――― 願いの先は ―――
漆黒と赤の斑模様に塗りつぶされた世界に、地無き地を蹴る度に紅い波紋が波立つ空間。
その空間で響くのは苦悶に歪む女の呼吸音。
冷たい静寂に満たされた亜空間――――――【煉獄門】。【煉獄支柱】のみ使える特殊空間法術だ
この法術は【境界門ライン・ゲート】と同様に境界の往き来が可能で、最大の特徴は魔力の気配を遮断し、『死神』の魔力探知さえすり抜ける事ができる独立空間形成できることだ。
その安全圏ともいえる空間の中、女は傷む体で跳び進む。
「ぐっ…………傷の治りが遅いわね」
全身に刻まれた数え切れない裂傷に、思わず苛立ちを溢す女。
咄嗟に法術で防御し、その際に出来た僅かなタイムラグで【煉獄門】に逃げ込んだものの、もう一人の仲間は塵となって消えてしまった。
「……………………」
神威『第一位』の力は法術の力と比べるも無く尋常ではない。
「復活したばかりだったっていうのに…………とんだ災難だったわ」
女は依り代の記憶に依存し判断を誤ってしまった自身へ忌まわしげに舌打ちし、その苛立ちを納めるように右手に力込め――――――
「――――――ぅぅっ」
不意に小さな呻き声が発ち、その声に女は視線を移し、胸中へ噎せ返るような激情が込み上げる。
女の視線の先、右手に掴んでいるのは【器】。今は萩月凜という少年になったあの男が満身創痍で気を失っている。
その有り様に女は奥歯を噛み締め、大きく息をつき努めて冷静を装った。
「エリスって子の事は予定外だったけど……今は【器】を回収できた事だけでも儲けもの、か。今すぐにでも首をへし折って魂を回収したいところだけど……このままで持ち帰った方が得策ね」
自分達の【器】回収の裏で現世の『死神』達の相手に出ていた仲間達も自分同様、彼を直接葬りたいと思っている者も多い。
現状、魔力を完全に吸収できたわけではない。その上、自分も予想外の深手で弱っている。もし、ここで殺して【略奪者】を解放すれば、自分一人で太刀打ちできるかどうか…………。
と、自分の中で結論づけると同時に、なんとも言えない高揚感が込み上げてくる。
「あぁぁぁぁっ………………」
気が遠くなる程の遙か昔。
我等が創造主――――――崇高なる【神】を堕落させ、穢れを刻んだ愚劣な存在たる【器】。
この世の全て、森羅万象を奪い、糧とする身勝手極まりない力を振るい、多くの【神】の眷属を奪い殺した凶徒。
そう、この世界に終わりを……【滅】を刻み、産み落とした咎人だ。
その【器】は脆弱な人間となり、悠久ともいえる長すぎる時を求め願った望みが今叶う。 同胞と共に嬲り、壊し、殺す。
「……あぁ、ようやく」
その甘美な瞬間が脳裏で暴れ回り、
「……っ」
恍惚に満たされ掛けた自我を引き戻すように傷だらけの体が悲鳴を上げる。
その痛みにハッとなり、不遜を払うように首を振った。
「いけない、いけない……欲に浸ってる場合じゃないわ」
女は長い時を共に有り続けた同胞達が待つあの場所へ急ごうと、なけなしの魔力を高め――――――
―――――――――――――――ゾクッ!!
