――― 予兆と成れの果て ―――
――――――放課後。
凜と夏子は授業を終え、夏子の『未練』探しのために商店街に来ていた。
ゴールデンウィークということもあって人で混雑しているかと思っていたが、人通りは普段の平日とさほど変わらない様子だった。
比較的にこの町は栄えている部類に入ると思う。人通りや店の数は少なくはなく、特に目に引くものもない。軽い買い物や遊びには困らない程度で治安もそれなりに良いと思っていた……最近までは。
「とりあえず、商店街を回ってみましょうか」
「そうね、よく買い物とか遊びに来るし」
「何も代わり映えしないですけど……どうですか、何か思い出せそうですか?」
凜は隣にいる夏子を見上げる。
商店街は朝も立ち寄る事もできたのだが、朝の準備がいつもより遅い時間になってしまった為、素通りする形になってしまった。
ここは夏子の生活の中で関わりの深かった場所の一つ。
完全に『未練』を思い出すとはいかないかもしれないが、せめて僅かでも思い出す切っ掛けになればいいと願う凜。
「全然、なにも」
が、 あっさり否定する夏子にガックリと肩を落とした。
「そうですか……まぁ、いきなり見つかるとは思ってませんでしたけど」
「でも」
「でも?」
夏子は「フフッ」と小さく笑い、
「初めてだなぁーって」
「何がです?」
凜ははしゃいでいるように見える夏子に首を傾げる。
「凛と買い物来るの」
「はぁ、確かに初めてですけど」
「フフッ」
もう一度にやける夏子。
凜は夏子の様子にただ「?」と疑問符を浮かべる事しかできなかった。
よくわからないけど、夏先輩嬉しそうだし…………まっ、いっか。
楽しげに笑みを浮かべる夏子をしり目に商店街を見回す。
「…………ッ」
右眼に視える景色に少しだけ戸惑った。
人と幽霊って見分けるの疲れるんだよなぁ。
人と人とがぶつかり合うはずの風景。人が混じり合う光景はいつ視ても気持ち悪くなる。
――――――右眼に疼くような鈍い痛みが奔る。
「……っぅ」
右眼に感じる焼けるような感覚。まるで右眼に映る光景を不快だと思った事への罰のように痛みが少しだけ強くなる。
「どうしたの? 凜」
表情に出さなかった僅かな機微を感じたのか、夏子が怪訝そうに問い掛けた。
凜は夏子へ顔を向け、
「……いえ、何でもないです」
「そう?」
「はい」
当たり障りなく言葉を返し、何事もなかったように顔を正面に戻す。
これだけ霊魂を『視』続けるのは久し振りだからか、少し痛みがいつもより強い気がする。
「一通り見てまわりましょうか?」
「そうね、ウインドショッピングでもしながら歩きましょう」
これ以上勘ぐられる前にと話を切り出し、夏子も凜の提案を不審がらずに頷いた。
気分が高揚しているいるのか、スイスイと泳ぐように宙を浮いていく夏子。
それが無邪気な子供のように見え、凜はクスッと小さく笑う。
しばらく夏子の後を黙って歩き、ぼんやりとだが夏子に焦点を合わせる。
「…………幽霊、か」
凜はそんな夏子の後ろ姿を眺め、ポツリと呟いた。
自分が今まで視た事のある霊は大きく分けて二タイプ。一つは生前にやり残した事に執着する者と、もう一つは他者への恨みを持つ者のどちらか。
夏子を見る限り、前者のタイプだろう。
一日だけだが、夏子を見てそう思った。誰かへの恨みや憎しみ、怒りとかで成仏できていない後者のタイプは言葉とか見た目や言動というより存在感に強烈な影を感じたりする。が、夏子からはそんな感じがしない。
「夏先輩の『未練』ていったいなんなんだろう?」
その疑問に、今朝リビングで蘭に言われた言葉が脳裏をかすめる。
――――――――『未練』を探すには思い入れの強い場所を歩き回ったり、仲の良い人物を尋ねてみたり、大切な物だったりを探してみると良いぞ。
「場所以外のもの、か……」
学校では『未練』を思い出す兆しもなかったみたいだったが、もし夏子の『未練』が場所ではなく人や物だった場合、探すのは少々難しくなる。
「………………」
人を探して会う事は簡単でも夏子の人間関係やプライベートな話を聞き出さなければならないし、物に関して言えばもう葬儀も済み関わりの深い物は一緒に火葬されている可能性が高い。
「残ってたとしてもそんな大事な物なんて夏先輩の家にしか…………」
そこまで言って凜の声が唐突に途切れ、
「………………ハァ」
呆れだけを込めた盛大なため息をつく凜。
「なんで最初に思いつかなかったんだろ、僕」
自分の馬鹿さ加減に目眩のような感覚を覚え、顔を押さえながら自己嫌悪する凜。
それを視界の端に捉えた夏子が飛び寄ってくる。
「凜、どうしたの? なんか疲れた顔してるけど…………」
「いえ、大丈夫です。特に具合が悪いってわけではないので」
「そう? なんかさっきも様子が変だったし……」
心配そうに顔を覗きこもうとする夏子を止めるように、ついさっき思いついた事を口にした。
「それよりも夏先輩、商店街を見終わったら……ちょっと行きたい場所があるんですけど」
「別に良いけど、行きたい場所って?」
「その、場所なんですけど…………」
夏子の問い掛けに、凜は一瞬戸惑うように言葉を切り。
「うん」
聞き出すような夏子の相槌に覚悟を決めた。
「夏先輩の家に行きましょう」
「私の家に?」
「はい」
夏子は凜の思いも寄らなかった提案に大きく目を見開き、
「もっと早くに気がついていれば良かったんですけど……多分、学校とか商店街を回るよりも夏先輩の『未練』の手掛かりを見つけやすいと思います」
凜は面目ないと、頬を掻きながら説明を続けていく。
「夏先輩は幽霊だから物に触れたりはできないですけど、一番いる時間が長かった場所で、夏先輩の大切な人がいる場所でもありますし…………下手に色々な所を探し回るよりもはやいと思います」
凜が説明し終わるのと同時に二人の間には数秒の沈黙が流れ、
「そう、ね。凜の言う通り、その方がはやいかもしれないわ」
凜の言葉に動揺を隠すように頷く夏子。
「………………」
そんな夏子の様子に凜は――――――あぁ、夏先輩も僕と同じで思いついてなかったんだ、と心の中で温かい視線を夏子に向けた。
夏子は気を取り直すように一度咳払いをし、
「そうと決まれば早く行きましょう。私も…………お父さんの様子も気になるし」
「そうですね、冬樹さんの様子も見に行きましょう」
凜も流れに乗るように頷いた。
††††††††††††††††††††††††††
「………………」
「………………」
商店街から歩く事、約二十分。
凜と夏子は住宅街へと場所を移動し、立ち並ぶ住宅街の中に静かに構える一軒の家屋の前に見上げ立っていた。
空は青から茜色に染まりはじめ、周囲の家々に次第に明かりが灯り始める時間。
灰色一色の二階建ての一軒家は建てられてからの年月を感じさせるように色褪せ、外玄関から連なって周囲を囲うように組まれた石垣は表面を風化させていた。
「着きました、ね」
気まずげな声で沈黙を破る凜。
そして見上げていた視線を降ろし、外玄関に設置されたインターホンの上に付けられた木製の板には『神村』と書かれていた。
「つい最近まで住んでたのに……なんか、すごく久しぶりな感じがする」
生まれ育ち楽しい事も、嬉しい事も、辛い事も、悲しい事も全部。多くの思い出が詰まった場所。
つい数日前までは自分の居場所だった場所を、愁いを帯びた表情で見上げる夏子。
凜は神村邸から視線を外し、様子を伺うように横目で夏子を見上げる。
「明かりはついていなみたいですし、カーテンも閉まってますね」
「多分、お父さん出かけてるんだと思う。普段だとこの時間はだいたい家にいるから……」
「留守、ですか…………」
凜は夏子の言葉にやや声の感情が落ちる。
今日は『未練』探しが目的だったが、僅かでも冬樹の様子も見て来て欲しかった…………葬儀の時、かなり無理をしていた様子で体調を崩していなければいいのだが。
「それじゃあ夏先輩、僕は外で待ってますね」
「うん、わかった」
凜は申し訳なさそうに眉を寄せ、
「あまり長い時間外で待ってるとご近所さんに怪しまれてしまいますので、一時間位を目途に戻ってきてくださいね」
夏子の顔色を伺うように言った。
「本当は気の済むまで、って言いたい所なんですけど……あの『死神』の子が今日も来るって言っていたので」
「うん、わかってる。大丈夫、忘れてないよ」
心で疼いている暗い感情を振り払うように、明るく笑ってみせる夏子。
「そう、ですか」
そんな夏子の笑顔に凜はズキッ、と胸の奥が痛んだ。
夏子は自分の家に来たというの落ち着いて過ごす事もできない。今の状況に凜はまるで自分が夏子を振り回しているような気になって、否応なしに気が滅入る。
凜は滅入る気持ちと胸の奥の痛みを押し隠すように笑みを浮かべ、
「じ、じゃあ僕は」
そこの曲がり角で待っています、と来た道を振り返ろうとした時だった。
「おや? 君は…………凜君じゃないか」
背後から聞こえた聞き覚えのある声に凜はビクッ!! と肩を跳ね上げ、
「っ」
夏子は黒みがかった瞳に映る人物に言葉を詰まらせた。
凜は背後を振り返り、夏子同様に声の主を左右の瞳で捉えた。
「ふ、冬樹さん」
「やぁ、久しぶりだね。今、学校の帰りかい?」
「えぇ、まぁ……冬樹さんは買い物帰りですか?」
全く予期していなかった遭遇に驚きと戸惑いに咄嗟に作り笑いで答える凜。
「あぁ、最近買い物に出ていなかったから冷蔵庫が空っぽでね。食料品を買いにね、あとは日用品を少しかな」
冬樹はその言葉通り、胸の前で抱えるように大きな紙袋を持っていた。中身は野菜や肉類、魚などの食料品と洗濯洗剤やその他諸々の雑貨が詰め込まれ、今にも紙袋がはち切れてしまいそうだった。
「おとう、さん…………」
痛みに歪んだ夏子の声に、隣に移動していた夏子へ視線を移す。
そこには瞳に映る冬樹の姿に、苦渋を抑え込むように両手で口を覆う夏子の姿があった。
凜はすぐ様視線を夏子から外し、
「お葬式以来かな。あの時は体調が悪そうだったが元気そうで何よりだ」
「はい、あの時はご心配をお掛けしました」
感謝を示すように小さく会釈をする凜。
