第3話 その3 少年と小鳥と猫と
魔女アルフェラッツとの対面を終えたディアデム少年は、空中で静止している、ある少女の後ろ姿を確認すると、それを目指して接近した。
ディアデムと同年代と思われる少女は、整ったしなやかな肢体を、装飾が少なく丈の短い漆黒のゴシックドレスで包んでいた。茶褐色のミディアムボブに、目尻が少し吊り上がったヘイゼルの両目。側頭部に灰色のリボンを一対ずつ身につけている。宙に浮いている点を除けば、人形みたいに綺麗な顔をした少女だった。
ゴスロリ姿の少女は、ディアデムが近づいたことに気づくと、
「どうだった? アルフに直接会ってみた感想は」
と、体ごと振り返って言った。金髪の少年は少女と目が合うと、肩を竦めた。
「数週間前に遠くから見た時の印象通りさ」
「実際に会ってみても、全然違う?」
「違うな。やっぱりあの人とは正反対だった」
「そう……」
少女は小さな笑みを口角と目元に浮かべる。
「それにしても本当に意外ね」
「何がだよ」
「ディアンが『誰かに会ってみたい』って言って、それを実行に移すの」
思わせぶりに前屈みになり、上目遣いで金髪の少年を見る少女だった。ディアン少年は思わず目を逸らす。
この黒いゴスロリ服を着た少女は、甘えるような態度で接して、相手を翻弄させることが時々ある。かと言えば、冷淡とまでは言わないが、突き放すような態度をとる時もあるため、少女の気まぐれぶりにディアンは困憊するのだ。
少女に言わせれば、普段、他人と積極的に関わろうとしないディアデムが、『誰かに会いたい』という興味と感情で動くのが、珍しくて仕方がないのだ。
彼女はディアデムと出会ってから、アルフェラッツについての情報を、時々彼に吹き込んでいたのだが、話題に対して、適当ないし素っ気ない返事で応対するばかりの若い金髪の魔術師が、まさか『実際に会いに行く』という行動を起こすとは、微塵も想像していなかったのである。
「やっぱり普段クールでも、こういう時は男の子なのね」
「そりゃ俺はまだ、煙草を吸っていい年齢じゃないからな」
「お酒はいいんでしょ?」
「まあ……いや、この国じゃ二十歳にならないと、大人のスターダムを駆け上がれないから無理か」
首を横に振り、黄金色の髪を揺らすディアデム。
黒いゴスロリを着た少女の指摘通り、ディアデムは、自分があらゆる物事や人に対し、やや無関心な人間であることを自覚していた。そんな彼が、アルフェラッツに関心を寄せたのは、少女が何度も黒髪の魔女についての話題を持ち出したからだった。
マダム・アルフェラッツに直接会ってみよう――と、心に強く決定づけたのは、少女の会話の断片から、『あの人』と違うと思ったからだった。脳裏に浮上した感想が、ディアデムの深層心理のベッドで眠っていた好奇心旺盛な少年の感性を揺さぶり、彼女に会いに行く、という行動へとステップアップさせたのだ。
そのことに感嘆しつつ、少女は上体を起こし、左手の指でミディアムボブを撫でるように梳かしてから口を開いた。わずかに鋭い上顎の犬歯が、彼女の唇の下から少しだけ顔を覗かせた。
「でも、本当にアルフの顔を見るだけだったのね」
「正直、会っても話すことがなかったからな。でも、単に顔を見たかったって言うのも失礼な気がするから、理由は一応、『あなたの噂を耳にして興味を持った』って言ったんだがな」
「間違ってはないけど……」
「それに、お前がアルフェラッツさんの話題と一緒に持ち出していたクラズが、探るような目で俺のことを見てきたから、やばいと思って――」
『残念だが、手遅れだったな』
急に脳内に侵入した謎の声が、金髪の少年とゴスロリ姿の少女の会話を遮った。顔が不意に引き締まったディアデムと少女は、慌てて声の発信源を探る。
『上だよ、上』という言葉で、声の主がどこにいるのか特定できた。二人は首を上げた。
『よぉディアン、俺が睨みをきかせたら急に逃げ出すとか、動物嫌いだとしても失礼なんじゃないか?』
そこには翼を広げたまま、空中に制止している黒い小鳥がいた。小鳥は二人の目の前まで近づくと、絡むような口ぶりで少年に言った。
居場所を特定された驚愕と、詰めが甘かったという後悔の、見えざるベールを顔に貼りつけているディアデムから、クラズはゴスロリ姿の少女に視線を移した。