背筋――――いや、体の深奥。魂すらも凍てつかせる程の恐怖が全身を貫いた。
「っ!?」
女は凜に向けていた視線を即座に正面へ戻し――――刹那、強制的に瞳が一つの人影に縫いつけられる。
「ぁっ…………あぁ、あっ」
口から零れるのは自身ですら聞いた事の無い、か細く、消えてしまいそうな弱い声。
そして汗の代わりに体中から吹き出るのは圧倒的なまでの恐怖と底知れぬ絶望。
「あぁあっ…………ぁあ」
戦意どころか思考うら消えた瞳に映るのは畏怖を纏い、冷たい煌めきを宿す長い銀髪の少女。
左右非対称に結われた長いおさげが小さく揺れ、少女の狂気で飾り歪んだ笑顔がおぞましく咲いた。
「――――――――――――クヒッ!!」
どこまでも残忍で、どこまでも冷虐で――――――――――――――――ブツッ。
どこまでも甘い剪裁の音が響いた。
††††††††††††††††††††††††††
耳を嬲り瞳を焦がす程の、世界を蹂躙する雷光。
セフィリアは鋭い痛みに閉じられた瞼を必死にこじ開け、青と白の境界世界を満たす粉塵を映し出した。
辺りは粉塵一色。土煙で満たされた視界に蘭の姿はない。
粉塵が気管に入り僅かに咳き込み、息苦しさのなか声を上げる。
「ラッ、ランさん!!」
痛む両眼で必死に蘭の姿を探すセフィリア。
巨大な魔力の収束と炸裂。その余波で場の気配が乱され、辺り一帯に蘭の魔力が漂い、正確な場所を感じ取れない。付け加え、敵の魔力も場の乱れの所為か感知できず、いるのかいないのかわからない。
いれば声を出すだけでも居場所を教える致命的なミス。だが、今は蘭の安否だけが気に掛かり、身の危険など考えている余裕はなかった。
まだ回復しきってない五感を頼りに蘭の姿や気配を探るが、感じられるのは空気の静かな流動音と降り注ぐ砂塵の感触。
「くっ…………」
セフィリアは力の入らない体でフラつきながらも立ち上がり、一番魔力が色濃く漂っている場所へ目星をつけ歩き出した。
今の状態の自分では満足に戦えないとわかっていたが、危険覚悟でもう一度声を張り上げる。
「ランさんっ!! 無事なら返事をして下さいっ!!」
すると、そのの声に合わせたよう風が凪ぎ、視界が嘘のように晴れる。
そして晴れた視界の先、十メートル程離れた正面に立つ蘭が映る。
着物の両袖じゃ肩の辺りまで吹き飛んでおり、細く白い腕を気怠げに垂らして、汗と土で汚れた青白い顔で苦しげに息をしていた。
あまりにも弱り切った姿だったが深い傷を負っている様子はなく、セフィリアはホッと息をついた。
それから危なっかしい足取りで歩み寄り、その気配に気が付いたのか、蘭はセフィリアへ振り返り、力の無い笑みを溢す。
「セフィリア、大事ないかぇ?」
「はい、私は大丈夫です。ランさんも無事で良かった………」
「まぁ、の。じゃが、敵を一人逃がしてしもうたわい」
後悔に沈んだ声で呟き、自分への落胆に大きく息を付く蘭。
「逃がしたって…………『法具』持ちの女、ですか?」
「あぁ、そうじゃ。ここで仕留めておきたかったんじゃが…………やはり一筋縄ではいかん相手じゃな」
「すみません、私がもっと戦えれば…………」
「何、お主が気にする事はない。今回はこれでギリギリ合格点といった所じゃろう」
「で、でも…………」
なんの力にもなれなかった己の無力さに納得出来ず、セフィリアは後悔と自責に言葉を続けようとして。
「――――――――姉様っ!!」
と、焦りと緊迫感に張り詰めたエリスの声に遮られた。
その声に二人は同時に上空へ首を跳ね上げ、視線の先。空間の捻れから飛び出すようにナツコを抱えたエリスが姿を見せた。
「エリスッ!! それにナツコも無事だったのねっ!!」
セフィリアは怪我の見あたらない二人の姿に曇っていた表情を明るい笑みで吹き飛ばし、
「はい、ご心配をお掛けしました。ですが……」
「り、凜が攫われちゃったの!!」
「なっ!? リンがっ!?」
二人の姿に安心したのも束の間、夏子焦りに巻き込まれ、再び苦渋に表情を曇らせる。
エリスは後悔と痛みに表情を歪ませ、自身の無力さを噛むように拳を握る。
「すみません、私の力不足で……萩月を敵に奪われてしまいました」
「そんな……魔力探知は? 法術で逃げたなら追えるはず」
「……いや、これだけ場の魔力が乱れては難しいじゃろうな」
動揺に揺れる夏子達へ冷静に言葉を挟む蘭。
「ランさんなら探知出来ませんかっ!?」
「早くしないと凜がっ!?」
掛けられた言葉に縋るように蘭へ一斉に顔を向ける三人。
「わかっておる。が、ここでは凜や敵の魔力残滓も感じられん…………一先ず、凜が敵に連れ去られた場所に移動するのが良かろう」
「そう、ですね。一先ず萩月が連れ去られた場所へ皆さんをお連れします」
蘭に促されるとエリスも冷静に努め、上空に展開していた転移法術を眼前へ再展開しようと魔力操作をしようとし――――――
―――――――――――――――ーーーーゾクッ!!
