第2話 その4 今日の夕飯と反省会
街中のとあるファミレスに入ったアルフェラッツとクラズは、店員に案内されるがまま、奥の席についた後、メニューを精読していた。
黒髪の魔女はスーツ姿に、人間に化けたクラズはカジュアルな服装に身を包んでいる。この二人は主従関係にあるのだが、傍から見ると、姉弟のように見えた。
二人はメニューと数分ほど睨めっこしてから、アルフェラッツはトマトソースの海鮮パスタとスープのセットを、クラズはミックスグリルとパンのセットを、それぞれ注文した。
他の客の注文や、新しい客の応対、ドリンクバーの補充にテーブルのセッティングなど、繁忙という姿なき怪物に追い回される店員達を見やってから、人間に化けた使い魔は、着席した際に運ばれたグラスに口をつけた後、アルフェラッツに話を振った。
「なあアルフ、お前に話したいことがあるんだが」
「萩村さんのこと?」
「ああ、そうだ」
クラズ少年は首を小さく縦に振る。
「お前、悩んでるヤツの苦悩解決で、動かな過ぎだろ」
それは静かに難詰する形で幕が開いた反省会だった。口腔内を冷水で満たそうと、グラスを握ったアルフェラッツの手が止まる。
「まあ、動きが鈍いのはお前のポリシー故なんだろうけどな。でも、あまりに鈍感なヤツや、踏ん切りつかないヤツを相手にしてたら、いつかは疲れるぞ」
「それはそうかもしれないけど……でも、悩みを気づかせてあげないと」
「悩んでる人の成長に繋がらない、ってか?」
クラズは主人の言葉を先取りをした。指摘というには口ぶりに棘があり、しかもそれは鋭利過ぎた。
「アルフ、魔法使いの使命は『悩みを解決すること』であって、『精神面での成長を促すこと』じゃねえ。目的地を示した看板になって補助するのもいいが、時にはガイドになって、手を引っぱってやることも大事だぜ」
黒髪の魔女は、クラズの辛辣な詰問に反駁しようと口を開きかけ、けれども何を思ったのか、子音を口内で噛み砕いて閉口した。
『本当の悩みは本人に気づかせた方がいい』。それがアルフェラッツの苦悩解決においてのモットーである。
しかし、彼女に従事している使い魔は、その信条を煙たいと感じる時があるのだ。
悩みを抱えた人間は苦悩の迷宮から自力で脱出しなければならない、魔法使いは相手を補助することはあっても過度に干渉してはいけない――そこはクラズも正しいと思っている。
だが、中には、地図が読めない人間や、極度の方向音痴、挙句の果てには足が竦んで動けない臆病者も存在するのだ。
そんな連中を黙然と傍観しろだなんて酷ではないか?
いくらヒントを提示しても一切動かない場合でも『成長を促すため』と傍観を決め込むのか?
使い魔は主人に対して、そう苦言を呈しているのである。
本当の悩みは本人に気づかせた方がいい。
だけど、それも相手によって使い分けた方がいいのではないか?
