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第1話 その1 夜色の髪、朝焼け色の瞳

 木戸(きど)明弘(あきひろ)は自宅の玄関のドアを開け、家の中に入った。


 背中に通学用のリュックを、肩にスポーツバッグをぶら下げた明弘は、いかにも『疲労困憊(ひろうこんぱい)』の四文字が当てはまりそうなオーラを全身から放出しながら、靴を脱いだ。

 精神的な疲れと、肉体的な疲れが混じった()め息を大きくついて、リビングや洗面所、二階へと続く階段が存在する廊下(ろうか)を、とぼとぼと歩く。


 ――たるい。つらい。しんどい。何もかも八方(ふさが)りだ。


 そんなことを思いながら、自分の部屋へ直行しようと、リビングへと続く扉を素通りした。普段なら帰った後、リビングから台所に行って、冷蔵庫の中の麦茶をコップ一杯あおるのだが、今はそんな悠長(ゆうちょう)なことをしていられる精神状態ではなかった。


 そのまま二階の自分の部屋に向かおうと、階段に右足を乗っける。すると、


「お帰りなさい」


 という声が、リビングに繋がるドアが開くと同時に聞こえてきた。


 出てきたのは、明弘より十歳ほど年齢が上の、朝焼けのような琥珀(こはく)色の瞳を持つ、綺麗(きれい)な女性だった。灰色のTシャツとジーンズの上に、深緑のエプロンを着け、夜の色をそのまま溶かし込んだような、(ゆる)やかにうねった漆黒(しっこく)の長い髪を、茶色のヘアゴムで一本にまとめている。母親らしからぬ若過ぎる見た目を除けば、いかにも、お母さんらしい見た目をしていた。


 お母さんらしい、というのは、この女性は明弘の母親ではないからだ。とは言っても、年の離れた姉でも、親類縁者(しんるいえんじゃ)でもなかった。

 明弘の言葉を借りて露悪(ろあく)的に言えば――この女は『赤の他人』だった。


 明弘は無言で、だるそうな視線を彼女に向けた。まだいたんですか? と言いそうになるのは、どうにか堪えたが、その言葉の最初の子音を口の中で防ぐ前に、女は少し不機嫌(ふきげん)そうな表情を作って口を開いた。


