第3話 その4 サプライズとアクシデント
太陽が地平線に頭を沈める時間になって、使い魔クラズは無形のサプライズを両足に抱え、アルフェラッツの元に戻った。
得られた成果は望み通りの物ではなかったが、膠着していた頭痛の種を解消する薬としては大きかった。ミルファークに連なる者達――魔術師ディアデムと使い魔ゾズマ――に会えただけでも、充分な収穫だった。
その上、後日に再開するという約束も取りつけてあるのだ。よく考えてみれば、今日の内に、黒髪の魔女と赤髪の魔女を引き合わせるのは、高望みだったかもしれない。
唯一の心配は、ディアデムがミルファークへの報告を渋ることと、再開の約束を反故することだが、きっと大丈夫だと思う。主人のことをよく理解しているゾズマが、きっと正直に今日の出来事を打ち明けてくれるはずだ。
もっとも、当の主人が何らかの理由で変わっていれば、話は別だが……、ディアデムが話してくれた、ミルファークがアルフェラッツに会いたがらない理由から、恐らくそれも心配するだけ無意味だろう。
――友情に亀裂が生じたら、友人思いのミルフィはどう思うだろうな。
――ミルファークの居場所を教えた方が、後々面倒なことにならないと思うがな。
脅迫めいた推論を聞いて、そのまま無視を決め込むことを、あの黒猫はきっとしないはずだ。
アルフェラッツの気配を辿っていく内に、ある一軒家の屋根の上に腰を下ろしている、黒い三角帽子と黒衣に身を包んだ女を、クラズの瞳が捉えた。そこを目指して飛ぶと、女もそれに気づいて、こちらを向いた。アルフェラッツだった。普段クラズは、彼女の肩か帽子の上に止まるが、今日は左手の人差し指に止まった。
『帰ったぜ』
「おかえりクラズ。……で、結局どうしたの?」
言って、黒髪の魔女は左手を動かし、琥珀色の瞳にクラズを収める。疑問は当然、突然飛び出した理由についてだった。
『喜べアルフ。お前にとって、ささやかなグッドニュースを持って帰ってきたんだ』
「グッドニュース?」
やや高揚しているクラズの言葉を、怪訝の表情と共に反復する黒髪の魔女。
『ディアンの所に行ったら、アイツ、ゾズマと一緒だったんだ』
『ゾズマ』という固有名詞が、無音の雷と化して、アルフェラッツの精神に強く激しい衝撃を与えた。クラズを見る目が瞬時に大きく見開かれた。口も放心したみたいにわずかに開く。その名前が何を意味するのか、夜色の髪を持つ魔女は、洞察する必要がないほど深く理解していた。
「えっ……? 嘘、え?」
アルフェラッツの声が微かに震える。
「ゾズマって……。じゃあ、じゃあミルフィに」
『落ち着け。残念ながらそこにいたのは、ディアンとゾズマだけだ。赤髪の女の子はいなかった』
主人が言い終えるのを待たず、黒い小鳥は目を瞑って否定した。赤髪の女の子というのは、ミルファークのことである。
そこからクラズは、金髪の少年と黒猫の使い魔に遭遇した後の一連の出来事を説明した。ディアンはミルフィとゾズマの二人と一緒に行動していること。ミルフィは本当にアルフに対して嫌悪を覚えている訳ではないこと。そして、会いたがらない本当の理由は、アルフェラッツに対して気まずい感情を抱いているからということ――。
『で、後日アイツらとまた会う約束をしたんだ。向こうも俺に会ったことをミルフィに報告するらしい』
「そうなんだ……」
落胆と安堵がアルフェラッツの感情のベンチに居座った。落胆はミルファークの自分に会いたがらない理由が、やや不明瞭であったことに。安堵は友人達の言葉通り、自分を嫌っている訳ではないということにである。
しかし、ベンチを支配する面積が大きい感情は、安堵の方だった。クラズの予想通り、もたらされた情報がミルフィの探索に大きく働いたからである。
「ありがとうクラズ。とってもいいことをしたわね」
『別に礼を言われるほどのことじゃねえ。失くしたブローチのあった場所を思い出したってだけの話だ』
「それでも、ね」
そう言って、右手の指で黒い小鳥の頭を撫でるアルフェラッツだった。
『んで、そっちはどうだ?』
「今から悩んでいる女の子の家に行くの。って言っても、私が腰かけている屋根がそれなんだけどね」
『これから解決か』
「そう。あと調べてみたら、その子の両親は何日か家を空けることが多いから、一人でいることが多いらしいの。……もしかしたら、久しぶりにホームステイができるかもしれないわ」
魔女は小さく微笑む。
『だったら、悩みは「家族と一緒にいたい」だろうな。……ま、本当の悩みは家に入ってからのお楽しみか』
「そうね。で、そろそろ行く?」
『ああ』
「じゃあ……よいしょっと」
言って、アルフェラッツはゆっくりと腰を上げた。同時にクラズも、主人の左手の指から帽子の上に、止まる場所を変えた。
ミルフィの情報が判ってよかったけれど――と、黒髪の魔女は、屋根を下りながら思案する。赤髪の魔女が自分自身に対して抱いている気まずさとは、一体何のことだろう?
