第3話 その2 赤髪の友人と金髪の美少年
魔女ミルファークは、アルフェラッツの長年の友人の一人である。
芳醇な果実酒のようなワインレッドのストレートロングに、深く澄んだ海を連想させるサファイアブルーの瞳、その二つの宝石をより際立たせるのに一役買っている切れ長の目と、口元のほくろが特徴的な魔法使いだった。
すれ違えば誰もが振り向くような美貌と、安易に近寄りがたい神秘的なオーラを所有しており、長身かつスレンダーなプロポーションと相まって、モデルのように見える。彼女と親しい者からは、ミルフィという愛称で呼ばれていた。
そんなミルファークは真面目かつ冷静な性格の持ち主で、魔法学校に在籍していた頃は、筆記試験でも魔法実技でも高成績を収める優等生だった。だが、不器用で人付き合いも苦手な上に、愛想もあまりよくなかったため、人によっては冷淡な印象を与えていた。
持ち前の美貌故、男子からの人気は勿論あったが、言動と態度が、高嶺の花というイメージを少年達の脳裏の苗床に植えつけていた。ミルフィの周囲に漂う軽々しい接触を許してくれそうにないオーラは、彼女自身の立ち振る舞いによって、自ずと醸成された物だった。
しかし彼女は孤立することはなかった。アルフェラッツやアルフィルクといった親友に囲まれていたためである。
ミルファークは持ち前の明晰な頭脳で、友人達に魔法や勉強をよく教えていた。中間考査や期末考査の範囲発表に伴う勉強期間になって、アルフやフィルに泣きつかれる度に小さな嘆息を吐くのが、 学生時代、ミルフィ達の間でのささやかな恒例となっていた。
そんな彼女は今現在、黒い長髪と琥珀色の双眼を持つ、一人の親友を避けていた。
当の親友アルフェラッツは、自分が避けられている理由が判らぬまま、心を痛めている――。
★ ☆ ★
「今日は誘ってくれてありがとう。ご飯美味しかったわ」
『じゃあなフィル、真人の旦那によろしくなー』
アルフェラッツと、小鳥の姿に戻って主人の肩に止まっているクラズは、玄関の前でアルフィルクに別れの挨拶を交わしていた。真人というのはアルフィルクの夫のことであり、妻が魔法使いであることを、そして時々、友人達を招いて晩餐を開いていることを知っている。
「ええ、また美味しい料理を作ってあげる」
『うっしゃあ!!』
頭を上下に激しく動かす使い魔のリアクションに、フィルは若草色の双眼に微笑の色をたたえる。そして黒髪の親友に、申し訳なさそうに視線を向け、
「ねえ、アルフ」
「うん?」
「その、えっと……、私もミルフィへの説得を続けてみるから、気を落とさないでね」
「……解ってるわ。だからフィルもそんな顔しないで」
アルフは心配しないでという意を込めた笑顔を浮かべたが、苦みの色が強い。
夜色の髪を持つ魔女は、今日も失踪した友人に関する有力な情報が聞けずに落ち込んでいるのだが、フィルもフィルで、アルフに失踪した友人の現状を(強くかつ固く口止めされているために)伝えられないでいるのを、気に病んでいた。
「次に誘われた時は、いいワインも持って来るわね」
『赤ワインか、白ワインか、ロゼワインか、何がいいか決まったら、いつか連絡してくれよ』
アルフとクラズはそう言って、フィルの部屋を後にした。
ドアが閉まると同時に、アルフェラッツの感情の色調が、モノトーンレベルにまで一気に暗くなった。
クラズは主人の顔を横目に見ながら嘴を開く。
『なあアルフ――』
「解ってる。解ってるわクラズ」
黒髪の魔女は、クリーム色の髪を持つ友人に向けて言った言葉を、今度は己の使い魔に使った。声音の見えざる五線譜に、冒頭からメゾピアノが書かれていた。
「大丈夫よ、だから何も言わなくていいわ」
『あ、あぁ……』
アルフェラッツはわずかに残った笑顔のピースを、何とかかき集めて、クラズにそれを向ける。使い魔の言いたいことは理解している……つもりだ。彼はきっと、フィルを恨むなよ――と、言いたいのだろう。でも大丈夫。友人に対して先鋭化した負の感情を向けるほど、アルフェラッツの心の平原は荒廃していない。
フィルは友達との約束を遵守しているだけなのだ。