視線を冬樹に合わせ、自分を気遣って浮かべた笑顔に…………凜は心が締め付けられる。
「冬樹さんは……あの時も少し窶れ気味でしたけど、あれから随分痩せたみたいですね」
「はは、ダイエットはしてるつもりはないんだけどね。十キロくらい痩せたかな」
冬樹は明るく笑って見せたが、骨ばった頬を筋ばった指で掻いてる姿は誰が見ても痛々しく見えてしまう。
「あ、そう言えば話が戻るけど。凜君、学校帰りと言っていたけど……確か君の家はここから商店街の向こう側じゃなかったかい?」
「えっ!?」
急な話の引き戻しに凜はギクッ!! と顔が驚きに引き攣らせ、
「いえ、あのっ、家は確かに向こうなんですけど、ええっとですね。これはその……散歩!! 散歩です!!」
あたふたと慌てて勢い任せに答えた。
「散歩? わざわざこんな遠くまで?」
驚くように眉を上に上げる冬樹。
「は、はい!! その、健康の為に日課でいつも少し遠くまで散歩してるんです!!」
「健康の為にねぇ……まだ若いのに随分と健康志向なんだね」
「ははっ、そうなんですよ」
無理矢理作った引きつり笑顔の凜を感心するように眺める冬樹。
「まぁ、ここで立ち話もなんだし散歩の休憩がてら、中でお茶でも飲みながら話でもしないかい?」
「えっと…………」
紙袋片手に外玄関の格子を開きながら問い掛けてくる冬樹に、凜は一瞬お茶の誘いを受けても良いのか迷い、
「…………凜」
いつの間にか冬樹の隣に浮いていた夏子の頼るような表情に迷いは消え、凜は応えるように笑顔で答えた。
「せっかくのお誘いですから頂いていきます」
笑顔で誘いを受けた凜に、冬樹は満足げに微笑み返す。
冬樹はズボンの右前のポケットから家の鍵を取り出し鍵穴へ差し込む。差し込んだ鍵を回し、カチッと乾いた音が鳴る。
「どうぞ、遠慮なく入ってくれ」
そう言ってドアを開き、
「はい」
凜は冬樹の後について一歩敷居を跨ぐ。
靴を脱ぎ、失礼にならないよう脱いだ靴の靴先を玄関先に向け、靴棚とは逆側に並べて置いておく。
「リビングはこっちだよ」
「あ、はい」
凜が靴を並べ終え、立ち上がると同時に冬樹がリビングへ凜を誘導。冬樹の手招きにリビングに足を踏み入れる凜。
リビングに入ると大きな長めのソファーが二つ、ガラス製の長テーブルを挟むように並んでおり、
「今は買った物を冷蔵庫にしまうから、ソファーに座って待っていてくれ」
「わかりました」
促されるまま、凜は黒革のソファーに腰を下ろした。
リビングの奥、台所の横の冷蔵庫を開きながら冬樹が声をあげる。
「凜君はお茶とコーヒー、どっちが良いかな?」
食料品を冷蔵庫に詰めながら、凜に問い掛ける。
「あ、お茶をお願いできますか?」
「熱いので良いかな?」
「はい」
「わかった、少し待ってて。食料を入れたらすぐに煎れるから」
来客者、というよりはまるで自分の子供に接するような温かで柔らかな表情の冬樹。
「ありがとうございます」
凜は小さく頭を下げ、素直に感謝する。
そこで二人の会話は途切れ、そのタイミングを見計らって「凜」と夏子が話しかける。
凜は冬樹の様子を伺いながら小さく顔を夏子の方に向け、気づかれないよう小声で話す。
「僕が冬樹さんと話をしている間に色々見て回ってください」
「うん、とりあえず私の部屋に行ってみる」
「はい、僕の方は少し話をしたら外で待ってますから」
「わかった」
凜と夏子は手短に言葉を交わし、夏子はリビングを出て階段へと向かい、凜は夏子の姿が視えなくなるまで見送り。
「お待たせ」
夏子と入れ替わるように冬樹が「粗茶だけど」と言葉を添え、凜の正面。テーブルの上に湯気がたつ湯飲みを置いた。
「あ、はい。ありがとうございます」
凜は湯飲みに両手を伸ばし、右手で持ち上げ左手で底を支えるように持ち上げる。
「熱いから気をつけてね」
「はい」
冬樹は凜に一言告げ、反対側のソファーに腰を下ろす。
凜と向き合うように座った冬樹は自分の分の湯飲みを置き、お盆をそっとテーブル脇に置く。
「散歩が日課と言っていたが、君だって年頃の高校生。ゴールデンウィークなんだから彼女と出掛けたりはしないのかい?」
お茶話と話題を振る冬樹。
「ははははは、残念ながら彼女はいません」
残念と口では言っているが、清々しいまでに爽やかな笑顔で答える凜。
「彼女がいないのかい? そんなに可愛いのに?」
「え、いや……可愛いからって彼女が必ずしもいるわけでは」
意外そうに驚く冬樹に、凛は少し引きつり気味だったが笑顔で言葉を返し、
「そうなのかい? 夏子からは結構人気があるような話を聞いていたんだが」
「夏先輩が、ですか?」
初めて聞く話に凜も驚きに目が丸くなる。
「夏子とはよく一緒にいたみたいだが、そういう話はしなかったのかい?」
「はい、あまりそう言う話は……普段は学校の話とかしかしなかったので」
「そうなのか……」
冬樹は凜の言葉に一言だけ呟き、悩んでるのか顔を伏せて凛から視線を外す。
凜は冬樹の様子にこちらからも何か話を切り出そうとして、
「あ、あの……夏先輩って家ではどんな感じだったんですか?」
「ん? 家での夏子かい?」
「はい」
夏子の話題を振ってみた。
夏子ばかりに『未練』探しさせるわけにも行かないし、自分も少しは手掛かりを探さなければ。
夏子が生き返る為に必要な事とはいえ、冬樹に死んだ娘の話を聞くという自身の行為に凜は謝罪の念に心が重くなる。
「学校だと凄く大人びてて格好いいなって思ってたんですけど家では……家族の前ではどんな人だったんだろうと思って」
自分の一言一言に顔が申し訳なさに歪みそうになるが、なんとか苦笑いで堪える。
「大人びてて格好いい、か…………はは、親の私からすれば少し意外かな」
謝罪と後悔に苦笑いで堪える凜に対して、自然な笑顔で答える冬樹。
「意外、ですか」
「あぁ。まぁ、確かに小さい頃から死んだ妻の代わりに家の事をしていてくれたからね。周りの子に比べれば少し大人びていたかもしれないが、それでも私にとっては可愛い娘だからね」
「そう、ですか……」
夏子の事を話す冬樹の笑顔があまりにも優しく、温かくて、凜もそれにつられるように笑みを溢す。
「家での夏子という事だったが、小さい頃からアルバムがあるんだが見ていくかい? 少しは話の種になると思うが」
「良いんですか?」
「別に隠しておく物でもないからね、この後なにも予定がなければ」
「ありがとうございます、ぜひ」
凜は思いがけない冬樹の申し出に笑顔で答え、
「じゃあ、早速。夏子が産まれた時の写真から」
冬樹はニンマリと顔を綻ばせながらソファーの後ろに手を伸ばす。
「へ? 産まれた時って…………」
冬樹の言葉に何故か背筋に冷たいものが奔り、
「勿論、出産時の時だよ!!」
ソファーの後ろから分厚いアルバムを取り出した冬樹の表情は今までで一番輝いた笑顔で。
「ア、アルバムって……どこから」
満面の笑みの冬樹とは正反対に、凜は自分の顔が引き攣るのがわかった。
††††††††††††††††††††††††††
凜が冬樹との話に一抹の不安を覚えた頃。夏子は、見慣れた自室を見渡しながらポツリと呟く。
「懐かし、くもないか」
自分が殺されてからまだ十日も経っていない。部屋も別段変わっているところもない。
強いて違いがあるとすればお気に入りのぬいぐるみが幾つかなくなってるくらいだった。
「ペンギンのぬいぐるみが無くなってる……火葬の時に一緒に燃やしてくれたのかな?」
夏子は寂しげに呟きながら、他にも何か変わっている事がないか探してみる。
淡いピンク色の壁紙にピンクのカーペット。フリル付きの白いカーテン、寝具は布団を綺麗にセッティングされた状態。今は亡き母が使っていた木製の化粧台は鏡が扉で閉じられていた。
「………………」
今は主不在の部屋。生前は夏子の部屋だったが元々は夏子の母の部屋だった。
夏子の母、春那は夏子が四歳の頃に病死した。別に不治の病とかそう言うわけではない、ただ体が弱かっただけだ。
冬樹が医者というのもあって冬樹が勤める病院に入院していた。実際、夏子や冬樹はこの家よりも病院で春那と一緒にいた時間の方が長く、体調が良い時は家に戻ってきたりしてはいた。部屋はその時に春那が夏子に譲ったのだ。
「いつでもお母さんを感じられるように、この部屋を使って……か」
そう言って笑っていた母の笑顔はどこか寂しげだったのを今でもハッキリと憶えている。今にして思えばその時に二人はもう覚悟していたのかもしれない。
「えっと、とりあえず部屋には来てみたけど…………私の『未練』っていうよりはお母さんの事ばっかり思い出すのよねぇ。私は幽霊になっちゃったけど、お母さんはちゃんと成仏出来たのかな?」
夏子はもしかしたらと部屋を見回して、
「家のどこかにいたりして……っているわけないか。いたらここに来た時に会えただろうし、凛にだって『視』えたはずだもの」
寂しげに眉を寄せ、気を取り直してもう一度部屋を見渡す。
「…………私の事なのに思い出せない」
胸の前で腕を組んで、首を傾けてみる。
「『未練』かぁ……生きてる頃の私って何が一番したかったんだろ?」
目を細めてもう一度ジーーッと部屋を見渡してみる夏子。
「………………………………………………ふぅっ、やっぱりダメか」
これは一旦、凛の所に戻るしかないみたいね。ちょっと恥ずかしいけど凛に頼んで部屋の物を調べてもらうしかないのかも…………。
「そう言えば今何時だろ?」
部屋に来てからそんなに時間は経ってないと思うけど、お父さんと話を続けるのも少し難しい筈。それに話題が私の事しか共通点が無いからあまり恥ずかしい話とかされても困るし、何よりあの話をされてもしたら…………。
「――――――あの、話?」
不意に夏子は自分の言葉が引っかかり、それが合図に激しい頭痛が襲う。
「あっ、つっ……ぅぁっ!!」
――――――ただの頭痛とは違う。もっと全身を……いや、『魂』そのものを握りつぶされる様な痛み。
夏子は一階にいる凛に助けを求めようと声を上げようとして、
「あっ…………り、凛……んっ!?」
体中を奔り回る激痛に声が出ない。
痛みと一緒に流れ込んでくる断片的な映像。
「な、に…………っぁ!?」
(できたーーーーーっ!!)
