に親友と仲違いをし、その日以来、口をきいていないのだ。この状況を何とかして改善したいと思ってはいるものの、コミュニケーションに対して消極的な彼の性格上、なかなか和解に臨めずにいる――というのが、少年の頭と心に負担を抱えている黒い靄の正体だった。
このレベルの悩みなら魔法に頼らずとも、明弘少年の中にある勇気をわずかでも開放すれば、簡単に解決できるかもしれない。事実、彼自身が魔女に苦悩を打ち明けるのに躊躇した理由は、彼女の身分に不信感を抱いていた以外にも、上記のような戸惑いと、彼の性格に原因があったからである。
ところが同じく、明弘の性格が災いして、今の今まで、反目中の友人を和解のステージまで連れて行くことができなかった。明弘少年の脳裏に暗雲が燻り続けているのは、彼の性格と、彼と友人の間に、友情の架け橋を築いた素材に原因があった。
明弘と彼の親友の仲に、亀裂が入った経緯は次のようなものである。
木戸明弘というバスケ部に所属している二年の男子高校生は、昔から口下手なせいで、人間関係や対人面において、様々かつ軽微、そしてごく稀に大きな苦労をしてきた。しかし、極度の無口という訳でもなく、かと言って毒舌が常軌を逸している訳でもなかった。
ただ、言葉が足りなかったり、逆に余計な一言を付け加えたり、さらに時折辛辣な発言をすることがあったため、嫌悪とまではいかなくとも、多少の反感を級友から買われることが幾度かあった。加えて明弘自身が、積極的に誤解や反感を解く努力もしなかったために(それと己の口下手よって、さらに誤解を深めるという、状況の泥沼化を避けるため)、彼に対する負の印象をより増長させた。
そんな口下手な明弘を度々気にかけ、他者との会話で何度か助け舟を出してくれたのが、同じくバスケ部に所属している、黒田樹という男子高校生だった。
樹は明弘とは正反対に口上手で、加えて人当たりがよく、世話焼き好きな委員長タイプの男子だった。級友の間でもそこそこ人気があり、部活動でも常に同級生や先輩、後輩に信頼されている。これらの行動は、生来の自身の性格から来る物だったため、明弘だけを特別扱いして庇っていた訳ではないが、明弘と関わる機会が多かったこともあり、次第に二人は親友となった。友人として付き合ってから、かれこれ七年ほど――二人が知り合ったのは、小学校五年の時である――経過している。
二人の友情の泉に不穏な波紋が生じたのは、部活動でのことだった。
明弘と樹は男子バスケ部で、互いに切磋琢磨しながら、バスケの練習に打ち込んでいた。目標はレギュラー入り。いつか二人揃って試合や大会で活躍することを夢に、ランニングや自主トレーニング、シュート練習などに励んでいた。
ある日の部活動中、近い内に開かれる大会での出場メンバーが、顧問の口から発表された。ダンクシュートやランニングシュートが得意な先輩達の名前が次々と呼ばれる。続いて、同輩のメンバーも発表された。実力がある仲間の人選に、明弘も納得していた。
だが、その最中、ある固有名詞が聴神経を介して、脳内に到達した瞬間、明弘少年の時間が急に止まった。
黒田樹。その名前が明弘の思考を凍結させる呪文となって、彼の心理に衝撃を与えた。木戸明弘の名は呼ばれなかった。
数秒間の思考の凍結が粉砕して解除された後、空になった明弘の心の器には、甘いデザートのない、あらゆる負の感情のフルコースが否応なしに盛り付けられた。
嫉妬、憤り、遺憾、取り残されたような感覚――それらはかなりの刺激臭を含んでいて、相手の顔にぶつければ、不快感を与えるには充分なものばかりだった。
樹のレギュラー入りに、明弘は置いてけぼりにされたような、さらには裏切られたような不穏な錯覚に襲われてしまったのである。『いつの日か、あいつに追いついてみせる』という発想が、その時にはできなかったのだ。
何百ものお世辞を使っても華美とは言えない感情が溜まったダムは、部活後の帰り道に、とうとう爆発を起こして決壊してしまった。明弘から溢れ出す罵詈雑言の濁流が、樹に直撃した。
抜け駆けしやがって。俺と一緒に試合に出るんじゃなかったのかよ。腹ん中で俺のことを笑ってんだろ――。
今になって思い返せば、理不尽なものばかりだったが、負の感情の津波は止められなかった。
樹少年も人当たりがいいとは言え、全てを何事もなく受け止められるほど、聖人君子ではない。友人からの突然の暴言に、最初は心と表情が驚きに支配されたが、次第に困惑の色に変わり、最後は悲哀の色調に沈んだ。燃えるような激情の暖色も皆無ではなかったが、一緒に試合に出るんじゃなかったのかよ、という言葉で消失してしまった。樹は反論できず、激流の中で立ちすくんでいた。
感情の熱暴走から覚めた頃には、全てが手遅れだった。明弘の顔から熱感が引いた時、親友の悲痛な顔が目に入り、脳内に深く刻まれた。
全てを悟った明弘は、何とかして言葉を取り繕おうと慌てたが、口を開いたところで、
「もういいよ」
という返事が返ってきた。その曖昧な言葉は、明弘を傷つけるには充分だった。
その日を境に、明弘と樹の間から、会話が途切れた。七年の歳月をかけて築かれた友情の架け橋は、一瞬で音もなく崩落した。
それきり、樹が口下手な友人に声をかけることはなくなった。明弘は、面倒見のいい友達に謝罪するタイミングを見計らってはいるが、なかなか踏み込めずにいた。
明弘少年と樹少年が絶縁してから今日で五日。
その縁は未だに途切れたままだった。