全身を締め上げ、押し潰す感覚が体を襲う。
「クッ!?」
「な……にっ!?」
「ぁっ…………」
その暴力的な感覚に思わず膝を突きそうになるセフィリアとエリス。
夏子は抗う意志すら押し潰され、力なくその場にへたり込んだ。
「むっ…………」
ただ一人、蘭は生気の無かった表情を緊張に強張らせ、エリスが展開していた転移法術――――空間の捻れを睨み付ける。
エリスの魔力を喰い潰し溢れ出るのは大きいのか、小さいのか………いや、まともに感じるのを拒絶させる程もに、あまりにも強烈で無機質すぎる魔力の気配。
その気配から察するに魔力制御の精度はこの場にいる三人と比べる必要もなく洗練されており、先程までの蘭と同等かそれ以上の収束率。
セフィリアとエリスは緊張と恐怖に遅れること数瞬、転移法術を喰い潰される情景に釘付けになる。
「な、何…………?」
魔力を感じられないナツコも場に満ちる緊張感につられて上空を見上げ――――その空間から静かに現れた人影にその場にいた全員が目を見開いた。
圧倒的な恐怖から現れたのは――――――連れ去られた凜。
「んなっ!?」
「あ、あれはっ!?」
「凜っ!!」
そして凜が落下するのと同時。捻れが急激に膨張し、そこから溢れ出たのは拉致された約二百人程の住人達。
「な、なんであんな沢山の人間がっ!?」
「あれは萩月達の町の住人達です。萩月の魔力が残っていたとかで、今回の一件に巻き込まれたみたいです」
「な、何ですってっ!?」
「とにかく話は後じゃ。凜は儂が行く。お主達は他の住民達を頼んだぞ」
蘭はそう告げ即座に跳び、真っ逆さまに落ちてくる凜を空中で抱き止める。
セフィリア達も重力に従って降下する住人達へ視線を流し、法術を展開。住人達全員の体が淡い光で包まれ、落下速度が緩やかに減速。柔らかな綿毛の様に地上へと横たわる。
凜を抱き止めた蘭も衝撃を殺しながら着地し、そのまま地面へ座り込んだ。
その様子をまるでを見届けたとばかりに空間の捻れは光の粒子となって消え、蘭は険しい表情で上空を見つめていた。
そこへ夏子が滑り込むように二人へ駆け寄り、声を張り上げる。
「凜っ!! 大丈夫っ!?」
顔を覗き込み不安に響く夏子の声。
だが、凜は全く反応示すことはなく、凜から感じる魔力の気配も酷く弱々しく、その様子に全員の頭の中に不安と最悪が過ぎった。
蘭は夏子に凜を抱き支えさせ、肉体の状態を確かめる為に手を這わせる。
「ねぇっ!! 凜っ!! 返事してよっ!!」
夏子は脳裏の過ぎった結末から凜を引き戻そうと凜の小さな肩を掴み、もう一度呼び掛けた。
「――――――――っ」
夏子の願いに応えるようにピクリッと小さく震え、唇からか細い息が漏れた。
「あぁっ!!」
僅かながらも確かな反応に夏子は涙を滲ませ、安堵に笑顔を咲かせた。
「なんとか生きとる様じゃな。じゃが、かなりの重傷のようじゃ……セフィリア達の法術には頼れんからの、ちぃとばかり急いで現世に戻らんといかんな」
と、怪我の状態に難色を示しながらも、凜の帰還に笑みを溢した。
セフィリアとエリスもホッと胸を撫で下ろし、横たわる住人達の安否を確かめようと歩み寄り掛け――――――不意に脳裏に過ぎったある情景に蘭へ視線を合わせるセフィリア。
「……………………」
瞳に映るのは傷だらけの孫を心配する優しい祖母の姿。
それは当然の光景であって、別段変なところは何もない。だが、何故かその二人の姿に――――――凜がジュマと戦った時の姿が過ぎった。
「………………」
蘭が『死神』の女へ仕掛け、銀の雷光が煌めいた瞬間――――あの時、自分の瞳に見えたものは。
「姉様?」
二人をジッと見ていた姉にエリスが隣で怪訝そうに声を掛け、
「どうしたのですか? 萩月と蘭様を見つめて…………」
「ううん、何でもないわ」
と、自分に言い聞かせるようにエリスへ濁した言葉を返すセフィリア。
「……………………」
そう、あれは気のせい。ただの見間違いだったのだろう。
煌めいた雷の色に照らされ、そう見えただけの見間違い。
セフィリアは胸に憶えた妙な引っ掛かりを心の隅に追いやり、横たわる住人達へと歩み出す。
そしてその途中、まるでセフィリアへ警告するようにソレは脳裏に鮮明に浮かんだ。
脳裏に浮かんだのは雷光の中で煌めく蘭の髪色――――――その色は銀色だった。
††††††††††††††††††††††††††
清潔さを主張し、白一色で統一された部屋。広さで言えば大体六畳くらいで、壁半分を占める大窓は雲一つない晴天を見せてくれる。
