第2話 その6 少女のささやかな悩み
速水舞は数週間ほど前から、異性の友人に好意を抱くようになっていた。
意中の人の名前は緒方翔吾。二人は一年前はクラスメートであり、HRの委員決めで一緒になったのをきっかけに友情が芽生え、以来、公私問わず、勉強や遊びなどで関わる機会が多くなった。委員会が変わっても、クラス変えで離れても、交流が途絶えることはなかった。
少女舞は一週間ほど前に、翔吾少年への感情が、友情のそれから恋慕のそれに変化したのを自覚してから、段々と募っていく想いに悶々としているのである。
恋心を自覚してからの舞は、時々動作不良を起こす機械人形のようになってしまった。勉強でも部活でも、別世界に思いを馳せるみたいに放心することが多くなり、ミスをしたり注意を受ける回数も、ゼロに等しかったのが着実に増えていった。
普段、目立つような失敗をすることのない速水が、あそこまで不調になるなんて――と、同級生や先輩後輩が、眉をひそめるほどだった。
勿論、親友の翔吾も、友人の不調に気づかない訳がない。何もかもが空回り気味の友人に対し、彼は、
「大丈夫? 調子悪そうだけど……」
と、心配してくれるのだが、当の舞は、
「ううん、大丈夫。何ともないから」
と返すしかなかった。苦悩の種となっている本人に向かって、今の悩みを相談する訳には、当然いかなかった。
『実はあなたのことが好きで好きで困っているの』と、さり気なく爆弾を投下するような迂闊さや大胆さを、舞は持っていない。
恋の悩みを誰にも相談することもできず、告白で一線を踏みこえる勇気もなく、少女は甘い香りを発する熱情に翻弄される道化師と化してしまった。
本人にそのつもりはないのだが、舞をよく知る人間の目には、恋に浮かされた彼女が不調と滑稽と肩を並べて、変拍子のジグを踊っているように見えるのである。
……話を聞き終え、舞の苦悩を理解したアルフェラッツは、ある興味を抱いて口を開いた。これは悩み解決の判断材料にならない、純粋な興味から来る疑問だった。
「それで、その翔吾くんは、どういう人なのかしら」
「えっと、これです。去年の文化祭で一緒に撮ったヤツなんですけど」
舞は携帯を起動し、写真データを開いて画像を見せた。フルートを持った少女舞と、小脇にファイルらしき物を抱えた翔吾少年の笑顔のツーショットが、画面に広がっていた。
緒方翔吾は、短過ぎない整った髪と爽やかな笑顔を持った、好印象を与える少年だった。翔吾は合唱部に所属しており、吹奏楽部に所属している自分は、文化祭や高校の主催する演奏会での発表が近づくと、そこでも彼と関わることがあり、合同での合わせの後で、お互いの部活の様子を直接話したりするのだ――と、舞は説明した。
『コイツが翔吾か、なかなかイケメンじゃないか』
前屈みの体勢で写真を見るクラズ。もう付き合ってるじゃん、という揶揄の言葉が続けて喉元まで出かかったが、何とか抑え込んだ。
『今日の苦悩解決では極力、黒子に徹する』という、自分の役割を思い出したからである。それは昨日の夕食時にアルフェラッツに宣言したことだった。
「うん、そうでしょ?」
舞は頬を淡いピンクに染めて、はにかんだ笑顔を見せた。想い人を褒められて、自分のことのように嬉しくなったのだ。
「そんなに翔吾くんのことが好きなのね」
「はい! 翔吾はとっても素敵な人なんです。優しいし、笑顔も爽やかだし、困ったことがあったら、いつも助けてくれるし……、一緒にいるだけで幸せな気分になれるんです」
黒髪の魔女の感想をきっかけに、少女舞は目を輝かせながら、翔吾への想いを吐露した。微笑ましい光景を見て、アルフェラッツも思わず頬を緩ませる。言動の一つ一つに、翔吾少年への想いが溢れているのが解った。
人を好きになるということが、どれほど人の心を幸せいっぱいにして胸を踊らせるのか――速水舞を見ていると、それがとても素敵なことだと、改めて思えるアルフェラッツだった。
「友達としての仲はとっても良好そうだし、告白しても断られることなんて、多分ないとは思うけど……一体、何が不安なの?」
アルフェラッツは舞に疑問符を提示した。
公私問わず、友人としての付き合いは親密だし、少女の口から語られる情報でも、翔吾自身の人格に欠点はなさそうだった。魔女の目から見れば、まさに完璧なステージだ。不安材料は一つもないように見える。
