――― タガウニチジョウ ―――
「…………………………」
退屈に沈んだ紫と銀の瞳が映し出すのは見飽きた卓上カレンダー。
何の罪もないカレンダーをベットに腰掛け、疎ましげにジトッと見つめる凜。
今日の日付は六月三日、日曜日。時刻は朝の十時を回り、入院生活が始まって四週間少し。
「…………暇だなぁ」
手持ち無沙汰な入院生活に何度目かわからない呟きを漏らす凜。
一日が始まったばかりではあるが自分が入院生活ですべき役目の三分の一が消化された今現在、次の予定は昼食まで部屋で大人しく過ごす事だけ。
一応、リハビリもかねて院内や中庭を散歩する許可は出ており、気晴らしに出歩いてはいるが……如何せん、代わり映えしない景観に飽きがでる。
売店では種類は少ないが漫画や小説、娯楽雑誌といったものもあるが興味を引くものはなく飲み物を買って終了。
普段は気乗りしない授業の課題という学生の宿業も、持て余した時間につつがなく消費され、明日の夕方まで提供されることはない。
最後の砦にして近代娯楽の最高ツールでもあるスマホも電話帳とラ○ンと通話アプリ以外のものは入れておらず、入院してからは以前にも増してほったらかしだった。
それを心配してか夏子が「暇つぶしぐらいでもいいから連絡してね」と言ってくれたのだが……やはり、用もないのに連絡をするのは申し訳なく、スマホはただの粗大ゴミになりつつあった。
どうにか時間を潰せないかと退屈に押しつぶされそうな思考を巡らせ、
「…………………………あっ!!」
ふと、普段の生活習慣を思い出した凜。
凜は立ち上がり、自分の足下――――ベットの下にしまってあったものを見やる。
「そういえば今週は洗濯物を片してなかったっけ」
意気揚々と呟くとその場にしゃがみ引き出しを引っ張りだし、少し大きめの旅行バックに溜め込んでいた洗濯物に笑みを溢す。
一週間前、エリスが替えの下着や日用品を準備してくれ、溜まった洗濯物も持ち帰ってもらった。
神様であり、十四歳と年頃のエリスに男物の下着を洗濯してもらうのはかなりの抵抗があったのだが当のエリスは――――――
「蘭様から留守を頼まれているからな、それくらいの事など気にするな。というか、貴方が入院してからずっとしていたし今更だろう?」
と小さく笑みを溢し、どこか保護者気分が感じ取れたのは年上として悔しくもない。
その際。三日程経ったら様子を見に来ると言って病院を後にしたエリスだったが、あれから一週間が経った現在。任務で忙しいのか、一度も病室を訪れてはいない。
「一応、スマホで連絡取れるけど……エリスも忙しいだろうし、これも普段の生活に戻るためのリハビリだよね」
暇つぶしに見ていた入院のしおりには二階に患者専用のコインランドリーがあり、そこなら乾燥機もあると明記されていた。
凜はたった一時間程度とはいえ退屈しのぎに目を輝かせ、バックを引き出し、ベットの上へドスッと乗せた時。
――――――コンコンッ。
控えめなノック音が響き、
『――――――凜。今、入っても大丈夫?』
退屈な入院生活において唯一飽くことのない声音に口元が綻ぶ凜。
「はい、大丈夫ですよ」
『うん。じゃあ、入るね』
凜の答えに弾んだ声ともにドアが開かれ、人影が部屋へと踏み入った。
清らかで流麗な闇色の長い髪と切れ長の瞳。新雪を思わせる美しい肌と血色の良い唇。女神すら嫉妬するほどの抜群なプロポーションを茶褐色の制服で包み、清廉な笑みで告げる夏子。
「おはよう、凜」
「はい。おはようございます、夏先輩」
入院しても変わらない日課とも言えるやりとりに、互いに笑みを溢す二人。
夏子は静かにドアを締め、その姿に凜が首をかしげる。
「夏先輩、今日は日曜で学校休みなのになんで制服なんですか?」
「ん? あぁ、そういえば話してなかったっけ。今日はお父さんと一緒に親戚の結婚式に出席するの。でもその前に少しだけ凜の様子を見ていこうと思って、ね」
「あぁ、だから制服なんですね……あっ、それとご親戚の方のご結婚おめでとうございます」
「ふふっ、ご丁寧にどうも」
「立ち話でもなんですし、椅子をどうぞ」
「うん、ありがとう」
と、見舞客用の椅子を夏子へ差し出し、凜もバックを脇へ寄せベットの上で正座する。
「これから結婚式って言ってましたけど、式は何時からなんですか?」