その窓際の壁には私物を入れる為のロッカーが設置され、その向かいにはテレビ台兼棚が置かれてる。
「……………………」
部屋の上方中央には一台のベットが設置され、頭側の壁に『萩月凜』と記された名札がネームフォルダーに挟まれていた。
ベットの上でただジッと寝そべる凜が胸に巻かれたコルセットの締め付けのきつさに顔を顰め、ポツリと溢す。
「…………暇だなぁ」
心地よい陽光が差し込む五月二十八日。今の時間は朝八時半、朝食が終わって病院で自分が回復の為にするべき事の三分の一が終わったところだった。
入院は片手で数えるくらいしか経験してないけど、これだけはどうあっても変えようがないと断言できる。
本音を言えばセフィリアの法術や祖母の術式で怪我なんてすぐに治したいところだったが、セフィリア達では『死神』の力に反応して【略奪者】が目覚めてしまう可能性があった。
蘭はジュマとの事件の最中、治療系の術は不得意と言っていた。そもそも敵との戦闘で限界まで魔力を使った為に充分な治療を施せなかったらしく、一先ず病院の治療を受ける事になったのだ。
今日で入院生活は丁度三週間。医者に「全治半年」と診断された体は普通はまだまだ絶対安静の大怪我だが、蘭が残り僅かな魔力を使って肉体の治癒力を高めてくれた。
おかげで完治にはまだまだ時間が掛かるが、ゆっくり散歩できるくらいには回復した……まぁ、動く度に激痛に襲われるのが難点だ。
「…………………」
今回、異空間ーーーー【煉獄境界】に取り込まれ行方不明になっていた住人達は全員無事に保護。先だって拉致されていた住人や『霊現体』達も全員無事が確認され、今回の出来事は住人達の記憶や警察の捜査等諸々含め、セフィリア達の記憶操作でなかった事になってる。
ちなみに自分の怪我は学校や病院、警察にはトラックに撥ねられたという事で記憶操作して話を済ませてある。
「…………っと」
凜はギシギシと悲鳴を上げる体でゆっくりと起き上がり、窓の外に広がる風景をジッと見つめた。
「……………………」
左目に映るのはなんてことはない青空。
しかし、心に映るのは自分に向けられた殺意――――【煉獄支柱】と名乗った女。
――――――――貴方が全ての元凶よ。
その女の言葉が凜の心に深くのしかかる。
「僕が元凶、か…………」
一ヶ月前の一件も、今回の件も――――両方とも自分を狙って起きた事件。それも無関係な人間を大勢巻き込んで、一歩間違えれば目も当てられない大惨事になるほどのものだ。
「…………なんでこんな事に」
なってるの? と、込み上げてくる疑問が零れかけた時。
――――――――君の所為だよ。
不意にジュマの声音が心を抉るように響いた。
あまりにも鮮明すぎる声に凜の左目が大きく開かれ、
『萩月君、入るよ』
ノックと一緒に響く控えめで優しい声に、慌てて返事を返した。
「は、はいっ!!」
その返事に頷くようにドアが静かに開かれ、白衣に身を包んだ黒髪の男が姿を見せる。
「おっ、おはようございます。神村先生」
それ男は凜の担当医で、名前は神村冬樹――――夏子の父、その人だ。
冬樹は凜の挨拶に柔らかい笑顔を浮かべながら歩み寄り、
「おはよう、萩月君。どうだい? 体の調子は」
「まだ体中痛いですけど、だいぶ楽になってきてます」
「顔色も大分良いし、食事もとれるようになったからね。回復を実感できているなら大丈夫かな……」
凜と自分を隠すように天井に備え付けられていた淡いピンクのカーテンを引き、首に掛けていた聴診器を手に取った。
「少し診させてもらうよ」
「はい、お願いします」
凜は冬樹の動きに合わせ入院服の胸元をはだけさせ、冬樹もタイミングを合わせコルセット越しにそっと聴診器を胸に当てた。
それから数秒間隔で左右の胸の音を確かめ、納得するように聴診器を首に掛けなおす冬樹。
「肺は大丈夫そうだね。次は少し体を触らせて貰うよ」
冬樹はそう言ってコルセットの上から骨折した箇所に触れ、肩や肘。膝といった関節部分を捻ったり伸ばしたりと「ここは痛むかい?」と質問しながら痛めた箇所を正確に確かめていく。
触診を始めて三分。触診の感触に納得したように静かに息を付き、脇にあった見舞い人用の丸椅子に腰掛けた。
「打撲、それに靱帯とかはまだ炎症があるみたいだけど骨は順調にくっついてるみたいだね。このまま行けばあと二ヶ月で退院出来るかな」
「あと二ヶ月、ですか…………」
「退屈だとは思うけど、しばらくの辛抱だね」
