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第1話 その3 少年のモヤモヤ

 魔女アルフェラッツと木戸(きど)明弘(あきひろ)少年、そして使い魔クラズの共同生活が始まって三日が経過した。


 出会った日に自ら宣言した通り、魔女は少年に対して、無許可で魔法を一切使用していない。金品を物色することも、悩み以外で深入りすることもだ。にも関わらず、少しだけ軟化した少年の態度は、わずか二日で再び硬直してしまった。


 理由は解っている。魔女と使い魔におそらく否はない。あるとすれば、きっと自分の精神がまだ未熟だからだろう――明弘はそう言い聞かせている。言い聞かせて、精神的疲労に(さいな)まれている。


 明弘の態度が再び硬化した理由。それは単純に、アルフェラッツが魔法を使うからだった。勿論(もちろん)、『あなたが魔法を求めない限り、何もしない』という誓約通り、少年に対しては、彼が自ら魔法を求めた時のみ魔法を使用し、それ以外では決して光の粉を振りまくことはしなかった。


 ただ、魔法をかける対象が『明弘以外』となると、話は別だった。

 魔女は彼以外の物には、魔法を浴槽(よくそう)いっぱいに満たされた湯水のように使用したのである。


 アルフェラッツは悩みを抱えた者の家に滞在する時、必ず使用人のような役割を引き受けていた。相手の家庭環境によっては、ベビーシッターや介護士など、役割の内容は変質したが、基本的には家事使用人ドメスティック・サーバントとしての役目を己に課していた。

 これは彼女なりの、住処(すみか)を与えてくれた恩返しであると同時に、長居しないとはいえ、食客としての待遇(たいぐう)に甘んじる訳にはいかないという自制も込められていた。それは木戸家でも例外ではなかった。


 問題は、家事を行う際に、彼女が必ず魔法を使用することにあった。アルフェラッツは使用人として活動する時、両手に桜色の光を宿し、オーケストラの指揮者さながらの動作で両腕を振るっていた。

 それは家事をやっている、あるいは家事をやり始めたという、本人の意識してない合図であった。明弘もアルフェラッツが家にいる間、その動作を何回も目にしている。


 家の中で魔法を使うと、一体どうなるか。

 掃除の際に使用すると、ゴミや(ちり)がブラックホールのように一点に集約される。

 洗濯だと洗った後の衣類が、翼を広げて尾をはためかせ、空中で群れを作って自由自在に遊泳(ゆうえい)する。

 料理に至っては食材が乱舞し、食器が飛び交い、気が付けば調理が完了しているのだ。そして食後は皿達がキッチンの流し台へと行き、そこでシャワーを浴びて終わる。


 洗濯物のサーカスに、食器と食材のオペレッタ。家の中に存在する物のほとんどが、魔女が家にやって来た日を境に、幻覚の産物に成り果てていた。木戸家の秩序と常識が、カオスと異常という名のスプレーで()り潰されていく。


 ……この異様な光景を連日見続けていた明弘は、疲労と困惑に精神を(むしば)まれ、魔女に対する精神的余裕を失った上に、魔法に対して再び恐れの感情を抱いたのである。


 もしも、アルフェラッツがおちゃらけた性格か、嫌味(あふ)れる性格、その他、他者から非難されるような人格の所有者であれば、明弘としても感情のぶつけように多少の正当性はあったかもしれない。


 ところが彼女には、非難すべき人格的欠点が微塵(みじん)もなかったのだ。むしろアルフェラッツの献身(けんしん)的な態度と誠実な為人(ひととなり)は、彼女自身の悪感情の存在を、胸を張って真っ向から否定できるレベルのものだった。


『優しい人』というのは、彼女のような人間にこそふさわしい単語なのではないか。少年にそう思わせるほど、この魔女は、悪とは無縁に等しい精神を所有していたのだった。


 現実世界に通じる常識を強制的に改変する恐ろしい能力と、そんな能力を体内に秘めているとは思えない穏和な女性。

 この恐怖と好感を抱かせるという、対極的な特徴を持つ存在が、少年の感情の流れる方向を完全に見失わせた。魔法を理由に怪物呼ばわりするのは、罪悪感を覚えそうだし、だからといって気を許したら、いつか魔法で玩具(おもちゃ)にされそうな気がする。


