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第4話 その1 魔女の朝

 魔法使い達が暮らす魔界(まかい)と、魔法を使わない人間達が暮らす無界(むかい)は、お互い別の次元に存在し、それぞれの世界を支配する常識も異なっているが、共有されている(ことわり)も多く存在する。

 時の流れ方や肉体の構造が、その最たる例である。


 魔界での時間の区分法が、無界におけるグレゴリオ暦(太陽暦)と同様、一日二十四時間、一週間を七日、一月を三十日前後、一年が三六五日となっており、分秒も六十進法が採用されている。魔界の一分は無界でも六十秒であり、無界の一年は魔界でも三六五日となるのだ。


 従って、魔界の常識で無界のインスタント食品を調理することが、実際に可能である。また、四年に一度の周期で生じる時のずれを修正するための閏日(うるうび)もあり、他にも太陽暦以外の魔界独自の暦法も存在する。


 魔界と無界の常識の共有は、人体の構造や生理学的機能も同じである。肉体を構成する物質や、神経伝達、ホルモン分泌のメカニズム、臓器の位置や機能においても、一つも違う所はない。

 魔法でエネルギー代謝を抑制したり、身体機能を強化することはできても、怪我や病気、そして死からは完全に逃れられない。


 折れた骨を繋いだり、体内のウイルスを駆除する魔法は存在するが、専門的知識を持たない者には完全な治療の代替(だいたい)には至らず、医者の診察や、彼らの元で適切な治療を受けることが、魔界では推奨(すいしょう)されている。


 五感の知覚や睡眠のメカニズムも、例外ではない。


 第六感を備えていない限り、あるいは何らかの病変に脳や感覚器官が(おか)されていない限り、魔界人にしか見えない物や、無界人にしか聞こえない音が存在することはない。

 外界からの事象(じしょう)の感じ方も、互いに同じである。甘い物を(から)いと受け取ることなどないし、有機物の腐敗臭に恍惚(こうこつ)感を覚えることもない。暑いと寒いを取り違えることだってない。


 睡眠時は、脳内のメラトニンの分泌量が低下すると、眠りの国へと続く城門が、魔界人や無界人の区別なく出現し、大きな門戸を開けて人々をいざなう。


 扉をくぐり抜けると、レム睡眠とノンレム睡眠の波間に揺られて心身に安らぎを与え、朝が訪れると、陽の光と共にやってくる眠りの国の番人達に叩き出されて現実世界へと帰還するのだ。

 メラトニンの量が減れば、扉は再び彼らの心に出現する。成人の場合、睡眠時間が八時間未満だと、睡魔が人々を眠りの国への郷愁(きょうしゅう)を抱かせるのである。


 魔法使い達が、無界でも何とか順応(じゅんのう)して生きていけるのは、あちら側とこちら側で、大半の常識が共有されているからという面が非常に大きい。


 だが、互いの常識が通用しない場合も数多くあり、魔法使いが無界の人々を困惑させることも中にはあるが、それはまた別の話である。


 もっとも、常識が通用しない場合を好む人間も、少なからずいるのだが……。


     ★    ☆    ★


 朝の光と共に眠りから覚めたアルフェラッツは、大きなあくびをした。緩やかな黒髪は寝癖でやや乱れており、琥珀(こはく)色の瞳も半ば錆びつつある金属のように、精彩(せいさい)な光を放っていなかった。


 眠りの国から追放された人間が最初に必ず浮かべる表情を、アルフェラッツも顔に貼り付けていた。寝起きの顔である。


 グレーの寝巻きに身を包んだ黒髪の魔女は、立ち上がって数歩ほど歩いてから、あることに気づいて足を止めた。半秒後に、悪寒(おかん)が背中を支配し、見えざる手によって心臓を握り潰され、眠気を(まと)った頭が覚醒した。


 ――そうだった……。すっかり忘れていた。


 彼女のつま先から先の空間が、断崖絶壁のように存在しなかったからである。

 そこから先にあるのは宙空(ちゅうくう)で、さらに真下には、多くの建造物の頭頂部が、視界一面に広がっていた。


 あと、もう半歩を歩けば、黒髪の魔女は足を踏み外して墜落(ついらく)していたところだった。


 アルフェラッツは空中で魔法の絨毯(じゅうたん)を広げ、それを布団代わりにして眠ったのを、航空写真のような光景を寝ぼけ(まなこ)に映しながら思い出すのだった。驚きによるフリーズが解凍されるのを感じつつも、その時に背面を(おお)った汗の皮膜(ひまく)が、再び彼女の背中をわずかに冷やした。


『どうした? 絨毯の(ふち)にボーッとつっ立って』


 背後からクラズの声が聞こえてきた。体ごと振り向かず、首だけを声がした方に向けて、アルフェラッツは浮遊している黒い小鳥に応じる。


「あ、おはようクラズ」

『おうよ。……お前、寝ぼけてたろ』


 クラズは目の前の光景と、主人の顔に、わずかにこびりついた眠気の残滓(ざんし)から想像した推理を、(あき)れたような声音と共に示した。小鳥の姿をしているので表情こそは読み取れないが、使い魔の周囲から呆然のオーラが、何の躊躇(ちゅうちょ)もなく(あふ)れていた。

