缶珈琲
「お疲れ様でしたー」
今日は久しぶりに軽音部にずっといた。というより、いさせられた。
「やー、ヴァレンタインマジ助かったし」
「いえ…」
スロワ・エリクソン先輩。その人のバンドのキーボードがインフルエンザになってしまいライブに出られなくなった。そのピンチヒッターに、僕が選ばれたんだ。
上級生ばかりの空間に、ただひとり1年生。それでも何とかなったのは、スロワ先輩がずっとフォローしてくれたからだ。
「ヴァレンタイン近所のアパートだよね?ウチ駅までだし一緒しよ」
「あ、はい」
大勢の熱気に包まれていた教室を出れば、ピンと張りつめたような冷気。
「うー、さむー」
スロワ先輩はマフラーに顔を埋めた。僕もいつもの赤いマフラーをしっかり巻き直す。
外は雪でも降りそうな重い灰色の雲が空を覆っていた。あたりはすっかり薄暗い。ポケットに手を突っ込んだ先輩の姿が隣なのにはっきり見えないくらいだ。話し声とテンポの違う足音だけがお互いの存在を示していた。ポケットに小銭でも入っているのか、先輩の方から金属音も聞こえる。
「あ」
先輩が足を止めた。視線の先には明るい自動販売機。
「ちょっと待ってて」
先輩は自販機に駆け寄っていって、ポケットの小銭を漁って入れる。2本何かを取り出すと。
「はい、今日はありがと」
渡してくれたのはホットの缶コーヒー。手袋越しに伝わる熱。
「あ…ありがとうございます」
「今日マジ寒いし。ね?」
「そうですね」
先輩は自分のコーヒーを開けて飲み始めた。はー、あったまるー、なんて言いながら。
「先輩、あの…進路とかは大丈夫なんですか?今度のライブだって、3年生で出るのは先輩だけですよね?」
「あー、ウチね、専門学校行くの。もうAOで決めてんの」
「えっ?」
「ウチ美容師になりたいんだよねー。スタイリスト的な?ホントは音楽で食べてきたい気持ちもあるけどそれはチョーむずいじゃん?そんで他にやりたいことって考えたらそっち方面だったんだよね。それだったら大学行くより専門行った方がいいじゃん?」
「そうなんですか…」
先輩は自分の進路を考え、しっかり決定して、自分の道を歩いていこうとしてる。
でも、僕は。
「ヴァレンタインは何かやりたいことないの?」
「え、…今は…特に…」
「ふーん。ま、いいんじゃね?まだ1年だしそんなもんだよね。つか1年とか高校生活楽しむ年じゃんね。じゃないともったいないし」
「…そうですかね」
「ウチだって進路決めたの3年になってからだし。高校からの進路なんてそんな人生決めるようなもんじゃないし、いいんじゃん?」
つか、アンタ頭いいんだから大学なら余裕で入れるっしょ?と笑う先輩が、何だか輝いて見えて。
「あ、ここじゃね?アンタのアパート」
「あ」
「じゃね、また明日」
「あ、はい、お疲れ様でした」
「お疲れー」
早歩き気味のスピードで歩いていくスロワ先輩の背中を見送ってから、もらったコーヒーを開けずにずっと持っていたことを思い出した。
手袋越しでも熱いくらいだったそれは、すっかり外気と混ざっていて。
「冷めちゃったな…」
プルタブを開けて、一口飲む。
来年の冬に、あの人はいない。
僕はきっと何も変わらないまま、ここにいるのだろう。
そんな未来の現実を自覚するような味だ。缶をよく見たら無糖だった。初めて飲んだ。
この気持ちは、何と言うんだろう。
気がつけば、もう見えなくなった先輩の面影を、道の先に探していた。
(僕には、まだやっぱり苦い)