今までアルフェラッツはミルファークに対して、『何か悪いことをしたのではないか』と考えていたけれど、姿を隠しているミルフィ自身も、自分と似た感情のヘルメットを被っていたとは意外だった。
しかし、当のアルフェラッツは、自分がミルファークから気に障るようなことを言われたことも、された記憶もない。仮に実際にあったとしても、彼女はそれを引きずるようなタイプではないし、それ以前に「口が過ぎた」と、すぐに自分の非を認めて謝る。
赤髪の魔女はクールな性格ではあるが、毒舌家でも、皮肉屋でも、まして冷淡でもないのだ。
ミルフィが私を避けるほどの気まずさの正体は何なんだろう?
黒髪の魔女は、思案の平原へとそのまま歩を進めようとしたが、悩んでいる女の子の部屋の窓が、朝焼け色の瞳に映ったため、考えるのを一旦やめた。
悩みを解決する魔女としてのスイッチを入れるためだった。
★ ☆ ★
無形のサプライズを持ち帰った者は意気揚々としていた。
しかし、思わぬアクシデントに遭遇した者達は、喪服のような黒いベールを気分に纏っていた。
同じ頃、金髪の魔術師ディアデムと、ゴスロリ姿の少女に化けている使い魔ゾズマは、鬱屈の文字が大きく書かれた見えざる鎖付きの鉄球を引きずりながら、あるアパートの玄関前に辿り着いた。そこはミルファークの家だった。
無界を飛び回りながら生活しているアルフェラッツと違い、赤髪の魔女はアルフィルクと同様、この世界での拠点を構えているのだ。二人は赤毛の主人と一緒に住んでいる。
玄関の向こう側にいる何者かに、活気の欠けた視線を向けながら、ディアデムは言葉を溢す。
「本当にミルファークに伝えるつもりなのか?」
「仕方――ううん、クラズとの約束だから、はっきりと伝えるわ」
仕方ない、と言いかけて、ゾズマは訂正する。黒い小鳥が提示した脅迫めいたシミュレーションを聞かされた以上、赤髪の魔女に仕えている使い魔としては、見過ごす訳にはいかなかった。
いや、本当は頭の片隅で、『このままではらちが明かない』と理解していた。それでも無視をし続けたのは、赤髪の主人の意向だからである。
ゾズマも内心では、アルフェラッツとの再会と和解を望んでいるのだが、それらをミルファークが拒み続けているため、黒い猫は、アルフと再会させたい、でもミルフィの思いを汲まなければいけない、というジレンマに挟まれていた。
そして立場上、自分個人の感情より、主人の感情を優先しなければいけないため、ゾズマは歯がゆい思いをしていたのだ。
思わぬアクシデントに遭ったとはいえ、こうなるのは運命だったのかもしれない。いつまでも無視を決め込むにも限界があり、今日がその時だったのだろう。
「そうか……解った」
ゴスロリ姿の少女の独り言めいた言葉に、ディアンは小さく頷いた。
ディアデムも、ミルファークが黒髪の魔女に会いたがらないことを知っているので、クラズとの遭遇を報告することに躊躇を覚えていたが、ゾズマの本音を聞いて、ためらいが吹っ切れた。
金髪の少年は視線を玄関に移し、アパートのドアを開ける。
「ただいまー」とゾズマが言い、「帰りました」とディアデムが後に続いて言う。
2LKの部屋の奥から、薬品らしき匂いが漂ってくる。少年と少女が匂いのするリビングへと足を運ぶと、魔女の正装の上に白衣を着て、何かを作っている一人の女がいた。
テーブルの上には、黄緑色の液体がフラスコ内で沸騰しており、それ以外にも、いくつかの実験器具が同様に置かれていた。
「おかえり二人とも」
と、金髪の少年とゴスロリ姿の少女に気づいた赤髪の魔女は、サファイアブルーの両目をフラスコからわずかに動かして、二人に応対した。
ミルファーク。それがディアデムのパートナーであり、ゾズマの主人である、この魔女の名前である。彼女はワインレッドの長髪が薬品で汚れないよう、ヘアゴムで髪を一本に束ねていた。
「また一体、何をしているの?」
ゾズマは言う。
「薬品を調合しているのよ」
視線を沸騰している薬品から離さずに答えるミルファーク。彼女と同じく、黄緑色の液体を見ながらディアデムは、
「薬品って、これアルフィルクさんの所で貰った魔法アイテムですよね?」
「そうよ」
「完全した薬品の成分を分解して、独自にアレンジしているんですね」
「そう」
ディアデムの推論に、ミルファークは肯定の意を込めた簡素な返事をする。調合に集中しているのか、冗長な会話を無駄だと考えているのか、赤髪の魔女は単純な応答しかしなかった。
