第2話 その5 ロックオン
「あなたの言う通り、やっぱり休むって大切ね」
「な? 気分転換もたまにはいいモンだろ」
沈みかけた夕陽が、空や建物や人々の顔を少しずつオレンジに染めている。
斜陽に照らされながら、ベージュのスプリングコートを纏ったアルフェラッツと、少年の姿をしたクラズは、両手に袋――衣服や香水やアクセサリーなど――をぶら下げ、駅を目指して人混みの中を歩いていた。
彼女らと同様、駅を目指して歩を進める者もいれば、駅から出て目的地へと足を動かす者もいる。人々が一点に向かって集約され、同じ一点から拡散されていく。
二人は電車に乗って、次の目的地へと移動するため、駅を目指す側の者達の波に揺られていた。
「次はどこに行く?」
アルフェラッツは視線を、正面から隣にいる使い魔に移した。クラズ少年は荷物を持った腕を器用に組んで、
「街はある程度回ったからな……、海の方に行ってみるか。デカい橋とか観覧車があるところ」
「あそこは確か、他の電車に乗らないと行けないんだっけ」
「そうだったはずだ。しかもあの路線は各駅停車だから、駅に到着するまで、電車ん中で待たなくちゃいけないぜ」
魔法が使えりゃ、あっという間に着くんだがな――と、最後に愚痴をつけ加え、クラズは不満柄のテーブルクロスを顔に広げた。
真夜中ならともかく、白昼堂々、公共の場で、魔法を大っぴらに使用する訳にはいかない。いくら無界での生活や常識に順応しようが、魔法抜きだと生活が不便だ、と感じる時はある。それは魔界に身を置く者達なら、誰もが時々苛まれるフラストレーションだった。
アルフェラッツは視線の波長を、聞き分けの悪い子供を見るようなそれに変えて、クラズを宥めた。
「でも、たまには電車に乗って移動するのも、いいんじゃないかしら」
「何でだよ? 人混みに押しつぶされて、キツい思いをするだけじゃねえか」
吐き捨てるように使い魔は言う。クラズは電車に対して(何度も乗車したことがあるとはいえ)、好印象を抱いていなかった。彼の中で電車は、『密閉状態に耐えなければならない乗り物』というイメージが定着していたからである。
無論、時と場合によっては、電車が混雑しない日や時間帯があることも、少年に姿を変えた使い魔は深く理解していた。
だが、それでもクラズは電車を好きになれそうになかったし、利便性が高いとは言え、窮屈な交通手段に頼る無界の人々に、半ば同情めいた感情を抱いていた。
空が飛べりゃ、通勤ラッシュや帰宅ラッシュなんざ、遭わないで済むのによ……。
「窓の外から景色が見れるじゃない。電車はそんなに悪くはないと、私は思うけどな」
アルフェラッツはささやかに反論した。クラズの主張にも一理あるとは思っているが、彼女は電車に愛着を抱いているのだ。車両を写真に収めたり、ダイヤグラムや路線図に美を見出すほどではないが。
「景色ねぇ――。ま、空から見るのと、地上から見るのは違うから、それらと見比べるのも一興か……おっ」
クラズは半分納得したような口ぶりで呟いてから、何かに気づいて足を止め、ある方向を注視した。使い魔の歩行の停止と同時に、黒髪の魔女も止まった。
「どうしたの?」
「いや、前に言ったよな。三人ほど悩んでいるヤツをマーキングしたって」
「確かに言ってたわね」
アルフェラッツは半秒で記憶の本棚を探って思い出した。というより、昨夜、その話題を持ち出したのは彼女だったので、本棚を探る必要すらなかった。背表紙を見ただけで内容を理解した。
「……その中の一人、見つけたわ」
クラズが言い終えると同時に、アルフェラッツは琥珀色の両眼に魔力を宿した。すぐにマーキングされたと思われる人間は見つかった。赤いオーラを自分が放出しているかのように、上半身に纏っていたからだ。それが隣にいる使い魔が、数日前につけた目印だった。
その人物は女子高生だった。紺色のブレザーと灰色のスカート、茶色の小振りなリュックを背負っている。見たのは後ろ姿だったので、人相までは確認できなかったが、黒のセミロングを歩行のリズムに合わせて揺らしていた。
「あのブレザーを着ている女の子ね」
「そうだ。見た感じ、まだ悩みは消えてないっぽいな」
魔法の力で見える悩みの暗雲が、少女の胸の中で燻っていた。それがクラズのつけたオーラ状のマーキングと重なって、闇の炎に抱擁されているみたいに、赤黒く彼女の身体を染めていた。
もっとも、闇の炎なんて代物は、魔界にも無界にも存在しないのだが。
「……じゃあ行きましょうか」
立ち止まっていたアルフェラッツが再び歩を進めた。
「行くって、どこにだよ」
「その子の悩みを解け――」
「おい待て! まだ休みは終わってないぞ!」
慌ててクラズは人混みをかき分けて、主人の後を追う。
「もう私は充分に休みを満喫したから大丈夫よ」
「ならいいけどよ……」