相手にも、それ相応の事情があるから、口に出せないのだ。
……しかし、そう言い聞かせても、鉛のように重たく沈む感情は、決して羽毛みたく軽量化することはなかった。そしてそれは、きっと軽くしてはいけない感情だった。
そんな主人の様子を見たクラズは、フィルを恨むなよ――と続けようとした口を閉ざした。ミルファークに関する明確な情報を聞き出せずにいるというフラストレーションが募っていくアルフェラッツを案じているのだ。彼女が簡単に人を恨むような人間ではないことは、長い付き合いで理解しているが、それでも不安のベールを破ることはできなかった。
人の感情は、好意を抱いた人間の好ましくない一面を見て幻滅するように、些細な出来事がきっかけで簡単に変質する。
アルフェラッツの精神の湖に沈殿していく鬱憤が、溜まりに溜まって水質が悪くなるのを、黒い小鳥は懸念しているのだ。
恨むことはなくても、苛立ちを覚える時はある。主人のその苛立ちが怨恨に変わり、さらに人を傷つける毒牙と化すのを、クラズは心配しているのである。
かける言葉を失ったクラズは、首の辺りを嘴でいじり始めた。毛づくろいと言うには乱暴過ぎた。それは漠然とした鬱憤を抱えた時の人間が、頭を掻きむしるのと同じだった。
黒髪の魔女は口を開いた。
「ねえクラズ」
『何だ?』
「私、本当にミルフィに会えるのかな」
『会えるさ。……会える』
クラズは激励したつもりだったが、声音から活気が欠如していた。生意気で豪胆な使い魔でも、ミルファーク探索において成果がないことを否定するのは不可能だった。
「……ごめん、馬鹿なことを訊いちゃったわね」
クラズの自信を喪失した声の波長を感じ取り、同時に夜色の髪を横に揺らすアルフェラッツ。
つい数分ほど前に『ミルファークの居場所が判るはずだ』という希望的観測が打ちのめされたばかりなのに、返答に困らせるようなことを使い魔に訊ねてしまった。羞恥の念が感情の井戸で突沸したが、赤面するには顔を支配する表情のインクが黒過ぎた。
『とりあえずマンションから離れようぜ。ここにいたら怪しまれる』
黒い小鳥は玄関前で佇んだままの魔女にそう言った。いくら脳内の辞書のページをめくっても、今のアルフェラッツにかけられる言葉は、それしか見つからなかった。
★ ☆ ★
翌日の昼になると、アルフェラッツの気分もいささか晴れていた。勿論、完全に立ち直ったという訳ではなかったが、腰までつかっていた失意と落胆の泥沼から、かろうじて足を引き上げることができた。
使い魔のフォローや配慮があったために、何とか早く立ち直れたが、このままではいけない、と魔女が自主的に気持ちを切り替えたのも大きな要因の一つだった。
その日もいつものように、アルフェラッツとクラズは、人々の悩みを解決するために飛び回っていた。両目に魔力を纏わせることによって見える苦悩の暗雲を的に、悩みを抱えた人間の元へと向かう。
胸の中で暗雲を飼育している者、事前にマーキングしておいた悩める無界人の中で未解決の者。一人ずつ苦悩を解決したり、雲が自然消滅しているか否かを確認したりと、今日も雛のために餌を探す親鳥の気分を体感していた。
……悩んでいる人を十数人ほどマークしたアルフェラッツは、空中で一時的に休息をとっていた。休息と言っても、箒をベンチに見立てて座っているだけだ。数分後には、再び悩みを抱えた人を探しに行く。
――それにしても、今日に限ってのことじゃないけど、悩んでいる無界人の数があまりにも多過ぎる。
――数年後、十何年後の魔法使い達を未来から連れて来ても、全ての苦悩を消せないんじゃないかしら。
そんなことを空を見つめて考えていると――
「あなたがマダム・アルフェラッツですね」
背後から突然、声が聞こえてきた。驚愕の氷塊が、黒髪の魔女の背筋を襲ったが、悲鳴は上げなかった。
振り返ると、そこには少年がいた。十代後半と思われる少年は、極めて端正な容姿をしていた。暗闇を眩く照らすかのような緩やかな黄金色の毛髪に、闇夜を彷彿とさせるダークブルーの鋭い両眼、そして新雪を連想させる透き通った白い肌。