そうクラズは、自分の考えを主人に向けて語った。
「あなたの言いたいことは解るし、その通りだと、私も思っているわ」
アルフェラッツは冷水を一口あおって静かに反論する。しかし、口調こそは使い魔を嗜める時のそれだったが、琥珀色の瞳に消極の色が混ざっていた。
「でも、それをやったら、私が相手の意に沿わない願いへと誘導した、なんてことになるんじゃないかしら……。私はそれが不安なのよ」
自分の推論に絶対的な自信を持ってる訳じゃないから。
アルフェラッツは夜色の髪を横に揺らす。
彼女は無界で、人心を蝕む苦悩の暗雲を切り払う使命をこなす生活を、十数年間、今日に至るまで送っている。その中で嬉しいこともあれば、同じ数だけ災難に遭ったり失敗したり、時には涙を溢すことだってあった。
無界の人々と触れ合う経験を重ねる過程で、黒髪の魔女は、相手の本当の願いを汲み取る力と、人の心情を洞察して最善の選択肢を発案する力を身につけた。
しかし、経験の蓄積と成功率は必ずしも正比例しない。それは前の二つの力を我が物にしたのと同様に、多くの人と出会った経験で得た教訓だった。
運転の上手い人でも、いつかは事故を起こす。料理が得意な人だって調味料の分量を間違うことだってある。どんなに用心しても、落とし穴に落ちることがあるように、人とはいつか失敗する物なのだ。
アルフェラッツはそれらの力を得てから、失敗らしい失敗は犯していないし、それで傲ることもなかった。むしろ慎重の上に、さらに慎重の衣を重ねているようにも見えた。
クラズにはそんな主人が、時として杞憂し過ぎているみたく見える時があるのだ。それこそ、つい一時間ほど前まで関わっていた、弱々しい樹木みたいな男の時のように、である。
「未熟だった頃ならともかく、昔と違って今は経験をたくさん積んでるんだから、時には大胆に踏み切ったっていいだろ」
非難する口調を少し和らげた使い魔は、人差し指でグラスを弾いた。小さく涼しげな音が、水面に広がる波紋のように、二人の周囲の空間を瞬間的に支配して消えた。
「踏み切る、ね。でも、それは私のモットーに反するわ」
「別に自分の信条をへし折る必要はねえよ。ただ、相手に合わせて臨機応変に対応しろって言ってんだ」
「臨機応変……」
グラスの中で、たゆたう水を見つめながら、アルフェラッツは繰り返す。
「アルフ、お前はもう少し、悩み抱えたヤツにグイグイ首を突っ込んだ方がいいぜ。無理して積極的にならなくてもいいし、ポリシーを方向転換する必要もないけど、時には自分の信条と真反対のそれと手を繋いで行動することも必要だぞ」
……まあ、俺も悩んでるヤツに、首を突っ込みすぎてる部分もあるし、次からはあんまり介入しないようにするからよ。
最後にそう言って、反省会を締めくくるクラズ少年だった。
確かに使い魔の言うことには一理ある。過去のフィルムを逆転してみれば、どれほどヒントや案内板を提示しようが、それにも限界が存在することは確かにあった。何が書かれているのか解らない人間や、それ以前に標識自体が一体何なのかすら理解できない人間は、実際に、そして多く存在する。
それを悪いとは別に微塵も思っていない。でも、示唆するだけでは何も進展しない事例があるのも、現に存在するのだ。
同じ手法で限界を感じた時には、思い切ってやり方を変えてみるのも、たまにはいいかもしれない。
「解った。次の悩み解決で努力してみるわ」
「うんうん――おっ、来た!」
満足したようににクラズが頷くと、注文した品物が視界に入ってきた。トマトソースの海鮮パスタとコーンポタージュ、ミックスグリルとライ麦パンが、魔女と使い魔のテーブルの元に運ばれたのだ。微かに酸味を含んだトマトソースの匂いと、香ばしいデミグラスソースの匂いが、二人の鼻腔と食欲と胃袋を刺激する。
使い魔クラズは、育ち盛りの少年みたいな表情を顔いっぱいに広げて、箸などの食器類の入った小さなケースから、ナイフとフォークを取り出した。数日ぶりに夕飯が食べられる、と、彼の口と全身が語っていた。
――これがさっきまで、私にお説教していた使い魔の顔かしら?
嬉しげに肉にナイフを入れる目の前の少年に頬をほころばせ、アルフェラッツもフォークとスプーンを手に取った。
クラズは黒髪の魔女の使い魔であると同時に、相棒でもあり、友人みたいな存在でもあるのだが、人に姿を変えた彼と接する時は、ほぼ必ず姉のような感情を先行して抱くのである。
自分は一人っ子なのに、姉の気持ちになるというのは、どういうことなんだろう……?