 ……その結果、生まれたのは、やや警戒寄りの中庸(ちゅうよう)な態度だった。少年が魔女に対して、時折毒の混じった汚泥(おでい)を漏らしてしまうのも、彼女に嫌悪しているのではなく、魔法に嫌悪しているからであった。加えて、頭の(すみ)に悩みという黒い(もや)を抱えているのだ。鷹揚(おうよう)な態度を構えている余裕などなかったし、魔法の存在がわずかに残っていた余裕を押し潰した。


 魔法さえなければ、もう少しアルフェラッツに優しくなれただろうか? そんな疑問が学校にいる時に脳裏をよぎったが、すぐに、無理だろうな、という答えに帰結した。


 彼女に魔法がなかったら、ただのいい人だが、それだけでは五日間も家に泊まらせる理由がない。いくら善良な人間とはいえ、何もなければただの不審者である(魔法使いは不審者の範疇(はんちゅう)を超えているが)。


 皮肉にも、少年の頭痛の種になっている魔法の存在が、アルフェラッツを木戸家に(とど)まらせる理由となっていた。

 魔法使いについての説明と、その肩書きが事実であることの証明を目の当たりにしたからこそ、ホームステイを許可したが、ひどい言い方をすれば、話を聞くだけ聞いた後に追い出してもよかったのだ。放り出さなかったのは、彼女の言葉に嘘偽りがないと思ったからである。


 だが、魔女を招き入れた上に、魔法によって起こる様々な事象が創作ダンスを踊る風景を見て、平静としていられるかどうかは、また別の話だった。


     ★    ☆    ★


 明弘はベッドの上で気だるげに天井を見つめていた。三日前から今日に至るまで、多くのことがあり過ぎた。心が休まる時が全然ない。

 休まる時がないのに、頭の中で色々と考えてしまう。

 魔法のことから、悩みのことまで――


『おい明弘、飯だぞ』


 ドアの向こうから素っ気なく明弘を呼ぶクラズの声が聞こえてきた。明弘の思考は中断した。


「悪い、今ちょっと食欲ないんだ」


 少年は自分の状態を、そのままクラズに伝える。魔女に対しては少し抵抗があるのに、この(よど)みなく人語を話す黒い小鳥には、不思議と抵抗を抱かず、普通に接することができた。

 ここまで非現実性のメーターが振り切れている超常的な存在は、意外と甘受(かんじゅ)しやすかったりするのだろうか?

 言い終えて、明弘はふっと思った。


『いや、つっても、食わねーと元気出ないぞ。……入っていいか?』

「ああ」

 

 短い返答を確認したクラズは、ドアをすり抜けて明弘の部屋に入る。使い魔も、魔女の『悩み以外のプライベートに深入りしない』という約束を遵守(じゅんしゅ)していた。だから彼に入室許可を求めたのだ。

 黒い小鳥の姿をした使い魔は、横たわっている明弘の胸の上に止まった。


『なぁ、いい加減アルフに悩みぶちまけたらどうだ? ずっとだんまり貫いても、ただただツラいだけだろ』


 明弘の鼻の穴を見つめながら、クラズは話を振った。


「…………」

『別に悩みを吐くことは恥ずいことじゃねぇしさ、むしろ相手が魔女の方が、友達と違って言いやすいかもしれないし――』

「解ってるよそんなこと!!」


 突然、感情を噴火させる明弘。急なマグマの爆発に、クラズは『うぉっ、ビクった!』と、小さくのけぞる。何か触れてはいけないキーワードに触れてしまったのだろうか、とクラズの脳裏をよぎったが、すぐさま体勢を立て直し、数歩分ホッピングして少年の顔に近づいた。


『なぁ明弘、お前に説教垂れるつもりはねぇけどよ、何でアルフがお前に対して真摯(しんし)な態度を取り続けているか、知ってるか?』

「? そりゃ、それが魔法使いの使命だから――」

『使命や義務だけで、あそこまで献身(けんしん)的な行為ができると思うか? しかも魔法使いの使命は、見返りや報酬(ほうしゅう)を求めることも、禁忌(きんき)ほどじゃないけどNGなんだぞ。それに仮に悩みを解決したら、お前の記憶を消すんだしよ』