『……それと久しぶりだな、子猫ちゃん。こうして会うのは二年ぶりか』
少女は少年とは違い、見つかった、とでも言いたげな、気まずさをはぐらかすような苦笑を浮かべて俯いていた。
指で毛先をいじって平静を装ってはいるが――頭に響いた声に喫驚した際に飛び出た、黒い猫の耳と長い尾は、隠しようがなかった。
『なあゾズマ、お前の主人はディアンじゃなくてミルフィのはずだろ? 喧嘩別れでもして、金髪の王子様の懐に飛び込んだのか?』
「…………こうなったら、もう隠せないわね」
ゾズマと呼ばれたゴスロリ姿の少女は、開き直ったように呟いて、指を鳴らすと同時に、全身に淡い紫の煙を纏わせた。
……煙のカーテンが二秒ほどで晴れると、ヘイゼルの目を持つ黒い猫が、空中を浮遊していた。先程まで黒いゴスロリを着ていた少女は、姿を変え、人の胸の中に抱えられるほどのサイズにまで縮小した。小鳥のクラズよりは大きかったが。
――魔術師ディアデムと、黒猫の姿をした使い魔ゾズマ。
――この二人を繋げているのは、きっとアイツに違いない。
クラズは両目に、黒猫と若い金髪の魔術師を映してから、嘴を開いた。
『さて……。ディアデム、ゾズマ、お前らがどういう関係なのか、あとミルファークがどこにいるのかを、全部話してもらおうか』
★ ☆ ★
ゾズマは赤髪の魔女ミルファークの使い魔である。
仕事はクラズと同様、主人のサポートや苦悩を抱えた者の探索がメインだった。使い魔としての姿は黒猫だが、彼女は少女の姿でいる場合が多く、ミルファークの名だけを知っている大半の魔法使いは、ゾズマを彼女の弟子だと誤認してしまう。親しくない者の前で、滅多に変身を解かないこともあって、弟子であるという誤解――別に気にしたり、解いたりするほどのレベルではないが――をさらに増長させていた。
ミルファークの弟子と言うべき立場にいるのは、金髪の魔術師ディアデムである。だが、弟子の肩書きは便宜上の物で、厳密にはそれではなく、利害の一致したパートナーとして、赤髪の魔女と黒猫の姿をした使い魔と一緒に活動している。
年齢は十七歳で、無界に来てから一年が経過したのだが(魔界人は十六歳になると、人々に幸せを振りまくために無界へと旅立つ)、多くの苦悩を解決していく内に、魔法使いとしての使命に疑念を抱き、この先の活動に対するスタンスについて悩んでいた所にミルファークと出会い、紆余曲折があった末、共に行動するようになった。
ディアデムとゾズマが一緒にいるのは、ディアデムがミルファークから、使い魔を借りているからである。
ゾズマにとって、ディアデムは一時的な仮の主人であり、本来の主人は、やはりミルファークのままだった。
『なるほど、じゃあ喧嘩別れをした訳じゃないんだな』
『それはそうよ。ミルフィとは契約で結ばれているんだから、一時の感情じゃ簡単に離れられないわ』
『ごもっともだ』
黒猫ゾズマは答える。クラズは相づちの代わりに、瞬膜を閉じた。
『で、ディアン』
「……何だよ」
『いつまでも居場所がバレたことを引きずんな。お前がアルフに会った時点で、遅かれ早かれ、こうなっていたんだよ』
黒い小鳥は悟すように言った。
クラズが初対面のディアデムに既視感を覚えたのも、そこからミルファークとの接点を見出したのも、全てゾズマの匂いのおかげだった。二年ほどの空白や、普段ゾズマが人間の姿で活動していることもあり、それが彼女の獣としての匂いであることを忘れかけていたが、思考の深海に散在している記憶の石を一つずつ探っていく内に、彼は匂いの正体を思い出すことができた。
金髪の少年から感じた郷愁は、ゾズマと関わった記憶だったのである。
『やっぱり猫の姿のまま、ディアンと話したのがまずかったのね』
ゾズマの独語から後悔のエッセンスが漂う。
『戻った?』
『狭い所を通る時、人間の体じゃ通れなかったから猫に戻ったのよ。そのままアルフの所に行こうとしたディアンと関わったから、ニオイがついたんだと思うわ』
『おいおい……まあ、とりあえず、お前らに訊きたいのは、たった一つだ』
と、クラズは嘴で翼の付け根をつついてから、
『ミルファークがどこにいるのか教えろ。俺の主人がずっと頭を抱えてんだよ』