そう考えると、何故か面白おかしくなって、アルフェラッツの感情の水底から、再び笑いの泡沫が浮かんでくるのだった。
★ ☆ ★
ささやかだが充実した晩餐はクライマックスに差しかかっていた。
メインディッシュを胃袋に収めた二人は、最後にデザートを追加注文――黒髪の魔女は四種のベリーとチョコレートのサンデー、使い魔はバニラとチョコのアイスクリーム――し、クリームや果物達が口内で奏でる甘いアンサンブルに舌鼓を打ち鳴らしていた。口の中という外からは見えないステージで、デザート達が歯と舌の伴奏に合わせて、優雅に歌って舞踊している。
器の中のデザートが半分ほど減ったところで、今度はアルフェラッツがスプーンを動かす手を止めて、口を開いた。
その口元には、満足による上機嫌から来る物なのか、あるいは別の感情なのか、微かな笑みがたたえられていた。
「ねえクラズ、今になって思い出したことだけど――」
「あ?」
「萩村さんの家に行く前に、『悩んでいる人を三人マーキングした』って、言ってたわよね」
「あぁ。……!?」
主人の言葉を適当に聞き流しかけて、クラズは手を止め、目いっぱいに両目を大きくして彼女の顔を見た。それは、アルフェラッツと長い付き合いを一ページずつ積み重ねた者だけが知覚できる、魔法をもってしても理解し得ない力だった。
「お前……まさか、『デザートを食べ終わったら、クラズのマーキングした悩んでいる人達の元へ行きましょう』とか言うんじゃねぇだろうな」
「その通り!」
「その通り、じゃねえわ!」
少年はスプーンを握っていない方の手でテーブルを強く叩いた。引っ叩かれたテーブルが固い悲鳴を上げて、背中に乗せた食器達を揺らす。音の波紋が、魔女と使い魔の周囲の空間を突破したのか、テーブルの悲鳴で聴神経を刺激された一部の客の視線が二人に集中した。
驚きと怪訝の視線の矢が、クラズの体中に突き刺さったが、当人は表面上は意に介さなかった。その代わり、語調を和らげ、声のボリュームを落とした。
「えっ……え?」
「いや、三日間仕事して、ようやく一段落ついたと思ったら、もうこの後すぐ使命解決に走んのかよ。一日くらい休んだらどうなんだ」
再び言葉の色調が説教のそれに変わりかけたが、これは説教というより、黒髪の魔女の体調を気遣っての諫言だった。
アルフェラッツは苦労や不調が外見に反映されないタイプなので、いくら重圧や負担がかかっても、弱々しく衰えて見えることはない。だが、表面上に現れていない分、内面にダメージが蓄積されているかもしれない。コップも内包量が限界に達すれば水が溢れ出てしまう。それと同じく、いつかはアルフェラッツも決壊した堤防のように、過労が爆発して昏倒するのではないだろうか?
「ふぅ…………」
クラズの諫言を最後まで聞いた魔女は小さく嘆息する。それは不満の溜め息ではなく、単に口の中の空気を全て吐き出しただけだった。
数日ぶりの食事で気分がよくなったから、自己を客観視する視野が狭くなっていたが、言われてみれば、ここ最近ずっと奔走しっぱなしだった。
頑強な肉体を持っているならともかく、自分は魔法が使えるだけで、身体はこの世界の人間と大して差はない。たとえ意思が強くても、肉体が不調であれば集中できないし、無理を押せば却って悪化する。
クラズの言う通り、明日は、ゆっくり休んだ方がいいかもしれない。
気力や意思はそうでなくとも体力は無限ではない。まして自分は、虚弱というレベルではないが、体が丈夫な方じゃないのだ。
「ありがとう、私のことを気遣ってくれるのね」
アルフェラッツは休養する決意を固めて、少年に化けた使い魔に、優しく感謝の言葉をかけた。
「……当たり前だろ、俺はお前の使い魔なんだからな」
照れを隠すように、クラズはアイスクリームをせっせと口に運ぶ。
彼はアルフェラッツが十七歳の頃から今日に至るまで、彼女の使い魔として従事してきた。一人の少女が大人になるまでの過程を、この使い魔は間近で見ており、この黒髪の魔女が成長する中で、何が変わったかも知り尽くしている。
時と経験を積み重ねて大きくなっていくアルフェラッツでも、変わらない物は確かにあった。使い魔に対しても、感謝や労いの言葉をかける彼女の優しい一面は、初めて出会った時から変わっていない。
『ありがとう』という言葉は、普段でも結構耳にしているが、改めて正面から言われると、気恥ずかしさを覚えてしまうクラズだった。
耳に残る熱感は、冷たいデザートを放り込んでも、冷める気配が当分なさそうだった。