残りの入院期間に表情を顰める凜へ冬樹は苦笑いを浮かべ、
「しかし、いくら若いといってもあんな大怪我をして八時間を超える大手術をしててこれだけ短い期間というのは前例がないよ」
不思議さと関心。その二つを混ぜた視線でマジマジと凜を見つめる。
「先月まで入院生活を送っていた子とはとても思えないよ」
「ははっ、薬漬けだった効果が今頃出てきたのかもしれませんね」
「医者になって長いけど……本当に人間という生き物は不思議な生き物だ」
と、生命の神秘に遭遇したかのような顰め顔の冬樹。
実際はこことは正反対の所にある町外れの小さな診療所がかかりつけだったが、今の自分が入院生活を送っていたという設定になっているのは冬樹が務めるこの病院だ。
ちなみに冬樹が自分の担当になったのは今回が初めての事らしい。
不都合があるというわけではないが、こうして今までとは違う世界の在り方に触れると自分の存在消失やセフィリア達『死神』の力の凄さを改めて実感する。
「…………………」
と、そんな事を考えている自分へ冬樹がどこか鋭い目つきで見つめているのに気が付く凜。
「あ、あの……僕の顔に何か付いてますか? 神村先生」
「いや、すまないね……ふと君に聞きたい事を思い出してね」
凜の問い掛けに視線が和らいで、
「僕に聞きたい事、ですか?」
「あぁ、そうなんだけどね…………」
今度は気難しそうに眉間にシワを寄せ、小さく咳払いをする。
「その、君は……ウチの娘とどういった関係なのかな、と」
「神村先生の娘さんって…………」
「夏子だ」
深いシワを眉間に刻み、怒りのような興味のような奇妙な表情を浮かべる冬樹の様子に凜は戸惑いながらも正直に答える。
「同じ学校の先輩と後輩ですけど…………」
「仲の良い?」
「え、えぇ……」
「どれくらい?」
「それなりに友好的、だと思いますよ」
「ふむ……………」
何かを探っているような様子の冬樹に凜はわけがわからず――――――何か失礼な事でもしたかな? と、不安になる凜。
だが、ここ最近は入院生活で暇をもてあまし冬樹と話をするのも今のように巡回検診の時ぐらいで、これといって失礼な事をした記憶もない。
まして、自分と夏子の事を聞かれるような事はしていない筈だが…………。
「…………………」
「…………………?」
疑う、というよりは自分の判断に確信が持てないといった眼差しで凜を見やる冬樹。
そんな冬樹に凜も受けだけだと話がわからないと問い返した。
「あの…………どうして急にそんな話を?」
「いやぁ。その、毎日の様に朝晩と君の見舞いに来るものだから少し気になってね……」
冬樹は返された質問に困り顔になり、その表情に凜も不味いことを聞いてしまったかと不安に駆られた時だった。
――――――――――――コンコンッ!!
と、軽快なノック音が鳴り、明るく優しい聞き馴染んだ声が響く。
『――――――凜、入るわよ?』
「はーい、どうぞっ」
と、凜の返事と同時にドアが開き。
「あれ? カーテンが引かれてる」
「萩月、着替え中か?」
キリリと澄んだ声音が続くように重なった。
凜の返事を待つようにゆっくり近づくる気配が二つ。
「ううん、大丈夫。カーテン引いても良いよ」
「わかった、開けるぞ」
「うん」
もう一つの聞き慣れた始めた声と共にシャッ!! と鋭い音に視界が開ける。
カーテンが開かれた先にいたのは肩を見せるように開いた白いハイネックニットとふわりと可愛く揺れる黒のミニフレアスカート姿の夏子と黒のコートを纏う制服姿のエリス。
夏子の右手には果物入りのバケットがあって、今日も見舞いに来てくれたのかと心の中で感謝した。
そんな夏子が椅子に座っていた冬樹の姿に様子を伺うように眉を顰めて、
「あれ? お父さん……もしかして診察中だった?」
「あぁ、ついさっきまでね。今はもう終わって、少しばかり世間話をしていただけさ」
と、凜へ話を合わせて欲しそうに冬樹が視線を合わせてきて、それに小さく頷く凜。
「はい、少しだけ話し相手になっていただいてました」
「そうなんだ、なら良いんだけど………」
「さて、夏子やお友達も来たようだし、私は仕事に戻るとするよ。萩月君、大丈夫だとは思うが何かあれば我慢せず、すぐ呼ぶんだよ?」
冬樹は枕元にぶら下がっていたナースコールを指差し、
「はい、ありがとうございます」
「では、また時間をおいて様子を見に来るよ。夏子達もいる間に何かあればよろしくな」と言い残し、そそくさと病室を出て行った。