机に座って一枚の紙を天井に向けて掲げながら喜んでいる夏子。
(あとは―――の下駄箱に)
顔を真っ赤にしながら誰かの名前を口にして何かを想像している姿。
「こ、れ……って、っ」
憶えのない記憶に動揺する夏子だったが、痛みが何かを急かすようにその激しさを増し意識が飛びそうになる。
「つっ!?」
(―――、びっくり―――だ、うなぁ)
ううん、私は知ってる。この記憶は。
(泣……も笑っ、……明日、れ!! し!!)
手に持っていた紙を綺麗に二つ折りにして白い便箋に入れ、封をする。そして母の写真が入った写真立てを手にとる夏子。
(―――に私の―――がと、ま――――――うに)
「これ、は……」
期待と不安が入り交じった顔をする自分の姿に夏子は確信する。
これは私が殺される前の記憶。
そう認識したところで、唐突に限界が訪れた。
夏子は痛みと記憶の濁流に最後の気力まで持っていかれ、意識が暗い暗い闇に溶けていく。
自分の全てが溶けてしまいそうな、そんな感覚に。
「…………っぁ」
暗闇に溶ける直前、夏子は最後に映像に出てきた紫色の髪の少年の名を呼んだ。
「り……ん」
リビングには異質とも取れる異様な空気が流れ、
「凛君、これなんてどうだい!?」
「さ、さすがですね」
顔の筋肉が引きつるのがわかった。
「これは四歳の頃の写真だね、どうだい? 可愛さの余りロリコンになっちゃいそうだろう?」
誰が見ても顔が蕩け、アルバム片手に危険ワードを口走る冬樹。
「ははは、僕は普通に子供好きになんで」
「これは六歳だね!! こっちが卒園式でこっちが小学校の入学式!! 凛君にも夏子のランドセル姿見てもらいたかったなぁ」
「いやー、僕はまだ年長さんだった頃なのでちょっと難しいかなぁ」
笑顔なんてとっくに通り過ぎて引きつり顔で現実的な答えを返す凜。
「で、こっちは一年生の時の運動会で、こっちは遠足!! それでそれでこっちはぁ」
凜の答えなど全く気にしていない様子で盛り上がっていく冬樹。
「ははははは」
凜は乾いた笑い声と共に冬樹を見つめ――――冬樹さんってこんな人だったんだ……と心の隅で小さくため息を付く。
葬儀と今。たった二度だが聡明で穏やかな人格者というイメージがあったが……もう笑うしかないくらい親バカだ。今までクラスメイトの親と会話する機会は何度かあったが、ここまで露骨に子供好きははいなかった。
「あとは趣味でこんなのも作ったりしてたんだ!!」
冬樹はアルバムをテーブルに置き、ソファーの後ろへ体を向けてあるものを取り出した。
「どーうだいっ!? すごいだろ!!」
冬樹が誇らしさ全開でテーブルの上に突き立てたのは、
「…………………………っ」
中学生時代、セーラー服姿の夏子をプリントした等身大の抱き枕。
それを見た瞬間――――――凜は真っ白に燃え尽きた。
「これは中学生の時で」
「………………………」
またソファーの後ろへ体を向けて、
「ジャジャーーーーーーーーーンッ!!」
喜びが感極まったのか、痛々しい効果音と一緒にまた抱き枕を二組取り出した。
「こっちが小学四年生の時で、こっちが高校入学の時の夏子!! どうだい、喉から手が出るほど欲しくなるだろう!?」
「…………そのソファーの後ろってどうなってるんですか?」
凜は冬樹の興奮を断ち切ろうと心の刀を振り下ろし、
「ちなみに抱き枕は0歳から一七歳まであるよ!!」
行き過ぎた愛情の前に脆くも砕け散った。
僕は…………無力だ。
無力感に項垂れていた凜へ追い打ちを掛けるように冬樹は宣伝を続け、
「どれか欲しい物はあるかい? 記念に一つ」
「遠慮します」
押し売りされる前になけなしの勇気と理性を込めた一撃で暴挙を食い止める。
「そうかい? 残念だな……もし欲しくなったらいつでも言ってくれ。宅急便で届けるから」
「いえ、冬樹さんが大切に保管してください」
「大丈夫だ、凛君!!」
正に渾身。高ぶりきった声で右手を握り親指を突き立てる冬樹。
「こんなこともあろうかと観賞用、保存用、布教用、万が一の在庫用と用意してある」
「……わかりました。必要になったら連絡します」
もう何と言って良いのかわからない状況に、凜は心の中で自分自身に問う。
なんだろ、男の子なのに目からしょっぱい水が出てきちゃうよ?
「うん、連絡待ってるよ!!」
「…………………………」
凄い、いい笑顔だ。だが、何故これ程までに自分へ勧めるのだろう? と疑問に肩を落としうな垂れてる凜。
そんな凜に冬樹は小さく笑みを溢し、
「…………とまぁ、こんな風に元気でやってるよ」
今までと違った重みのある声で問う。
その冬樹の声に凜は勢い良く顔を上げ、
「様子を見に来てくれたんだろう?」
「っ………………」
温かさ、厳しさ、冷静さ。そして全部を包み込むような深い優しさが伝わってくる冬樹の姿に答えが返せない。
「最初に質問した時に答えてくれなかったからね、ピンと来た」
冬樹は冷めたお茶を一口飲み、
「煎れ直そう」
二人分の湯飲みを手に取り立ち上がって、凜に背を向け台所へ向かった。
その後ろ姿は先程とは別人の様に大きく見え、
「………………」
緩んだ雰囲気はなくなり、代わりに気まずさが一気に押し寄せてきた。
「フフッ、やっぱりそういう態度になるね」
その気まずさを和らげようとしてくれたのか冬樹は小さく笑い、湯飲みに熱いお茶を煎れる。
「君は優しい子だって聞いていたし、今日話してみて強く感じた」
冬樹は台所から戻り、湯気が上る湯飲みを凜の前に差し出すと、ソファーに腰を下ろした。
「最初から今まで私の様子……いや、気持ちといった方が正しいかな。ずっと感じ取ろうとしてくれていたからね、ありがたいよ」
「そんな……」
「いや、実際こうやって誰かと笑って話せたのは夏子が死んだ日から初めてだ」
冬樹は気持ちを落ち着けようとお茶を一口啜り、湯飲みに視線を落とす。
「どんなに恨んでも、どんなに悔やんでも、どんなに願っても…………夏子はもう、ここには戻ってこない」
「……………………」
凜は無言で返し、冬樹は湯飲みをテーブルに置き話を続ける。
「ほんとは君が来るまで誰とも夏子の話をしなかったんだ。話してしまえば夏子が死んだんだと、もうこの世界にはいないんだと…………認めなければいけないからね」
暗い感情を押さえ込むように湯飲みを置く冬樹。
「………………」
「………………」
短かったのか長かったのか、それすらもわからないほど重く深く悲しい沈黙が流れ、
「すまないね、いい大人が愚痴なんて言って。未来ある高校生に聞かせるような話じゃないな」
自重するように笑みを浮かべ沈黙を破る冬樹。
「いえ、そんな」
見ているこちらが痛みを感じる笑顔。
こういう笑顔はいくら見慣れても見慣れない、と凜も憶えのある感情に苦笑で応える。
「僕も同じような経験がありますから……大切な誰かを奪われる苦しみはそう簡単に割り切る事なんてできないですよ」
「君も?」
「はい、小さい頃に母を……」
「そうか、お母さんを」
「まぁ、昔の話ですけど」
そう言って凜は話を区切り、お茶を啜る。
――――――やっぱり、気持ちの整理なんてつかないよね。僕なんか三ヶ月くらい引きこもってったし、それでお祖母ちゃんに心配かけたっけ。
口に広がるお茶の苦みに、昔の事思い出す凜。
そんな凜の姿に冬樹が何か納得したように小さく笑う。
「フフッ」
「?」
突然の事に凜は視線を冬樹に戻し、
「っと……何か?」
「いや、すまない。夏子が言ってた通りだなと思ってね」
「夏先輩が?」
「ああ」
咳払いをし、凜を一瞥する冬樹。
「見た目は子供みたいに可愛いんだけど話をするとすごく安心感がある、ってね」
「安心感、ですか?」
「あぁ、私の方がずっと年上なんだがね。君の方が大人みたいな感じがするよ」
「よく小学生と間違われたりもしますけど……そういう事言われたのは初めてです」
小学生みたいな見た目だからしょうがない、と諦めていた凜だが冬樹の言葉に男としての風格みたいなものが出てきたのか? と首を傾げる。
「はは、何故かな。よく考えてみると君か夏子の話ばかりしかしてないな」
「そう、ですね」
「折角来てくれたのに申し訳ないね。何か聞きたい事とかないかい? まぁ、私が話せる事と言えば医学の話とか」
「そういえばお医者さんでしたよね」
「外科医をしてる、まぁ今は長い休みをもらっているけどね…………医者ついでに今更なんだが」
と、冬樹は徐に凜の右眼を指差し。
「君の右眼、変わった瞳の形と色をしているね。そう言えば夏子の葬式の時は黒かった気がするんだが、カラーコンタクトかい?」
「いえ、これは生まれつきで」
凜は冬樹の問いに小さく首を振り、右眼に添えるように右手を寄せる。
「普段は目立たないように黒のカラーコンタクトをしてるんです。ちょっと……いや、結構変わった瞳なので」
「遺伝かい?」
「多分」
「そうか、医者としての性分かな。調べてみたい気もするけど……」
冬樹は楽しげに苦笑いを浮かべて「まぁ、気になる事があったらいつでも病院に来てくれればいいよ」と一口お茶を口にした。
「あと夏子世代の子達と話が合いそうなのは動物とか」
「動物ですかぁ、僕も何か飼いたいんですけどね」
「あとは夏子とか夏子とか夏子とか夏子とか夏子とか夏子とか夏子とか夏子とか夏子とか」
冬樹はそれからプラス三分くらい「夏子とか」と繰り返した後でとびっきりの笑顔で言った。
「どうだい? 何か話が合いそうなジャンルはいあったかな?」
わざとらしく両手を開いて、肩を窄める冬樹。
「夏先輩の事くらいですかね……………」
凜は冬樹の本能じみた熱意に――――――耐えられない、と心の中で涙を溢す。
「じゃあ、夏子の名前が何で夏子かというとね」
そこからですかアアアアアアアアッ!?