「丁度お昼の十二時。式は一時間、その後の披露宴が三時間位の予定だけど…………」
この後の予定を話していた夏子だったが、視界の端に鎮座していたバックに興味が移る。
「そのバックって確か替えの下着とか入ってたのだよね。もしかして着替えするところだった?」
「違います、違います。これから下の階のランドリーに行ってこようと思って。いつもはエリスがしててくれてたみたいなんですけど、任務で忙しいみたいで今週の分の洗濯物を洗えてなかったんです」
凜は羞恥にはにかみつつバックをポンポンと軽く叩き、
「いつもはエリスが洗濯してたの?」
「え? は、はい。多分、ですけど…………まだお祖母ちゃんも帰って来てないですし」
「うーん、いくら同居しててもエリスだって年頃の女の子だし、洗濯をさせるのってまずくない?」
「それは僕も思ってまして……なので、さっきいたみたいにリハビリついでに自分で洗濯しにいこうかと思ってます」
「リハビリって……まだ無理しない方がいいんじゃない?」
入院服の襟元や袖口から見え隠れする包帯に夏子は眉をひそめ、バックを見つめる事数秒後。
「じゃあ、私が洗濯して来てあげるね」
「………………へっ?」
ごく普通に、ごく自然に、ごくごく当たり前に笑みを浮かべる夏子。
そう言って凜の横に置かれたバックに手を伸ばし、年頃男子の羞恥心から咄嗟に夏子の手を掴み止める凜。
「凜、どうしたの?」
「い、いやっ!! 夏先輩こそ、何をいきなり変な事言ってるんですかっ!?」
「えっ、私何か変なこと言った?」
茹で蛸よろしく、恥ずかしさに耳まで顔を赤くした慌てる凜に首をかしげ夏子。
「私なら普段からお父さんの下着とか一緒に洗濯してるし、凜の下着が増えたくらい全然問題ないと思うんだけど…………」
「全然っ!! 全く大丈夫じゃないですよっ!! 夏先輩だって年頃の女の子でしょうっ!! そもそも家族とか親戚でもないのにそんな事お願いできませんってっ!!」
というか、そんな事を夏子にさせたら娘大好きお父さんである冬樹に解体される未来が容易に想像できる。
「もぅ、私と凜の仲じゃない。そんなに遠慮しなくてもいいのに」
夏子はどこか上機嫌な様子で動揺に震える凜の手をよけ、
「一応、私達って魂を共有してるから一心同体みたいな感じじゃなかったっけぇ?」
「いやいやっ!! 学校の先輩後輩の仲ですよねっ!?」
「でもでも、魂が同じなら凜の下着は私の下着と言ってもいいんじゃない? なら私が洗濯をしても問題ない気がするなぁ」
唇に人差し指を添え、わざとらしく上目遣いで凜を覗き込む。
そんな夏子の所作に凜はハッとなり、頬の赤みは羞恥からお叱りのそれへと変わる。
「あぁっ!! 夏先輩、僕をからかってますねっ!? その顔は僕をからかって楽しんでる顔ですっ!!」
「あ、ばれた?」
「もぅっ、変なからかい方しないでくださいよぉ」
凜は慣れぬ気恥ずかしさからぷいっ!! とそっぽを向き、この辺りが引き際と苦笑しながら謝罪する夏子。
「ごめんごめん。でも、なんだか新鮮だね」
「何がですか?」
「凜が拗ねてるところ、初めて見た気がするもの…………」
普段見ることの少ない凜の素の姿に夏子は嬉しさに声を弾ませ――――――瞬間、唐突に脳裏に凜の声がフラッシュバックした。
――――――――――――それは夏先輩や他の皆の日常で、僕の日常じゃないんだ。
約一月前、【煉獄支柱】と名乗る敵達に異空間――――【煉獄境界】に取り込まれる直前。凜がエリスへ告げた言葉。
その言葉の冷淡さと浮かべた笑顔の希薄さに胸がズキリと痛み、唇を噛みしめる夏子。
それは今見せた様な生を感じさせる感情と同じでありながら、全くの対極。
「っ……………」
自分が凜と出会ってから共に過ごして来た一年と少しの時間。その僅かでありながら何物にも代え難いといえる大切な時間。その中で感じてきた違和感が胸の中で色濃くなっていく。
心を淀み蝕んでいく感情に夏子はそっぽを向く凜の隣に腰を下ろし、
「ん?」
組まれていた腕をほどき、両手を握る。
「んなぁっ!?」
またも唐突な夏子の行動に凜はぎょっと目を見開き、反射的に両手を引いて。
「――――――凜」
不安と真摯さに強張る声に動きが止まる。
「っ…………い、いきなりどうしたんですか?」