冬樹を見送った後、夏子とエリスは仕切り直すように凜を見下ろし、挨拶を交わす。
「おはよう、凜」
「結構元気そうだな。安心した」
「おはようございます、夏先輩。それにエリスも久しぶり」
「そうだな、最後に顔を合わせたのは襲撃の時だから……三週間振りか」
と、挨拶もそこそこと夏子は窓側へ移動してバケットを棚の上に置き、側に寄せられていた丸椅子に座った。
エリスも壁に寄せてあった椅子を引いて、一息付くように腰を下ろす。
その様子に凜は苦笑いを浮かべ、
「その様子だと後処理とか色々大変だったみたいだね」
「まぁ、な。損傷した【境界門】の修復。乱れた魔力のバランス調整や『霊現体』達の人数確認に、巻き込まれた人達の記憶操作。それに今回の一件で私達や姉様達を襲ってきた【煉獄支柱】という得体の知れないヤツらの報告とその調査やら会議もあって……正直クタクタだ」
「エリスはあまり怪我とか無かったけど……その、大丈夫?」
と、【煉獄境界】での出来事を何気なくと取り繕いつつ、バスケットからリンゴを、棚から小皿と果物ナイフを手に取る夏子。
リンゴの皮むきがてらの話、それくらいの何気ないやりとりと夏子の気遣いにエリスは小さく笑みを溢し、嘘偽りない言葉で返す。
「あぁ、大丈夫だ。正直な所、まだ結菜さん達の事を想えば気が滅入るが……私は生きてくれと願いを託された身だ。それに仇も貴方が取ってくれたしな…………」
「仇って……?」
「ジュマの事だ。本来であれば私が奴を討たなければならなかったのだが、貴方が倒してくれたと姉様から話を聞き、報告書にもそう綴られていたからな。礼を言わねばと思っていたんだがな、なかなか言い出せなくて今になってしまった」
エリスは感謝半分申し訳なさ半分といった様子で告げ、
「あぁ、だから」
「凜を睨んでたの、そう言う理由だったんだ」
合点がいったとポンと手を叩く凜と夏子。
「に、睨んでいたつもりはないのだが……とにかく、貴方には感謝している」
エリスは姿勢を正し、凜を真っ直ぐに見つめる。
「私の代わりに結菜さんの仇を討ち、想いを護ってくれて……本当にありがとう」
「…………ううん、僕は何も――――――」
と、否定を口にしかけた凜の唇をそっと人差し指で押さえるエリス。
「謙虚さは美徳だが、素直に受け取るべき感謝に対しては不躾な時もある。今回は黙って受け取ってくれ」
凜よりも年下でありながら大人顔負けの麗しき微笑。
「っ………………」
「ぁっ……………」
その笑みに凜はおろか、夏子も言葉を失う程に魅入ってしまう。
「ん?」
と、二人の呆けた様子にエリスはハッと我に返り、唇を押さえていた手を引っ込め。
「ま、まぁ……いつまでもくよくよしてはいられないさ」
羞恥に火照る頬を掻き、照れ隠しに言葉を添える。
数瞬前に見せた美女顔から年相応の愛らしさを見せるエリスに凜と夏子は口元を綻ばせ、
「…………うん、結菜ちゃんって子や沢山の人達の分まで笑って生きていかないと、ね」
「…………まぁ、エリスが大丈夫っていうなら良いんだけどさ?」
二人の答えに話を区切るようにコホンッと小さく咳払いするエリス。
「私が今日ここに来たのは萩月、貴方に蘭様からの言伝を頼まれてな。それを伝えに来たんだ」
「お祖母ちゃんから?」
「あぁ――――――『神界』で調べたい事があるからしっかり体を休めておくように、とのことだ」
「もう大分休めてると思うけど…………でも、調べたい事ってなんだろ? エリスは何か聞いてる?」
「いや、。私は何も」
「そっか、エリスも聞いてないんだ……」
問いの答えにどこか旬と寂しげに肩を落とす凜。
そんな凜へエリスは一呼吸ほどの間で思考を巡らせ、不確定さに眉を寄せつつ告げる。
「話は聞いていないのだが……恐らく、貴方を含めた人間達を【煉獄支柱】から救い出した人物の事を調べているのだと思う」
まるで嫌な出来事を思い出すかのように、眉間の皺を深く刻むエリス。
「蘭様の様な例外もあるが……魔力の制御率の高さからいってまず私と同じ【神】の類だろう」
「顔とかは見なかったの?」
「あぁ、貴方達を空間から押し出したところですぐに空間が消えてしまったからな……顔はおろか声すら聞いてない」
エリスはどこか悔しげに視線を逸らし、
「貴方達を助け出してくれた事を考えれば敵と断定できないだろうが、味方というにも不明確な点が多すぎて現時点ではなんとも」
「そうなんだ…………」
不明瞭な状況に黙り込む二人。
「凜、リンゴ剥いたよ」