心の中で冬樹の親バカぶりに血の気が引いて、そこであることがふと思い浮かんだ。
「………ぁっ」
「何か聞きたい事でも思い浮かんだかな?」
凜が良いよどんだ様子に話を止め、興味ありといった笑顔で聞き返す冬樹。
「あ、はい…………ひとつだけ」
「ひとつと言わず気になったこと全部聞いてくれて構わないよ。こっちは暇だしね」
「ありがとうございます。その……今から凄く、酷い事を聞きます。もし、もしの話です」
「うん」
口が、言葉が、心が震えてしまう。
「もし、夏先輩を生き返らせる事ができる……って言ったらどうしますか?」
これは本当の家族が選ぶ選択を、本当に『家族』という絆で結ばれた人間の意志を知りたいという唯の興味本位。
凜自身、既に覚悟を決めた選択。だが、それはあくまで他人が決めた選択。
「と、それはまた……随分と」
冬樹は凜の予想だにしていなかった問いに言葉が詰まり、
「本当に不躾で、無知で、失礼極まりない事を言ってすみません。でも、これだけはどうしても聞いておきたくて…………」
自分同様に痛みを知り、そして決して冗談や悪戯と言った軽い気持ちではない感じられない真摯な光を宿す瞳に言葉を絞り出す。
「夏子を生き返らせるよ」
一切の迷いのない答え。
言葉だけじゃない。声も、瞳も、感情も。神村冬樹としての全てが出した一切の迷いの答え。
「生き返らせる為に、とても大きな代償が必要でも?」
「あぁ」
「その代償が冬樹さんの記憶、今まで夏先輩と過ごしてきた大切な思い出で……その全部を失っても?」
「必要なら、ね」
何を犠牲にしてでも夏子を生き返らせる、そんな単純で強烈な意志。
「でも、それじゃ生き返った後。夏先輩はどうするんですか? 自分の事を忘れてしまっている冬樹さんに会ってしまったら凄く、悲しんでしまうと」
「いや、大丈夫だよ」
冬樹は凜の言葉を遮り、そっと胸に手をあてて微笑んだ。
「記憶は失っても『心』で憶えている」
「『心』で…………」
「そうさ、たとえ神に記憶を差し出しても夏子を見守り続けてきた『心』までは差し出すつもりなんてないよ」
「……………」
「それに『心』まで神に奪われても絶対に夏子の事は忘れる事なんてあり得ないし、忘れてしまってもその時の私を四分の三殺しにしてでも思い出させる。だから」
自分の想いを誇るように胸を張り、添えた手で胸をドンッと叩く冬樹。
「大丈夫だよ!!」
およそ根拠という以前に話として成立していたに滅茶苦茶な答え。だが、
「凄い、ですね」
「凄くはないさ、親って言うのは皆、そういうものさ」
「そうですね」
そんな冬樹の姿がどうしようもなく頼もしく見えて――――心から尊敬できると、凜は思った。
自信……いや、これは『信念』と言った方が正しいのだろう。どんな状況でも、どんな事態になっても、どんなに絶望的でも娘が大切だと言う絶対に揺るぐ事のない強靱な想い。
「……ありがとうございました、こんな不躾な質問に答えてくれて」
凜は自分の我が儘に応えてくれた冬樹に謝罪と感謝の念を込め頭を下げ、苦笑いで声を掛ける冬樹。
「いや、気にしなくても大丈夫だよ。それで他には聞きたい事はないのかな?」
「ええ、特には……あっ」
冬樹同様、凜も苦笑いで話題を変えようとして。
「すみません、あと一つだけ……」
「なんだい?」
肝心な事を忘れていた、と慌てて問い掛ける。
「あの夏先輩は亡くなる前に何か悩み事とかありませんでしたか?」
「悩み事?」
「はい、些細な事でも相談された事でも良いので…………何かありませんでした?」
ここまで夏先輩の事を大切にしている冬樹さんなら何か知ってるかもしれないし、何か相談されていたかもしれない…………僕にできるのはこんな事くらいだしなぁ。
「悩み事か…………凛君、最初に聞いておきたい事があるんだが、良いかな?」
「はい、なんでしょう?」
冬樹は姿勢を正して、少し緊張した面持ちで問う。
「夏子とは何かあったかい?」
「何かって言うのは喧嘩とかですか?」
「いや、そういうのではないんだけど。なんて言ったら良いんだろ…………」
何か言葉を選んでいるような素振りで冬樹は暫く考え込み。
「…………約束、かな?」
「約束、ですか」
ポツリと出た一言に思い出してみる。
夏先輩が亡くなる前かそれ以前で約束した事ってあったけ?
お昼ご飯を一緒に食べるのも、学校から一緒に帰るのだって他の男子生徒の目が怖くて逃げるのを捕まって強制的に連行されてるし。そもそも約束じゃないし、でも約束って言われるとそれくらいしか思い浮かばない…………。
(――――――明日の放課後)
ふと、頭の中に夏子の声が響いたのと同時に思い出す凜。
「あった」
夏子がこの世界から外れてしまったあの日。
「どんな約束だったんだい?」
「夏先輩が亡くなった日……その次の日に放課後に話をする約束だったんです。けど結局その約束は護れなかったんですが」
「そうか」
冬樹は凜の言葉に眉間にシワを寄せて、一言だけ呟いた。
「…………………」
それからまた冬樹は黙り込み、
「あの冬樹さん?」
凜の声に顔を戻した。
「ああ、すまない……ちょっと私には想いあたる事はないな」
「えっ? じゃあ、何で」
「私にはないが、夏子のクラスメイトの子達にでも聞いてみてくれないか? 仲の良い子達が何人かいたからその子達なら知っているかもしれない」
凜が聞き返す前に早口で言葉を並べる冬樹。
「親の私には話しにくい事だったりかもしれないしね」
「は、はぁ……」
凜は気の抜けた声で冬樹の気まずそうな笑顔に答えた。
何だろう? 思い当たる事があったから今の質問があったはずなのに……僕には知られたくない事なのかな? いや、知られたくない事だったら僕に確かめる事なんてしなくても知らない振りをすればすむ事だ。
「夏先輩のクラスメイトって言われても、また明日から学校休みで……」
「ああ、そうか。すっかり忘れてたよ、ハハハハハ」
乾いた笑顔――――――知られたくないんじゃなくて、話しづらい事なのかな?
「一応、明日も学校に行ってみます。三年生は部活の最後の大会が近いので誰かはいると思いますし」
「すまないね、力になれなくて」
どこかホッとした様子の冬樹。
あまり無理に聞き出すのも嫌だし、ここは一応アドバイス通りに夏先輩の友達にでも聞いてみよう。明日にでも夏先輩と一緒に学校に…………と。
「そういえば今何時ですか?」
「今かい?」
凜と冬樹は壁に掛けてあった時計を見ながら、
「今は五時半少し過ぎたくらいだね」
「すみません、長居してしまったみたいで」
「いや、こっちこそ話に夢中で。話しに付き合ってもらってすまないね」
二人同時に立ち上がり。
「良かったらまた来てくれると嬉しいな、君と話しをするのは結構楽しいし」
「いえ、こちらこそ。また来ます、お茶ご馳走様でした」
「今度は夏子の部屋でも見せてあげるよ」
冬樹は悪戯っ子みたいに笑って、
「ただ置いてあるのも何だし、夏子の下」
言い切る前に叩き落とそうと、凜が口を開いた瞬間。
――――――右眼を雑に切り裂かれる様な激痛が蹂躙する
「づっ、ぁ!?」
その激痛に脚の力が抜けて、その場に倒れ込む。
「あがっ!? ぐぅぁ、あああああああっあぁアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」
「凜君っ!?」
「ぐっ、ぁう……あがっ、ぎ、ううぅぅぅぅっ!!」
力の入らない脚の代わりに何とか両手で体を支えて、右眼の痛みを紛らわせようと何度も床に額を叩き付ける。
「ぐっ!! ぐっ!! ぐぁっあ!!」
何度目かわからない頭突き。
だが、頭突きの痛みを飲み込んでるみたいに右眼の痛みが強くなってくる。
「がっあああ、ぁ…………ぅぐ」
もう一度床に頭突きをし、治まらない激痛に額を床に押しつけたまま疎ましく呻く。
「な、んだ、よっ……こんな時、に」
(こ―――っ―――こ―――――こっろ)
不意に頭の中に響く不快な声。
それと共に全身にのし掛かる強烈な圧迫感。
「な……っに?」
(――ろ―っ!! ―こ――――――す――――――――――――!!)