ゾズマのそれには遠く及ばないが、赤髪の魔女と共に長い時間を過ごしているディアデムは、それが前者であることを理解した。無関心とも受け取れる単純な返事に気分を害することなく、金髪の少年は、一瞬だけ下を向いてから、数時間前に遭遇したアクシデントに関する話題を切り出した。
「ミルファーク、あなたに伝えておかなければいけないことがあります」
全てを伝えようと腹を決めはしたものの、彼の口から発せられた声は、わずかな狼狽のビブラートがかかっていた。ゾズマとの関わりの中で、無意識に心の苗床に植えつけられた、『あの人の前で、アルフェラッツについての話題は出さない』という不文律の脱皮に、後ろめたさを覚えていたからである。
ディアデムは、不必要な動揺をするような人間ではないが、かと言って、あの黒い小鳥の姿をした使い魔みたく、図太くもなかった。
「……何があったの? 少し声が震えているけれど」
薬品を調合する手を止め、初めてミルファークは顔ごとディアデムの方を向いた。少年の微かな異変を、魔女は見逃さなかった。それがまたディアデムの胸をゆっくりと締めつけた。
「今日、アルフェラッツという魔女の所に、一人で会いに行ったんです」
『アルフェラッツ』というワードが爆弾と化して、ミルファークの脳裏と心臓に強い衝撃を与えた。遅れて、ディアデムを見るサファイアブルーの両眼に、三つの色彩――動揺と驚愕とわずかな怒り――が複雑に混ざり合う。それはワインレッドの髪を持つ魔女が、今までディアデムの前で見せなかった姿だった。
「それで――」
「もういいわ。それ以上言わなくていい」
ミルファークは赤い髪を小刻みに横に揺らし、金髪の少年の言葉を冷たい口調で遮った。彼の口ぶりで、経緯の大まかな輪郭を理解したのだ。
「アルフかクラズ、あるいはその二人に、自分の背後関係がバレたと言うんでしょ?」
「……はい、その通りです」
ディアデムは、まるで教師から説教を受けた生徒のように小さく頷いた。
そして少年はゾズマと共に、アクシデントに遭遇した経緯を説明した。アルフェラッツに会おうとした理由は、ゾズマから聞かされた彼女の話で興味を持ったこと。会いに行く際、自分の素性が判明しないよう注意は払ったこと。しかし、猫の姿のゾズマと関わったため、匂いでクラズに感づかれたこと。そして、後日またクラズと会う約束を取りつけていること――。
「申し訳ありませんでした」
「ごめんなさいミルフィ」
二人はミルファークに謝罪をして、説明を終えた。
……話を聞き終えたミルファークは、俯いて小さな嘆息を漏らした。感情を取り乱して、ディアデムとゾズマを責めることはしなかった。
間接的な主因を作った使い魔に悪意がなかったのは、態度からして明白だし、大人びた印象を与える金髪の少年も、まだ少年と言える年齢だから、興味だって湧く時はある。
怒りは湧かなかったが、何とも言えぬ感情の霧が、赤髪の魔女の心の花園を覆った。
そんな主人を見かねて、気遣うようにゾズマは口を開く。
「ねえミルフィ、やっぱりアルフに正直に伝えた方がいいんじゃないかしら。私達三人がやっていることを――」
「嫌よ。それを言ったら、アルフに不快な思いをさせてしまうわ」
ミルファークは聞き分けの悪い子供みたく、あくまで頑なにアルフェラッツとの再会を拒んだ。紺碧色の瞳に、否定の文字が大きく浮かぶ。
少女に化けた使い魔は、魔女の両目を見据えて、はっきりと言い切った。
「さすがにこれ以上隠し通すのは限界よ。私の不手際で運悪くクラズに感づかれてしまったけど、遅かれ早かれ、今日みたいな時は来ると思うわ」
ミルフィの友人達は、彼女の意向通り、黒髪の魔女に対してミルフィに関する情報を黙秘している。そのことにアルフは相当、心を痛めており、些細な出来事がきっかけで、溜まりに溜まったアルフのフラストレーションが暴発し、赤髪の魔女達の間に繋がれた友情の鎖が断ち切られるのを、クラズは懸念しているのだ――と、ゾズマはクラズの心配事を伝えて、
「たかが二年の歳月かもしれないけど、あの子にとっては長い時なのよ。向こうはずっと耐えてきたんだから、今度はミルフィが、アルフを傷つけたくないという思いを我慢して、全てを正直に打ち明けたら?」
主人に対し、自分の思いを進言するゾズマだった。声音には、二人の関係は少しのことでは崩れないはずだ、という小さな自信が秘められていた。
「…………しばらく考えさせてくれる?」
対照的に、使い魔と目を合わせず、力なく言うミルファークだった。ディアデムは二人にかける言葉が見つからず、彼女達を見て沈黙するしかなかった。