と、二人の暗い空気を切る様に夏子の和やかな声が聞こえてきた。
その声に二人は視線を向けると夏子が小さく笑みを溢し、綺麗に切り分けられたリンゴを小皿に載せ、小さめのフォークを二本添えて差し出していた。
そのさりげない仕草と夏子の柔らかな笑みに凜とエリスは静かに笑い、
「ありがとうございます、夏先輩」
「ありがとう、神村」
「食後デザートに丁度良いでしょ」
冬樹が務めているだけあって病院の食事時間を把握しているのか、得意げに微笑む夏子。
凜は小皿を受け取り早速とフォークでリンゴを突き刺したところで、ふとある事が浮かんだ。
視線をリンゴからエリスに移し、
「そういえばセフィリアってどうしているの? お祖母ちゃんと『神界』に行った日から一度も会ってないけど……」
「私も、凜の家に様子見に行っても会えなかったけど……元気にしてる?」
と、気持ちが滲み出るようにやや前傾姿勢になる夏子。
二人の質問にエリスは口に含んでいたリンゴを咀嚼し、二人を安心させるように答える。
「姉様もいくらか闘いで消耗していたようだが、今は回復して蘭様の調査を手伝ってるとのことだ」
「そうなんだ。気を失ってたから会えてなかったけど、元気そうで良かった」
「元気なら心配ないわね」
凜と夏子はセフィリアの近況に顔を見合わせ、口元を綻ばせる。
「さて、蘭様の言伝も伝えた事だし、私は行くとする」
エリスはそう言って立ち上がり、静かに指を弾くと左脇の空間が渦を巻く。
「あっ、任務に戻るの?」
「あぁ、それに少し行きたい所があってな」
そう言って渦巻く空間へ手を掛け、
「行きたい所?」
凜の問いに顔だけ振り返らせ、穏やかなでありながら確固たる意志を宿した笑顔で告げるエリス。
「――――――とても大切な場所だ」
††††††††††††††††††††††††††
穏やかで優しい青が広がる空。その下で年季を感じさせつつも丁寧に手入れされた温もりを感じさせる遊具が並ぶ公園があり、その公園を見守るように小高く伸びた青々とした木々が立っていた。
小高いビル群とのどかな田園風景の境にある住宅街の一角。その位置する公園には幼い子供達の楽しげな声音を響かせる耳を撫で、その音の傍らでは母親と思われる幾人の女性達が語らいながら微笑ましく眺めている。
「……………………」
その平凡でありながら欠く事のできない平穏を、エリスは少し離れた家屋の屋根から見つめていた。
ここ二週間の間、目も回る程の忙しさだった。法術で癒したとはいえ、肉体は許容量を超える程の激務。情けないが体はこれ以上ない程に欲している。が、自分には体の求めよりも大事なものがあった。
優しい平穏に満ちた情景を見渡していた視線が、ある一家族に止まる。
エリスの瞳に映し出されるのは三十代後半といった一組の男女。そしてその男女の間には二人からの慈愛を注がれる一人の幼い少女。
「………………」
年や背丈は違うが肩まで伸びた柔らかな黒髪に、無垢で明るい栗色の瞳。幼く愛らしい顔つきに――――結菜の姿が浮かび重なる。
今、エリスがいる場所。それは五年前に消失したあの町があった場所だ。
辛くもジュリアの【空絶】で助かり、おめおめと生き残ったあの後。
消滅してしまった事象を取り戻すことは叶わなかったが、ジュリアと他数名の上位『死神』の法術による事象改竄のおかげで生活できるまでになり、徐々に人間が集まるようになってきてからの五年。
一度も足を運べなかった場所。
「……………………」
エリスは遊具に目を光らせ無邪気に両親の手を引く少女の姿に僅かながら視界が霞み、
「…………これが私が護れなかった幸せ、か」
自分の中で抱き続け、罰を架し続けてきた罪を言葉にした。
だが、それは結菜への懺悔とも、護れなかった多くの命への贖罪の為ではなく――――――託された願いを果たす為にだ。
エリスは両の目尻を右手で拭い、瞳に映る護りたい幸せを迷い無く見据える。
無垢な笑顔で幸福な未来へ生きていく少女へ、娘へ惜しみない愛情を注ぐ父母へ。
そして自分を救い、願いを託してくれた彼女――――結菜へ誓う。
「結菜さん、私は精一杯生きています。これからも生きていきます。貴女が望んだ様に、貴女が願ったように――――」
いつか誰かに恋をし、結婚し、子供を産み、育て……貴女が得られなかった時間を歩み続けて。
「――――いつか迎える最後の時まで、貴女の分まで笑って生きていきます」
どこまでも穏やかで、どこまでも優しい日溜まりの中。幸福に満たされた彼女達に負けないくらいの人生を歩んでいく。