頭の中に響いてくる声が次第に大きくなり、右眼の痛みもその声に応えるように痛みを加速させていく。
「がっ!?」
――――――まずいっ、何か近づいてきてる!!
右眼が痛む時はいつも霊が近くにいる。それも痛みが強ければ強いほど良くないモノが来る。
凜は何とか首だけ動かし、
「ふゆ、き……さん。ここからっ逃げ」
冬樹に声をかけようとして。
「ぁ……………っ!?」
目に映る光景に思わず言葉を失った。
先程までいた冬樹の姿はなく、目の前に映る世界は小さい子供が懸命に一枚の画用紙を紅で塗ったような世界。
――――――これ、はっ……昨日の!?
(こ……すっ!! っ…………っろす!!)
もう右眼の痛みなんて感じない。いや、違う。感じている筈なのに……視える世界があまりにも大きすぎて痛みを飲み込んでる。
「くぁっ」
凜の両眼に映るこれは、この世界は。
(殺すっ!!)
単純に血で染め上げられたような紅い世界。
「っ!?」
その世界を拒絶するように込み上げてくる嘔吐感に、凜は胃の中のものを全部吐き出し。
「ゴフッ!! ゴホゴホッ!!」
それすらも許さず世界に触れた瞬間、紅く染まっていく。
「あっ…………………」
(ころすころすころすコロスコロスコロスコロスコロス殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺すっ!!!!!!)
意識を蹂躙する声に飲み込まれそうになった時だった。
(みぃっつけたっ!!)
意識を引きずり込もうとしていた声を、唐突に無邪気さで弾んだ声が振り払う。
「っ!?」
声と共にリビングの縁側がカーテンを開けるように横へ吹き飛んだ。
「なっ!?」
破壊された縁側だった場所は紅一色に染め上げられた世界を広げ、
「何……これ?」
凜と対する巨大な影が蠢く。
その巨大な影に凜の瞳が大きく見開かれ、思わず自分の瞳を疑った。
それは人の形をしていたものの、異形としか言い様がなかった。
ゆうに凜の倍以上はある巨体に頭の先から足の先まで異様に発達した筋肉、金属じみた光沢を放つ黒光りした皮膚はまるで鎧のように見える。腕に至っては巨体とのバランスなど無視するように体躯と同程度の長さで、拳に至ってはまるでクレーンにつるされる鉄球のようだ。
そして最も異質なのはその視線。一対の眼は個々に意志を持つように統一性のない軌道を描き、目まぐるしく動いていた―――――――そう、左眼にはそう見えていた。
「グッ!?」
右眼に視えていたものを脳が映像として認識すると同時に、凜は込み上げてくる不快感に堪えられず吐き出した。
「ゲホッ!! ゴホゴホッ!! …………ッ」
胃の中のものを全て吐き出したせいか、胃がズキリと痛む。
何で? 何であの人が、こんな風になってるの?
凜は制服の袖口で口元を拭いながら、右眼に映った光景に全身からドッと嫌な汗が噴き出す。
右眼に映る光景は左眼以上に異常で、異質で――――――まるで拷問だった。
凜は今まで様々な霊を視てきた。
霊の姿は大体は死んだ時の姿のまま幽霊になる。交通事故で死んだ人間はその時の姿に、手首や首筋を切って自殺した者はその姿に。極希に夏子のように生きてたままの姿で霊になる者もいるが…………右眼に映った男はそれらとは全く違った。
凜の右眼に映るそれは昨日、公園で自分達を襲ってきた男の姿。
通り魔だったモノは顔は半分が無くなっており、顔だけではなく手足も関節部分だけが無くなっていた。胴体もズタズタに引き裂かれたように開かれ、中に詰まったモノが無惨に惜しげもなく飛び出している。
まるで獣が雑に食い散らかした物を水を溜めた水槽に投げ込んだ―――――――そんな光景。
残っていた顔半分の眼球がこぼれ落ち、それと視線が合った瞬間。また喉の奥から押さえ込めない嫌悪感が込み上げてくる。
(初めまして、萩月凜君)
視覚の拷問に気力を削がれている凜を余所に、唐突にまた楽しげな声が頭の中に響く。
「声、が……それ、に何で僕の名前、を?」
(僕の名前はジュマ=フーリス、死神だよ)
「っ!? 『死神』……って!?」
まるで冗談とばかりに軽い口調で告げられた言葉に凜は耳を疑い、
(いやぁ、早速で悪いんだけどさ――――――死んでよ)
「っ!?」
ジュマと名乗った無邪気な声が死を告げると同時に左眼に映る化物が腕を振り上げ、
「ッ!?」
「リンッ!! 伏せないさい!!」
次の瞬間、斬撃の如く鋭い声と共に化物の腕が斬り飛ばされる。
「ハァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」
その刹那、鮮烈な斬撃は苛烈な重撃へ。
黒衣に身を包んだ金髪少女の蹴りは化物の脇腹に深々と突き刺さり、
(あら? 間に合っちゃったか)
ジュマの気の抜けた声と一緒に化物の巨体が蹴り飛ばされ、小石のように通りの道に何度も体を叩き付けながら吹き飛んでいく。
「なんとか間に合ったみたいね」
漆黒の大鎌『処刑人』を構えたまま、顔だけ振り返らせ安堵の声を漏らすセフィリア。
「セフィ、リア……今の」
「話は後で。今はここをすぐに離れるわよ」
凜の問いを遮りながら振り向き、座り込んでいた凜の腰に手を回し軽々と脇に抱えるセフィリア。
「……か、軽いわね」
脇に抱えた凜の軽さにセフィリアは眉を顰めながらも顔を天井に向け、
「ナツコは上ね」
「な、何でわかるの?」
「今、ナツコは霊体で魔力の塊みたいなものだからね。魔力の気配でわかるのよ」
右手に持つ『処刑人』を振り上げる。
「くっ!?」
その瞬間、天井は円状に切り抜かれ、巨大な穴が。
そしてそこから見えたのは二階にいた夏子の姿。
「ほら、いた」
凜の視線の先には意識がないのか手足を力なくだらりと垂らし、ぐったりとしている夏子が映り、
「な、夏先輩!?」
その光景に凜が悲鳴のように声を張り上げた。
「意識がないみたい……これは」
セフィリアは夏子を観察しつつ『処刑人』を手放し跳び上がる。
手放した『処刑人』は主の意志を汲んだように紅の閃光を放ち、光の粒子となって消え、セフィリアは夏子を空中で右脇に抱え込む。
「ナツコも無事、っと」
「無事って、気を失ってて大丈夫なわけないじゃないか!?」
左脇に抱えられていた凜が右手を振り上げながら抗議する。
今にも殴りかかってきそうな凜に、セフィリアは困り顔で凜を抱え直す。
「そんなにポンポン怒らないでよ、ナツコだったら大丈夫。今は記憶の再生処理で強制的に眠ってるだけだから」
「き、記憶の再生処理って」
「少しでも『未練』と関係ある事を思い出してくれてると良いけど」
話を切るように化物が破壊した縁側から外へ踏み出すセフィリア。
「舌、噛まないようにして」
セフィリアの何の脈絡もない言葉に、
「へ?」
と、凜が声を出した瞬間。
「跳ぶわよ」
セフィリアの声が耳に届くと同時に、凜の体に掛かる強烈な圧迫感と直後の浮遊感。
「ッ!?」
セフィリアは凜と夏子を抱え、軽々と向かいに会った家の屋根へと跳び、もう一度跳躍する。
視界に入っては一瞬でそれ等が吹き飛んでいく風景。
「ちょっ!? ど、どこ行くつもりなの!?」
人間の常識を軽々と越えた光景に凜は動揺しながらも、自分と夏子を抱えながら家々を飛び移っていくセフィリアに叫んだ。
「この辺りの近くに人間が廃棄した大きな倉庫があるんだけど、そこへ行くの」
セフィリアは凜の叫びに平然と答え、
「な、何でさ!?」
「『紅境界』を破って『漆黒境界』に変えられなかったのよ。だから、下手に戦えば被害が大きくなるから暴れても大丈夫そうな所に移動するの」
背後を窺いながら着地と跳躍を繰り返す。
「変えられなかったって、どうして?」
「同じ空間操作系法術で『空間固定結界』を使われてるみたい。それを使われると境界に干渉できないようになるの。これを破るには使用してる術者を殺さないと駄目なんだけど…………」
と、そこまで言って言葉が途切れ、
「頭を斬り飛ばしたのに…………」
後ろから追ってくる魔力の気配に苦汁を飲むように表情を曇らせ、苛立ちを込めて舌打ちをする。
頭を切り跳ばすか、心臓を切り裂けば倒せる筈なんだけど……やっぱり本体からの魔力供給されてる『核』を破壊しないと駄目か。
背後に迫る歪な気配に注意を向けながら家々を跳び渡り、
「…………見えた」
目的地の倉庫を視界の正面に捉える。
「結構跳ぶから口閉じてて」
「っ!?」