「…………………」
無言で自分を見つめる夏子へ戸惑いつつも、自分に向けられた強い焦燥感をはらんだ瞳に静かに答えを待つ。
それから数秒。ただ無言で見つめ合うだけの時間が過ぎ、自分の両手を握る夏子の手に力が込められ、それを合図に沈黙が破られる。
「――――――凜にとっての日常って何?」
「…………え?」
思いがけない問いに疑問が漏れ、痛みを滲ませる苦悶の表情で続ける夏子。
「【煉獄境界】に取り込まれる直前、エリスに言ってたじゃない――――――取り戻した日常は僕の日常じゃない、って」
「っ!?」
「それに何かを選んだ、って言ってたよね? だから、教えてほしいの……凜にとっての日常がなんなのか、何を選んだのかを」
「それ、はっ………………」
苦悶に満ちた問いに引かれる様に凜は顔を俯かせ、触れてはいけない領域に踏み込んでしまった、と夏子は不安と後悔に押し潰されかけた時。
「……言葉通り、です」
夏子から逃げるように顔を俯かせたまま、呻くように告げる凜。
「言葉通りって…………」
「僕の日常は今の世界には無くて……多分、これから先ずっと取り戻せないんだと思います」
「なっ……なんで? そんな事、わからないじゃないっ!!」
「いえ、わかります……わかるんです」
確信と諦め。その二つが入り交じりった言葉は希薄でありながら否定しきれない重さがあった。
あまりに儚くで、あまりにも弱々しく――――――
「あの日、僕が選んだ……いえ、僕が望んだ事だから」
――――――あまりにも哀しい笑顔。
瞬間。哀愁にまみれた笑顔と共に凜が消えてしまう様な感覚に陥り、夏子が咄嗟に凜の両手を強く握った時。
――――――――――――キィンッ!!
鼓膜をに突き刺さる鋭い耳鳴りが二人を襲い、
「くっ!?」
「な、なにっ!?」
その動揺を飲み込むように幾重もの波紋音が響き――――――世界は黒へと染まる。
突如、変様した景色に二人は一瞬だが驚愕に言葉を失い、半瞬早く我に返った凜は夏子の手をほどき、ベットから飛び降りるように窓へと押し寄った。
押し寄った勢いそのままに窓を乱暴に開き、凜は見知った世界の名を呆然と呟いた。
「これって【漆黒境界】……なんでいきなり?」
凜と夏子。二人を除いた全てが黒一色に塗り替えられた世界。
人を超越した存在である【神】の末席――――――『死神』が戦闘で被害を周囲に反映させない為に用いる空間操作系法術。
自分が知る限り、こちらに……この町にいる『死神』は一人しか知らない。
――――――まさか、エリスが誰かと戦ってるのか?
その考えに凜は慌てて右眼のコンタクトを外し、
「り、凜……これってエリスの法術、よね?」
不安からか凜の左手を掴み、体を寄せる夏子。
夏子も幾度となく常軌を逸脱した経験を重ねて来ただけあって、状況把握が早くなっている様だった。
そんな夏子とこの状況に誤魔化しても無意味と、凜がありのまま答えを返そうとして。
「――――――あぁ、残念。これはエリス嬢のものではなく、私のものですよ」
凜達の頭上から物腰の低い声が響き降りた。
二人はその声に顔を跳ね上げ、瞳に捉えたのは五つの人影。
悠然と宙に佇み、見慣れた黒い制服に身を包んだ来訪者達。
だが、その姿に薄ら寒い何かが体を奔り、凜はここの奥底から滲み出る嫌悪を噛み殺すように呟いた。
「…………『死神』か」
「えぇ、その通りです。私達は『死神』、任務でお伺いいたしました」
「任務、って……」
瓶底めがねが特徴的な細身長身の男の『死神』、その不穏な気配を感じ取ったのか夏子は凜の手を強く握る。
「私だけですが名乗らせて頂きましょうかね」
調整がずれているのか、眼鏡を中指で押し上げ和やかな笑みで告げる。
「私の名前はイルガ=バルギウス。第六番隊所属、僭越ながら隊長を務めております」
そしてイルガと名乗った『死神』は小さく会釈をし、
「手短なん挨拶で申し訳ないのですが――――――萩月凜様」
「なっ!?」
瞬間。全身を強烈な悪寒が嬲り上げ、冷たい敵意に体中から汗が噴き出す。
「――――――貴方を捕縛させて頂きます」
「ッ!?」
敵意が耳に届いた刹那――――凜の眼前に迫るのはイルガの右手。
それから半瞬遅れて届いたのは――――――首元で響く骨を砕いた鈍く凄惨な音。