だが、何故消極的な態度を見せているのかまでは、アルフェラッツは推測できなかった。面識の少ない想い人に向けて、下駄箱にラブレターを投函するよりも、難易度は低いはずなのに。
すると舞は、気分が沈んだような態度と口ぶりで回答した。
「もしもダメだったらと思うと、怖くて告白できないんです……」
「ダメって、そんなことはないと私は思うけどな。仲はいいんだし、いっぱい関わっているし、お互いのいいところを理解しているんだから、きっと上手くいくわ」
「でも、いっぱい関わっているからって、告白しても成功するなんて限りませんよ。私が翔吾のことが好きでも、翔吾はそう思っていないかもしれないし、それに――」
「それに?」
「『俺、付き合いたいとまで思っていないから』なんて言われたら、きっと私は立ち直れないです」
少女の声に涙が微かに混じる。
「その日から私と翔吾の関係が、悪い意味で変わってしまったら、気まずくなったらって思うと、とても辛いんです。告白が今まで積み重ねたものを崩してしまいそうで……」
舞は俯いて、両膝に置いた拳を強く握った。今の彼女にとって告白は、斬れ味の判らない諸刃の剣で石を斬る行為のように思えた。勢いよく振り下ろしても両断することはできないかもしれないし、斬った反動で剣が跳ね返り、刃が自分に当たって傷つく可能性だって否定できない。
舞の悲痛な不安を聞いて、アルフェラッツは己の迂闊さを呪った。そうだった。経験の蓄積と成功率は必ずしも正比例しない。それは黒髪の魔女が無界で得た教訓である。
その教訓と同様、いくら友人として親密な交際を重ねても、付き合った時間や濃さと正比例して、相手の好意のゲージが突破するとは限らないのだ。
少女舞は翔吾に対し、特別な感情を抱いているが、一方の翔吾少年は彼女のことを特に何とも思っていないかもしれない。
好きは好きでも、『異性として』ではなく『友人として』のままかもしれない。
恋のメカニズム――というより、人の心全般――は、宇宙の真理と同じくらいに、理屈や方程式が通用しない物である、と、改めて痛感したアルフェラッツだった。現に魔女自身が幼い頃、自分を好きだと言ってくれる男の子の心理が解せなかった。
何で私のことを好きになったのか、私のどこがいいのか。
恐らくそれは、永遠に納得のいく答えが出ない命題だった。
『昨日、悩みを解決したおっさんと同じこと言うな――』
感慨と感傷の海に浸ってしまった主人に代わって、クラズは脳内の過去のアルバムを開きながら言った。個人名は敢えて伏せた。プライバシー保護のためである。
「おっさん……?」
『あぁ、お前んとこに行く前に、悩みを解決したヤツさ』
顔を上げた少女にクラズは個人情報に抵触する部分を伏せて、苦悩を解決した男のことを説明した。
数日前、アルフェラッツとクラズは、『他人の見る目を変えたい』という願いを抱えた、一人の中年男に立ち会ったことがある。
職場でも家庭でも軽視されている男は、苦悩を解決するには自分がどう動けばいいのか、何となく解ってはいた。しかし、解決に向けての行動を実行した後の未来を恐れて、なかなか自分を変えることに、躊躇を覚えていたのである。それこそ、慕情を伝えた先の未来を恐れる今の舞みたいに。
『おっさんは最終的に殻をブチ破ったんだけどな、結構怯えていたぜ』
そこまで言って使い魔は、もう一度、アルフェラッツの首すじをやや強めにつついた。沈黙していた黒髪の魔女を現実の岸へと引き上げるためだ。
痛みと共に我に返って、魔女は顔を上げる。
「ごめんごめん! ――で、舞ちゃんは翔吾くんとの仲が変質してしまうのが怖くて、告白できないのね」
「はい。私にとって翔吾は、大切な人ですから」
「そうよね……」
恋愛が絡んだ苦悩の難しさに、アルフェラッツは腕を組んでうな垂れた。
★ ☆ ★
速水舞が入浴のために部屋を出た後、速水家の屋根の上で、アルフェラッツは思考の迷宮をさまよっていた。
悩みを一通り聞いた後、解決するための方法を考えるから、舞ちゃんも魔法に頼るか頼らないかをお風呂で決めておいて――とだけ伝えて、魔女は屋上で少女の悩みについて、思案に耽ることにしたのである。
クラズと意見交換をし合って、苦悩解決への活路を見出そうかと思ったが、当の使い魔は『ちょっと飛んでくる』と、どこかに行ってしまった。