セフィリアは凜に声を掛けると同時に二人を落とさないようしっかり抱え直し、屋根の端に着地。それと同時にそのままの勢い利用し、倉庫へ突進するように跳ぶ。
「っ!!」
そのまま倉庫の出入り口を突き破って中に侵入。過加速分の勢いを殺す為に両足で地面に二本の線を引きながら、倉庫の中央で止まる。
「づぁ……………」
両足に伝わった衝撃に思わず声が漏れるセフィリア。だが、即座に周囲を見回し状況を確認する。
倉庫の中は長い間放っておかれていたようで細かいゴミと埃だらけ。他には都合良く倉庫の骨組みの鉄骨だけがあり、見通しは文句なしに良かった。
セフィリアは凜と夏子を優しく降ろし一歩離れ、
「ここなら…………『処刑人』!!」
右手を掲げ、紅の閃光の瞬きと共に漆黒の大鎌を再び手に握る。
そのまま両手で柄を握ると同時に凜達の正面に刃を突き立て、
「『空絶』発動!!」
碧色の閃光が凜達を包み、半球状の光の壁となる。
「よしっ!!」
セフィリアは『処刑人』を右肩に乗せ、
「な、何これ?」
「空間の一部を遮断したの。少し荒っぽい事になるから防御対策。それとアンタの右眼、魔力の影響で痛むみたいだから、その影響も抑えてあげようと思って」
「そう言えば右眼が……」
凜は信じられないと言った表情で右眼をさする。
「あとは……」
そう言ってセフィリアが振り返るのと同時にセフィリア達の前方約十メートル。倉庫の天井がけたたましい音を響かせながら粉々に砕け散り、粉塵を纏いながら黒の影が鈍く重い破砕音と共に降り立ち、土埃が舞い上がる。
「ったく、もう追いついてきたの」
うんざりするように言葉を吐き出し、大鎌を振り上げながら回転させ振り下ろし構える。
「っ……セフィリア、あれって」
凜は気を失っている夏子を抱き起こし、庇うように抱きしめる。
セフィリアは舞い上がる土埃を睨み付けたまま答える。
「アレは『虚』よ」
「『虚』?」
「あれは【悪霊】の成れの果て……………自分よりも力の上の存在に魂を喰われて、自我のない操り人形にされた姿よ」
「あれが…………【悪霊】の成れの果て?」
「えぇ、大抵は動物や虫みたいな姿になったりすることが多いけど…………今は別な奴が入ってるみたいね」
「別な奴って…………ジュマって『死神』の事?」
「っ!?」
セフィリアは驚愕と動揺、その二つを張り付けた表情で凜へバッと振り返り、
「な、なんでアンタがジュマの事をっ!?」
「なんで、って……さっき夏先輩の家に現れた時に頭の中に声が聞こえてきて、その時に」
「くっ『言霊』かっ!!」
憤りに奥歯を噛みしめるセフィリア。
「『言霊』って?」
「意識間での会話をする為に使う法術なんだけど……アイツッ!!」
怒りを押し殺すように答え、
「でも、あの『虚』って化物の中に入ってるのって、『死神』じゃなくて通り魔の魂が入ってるよ」
セフィリアは凜の言葉に眉を寄せた。
「通り魔って……あの通り魔? でも、私が魂を破壊したのをアンタだって…………って」
そこまで言ってセフィリアは驚きに目を見開き、
「アンタ、『虚』の中身……ううん、魂の原形が視えてんの!?」
「う、うん…………右眼だけだけど」
「右眼だけって、普通は魔力が高くても視えるものじゃないのよ!? 私達だって法術を使っても視えない」
セフィリアが凜の方へほんの一瞬、意識を向けた時だった。
セフィリアの言葉を払い落とすように巨大な腕が土煙を払い、
(もぅ、手間掛けさせないでよねぇ)
蛙のように四つん這いになる『虚』が姿を現し、ジュマの気怠げな声が響く。
その声に凜はこめかみを押さえ、セフィリアは『虚』から視線を逸らさず、油断なく『処刑人』を構える。
「『虚』の体に意識だけ投影させて自分はこそこそと…………やる事がせこいのよ、この臆病者」
苛立ちを惜しげもなく込めたセフィリアの言葉に、陽気で明るい声が頭に響いた。
(臆病者って……戦略家って言って欲しいなぁ。僕が直接顔出したら『殲滅斬手』が出てきて少し厄介なんだからさ)
「それが臆病だって言ってんのよ。この腰抜けヤロー」
おちゃらけたジュマに毒づくセフィリア。
「さっきから人の頭の中で……何で僕を狙うのさっ!?」
凜は二人の会話に割って入り、
(ん? 何でって…………ベルフェールから聞いてないの?)
「セフィリアから?」
質問を質問で返され、セフィリアに視線を向けた。
「ど、どういう事?」
「…………」
凜の問い掛けに無言で返すセフィリア。
(まぁ、聞いてないなら別に良いよ。どうせここで殺すんだし)
「こ、殺すって……何で僕を」
「そんな事させるわけないでしょうがっ!!」
凜とジュマの会話を断ち切るようにセフィリアが声を張り上げ、
「リン!! そこから動かないでジッとしてて!!」
セフィリアはそれだけ告げ、地面を砕き蹴って『虚』の懐に潜り込む。
(っと、いきなり仕掛けてくるってせっかちだねぇ)
「ウッサイッ!!」
裂帛の気合いと共に『処刑人』を振り上げるセフィリア。
そして、そこからの動きは圧倒的だった。
人間とそうではない存在の境界を刻む光景。
全ての動作がほぼ同時に視え、文字通りたった一歩で数十メートルあった距離を詰めて大鎌を四回。正確には右眼で追えたのはそこまでで、そこからは何回振ったかわからないほどの攻撃をした……はずだ。
「っ!?」
右眼に映る通り魔だったものの眼球が突然生きているみたいに動き出し、その動きすらも追うことができなかった。
その眼球が動く度に他の残骸が細かく飛び散って、
「ウグッ!?」
また吐き出しそうになって、すぐに視線を下に伏せた。
「っ…………」
人間を巨大なミキサーに入れたらああなる。自分以外の人間が視ても絶対にトラウマになる。
凜は必死に込み上げてくるものに耐え、そんな凜のすぐ横でトッと軽い音が聞こえ、視界に『虚』を入れないようにそちらに顔を上げる。
その先にはセフィリアが額には汗を滲ませ、苦悶の表情を浮かべ肩で息をしていた――――――ついさっきまで平然としていた筈なのに。
「セ、セフィリア」
「っぁ、…………この」
「セフィリア、大丈夫? 凄く疲れてるみたいだけど……………………」
「アイツ、私の魔力を取り込み始めた。それも攻撃する度になんて……予想してたより厄介な事になったわ」
「厄介って……っ!?」
凜達の会話を遮るように黒い影が差し、
(ほらほら、ベェルフェール。休んでると凜君殺しちゃうよぉ)
「くっ、この!!」
叫び声と同時にセフィリアが視界から消える。
「ハアアアアッ!!」
左側からセフィリアの怒声じみた声と一緒に甲高い金属音が響いた。
「ぐぅ」
「セフィリア!?」
すぐ様音のした方へ体ごと向き直すと上から攻撃されたのか、頭の上で大鎌を横に構え、『虚』の豪腕を受け止めていた。
「セフィリア!!」
思わずセフィリアに駆け寄ろうと立ち上がろうとして、
「来ないで!!」
セフィリアの焦りが混じった大声に足が止まる。
「アンタは私と違って、コイツの視え方が違うからわかるかもしれない」
「どういうこと!?」
凜は駆け寄りたい衝動を必死に押さえて、セフィリアの言葉を待つ。
「こいつら『虚』は魂の残骸に体を強制的に具現化と隷属化させられる『核』を埋め込まれてるの」
「『核』……………?」
「そう、なの…………よっ!!」
セフィリアは凜の呟きに答えながら大鎌を振り払って『虚』を吹き飛ばした。
「普通は頭か心臓のどっちかなんだけど、どっちを破壊しても駄目だったの」
「うん…………僕にも視えてるから分かる。ミンチ、みたいに……グチャグチャになってるから」
右眼に映るのはもう……人としての原形を失ったただの残骸。
「戦った感じ……たぶん『核』が移動してる気がするの。心臓か脳、どっちか残ってない?」
セフィリアは一度大きく息を吐いて、大鎌を構え直す。
「ううん、どっちもグチャグチャになってるよ」
「嘘……そんなはずは」
「けど」
凜は震える手でずっと視えていたモノを指差した。
「目が、片方の目だけが残ってるんだ。セフィリアが攻撃する度に動いていたから、もしかしたら」
「たぶん、それが『核』ね」
セフィリアは大鎌を正面に真横に構え直し、
「『処刑人』第二位!! 再具現化できないように塵すら残さない!!」
その言葉に応えるように大鎌の刀身が閃光を纏う。
(おっと、これは少しマズイかな?)
「っ!?」
その閃光にジュマの声が動揺に揺れ、凜は眩しさに腕で目元に影を作る。
「なっ、何!?」
「フッ!!」
セフィリアが短く息を吐くとを同時、凜の視界から姿が掻き消え、
(グッ!?)