「というか、帰ったら『ただいま』の一言ぐらい言わないの?」

「俺が帰っても、父さんと母さんは、まだ仕事中ですからね。もう何年も、その言葉は言ってませんよ」

「私がいるじゃない」

「あなたは赤の他人だろ」

「悲しい……」

「勝手に悲しまれても困ります」


 女の浮かべている顔と同様、明弘もまた、不機嫌な表情を彼女に向けていた。今度は女が溜め息をついた。


「どうも昨日より、機嫌が悪くなっているわね。やっぱり何かあったんじゃ……」

「本当に何もありません!」


 明弘は声を荒げた。自分の弱さを徹底的に隠すような反応だけで、『何かがあった』ことを(さと)るには充分だったが、女はそのことについて、特に深入りすることなく、


「そう……。じゃあ、着替えてらっしゃい。晩ごはんできてるから」


 そう優しく言って、リビングの中に引っ込んだ。しばらくして、階段を上る音がリビング内に届いた。


 その音をドア越しに聞きながら、女は両目を(つむ)り、再び小さく溜め息をついた。きっと彼も、私みたいに溜め息をついているに違いない、と頭の(すみ)で思いながら。


 両目を開くと、翼を広げた黒い小鳥が、目の前を浮遊していた。一切羽ばたいていないにも関わらず、その場で静止している鳥を見ても、女は驚かなかった。


 ……やがて、女が無言で差し出した指の上に、小鳥は止まった。

 指に止まって羽づくろいを始める小鳥を見ていると、女の頭の中に声が入り込んできた。


『ったく、あのガキも素直じゃねぇな。助けてほしいなら「助けてくれ」って、言やぁいいのによ』

「仕方ないわ。あれぐらいの年齢の子は、何かあっても一人で背負い込もうとするものだから」

『背負いこむ、ねぇ――』


 羽づくろいをやめた小鳥は、指から離れて、今度は女の頭の上に止まる。再び頭の中に声が響く。


『一体何を背負い込んでんだか』

「それは決まってるでしょ、悩みよ」

『ま、あの感じはどう見ても、そうだわな』


 聞こえてくる声に適切な反応を返して、女は「そろそろ支度(したく)しなきゃ」と、キッチンへ向かった。今日の夕飯はカレーだった。IHヒーターの上には、大量のカレーのルーと、ルーをかき混ぜるためのお玉が入った、深型(ふかがた)の鍋が置かれている。それは女が作った料理だった。


 彼女は、鍋の上に右の手のひらをかざし、左手を背後の食器棚(しょっきだな)に向けた。

 途端に食器棚の扉がいきなり開き、二枚の皿が飛んできた。料理を盛りつけるための器が、女を目がけて飛びかかってきたのだ。

 同時に、右手がかざされた鍋には、ある異変が生じていた。IHのスイッチを入れていないのにも関わらず、ルーが急に沸騰(ふっとう)し始めたのである。

 飛んできた皿は、女の頭に直撃しかけたところで急に制動し、ゆっくりと目の前に移動した。

 と思えば、二枚の空の器に、米が突然現れた。瞬間移動である。程よくカレーが煮込まれたのを確認してから、女はルーを数杯(すく)って、器に盛りつけた。

 最後に女は、出来上がった二杯のカレーライスの上で、フィンガースナップをした。

 乾いた音がキッチンに響くと、目の前のカレーが消えて、ダイニングのテーブルの上に出現した。


 夕食の支度は終わった。


「これでよし、と。明弘くん呼んできて」

『オッケー』


 小鳥は頭から離れ、ドアをすり抜けて明弘の自室へと向かった。


「食事の時に何があったか、話してくれればいいけれど――」


 呟いてから、女はあるものを忘れたことに気づいて、もう一度指を鳴らす。すると二本のスプーンが姿を現し、固い音を立ててテーブルの上に着地した。


 彼女の名前はアルフェラッツ。

 この女は、大きな帽子を被り、(ほうき)に乗って空を飛ぶ、正真正銘(しょうしんしょうめい)の魔女だった。


     ★    ☆    ★


 アルフェラッツは、現実世界とは違う次元に存在する、魔界からやって来た魔女だった。年齢は二十七歳。この世界を訪れた理由は二つで、一つは『現実世界を色々回ってみるため』、二つ目は『人々を幸せにするため』だった。

 明弘少年の家にいるのは後者が理由であり、数多(あまた)の悩める人々の中から彼を選別し、明弘くんを幸せにしてあげようと、彼女は木戸家を一時的な滞在先として身を寄せていた。


 一方の、木戸家の一時的な家主である木戸明弘は、男子バスケットボール部に所属している高校二年生だった。彼は訳あって、苦悩と無気力感の沼に足をとられているため、陰鬱(いんうつ)な様子を(あら)わにしていた。

 その泥沼から救出してあげる、と、アルフェラッツとかいう奇怪な女が、彼に救助用ロープをちらつかせているのだが、彼女の素性が素性なので、おいそれと信用する訳にはいかず、彼女に愛想の悪い態度をとり続けていた。


 この普通の少年と魔女が出会ったのは、三日前のことであった。


 その日、鬱屈(うっくつ)という見えざる重いヘルメットを頭に背負った明弘は、一人で夕食を終えて、風呂に入って、今日の復習と明日の予習をしようと、机に向かったところだった。


 彼自身は勉強があまり好きではないのだが、憂鬱(ゆううつ)な思いを払拭(ふっしょく)できるなら、という思いで、ノートと教科書を開いていた。気晴らしの一環であって、苦手教科を克服しようという気や、知力を向上させようという気は、(つゆ)にもなかった。