 クラズの言葉には四つの意味が含まれていた。

 一つは、アルフェラッツが単純に、使命や義務だけで動いている訳ではないということ。

 二つ目は、彼女が損得感情で悩みを解決するような、打算的な女ではないこと。

 三つ目は、最終的に相手の記憶が消えるとはいえ、悩みの解決には絶対に手を抜かないという、彼女の志の高さ。

 そして最後は、魔法使い本人が得をする可能性はかなり低いという事実――。


 明弘は沈黙していたが、ゆっくりと使い魔の出題に対する答えを口にした。


「……アルフェラッツさんが真面目な性格だからか」

『それもある。だが、俺の望んでいる答えとは全然違うな』


 百点満点中三十点だ、と厳しい採点をするクラズだった。


「じゃあ何で?」

『相手の悩みの深さや痛みに、安易に共感することの失礼さを、アイツは知ってるからさ』


 伸びをするような仕草をしながら、クラズは答え合わせの解説を始めた。

 アルフェラッツは魔法使いとして活動する際に、『悩みに大小などない』という姿勢を構えている。それはクラズが語った通り、彼女が相手の苦悩に対し、浅薄(せんはく)な同情をすることを嫌っているからであった。「大変だったね」、「辛かったね」、「苦しかっただろ」――。そんな言葉は口先だけでも言えるし、軽々しく口にすれば、「お前に俺の何が解る!」、「あなたに私の気持ちが解ってたまるか!」と返されること()け合いである。苦悩という物は、一言二言で簡単に癒せるものではないのだ。


 アルフェラッツにとって悩みとは、人が監禁された閉鎖空間内で(ふく)らみ続ける巨大な風船のような物だった。

 モヤモヤという毒ガスによって次第に膨張(ぼうちょう)し、放置していると、閉じ込められた者の心に傷を負わせてしぼむ。苦悩を抱え込むから風船は膨らみ、膨らむから苦しく感じるのだ。

 いつかは、しぼんで苦しみから開放されるかもしれないが、同時に噴き出す毒ガスのせいで、何らかの後遺症が残ることもあり得る。最悪の場合、死ぬかもしれない。


 魔女が『悩みに大小などない』という信念を持つのはそのためで、苦悩は些細(ささい)なことでも次第に膨張していき、時の流れで解決されても傷跡が残ってしまう。

 アルフェラッツは、そうなってしまう前に人々の悩みを解決してあげたい、という願いを胸に現実世界を回っているのだ。


『……で、その信念が、お前の「アルフが真面目だから」って答えと組み合わさって、ああいう態度でお前に接してんだよ』


 最後にそう言って、クラズは解説を締めくくった。


「そうだったのか……」

『だから何にせよ、さっさと悩み、ぶちまけろよな。タイムリミットまであと二日だぜ』


 黒い小鳥は最後に(くぎ)を刺した。この生意気な使い魔に言わせれば、今の明弘は、意識があるのに『助けてくれ』とレスキュー隊員に意思表示をしない怪我(けが)人と同じらしい。隊員をアルフェラッツ、怪我人を明弘少年、そして怪我を悩みに置き換えれば、簡単に想像できて即座に納得できる、見事な比喩(ひゆ)である。


「後で下りるから、アルフェラッツさんに先に食っといてくれって、言ってくれないか」

『オッケー、承知した 』


 クラズは翼を広げて飛び立ち(というより浮遊し)、再びドアをすり抜けて明弘の部屋から退出した。部屋には少年だけが残った。

 一人になった明弘は、使い魔の言葉を脳内で再確認した。


 少年には、悩みは風船というより、水質が劣悪(れつあく)な底なし沼や、次第に直径が大きくなる蟻地獄(ありじごく)を連想させた。それは一度落下すれば、これ以上落ちないよう踏ん張ることはできても、()い上がることが極めて困難に思える存在だった。

 たとえ、今は小さな沼や蟻地獄であっても、放置すれば次第に状況が悪化するし、いつか救助されたり、ふとしたきっかけで自力で抜け出せたとしても、傷や怪我を負うことも充分にあり得る。


 そこにアルフェラッツという三角帽子を被った救急隊員が、自分の前にロープを垂らしてくれた訳である。だが、明弘はロープを(つか)もうとせず、密閉された空間に座り込んでいる。


 ロープを握るか、それとも無視し続けるか。

 無視するとして、後遺症が残っても後悔しない自信はあるか――?


「……思い切って、言ってみるか」


 少年は半身をベッドから起こした。助けてくれと叫ぶ決意を胸に固めたのである。

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