「……もしかして、クラズはまだ休みたかった?」
「俺は大丈夫だ。ただ、お前の今の気分を聞きたい。もう休みを終わらせてもいいのか?」
「うん、あなたのおかげで、心置きなくリフレッシュできたから満足よ」
「そっか、じゃあ魔法使いとしての仕事、始めるか」
二人は頷いて、次の目的地を、駅から苦悩を抱えた少女の家に変更した。だが、その前に、どこか人気のない場所を探す必要がありそうだった。
今ここでドレスアップと変化を行なってしまえば、大勢の無界人に正体がばれ、自分達の顔と行為を人々の記憶に刻印させてしまう。それを回避するには、さりげなく自分の気配を消す魔法をかけて、人混みから離脱せねばならない。
魔法を大っぴらに使えないことに愚痴を溢すクラズの気持ちが、少しだけ理解できた魔女だった。
魔界では、公の場で当たり前のように魔法を濫用しても奇異の目で見られないが、無界だと、そうはいかないのだから……。
★ ☆ ★
速水舞は苦悩という無形の卵を、胸の中に抱え込んでいた。卵は膨張するばかりで、それが一体、いつ孵化するのか判らない。
卵が孵ったところで中身が何なのかすらも判らない。脳裏を走り回る思考が、無意識に卵を温める熱となっていた。
それを一体どうすればいいのか、どうするべきか、行動に移したところで、悩みが自分の理想通りに昇華されるのか……。
不安だらけで何事にも熱が上手く入らなかった。悩みが少女の心に寄生してからは、授業で話を聞き逃したり、部活――吹奏楽部でフルートを担当している――でミスを重ねる回数も多くなった。今日の部活だってそうだ。パート練習や全体の合わせでも、何度も間違うあまり、先輩や顧問の叱責を受けてしまった。
今まで目立つようなミスをしなかった舞は、叱責されたことにショックを受けたが、脳裏のわずかなスペースで、苦悩に引きずられて自分のペースが著しく乱れていることに、逆に新鮮さを感じていた。
ベッドの上に横たわってから、どれくらいの時間が経ったんだろう?
悩みの靄が少しずつ心を覆っているのが解る。
横になっても気が晴れないことも、頭の中では理解していても、どうすればいいのか判らない。
段々と募っていく鉛のような苦悩と、積み重なる『判らない』の重みで、潰れてしまいそうだった。
「私、どうしたらいいのかな――」
舞は思ったことを何気なく口にする。言ったところで、何もならないのは言うまでもない、と少女は思っている。だが、
「大丈夫よ。そのために私達がいるんだから」
どこからか、自分の呟きに反応したような優しい声が返ってきた。舞は小さな驚きを胸で受け止めると同時に、頭を動かして音の発生源を探った。
確かに解釈の仕方によっては、ある意味では精神的に参っているが、自分は幻聴を聞くほど追い詰められていないし、そうだとしても、それが自分の声に明瞭に反応する訳がない。あれはきっと誰かが私の呟きに反応した声だ。数少ない根拠から、少女は幻聴でないことを確信した。
でも誰の声なんだろう。
女の人の声だったけど、お母さんの声じゃない。
その疑問が頭に浮かんだ数秒後、窓の外からコツコツと、ガラスが叩かれる音が聞こえた。声がどこから聞こえてきたのかという回答が提示されたのである。
カーテンを開ければ、声の主の正体も明らかになる。
少女舞は音がする方へと向かい、カーテンを開けた。窓ガラスの向こう側で、黒衣に身を包んで黒い三角帽子を被った、夜色の髪と朝焼け色の瞳を持つ女が、箒の柄の上に座って浮遊していた。
「こんばんは、あなたの悩みを解決しに――」
女が言い終える前に、舞は思い切りのけ反って、尻餅をついた。目の前の異常な光景に驚いたからである。
★ ☆ ★
「――という訳なの。理解してくれる?」
「えっ!? あっ、はい」
一人の少女と黒衣を纏った女が床の上で正座している。
舞は驚愕の残滓を顔につけたまま、曖昧な返事とともに首を縦に揺らした。上手く言葉で表現できないが、敢えて一言にまとめると『信じられない』。感情のベンチを占拠していた苦悩を、驚きが横から押しのけて、少女の心を支配していた。
目の前に、黒い三角帽子と黒い服を身につけた、アル何とかと名乗る見知らぬ女が座っており、しかも彼女は自らを『魔界から来た悩みを解決する魔女』と名乗っている。
そして、それを証明する不可思議な事象を見せられ、さらに使い魔を自称する、喋る黒い小鳥クラズからも、話をいくつか聞かされた。
自分達魔法使いは現実世界の人々を幸せにするという使命を帯びている、だが人々の悩みが増えつつあるために魔法使いの数が慢性的に不足している、故に誰の苦悩を解決するかランダムに選んで行動している、それにより速水舞は魔女がターゲットとして射抜いたリンゴとなった訳である……。
『私達は絶対にあなたに危害を加えない』と言ったが、彼女の言ったことを、どこまで信用すればよいのだろう?