後で舞の両親に、自分を家族の一員と錯覚させる魔法をかけようかと思ったが、舞から見せてもらった二人の写真を見て、無理だと判断した。
二人とも若々しい見た目をしており、速水家の輪の中に入ると、まるで自分が姉ではなく叔母のように見えるからだ。萩村家の時も無理だったが、今回も無理そうだった。
……それはそうと、本当にどうしよう。
アルフェラッツは小さく嘆息した。『溜め息の数だけ幸せが逃げていく』という言葉を彼女は知っていたが、それでもつかずにはいられなかった。
当たって砕けろ、という便利で手軽な魔法の呪文を使えば、楽かもしれない。しかし、苦悩を抱えた当人にとって、砕けるのは死も同然なのだから、無責任な発言で相手を勇気づける訳にはいかなかった。というより、彼女の性格が、その手法をよしとしなかった。
アルフェラッツは昔から恋愛絡みの――特に、縁結びに関連した苦悩の解決が昔から苦手だった。人を好きになるということが、あまりにも単純で複雑だから、どのように立ち回ればいいのか判らないのである。
黒髪の魔女にとって、恋の悩みは、地震や噴火を予知するのと同じくらい困難に思えるのだ。感情が揺れ動く予兆なんて安易に判る物ではない。自分の思考も柔軟性が欠けてしまう。
『帰ったぞ――って、すげぇブルーになってんな』
顔を上げると、陰りを帯びた琥珀色の瞳に、見覚えある小さなシルエットが映った。黒髪の魔女が膝を抱えて俯いた数秒後、使い魔クラズが戻ってきたのである。
『お前って、恋愛絡みの悩みに関わると、急にポンコツになるよな』
「うん、ごめんクラズ……」
『俺に謝ってどうすんだよ。つーか、謝ることじゃないだろ』
「そうは言っても、気が重くなるわ」
『まあ、慎重になるのも無理ないわな。ましてお前は、昔から責任感強いヤツだから、なおさらだ』
そう言ってクラズは主人の頭上に止まり、お前に耳寄りな情報を持ってきたぜ、と歌うように続けた。
「耳寄り……どうしたの?」
アルフェラッツは怪訝のベールを顔に纏わせる。
『どうやら翔吾も、舞のことが好きらしい』
何の前置きもなく、黒い小鳥の姿をした使い魔は、言語化した結論の爆弾を、主人の耳の中に放り込んだ。
リズムも不可思議な言葉も存在しない呪文に、一瞬、魔女の思考が凍結した。クラズの言葉を脳裏で反芻して、意味を理解した途端、アルフェラッツの感情が驚愕に支配された。
「えっ、嘘でしょ!?」
『嘘じゃねえよ。大マジだ。さっき翔吾ん家に行って、アイツの頭の中をちょっと覗いたんだ。……翔吾も舞に惚れてるぜ』
先述した結論に、翔吾少年が至った過程を話すクラズ。
緒方翔吾の場合は、速水舞よりも早い時期に、彼女に対しての恋心を自覚していたらしい。さらに記憶のアルバムのページをめくると、舞と同様、長い時の積み重ねによって、少女への感情が友情としての好意から情愛のそれに昇華したのである。彼も告白しようと考えていたのだが、断られることを恐れて、踏み込めないでいるのだ。
『結論から言うと、今回の悩みは成功しそうだぞ。いや、確実に成功するわ。何せ、お互いの感情の波長がシンクロしているからな』
「そう……」
アルフェラッツは安堵と他の感情が混じった、小さな声を漏らした。後者の感情の正体が何なのかは、自分でも判らなかったが、少なくとも正の感情ではなさそうだった。
『んで、問題は舞にどうやって伝えるかだが――』
「待ってクラズ! このことは舞ちゃんに伝えたらダメよ」
『解ってるよ、冗談だ。結末を知った上で見る映画や、犯人やトリックが判った上で読むミステリーほど、面白くない物はないからな』
主人の帽子の上でクラズは頷き、『で、どうするよ?』と続けた。しかし、問われたアルフェラッツは閉口してしまった。
他人の慕情を第三者が吐露する行為が愚劣で野暮なことは、使い魔も充分承知している。
だからこそ、結末を隠した上で、『「あなたの告白は成功する」と勇気づけるにはどうすればいいのか』を考えることを、主人に判断を委ねるという形でアルフェラッツに課したのである。
速水舞の告白が、愛と運命の女神から約束された成功であることは、使い魔の偵察で証明された。問題はそれをいかにして伏せて、少女に伝えるかである。彼女を安心させて、勇気づけなければならないが、結果を暴露してはいけないのだ。
どうすれば、舞ちゃんを安心させられるんだろう?
思考を巡らせ続けるアルフェラッツだった。