エリスは親子へ静かに深く頭を下げ、一呼吸分の間をおいて頭をあげる。
「………………」
そして最後に、幸福の中で眩しい笑顔を咲かせる少女へ願う。
「――――――どうか貴女の歩み道に沢山の幸福がありますように」
そう願って見上げた青空はどこまでも優しくて眩しかった。
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「――――――――――――【煉獄支柱】め、いよいよ動き出したか」
年老い枯れ、それでもなお場を満たす程の圧を宿す声音が重々しく響く。
純白――――――その言葉が姿を成した世界。
どこまで見渡しても白が支配する冷たさを帯びたその世界に悠然と漂い浮かぶ七つの巨大な黒い十字架。
その黒い十字架はローマ数字が刻まれ、。
「こちらの予測よりも百年ほど早いようですね」
「【贄】の存在はアヤツ等も把握していただろうが、直に接触されるとは想定外じゃったな」
「じゃが、こちらとしても丁度良い機会ではないかえ?」
「奴等のおかげで【器】の処理も容易く行える様になったことだしな」
「確かに良い機会でしょう。【贄】も【殲滅】もこちらに来ていることですし」
世界を揺らし飛び交うのは老若男女の声音。
その重く冷淡な声音が肯定に舵を切り、
「お待ち下さいっ!!」
それを心痛を滲ませながらも凜とした声が引き留める。
冷淡な世界の中心で跪き、頭を垂れる金髪の青年が一人。
「かの厄災までまだ猶予があります。今はまだ事を荒立てず、【器】と【贄】に……いえ、彼と彼女にどうか今しばらくの時間を――――――」
「――――――黙れ」
無機質で高圧な声が嘆願を切り捨て、
「ッ!?」
強烈な重圧が跪く青年の体を責め嬲る。
「誰が報告以外の発言を許可した? オルクス=バスティーア」
「ぐっ…………」
白の制服に身を包む金髪の青年――――――第十三番隊隊長、オルクス=バスティーアは全身にのし掛かる重力の枷に苦悶の表情で堪え忍ぶ。
「…………オルクス、貴殿の【贄】に対する情は理解できる。だが、これは個の問題ではなく全世界の問題なのだ。稚拙な我は捨て置け」
「猶予があるといっても確定ではないのですからな」
「そもそも我等【元老院】は『神界』においてあらゆる決定権を有しておる。いかに汝が優秀な『死神』といえど、隊長程度の進言一つでは覆ることなどないぞ」
ただ淡々と否定を並べ、権力による正論を振りかざす『神界』における最高統制議会――――――【元老院】。
その中身は単純で『神界』において七つある貴族家。その現当主達七名で構成されており、行政や法、任務における最終決定権を有している。
それこそただの気まぐれで一個人の事情など簡単に歪める時もある。
事実、オルクス自身がそうだ。現在からおよそ六十年前、平民の出であったオルクスが当時二十歳の時。最年少で隊長へ昇格した際、【元老院】から婚姻の話……いや、あれは事実上の命令だった。
内容は七貴族本家筋から令嬢を各家一名ずつ娶る事。『神界』では一夫多妻制が敷かれており、夫婦としての体裁上は問題なかった。親しい同僚や部下達からは両手に花束――――――現世風に言えばハーレムだとうらやましがられたものだが、結局の所は【元老院】の使い勝手の良い駒にされたのだ。
男女問わず、望まぬ婚姻には計り知れない苦痛を伴う。だが、自分に嫁がされた令嬢七名は皆好意を持ってくれていたのが唯一の救いだった。
「っ…………」
先程の【元老院】の言葉ではないが、どれだけ優秀であっても自分はこんなにも無力なのだと歯を食いしばり、
「分を弁えぬ言葉をお許し下さい……ですがっ!!」
それでも引き下がるわけにはいかないと縋るように言葉を紡ぎ。
「――――――そこまでだ、オルクス」
静寂で有りながら威風に満ちた声がオルクスを制止し、体に責め立てのし掛かっていた重圧がふわりと消える。
「貴殿の申し出、痛み入る」
「…………本当に、これでよろしいのですか? ベェルフェール卿」
頭上高くから掛けられる悠然とした声にオルクスは先程とは違う、あまりにも苦々しい感情に歯を食いしばる。
「……………………」
その力のない問いに場には悲痛な沈黙が流れ、
「あぁ、この件に関してはもはや代案はない。我等【元老院】の名の下に『世界救済儀典』の開始を宣言。全部隊へ通達――――――」
揺るぎなき強靱な意志が示される。
「【器】の回収を最優先――――――その妨げとなるものは全て排除しろ」