疑問符と不安と非常識がサイクロンと化して、少女舞の脳内を暴れ回っていた。
やがて、目の前に広がる事情を何とか理解し、落ち着きを取り戻した少女は、話を繋げようと開口した。
「えっと、その、アル……何て名前でしたっけ」
「アルフェラッツ。長いって感じるなら、アルフでいいわ」
「アルフさんは本当に何でも解決してくれるんですか?」
浮かんだ疑問を、微かな期待が入り混じった声音で訊ねる舞。
それに答えたのは、黒髪の魔女アルフェラッツではなく、彼女の肩に止まっていた使い魔クラズだった。
『内容によるな。基本的には何でもできるが、例外もいくつかある。もっともこれは、アルフの気分次第だがな』
黒い小鳥の口ぶりに、諫言のスパイスが若干こもっていた。過剰な期待をするなという牽制を暗に示していた。
魔法の力をもってしても不可能なことはある。
何でもできるように見えるが、本当は万能ではないのだ。
やや萎縮したような舞の反応を見て、少し言い方がキツくなったかもしれねえな、とクラズは思わないでもないが、念を押すに越したことはない。
アルフェラッツは、少女と使い魔を包んだ淀んだ空気に、クッションを放り込んだ。
「いや、『気に入らない人を消してほしい』みたいな、よっぽどのお願いじゃない限りは叶えられるから安心して」
「あ、そうなんですね。ならよかった……」
安堵の嘆息をする舞だった。自分の望んでいる願いは、不穏や物騒とは無縁だが、こうも凄まれると、無関係とはいえ尻込みしてしまう。
『それはともかくっつーか、言うまでもないことだけどよ、見たところ、まだ悩みは消えてないようだな』
「まだ……?」
舞は首を傾ける。黒いセミロングが頬に少しかかった。
『実は数日前にモヤモヤを抱えている舞の姿を見たんだよ。時間が経てば、それも薄れてるのかと思ったが、逆に段々と募ってるみたいだ』
クラズは両目に魔力を宿し、ぽかんとした舞の苦悩の暗雲を分析した。マーキングした数日前と比較して、心なしか、雲が肥大化したように見える。
少女舞の胸全体を広く覆っていた暗雲が、今では土星のリングのように彼女の胸囲を回転していた。気体と化した黒い浮輪が、そこにはあった。
クラズは両目にかけた魔法を解くと、魔女の首すじを軽くつついた。早く本題に移れという合図だった。
痒みに近い小さな痛みと共に、使い魔のサインを受け取ったアルフェラッツは本題に入った。
昨夜ファミレスで、『もう少し積極的に相手と関われ』と、使い魔に説教されたのを思い出したこともあって、存在しない襟を正す黒髪の魔女だった。朝焼け色の瞳に映る少女の像が、視界内に綺麗に収まる。
「それで舞ちゃん、悩みのことなんだけど……えっと、何を悩んでいるのかな」
発せられた言葉も、どこかたどたどしい。相手から悩みを打ち明けるのを待つならともかく、自ら告白を促すことには慣れていなかった。
「はい、アルフさん。実は――」
少女舞は改めて身構えた。最初は目の前にいる黒髪の魔女の瞳を見据えたが、そこまで言って、不意に視線を下に向けた。
どうしたのか? と、アルフェラッツとクラズの脳裏に疑問符が浮かんだが、それはすぐに消えた。
「実は私、好きな人がいるんです。でも、なかなか告白する勇気がなくて……」
少女は頬をわずかに染めて、続きを口にした。