瞬きをする一瞬の間に『虚』の痛みに染まった声が響く。
そっちへ視線を移すとそこには二人の姿はなく、
「消えなさい!!」
頭上、倉庫の天井からセフィリアの渾身の叫びが聞こえてきた。
「上っ!?」
凜が顔を跳ね上げるのと白銀の閃光が倉庫を満たすのは同時。
その瞬間、凜は閃光の眩しさに顔をふせ。
「っ!?」
閃光が強すぎるのか目の奥に鋭い痛みに思わず声が出て、
「終わった、わよ」
正面から疲れと安心感を深く吐き出した声が聞こえてきた。
「セフィ、リア」
凜はまだ瞼に焼き付いている閃光の所為で視界はぼやけていたが、天井に巨大な穴が空いているのが見えた。
その光景に「すっご……」と感嘆の声を漏らし、その真下で肩で息をするセフィリアを捉える。
その視線に気が付いたのか、セフィリアは額にうっすら汗を滲ませ歩み寄ってくる。
状況が一段落した為か、セフィリアは満足げに笑みを浮かべ、
「今、『空絶』を解いてあげ……」
「……あの化物。ううん、、『死神』は何で僕を殺そうとしたの?」
「っ!?」
凜の問いにセフィリアの笑みが壊れる。
「気にしなくて大丈夫、よ……」
セフィリアは凜から逃げるように視線を逸らし、
「気にしなくても、って……答えてよ、セフィリア。何であの死神は僕を殺そうとしてたの? それにあいつ……自分の事をセフィリアに聞いてないの? って驚いてた。それってセフィリアもアイツも、お互いの事知ってるよね?」
「そ、それは…………」
「僕とあの死神が話をしようとすると邪魔してたけど…………僕に知られると何かまずい事でもあるの?」
問い掛け、とは違う凜の冷たい口調にセフィリアの表情が強張る。
会った時から今まで、曖昧な言葉や態度なんて見せなかったセフィリア。
そのセフィリアがここまで動揺し、知られる事を恐れている姿に凜の中で疑心が膨れあがる。
「何を隠してるかは知らないけど」
凜は疑心を払おうと声を荒げ、
「隠さずに話し――――」
――――――右眼に視えたモノに凍りついた。
ソレを視た右眼も、右眼に映したものが形取っていく左眼も、口も、手も、足も、呼吸も、心臓の音も何もかもが凍りつく感覚。
(な、んで……?)
セフィリアに向けていた疑心が吹き飛んだ。
凍り付いた感覚の中で、思考だけが鈍く動き出す。
(何でソコに? ……どうして?)
思考が右眼に視える光景に少しずつ加速していく。
(だって……さっき、セフィリアの攻撃で)
ソレ(・・)はただ視ていた。自分を、じゃない――――セフィリアをだ。
左眼に映る無機質という言葉を形作ったソレは。
(跡形もなく消えたはずなのに…………!?)
セフィリアの背後、正確にはセフィリアの顔と同じ高さの位置に。
完全に瞳孔が開いた眼球があった。
思考がやっとソレを認識して、凍りついていた感情が一気に溶け破裂する!!
「セフィリア!! 後ろ!!」
「えっ?」
凜のあまりにも突発過ぎる声にセフィリアは呆気にとられて、一瞬だけ動きが止まる。
――――――――――ジュブッ!!
そんな鈍い音が三回響き、
(スットライックーーーーーーーッ!!)
怖気の奔る明るい声と一緒に赤い液体が宙に飛び散った。
「…………ッ!?」
「セフィ……リ、ア?」
左肩、左肺、腹部とセフィリアの細い体を黒い槍が容赦なく貫いていた。
(ははっ!! 油断したね、ベェルフェール)
まるで祭りの射的の出店で景品を撃ち落とした子供の様にはしゃぐジュマの声。
セフィリアの背後。その奥には上半身を再生させた化物が大口を開けて地面を這っていた。
「ゴフッ」
セフィリアの小さめな口から不釣り合いな量の血が吐き出されて、
「セフィリアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」
考えるより先に体が動いていた。
凜は夏子を地面に寝かせ、膝から崩れ落ちるように倒れ込んで行くセフィリアを抱き留める。
「ゴホゴホッ!!」
咳き込み、血を吐くセフィリア。凜はセフィリア支えながらゆっくりを膝をついてかがんだ。
「セフィリア!! 大丈夫!? つ、っぐ!?」
そして『空絶』の外へ出ると同時に、再び右眼に容赦のない激しい痛みが押し寄せる。
「ぐぁっ!? こ、このっ……もういい加減にしてよ!!」
右眼を襲う痛みへの苛立ちをヤケくそ気味に両足に込め立ち上がり、何とか夏子の下へと戻る凜。
「っ……お、治まった」
右眼の激痛の治まりにホッと胸を撫で下ろしそうになった凜に、不安を打ち込むように背後から鋭利な破砕音が響いた。
「な、何!?」
凜が後ろを振り向くのと『空絶』に亀裂が走り、倉庫全体が揺れた。
「くっ、この……少しは待ちなさいよね」
(丁重にお断りするよ)
セフィリアが苦虫を噛んだような表情で顔を上げて、ジュマは正反対に笑い声を跳ねさせる。
「くっ!? このままじゃ」
「っ……私の『空絶』をこんな簡単に…………私の魔力を吸収した、から?」
二人の言葉を体現させるように『虚』は幾度となく豪腕を振るい、
(ほーらっ、はやくしないと壊れるよぉ!!)
獲物を追い詰める快感を深めるように亀裂が深くなっていく。
「…………リ、リン」
傷の痛みでうまく声が出てこないのか、かすれた声でセフィリアが呼ぶ。
「喋らないで!!」
「大丈夫、よ……アンタは、ナツコと一緒にっ……下がって、て」
「大丈夫、って……槍がっ!!」
「いい、から…………」
そう言ってセフィリアは凜の肩を支えに立ち上がり、
「ぐぅっ!!」
「セ、セフィリア!?」
一瞬の躊躇いもなく、腹部に突き刺さる黒の槍を引き抜く。
引き抜くと同時に小さな虚空から鮮血が溢れ、バッと右手で塞ぐ。
「止血、ぐらいしか……できない、わね」
苦痛に歪む声に右手が淡い光を放ち、垂れ流し状態だった鮮血がその勢いを完全に失う。
「リン、はやく……私の後ろに」
「駄目だ!! そんな体で無茶したら」
セフィリアの要求に凜は大声をあげ、
「いいから下がってっ!!」
苛立ちとは違う、緊迫した視線と声に思わず押し黙る。
「っ…………」
(あーぁっ、いいのかい? 萩月君の言う通り、あまり無茶しない方がいいんじゃないの?)
わざとらしく気遣うような声にセフィリアは、
「アンタ、とは……鍛え方が違う、のよ!!」
(鍛え方って……ボクらも肉体があるんだからさ、あまり無茶すると死ぬよ?)
「余計な、お世話よっ!!」
切り捨てるように右手をかざす。
「『処刑人!!」
セフィリアの呼び声に応え、地面に落ちていた『処刑人』が飛び込むようにセフィリアの右手に収まる。
「フゥッ!!」
セフィリアは体の痛みを吐き出すように深く息を吐き、『処刑人』を右手で構える。
(そのガタガタの体でどこまで動けるかな?)
セフィリアの切迫した様子を楽しむジュマと共に『虚』が拳を振るい、『空絶』全体に深い亀裂が刻まれる。
「っ……さすがに、これはきついわね」
神経を逆なでする激痛に『処刑人』を握る右手が、体の限界を告げるように震え出す。
「くっ、せめて三分……ううん、一分あれば応急処置できるのに」
悔しそうに唇を噛むセフィリアに。
「…………一分、で良いの?」
凜は震える声で言った。
「…………リン?」
「一分……何とか時間を稼いでみるよ」
「なっ!? 何馬鹿な事言ってんのよ!?」
セフィリアは凜の言葉に驚愕と焦りを見せ、
「な、なるべく早く助けに来てね」
凜は地面に落ちていた槍を拾い上げ、返事が返ってくる前に動いた。
「リンッ!?」
凜を止めようとセフィリアは名を叫ぶが凜は『空絶』から飛び出し、
「ぐっぅううっ!!」
(ありゃ? 出てきちゃったのか、つまんないなぁ)
凜は右眼の痛みに意識が飛びそうになる。が、犬歯で唇の端を迷い無く噛み切り、
「ぐぅっ!!」
その痛みで無理矢理意識を引き戻した。
「僕が相手だ!!」
凜は黒の槍を脇に構え、
(君が相手って……無謀すぎると思うよ)
左眼に見える『虚』は凜に跳び付こうとしゃがみ込み。
来るなら来い!!
そう言うつもりだった凜だが、
「く」
文字通り、一文字。
一文字分の声を出した瞬間には『虚』の仮面じみた顔が目の前にあった。
「っ!?」
(でも、その無謀な勇気に免じて少し手加減してあげるね)
正に反射だった。耳に声が届くと同時に構えていた槍を正面ではなく体の横に立てて構えた瞬間。全身を砕かれるような衝撃が槍越しに襲う。
そして凜の小さな体が地面に叩き付けられながら吹き飛び、
「がっ!?」
粉塵を巻き上げて、倉庫の壁に激突。
「ぁっ……」
そのまま地面に崩れ落ちそうになり、
「ぐっ!?」
胸元、上半身全体に押し潰す圧迫感が襲いかかる。
「あ………………ぁ、ぁあっ」
(おぉ、今ので死なないなんて感心感心!!)
凜の小さな体を壁に磔にするように抑え込む『虚』の巨大な手の平。
「がっ!!」
痛い、なんてものじゃない。今まで生きてきた人生の中で文句なしに一番の激痛。
手加減されたとわかっていても体の芯から砕かれてしまったような痛みと、額が裂けたせいか右も左も真っ赤なに染まってしまた視界――――何で生きてるのかが不思議なくらいだ。
「ぐ、ぁ…………」
まだ三十秒どころか十秒も経ってないのに、もう体が言う事をきいてくれない。なんとか、残りの時間を稼がないといけないのに……………。
凜は途切れそうになる意識を保つように無理矢理言葉を紡いでいく。
「この、クソ死神…………なんで僕をっ……殺したいん、だよ?」
痛みに震える唇を必死に動かす。
(またそれ? 君もしつこいねぇ、そんなに自分が殺される理由とか知りたいの?)