フードの付いたの黒のロングカーディガンと、ダメージの入った青いジーンズと、ダークブラウンのスニーカーが、金髪の少年の引き締まった肢体を包んでいた。彼の虚像めいた美しい外見に、アルフェラッツは思わず息を飲んだ。
夜色の髪を持つ魔女は、瞬時に彼が無界の人間でないことを悟った。無界人がこんな風に空を飛ぶ訳がないからだ。
「えっと、あなたは?」
「俺はディアデムです。あなたの噂は、他の魔法使いから聞いています」
「そ、そうなんだ」
アルフェラッツは苦笑を浮かべた。彼女は『魔法を使う牝馬だ』と、他の魔法使い達から噂されるほど、苦悩解決に対して情熱的なのだ。馬呼ばわりされるのは、馬が働き者の動物だからである。
「それで、ディアデムくんは――」
「ディアンで結構です。何なら『くん』もいりません」
「……ディアンは私に何か用かな」
黒の三角帽子を横に傾けるアルフェラッツ。不審とまでいかなくとも、怪訝の色彩が、琥珀色の瞳を侵食していく。年が大きく離れた(と思われる)少年相手であっても、理由もなく何の接点もない異性に近づかれれば、誰でも精神にバリケードを築いてしまう。
「いえ、特には。純粋にアルフェラッツさんにお会いしたかっただけです」
ディアデムは魔女の猜疑色の眼光を物ともせず、片手を振って淡々と言う。声音は至って冷静だった。台詞に反して、『あなた自体に興味はない』とでも暗示しているかのようだった。
そしてその示唆は、オブラートに包んで発せられた。
「言ってしまえば、有名人に対する感情と同じです。『あの女優やスポーツ選手の姿を一目見てみたい!』って心理で、あなたの元を訪れたんです。決してあなたの秘密を知りたいって理由で赴いたんじゃないです」
「じゃあ、私の顔を見るためだけに、会いに来たってこと?」
「だけって、言い方がひどいですけど、そんなところですね」
まあ、今の世の中は直接会わなくても、芸能人のプライベートや顔が簡単に見られるようになりましたけど……。
ディアデムの返答に、苦笑混じりに頬を掻く黒髪の魔女だった。意地悪な言い方をしたのは、金髪の少年に悪印象を感じたからではなく、少しからかってみたくなっただけだった。
『随分と楽しそうだな』
アルフェラッツとディアデムの間に、黒い小鳥の姿をした使い魔クラズが戻ってきた。
「どうしたのクラズ」
『あぁ、こんな連中がいたって報告をしとこうと思ってな』
言いながらクラズは、黒髪の魔女の肩に止まる。そこは彼だけの特等席だった。
そして金髪の少年の方に嘴を向けて、
『で、コイツは?』
「彼はディアデム。あだ名はディアンよ」
『ふぅん……』
ディアデムに対する小鳥の反応は芳しくなかった。アルフェラッツと同じ怪訝のベールを瞳に纏わせていたから、というのもあったが、一番の理由は、奇妙な既視感を少年に覚えたからだった。ディアデムとは初対面のはずなのに、郷愁めいた匂いが、彼から醸し出されているのだ。
「じゃあ俺は悩みの解決が残っているのでこれで。縁があれば、またいつかお会いしましょう」
疑念に満たされたクラズの眼差しで何かを察したのか、ディアデムはアルフェラッツに一礼をした後、身を翻して、魔女と使い魔に背を向け、いずこかに飛び立っていった。
『何なんだアイツ』
「『私に会ってみたかった』って、向こうから近づいてきたんだけど……、もしかして、顔を見るなり帰られたのが不満だった?」
『いや、ディアンとは前に会ったような気がするんだ。でも思い出せなくてな』
クラズは思案の海に潜る。彼は金髪の少年から、何とも言えない懐かしい匂いを確かに感じ取った。その香りの正体が何なのか、記憶の海底に転がっている事象の石を一つずつ探索する。あの匂いをどこで嗅いだのか、それはディアデムの物なのか、匂いを滲み出している者は他にいたか――。
……やがて使い魔は口を開いた。
『……アルフ、ディアンの所に行ってくるわ!』
「えっ?」
『悪いけど報告は後だ。ちょっと思い出したことがあってな』
言ってクラズは、少年が去った方角へ飛び立って行った。
匂いの正体を思い出したのである。