 異変が起きたのは、勉強を初めて数十分が経過した頃だった。勉強の途中、窓の外からコツコツという音が聞こえてきたのだ。


 最初は、風で何かが窓に当たっているのだろう、と思って、無視を決め込んでいたが、今日は一日中快晴で空一つ荒れないという予報を思い出したことと、逆に不自然なほど一定のリズムで窓が叩かれているという事実に気づいたこと、そしてそれが、あまりにもしつこいことに業を煮やした明弘は、音の正体を確認しようとカーテンを開けた。


 今思えば、それが運の尽きだった――と、明弘少年は思っている。目の前にあったのは、どう考えても常識ではあり得ない光景だったからだ。


 箒の柄に座った女が窓の前にいた。黒くて大きな帽子に、同じく黒い服。まるで映画のワンシーンみたいに、女は足を組んでこちらを見ていた。女は少年と視線が合うと、アピールをするかのように、にこやかに手を振った。


 少年は数秒間、女の姿を見た後、事態を理解してカーテンを乱暴に閉ざした。同時に己の感覚に対する不信感と、目の当たりにした光景に対する恐怖心が、急激に増大し、(あふ)れ出た。


 明弘は、小心者や臆病者と呼ばれるには程遠い性格の持ち主だったが、それでも視界を介して脳内に流入する情報は、理解と解析が不可能な、おぞましいものだった。


 こんなの絶対におかしい、何が起こっているんだ、その前に何だあの女、変な格好していたぞ、しかもこの部屋二階だし、とうとう俺の頭がおかしくなったのか、俺が変になったのか――明弘少年の脳内では、恐怖と困惑の濁流(だくりゅう)が激しく渦巻いていた。


 ……ある程度、思考が落ちついたところで、明弘は、改めて外の景色を確認する決意を固めた。もう一度外を見れば、己の感覚が正常か異常かを、目の前の光景を試験台として確認できる。

 先ほどの景色が現実だったら、警察に通報すればいいし、幻想であれば、病院に行くなど、何らかの対策を講じることができる。


 そして呼吸を整え、覚悟を決めて、明弘は再びカーテンを開けた。

 魔女のいる景色は現実のものだった。

 明弘はその場で反転し、机に戻って、通報しようと携帯電話を手にとった。


「待って! 通報しないで! とりあえず話を聞いて!!」


 先ほどまでの、悠長な表情を浮かべていた魔女は、嘘のような狼狽(ろうばい)を見せた。明弘は当然、彼女の言葉を無視した。まさか自分が『110』と通報するなんて思ってもなかったが、不思議と頭の中は冷静だった。


「待って――!」


 と、再び魔女が叫んだ途端、明弘の全身が急に硬直した。

 いや、硬直したという生易しいものではない。まるで体中が石になったみたいに、小指一つすら動かせない。


「お願いだから話を聞いて! 怪しい者じゃないから!」


 説得力のかけらが微塵(みじん)もない魔女の叫びが、窓をすり抜けて明弘の耳に入ってくる。その言葉だけで、自身に何らかの魔術がかけられたことを確信できた。


 この女は、自分の話を聞いてもらいたくて、俺に石化させる魔法をかけたのか?

 というか、これが相手に対話を要求する人間がすることなのか?


 混乱、恐怖、ささやかな怒り――熱を帯びた様々な感情の触手に拘束された明弘は、話を聞くから自分にかけられた魔法を解け、と感情的に声を荒げた。

 その言葉が魔法解除のトリガーとなったのか、明弘の体から、見えざるコンクリートが音もなく()がれ落ちた。石化魔法が解けたのだ。


 魔法から開放されると同時に、魔法をかけた張本人のいる方へ乱暴に視線を向けると、魔女は申し訳なさそうに弁解を始めた。


「ご、ごめんなさい。どうしても話を聞いてほしくて、乱暴な方法をとってしまったの――」


 これが明弘とアルフェラッツの出会いだった。少年は窓の向こうの景色を(にら)んだ後、窓を開けて、謝罪と説明を嘆願(たんがん)する魔女を招き入れた。

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