 ……どうしようもない真実に、魔女は無言で首肯(しゅこう)するしかなかった。


『にしても、空から落ちそうになるとか、アルフにしちゃ珍しいな』

「ここ最近、地上で寝ていたから、空中で寝ていたことを忘れちゃってね……。ベッドから起きて、部屋を出る気分だったわ」

『絨毯を引っ張り出したのも数ヶ月ぶりだもんな。仕方ないと言やぁ、仕方ないか』


 魔法使い達は全員が全員、(ほうき)に乗って移動する訳ではない。魔界の文化や移動環境、状況によっては、魔法の絨毯を使用する場合もある。

 箒と絨毯を無界の乗り物に置き換えると、箒は自転車やバイク、絨毯は乗用車やトラックとなる。魔界において絨毯を布団として寝ることは、無界人が車中で寝泊まりするのと、感覚的には同じなのだ。


「とりあえず顔を洗って、身だしなみを整えましょうか」


 そう言って、二歩後退する魔女だった。


『いや、先に朝飯にしようぜ。歯ぁ磨いて、飯食って、もう一回汚れた歯を磨くのは二度手間だ』

「そうね、何がいいかしら」

『スクランブルエッグとベーコンと、あと焼いたパンが食いたい』

「解ったわ、じゃあ作るのを手伝ってくれる?」

『オッケー』


 返事と同時に、クラズの周囲に、食器と食材と調理器具が現れた。

 卵四個とベーコン四枚、厚切り食パンに塩胡椒とサラダ油。フライパンと菜箸とボウル、そして二枚の中皿……。

 黒い小鳥を太陽とし、個性も形も様々な惑星が公転している。


 ボウルの中に、殻を破った四個の卵と塩胡椒が入ると、菜箸が白身の泉に両足を突っ込んで、バレエを踊り始めた。粗野ではあるがダイナミックなターンによって、半透明だった泉が徐々に黄色に染まっていく。


 その間、アルフェラッツは両手を前に突き出して、(ささや)くように呪文の詠唱(えいしょう)をした。魔法の言葉を唱え終えると、赤い光と炎を放つ魔法陣が空中に出現する。


 魔法陣の上に、サラダ油を垂らしたフライパンを添えると、鍋底からふつふつと気泡が立った。その中にベーコンを放ると、焼き色がつくと同時に香ばしい音が上がる。


 ベーコンを皿に乗せ、続けてフライパンの上に卵を垂らす。菜箸で卵をかき混ぜると、まるで朝陽に照らされた雲のような、ふんわりとした形を成していく。


 その間クラズは、食パンを二枚トーストしていた。切断魔法で二枚分切って、アルフェラッツと同じ加熱魔法でパンを焼く。


 スクランブルエッグが焼き上がるのと同時にパンも焼き上がると、黄色い雲とトーストが陶器の円盤の上に乗っかる。朝食の完成である。


「これでよし、と……。じゃあ、いただきます」


 使用済みの食器を魔法で消して、アルフェラッツは言った。

 黒髪の魔女と黒い小鳥の朝は、一緒に朝食をとることから始まるのだ。


     ★    ☆    ★


「さて……今日は誰のところに行こうかな」


 朝食を終えたアルフェラッツは、パジャマから黒い魔女の礼装へとドレスアップした。洗顔も歯磨きも終えて、苦悩解決のために空を飛び回る、いつもの姿になっていた。乱れた黒髪も綺麗に整っている。


『マーキングしてたヤツはどうした』

「昨日の内に大方解決したわ。まだ何人か残っているけど」

『はぁ〜、すっげぇな。確か結構深刻な悩み抱えたヤツだったろ』


 クラズは感心する。黒い小鳥の主人は、相変わらず苦悩解決に熱心である。


『じゃあ今日は、俺がマーキングしたヤツの所に行くか』


 クラズは目から光を放ち、主人の前でホログラムを映す。すると、高校生と思われるある人物の姿が浮かび上がった。彼がマーキングした、苦悩を抱いた少年だ。デスクに座っているホログラムの中の少年は、一冊のノートを前に頭を抱えていた。苛立ちにも似た気難しい表情を浮かべている。


「この子は……勉強で悩んでいるのかしら」

『ノート広げてうんうん唸っていたから、多分そうだろうな。荒い鼻息と溜め息を交互に吐いてたし』

「その割には、教科書も資料集も広げていないわね」

『それがアイツの勉強スタイルなんだろ。ノートの中身が見えなかったから、何の教科で悩んでいるかまでは特定できなかったがな』


 言って、クラズはホログラムを消し、アルフェラッツの方を向く。


『で、どうするよ?』

勿論(もちろん)行くわ」


 即答するアルフェラッツ。


「確かこの時期になると、中学生や高校生は中間テストっていう試験を受けなきゃいけないから、彼もテストで悩む人間の一人ってことになるわね」

『だとしたらアイツ、よっぽど自信ないんだな……』


 今は5月中旬で、時期的には、あと数週間で6月に差しかかろうとしていた。

 黒髪の魔女の推論通り、この時期の無界の学生達は、中間テスト――中間試験や中間考査と呼ぶ場合もある――という数日に渡る連戦を、事前に予告されているとはいえ、余儀(よぎ)なくされるのだ。一年に五回行われる机上(きじょう)でのシビアな戦いは、ある路線で進学を目指している学生にとっては、結果がそのまま自身の未来に直結する。高得点を取れば選択肢の幅が広がるが、低い点数を取ると、選択肢が狭まってしまう場合もある。


 アルフェラッツにとって、学生から切迫した空気を感じ取るのは、毎年何度か経験する恒例行事となっていた。

 そして心臓や胃を(むしば)まれるような彼らの表情を見る度に、自分もそうであるかのような錯覚を覚えるのである。


「……とりあえず、彼が家に帰るのを待ちましょうか。今日は平日だし、学校に行っていると思うから」


 こうしてアルフェラッツとクラズは、ターゲットが帰宅する夕刻まで待つことにした。

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