二人を見据え、脅迫めいた強い口調で詰問した。黒い猫との再会も、金髪の少年と初対面であることも、関係なかった。全ては悲しみの淵にいる、黒髪の主人のためだった。
「…………」
『…………』
ディアデムとゾズマは沈黙する。ディアンは頭を掻いて。ゾズマは俯いて。
黒い小鳥の問いに、答えを発したのはディアデムだった。
「クラズ……悪いがミルファークの居場所を教えることはできない」
『何だと? お前――』
「その代わり細かい理由を教えてやる」
声を荒げようとしたクラズの言葉を遮り、若い金髪の魔術師は続ける。クラズは嘴を閉ざした。
「ミルファークがアルフェラッツさんに会いたがらない理由は、アルフェラッツさんに対して気まずさを覚えているからだ」
『気まずさ?』
「ああ、きっとアルフェラッツさんの友達からは、『嫌っている訳じゃないから心配するな』って伝えられているだろ? その理由は純粋にあの人が、アルフェラッツさんに気まずい感情を抱いているからなんだ。……俺とゾズマの口から言えるのは、今の時点では、それだけだ」
一言も理由を語っていないゾズマの名前を出したのは、きっと彼女もこれ以上は口にしないだろう、と思ったである。事実、黒い猫はディアデムに、勝手に自らの名前を出されたことを咎めなかった。
『まあ理由は解った。けどよ、それだけでアルフが釈然とするとは思えねぇんだよ』
お前はアルフの全てを知ってる訳じゃないから、何のこったとは思うだろうがよ――と、ディアンに向けて黒い小鳥は言う。口ぶりはまさに不服と詰問のダブルミックスだった。
『アルフはずっと、ミルフィに会えないことに心を痛めてきたんだ。姿を隠すだけならともかく、二年も音信不通だから、「嫌われたんじゃないか」って凹んでんだよ。まして他のヤツとは連絡取って会ってるって言うんだから、なおさらだ』
クラズは昨日の主人を想起しながら、俺が一番不安なのはな――と続ける。
クラズが懸念しているのは、アルフェラッツの負の感情の積乱雲が激しい竜巻と化して、ミルフィに関する情報を黙秘し続けている友人に襲いかかることである。アルフェラッツが穏和な人間で、激情に駆られることが滅多にないことを、彼女との長い付き合いで知っているが、それは短気でないのであって、怒りの感情が欠落している訳ではない。心が広い彼女にも我慢の限界はあるのだ。
もしもアルフェラッツが、暴言や直接的な行動などで、アルフィルクといった友人を傷つけたら、二人の友情の架け橋が、音もなく崩落してしまう。
憤激の台風の後に残るのは、後悔と溝だけだ。たとえ理性の陽光が閉ざされていたとしても、被害者もそれを理解しているとしても、充満する罪悪感の霧は簡単に振り払えない。
アルフェラッツやアルフィルク達の友情にひびが入ることを何としてでも避けたい、と、クラズは思っているのだ。
『アルフは二年間、ミルフィに会えない辛さに耐えてきたんだ。「その我慢の糸がある日プッツリ切れて、フィルやシェダルに当たり散らした」って話を聞いたら、ミルフィはどう思うだろうな。アイツは愛想あんまりよくないが、友人思いだからな――』
意地の悪い口調で締めくくるクラズだった。先の想像は、アルフェラッツが強靭なメンタルの所有者ではないこと、ミルファークが友人を大切にする人間であることから推論した、脅迫のニュアンスを含んだシミュレーションだった。
雪のように積もった事象の火種から想定して、起こる可能性はゼロではない。もしも喧嘩なり何なりが起これば、遠因はミルファークに帰趨する。赤髪の魔女はそれに耐えられるだろうか?
『俺の主人が爆発しない内に、ミルファークの居場所を教えた方が、後々面倒なことにならないと思うがな』
「……この話は俺とゾズマの一存じゃ、勝手に決められない」
ディアデムはクラズの要求に、難色の表情で首を横に振った。
「だが、今日の出来事をミルファークに伝えておく。話の続きはそれからだ」
『はぁ……。ま、ミルファークと関わってる人間に会えただけでも、デカい収穫か』
溜め息をつきつつも、クラズは了承の返事をし、ディアデムとゾズマに後日の再開と続報を約束させた。今日中にアルフェラッツとミルファークを引き合わせるのが理想だったが、何事も全てが上手くいく訳ないし、急かした所で、きっといいことはない。
小さな、しかし確実な成果を、両足でしっかりと掴むクラズだった。