「当たり前……でしょう、が」
(仕方ないなぁ、冥土の土産ってよく言う人いるけど……君の無謀な勇気に免じて教えてあげる)
教えると言った声はどこか苛立ちめいた声色に変わり、
(君の魂が欲しいんだよ)
「なっ!?」
突拍子もない言葉に凜は体の痛みが一瞬飛んで、またすぐに痛みがぶり返す。
(君の魂は人間のくせに死神に匹敵するくらい高いの魔力持ちで、それに付け加えて希少価値の高い能力付きの超激レア物なんだよ。あぁ、ホントだったら一週間前に君を殺して準備も終わってる予定だったのになぁ)
「……一週間、前?」
その言葉に冷たい違和感が体にまとわりつき、ある出来事が脳裏を過ぎる。
(せっかく君を殺すのに手間を掛けて、法術で人間を操ったっていうのにさ)
言葉が頭に響く度に脳裏に過ぎる出来事がより鮮明に浮かび上がり、
(その所為で君を殺すはずが別の人間殺しちゃって『死神』に僕が動いてるのバレて、準備するのに支障が出て大変だったよ)
「僕を殺すはずが……別の人を殺したって」
同様に揺れる凜の瞳が引きずり込まれるように動いていく。
「その人って……まさ、か」
凜の視線の先、銀と紫の瞳に映る一人の少女の姿。
(そこに転がってる『霊現体』――――神村夏子の事だよ)
「ぁ…………」
耳から脳、心をズタズタに引き裂く言葉に凜は頭の中が真っ白になり、
(あの娘も可哀想だよねぇ、いつも君の近くにでもいたのかな?)
頭の中で悪気のない暴力が凜の心へ言葉を刻んでいく。
(ボクが上手く人間を操れなかった、って言うのもあるけど。あの子のちゃっちい魔力に君の魔力が少し混ざっててさ、そっちに反応しちゃったみたいなんだよね)
「僕の、魔力が…………夏先輩に?」
(そう、普通は自分以外の魔力が他人の魔力に混じり合う事なんてないんだけどね)
どこまでも無邪気で、どこまでに楽しげで、どこまでも冷たくて――――――どこまでも残酷な声が凜の心を絶望に沈めていく。
「じ、じゃあ……夏先輩、は」
(無駄死に、かな)
絶望が凜の心を縛り上げ、
「無駄……」
(うん、君の所為でね)
「僕の……所為?」
静かに引きずり込んで。
「僕の、所為で……夏先輩は」
(うん、君の所為でその子は死……)
「ふざけた事言ってんじゃないわよっ!!」
凜を絶望に沈めようとする声を、切り捨てるセフィリアの怒号。
瞬間。凜の押さえつけていた『虚』の腕が肘下から火花のように紅が飛び散り、
(とっ……)
血飛沫から逃げるように『虚』は切り落とされた腕を掴み、後方へと跳ぶ。
凜は地面へ崩れるように倒れ込み、地面と抱き合う前に温かく柔らかい感触に抱き留められる。
「リンッ!! しっかりしなさい!!」
自分を呼ぶ声にハッと我に返り、顔を上げる。
顔を上げた先には息も絶え絶えに、必死で自分を支えるセフィリアの姿。
「セ、セフィリア…………」
体を貫いていた槍は抜かれ、血こそ止まっていたものの。槍が突き刺さっていた左肩と左肺はまだ生々しい虚空が開いていた。
「セフィリア、まだ……怪我が」
「そんな事、いいから……」
セフィリアは血まみれの左手で凜を壁へ預けるように力なく突き飛ばし、凜は壁を支えに立つ。
セフィリアは凜が壁に寄り掛かるのを確認し、
「ちょっと、だけ……そこでジッとしてなさい」
それだけ言い残し、『虚』へと体を向ける。
すると、セフィリアが切り落とした『虚』の腕は傷跡はおろか飛び散った血の跡さえなく元通りになっており。
(もしかして……死ぬ気?)
微かに驚きを含んだ声が響いた。
「そんな、わけ……ないでしょうが」
セフィリアは痛みをねじ伏せ、
「リンッ!!」
『虚』を睨み付けたまま凜へ叫ぶ。
凜は「何?」と言葉を返そうとしたが、それよりもはやくセフィリアの言葉が続き。
「ナツコが、殺されたは……死んだのはっ、アンタの所為じゃない!!」
「っ!?」
その言葉に心が揺れる。
「アンタは、何も……悪くないっ。アンタはただナツコと普通に、一緒に……日常を生きてただけ」
「で、でも……その所為で夏先輩は」
凜は自分の中に湧き出す罪悪感に声が震え、
「僕が側にいたから夏先輩はっ!!」
「違うっ!! アンタは何も悪く、ない!!」
「な、なんでさっ!?」
「アンタ達は、普通に生きてただけ……だから、何も悪く、ない!!」
「っ…………」
セフィリアの荒々しくも優しさに満ちた叫びに声が出てこない。
「ナツコ、が死んだのは……アンタの所為、じゃなくて……」
セフィリアは震える右手で『処刑人』を『虚』に突き出すように構え、
「あそこにいる、大馬鹿っ……野郎、の所為なんだから」
「セ、フィ…………リア」
凜は込み上げてくる感情に声が詰まり、瞳に溢れるものでセフィリアの姿がぼやける。
「アンタは、アンタ達は……私が絶対に護ってあげるっ、から…………」
セフィリアは顔だけ振り返らせ、凜に小さく笑って見せた時だった。
「だから……そんな辛気くさい顔、してんじゃ…………っ!?」
(うざっ)
頭の中に響いていたジュマの声がセフィリアの笑顔を断ち切り、一切の感情も感じさせないほど冷たく、無機質な音を奏で。
(お涙頂戴の三文芝居には付き合ってられないよ)
「がはっ!?」
セフィリアの苦痛に歪む声とゴキッ!! と、歪で重い音が響くのは同時。
「セフィッ!?」
セフィリアの歪な声に、凜が名前を呼ぶよりもはやくセフィリアの体が吹き飛び、中央に立つ鉄柱へと激突する。
「がっ!?」
その続け様、二本の黒槍が右肩と左脚を貫き、セフィリアを鉄柱に磔にする。
「ああああああっ!! ぁあっ……あああっ!!」
体を貫く痛みにセフィリアの首が跳ね上がって、
「セフィリア!!」
凜は磔にされたセフィリアの姿にぼやけていた意識が鮮明になり、弾かれるように壁から離れ、セフィリアへ駆け寄ろうと一歩踏み出そうとして。
(これ以上手間か掛けさせないでよね)
不満に歪んだジュマの声が響くのと同時に、『虚』が凜の行く手を阻む。
「っ!?」
そう認識した時には腹部を歪な痛みが貫いていた。
「かはっ!?」
鮮血が飛び散り、飛び散った血を押しつぶすように、再び壁に磔にされる凜。
「ああああああああああアアアアアアアアアアアアアッ!?」
凜の小さな体を『虚』の指が深々と突き刺さり、
「リ、リン!?」
(そろそろ君らの声を聞くのも飽きてきたし、お開きにしようか)
死にかけの凜を観察するように『虚』が凜の顔を覗き込む。
「っ!! リンッ!! 今、助けに行くからッ!!」
凜はその声に掠れる視界の端で、槍を引き抜いているセフィリアの姿を捉え――――ごめん、と心の中で謝った。
「ぁが…………っ」
左右がバラバラに視点の合っていない無機質な瞳。その不気味な視線に凜は込み上げてくる鉄臭いモノを我慢せずに吐き出して。
「ッ!!」
全身血だらけのセフィリアの姿に、せめてこれだけはと右手を動かし。
「セ・・・・・・フ、リ・・・・・・・・ア」
だんだん暗くなっていく視界で、右眼だけに視える無機質な剥き出しの眼球。
凜は痛みも、感覚も、絶望も、無力感も、意識も何もかも闇に飲み込まれていく中で血だらけの右手を、
「こ……こ、に」
視えている目の前の眼球に伸ばす。
(ん? 何、最後の悪足掻き?)
リンが自分に向け手を差し出す様子に、事も無げに声が笑う。
「ここ、に……目印、っ」
セフィリアが攻撃する時にわかりやすいように、攻撃が当てやすいように。
「か……くは、こっ……こ」
化物の『核』に凜の右手が掛かり、
(ん?)
凜の掌と『核』のを繋ぐように紫電が瞬いた。
その紫電の瞬きが合図だったかのように凜が磔にされていた壁とは正反対の壁が轟音と共に吹き飛び、
「何っ!?」
(この魔力は)
紫電の嵐が吹き荒れ、粉塵を吹き飛ばした。
粉塵を払った紫電の嵐。その中央には紫色の髪の着物姿の少女が緊張に満ちた表情で凜を見つめていた。
「ラ、ランさん!!」
(なっ、『殲滅斬手』!? もう『虚』を蹴散らして)
セフィリアの視線と声の意識が蘭のに向き、
「凜っ!!」
蘭の微塵も余裕などない叫びが響き。
「凜っ!!」
蘭の声を引き金に、凜が『虚』の『核』を握り込んだ。
(なっ!?)
ジュマの驚きと焦りの混ざった声に『虚』の巨体がガラス細工のように砕け、紅に染まった世界が剥がれ砕け落ちる。
砕けた『虚』の肉体と紅い世界の欠片はまるで吸い込まれるように凜の体に沈み、
「何よ…………これ?』
その異様な光景にセフィリアが呆然と呟く。
「…………な、何で?」
凜もそれにつられるように呆然と呟き……凜とセフィリア、蘭の三人の視線がただ一点に集まる。
「嘘……」
「リン……」
命を絶ち、魂を穿つように貫かれていた体の傷は、
「傷が…………ない?」
傷跡どころか血の染みすら一切なく――――真っ白な肌が見えていた。
凜は自身に起きた不可解な現象に、セフィリアは目の前で起きた諮る事のできない事象に呆然とし、それを遠くで見ていた蘭の様子に気が付く事ができなかった。
「くっ…………」
蘭の表情が絶望を見せつけられたように歪み、大罪を犯してしまったと悔いる。
「…………間に、合わんかったか」
絶望に沈む蘭の言葉は二人に届く事はなく、ただ重く静かに消えていった。