――― 交差するモノ ―――
「………………………」
左眼に見えるのは見渡す限りの残酷な現実、哀愁の黒い喪服に身を包んだ弔問者達。
夏子がこの世から去って5日目、今日は葬儀だ。
正確には葬儀を終え、今は会場だった家の外。庭では血縁関係は勿論、高校だけではなく中学校や小学校時代の同級生と教師。親好のあった近所の住人達と大勢の人間が涙で頬を濡らし、それぞれが生前の夏子の話を交わしていた。
今もそうだが葬儀中も嗚咽と泣きじゃくる声が止むことなく、悲しみだけが溢れていた。
運命はあまりにも残酷で、神様はというものは『悲劇』がお好みの様だ。
「………………」
五日前。夏子は夕方下校途中で夕飯の買い出しでスーパーに立ち寄ったらしい。
その場にいた目撃者の話ではスーパーから出てきた夏子をナイフで心臓を一突きで、ほぼ即死。犯人はすぐその場から逃げ、そのまま逃げたのかと話を聞いたら――――――
――――――グシャッ。
赤だった信号を無視して横断歩道を渡り、大型トラックに轢かれ即死。
この話を聞いた時――――――可哀相だな、と凜は思った。
勿論、犯人などではない。理不尽にその命を奪われた夏子と夏子の父親――――冬樹が、だ。
当たり前でありながら何物にも代え難い幸せを。あったはずであろう温かで平穏な未来を奪われた夏子。
最愛の娘である夏子を奪われ、その奪った犯人も死に憎しみを向ける対象もいなくり、ただ哀しみという絶望だけしか残らなかった現実。
葬儀が終わり皆が思い思いに話していると、夏子の父は弔問者一人一人に挨拶して回っていた。 そんな夏子の父と不意に目が合い、夏子の父は話し相手に会釈すると凜へ真っ直ぐ歩み寄ってくる。
凜はどういう顔でどう言葉を交わしたらいいのかわからず…………ただあたふたすることしかできなかった。
必死に何を話そうか、どんな言葉を掛ければいいのか考えて。
動揺に瞳を揺らす凜の前に、静かに夏子の父が立つ。
「あ、あの」
凜は一先ず名乗ろうと口を開き、
「初めま」
「萩月凜君だね」
何の迷いも無く言い切った夏子の父に、凜は驚きに口を開けた状態で硬直。
それから数秒とも言える沈黙のあとに、
「な、なんで……僕の名前を?」
よくありがちな問いかけが出て、夏子の父は小さく苦笑いで答えた。
「娘、夏子からよく話を聞かせられていてね。それに目立つ髪の色だったからすぐにわかったよ」
「そう、ですか」
「…………はは、少し前までくだらない話をしてあの娘が作ったご飯を食べながらのんびりしてたんだけどね」
顔は笑顔だった、文句なしに。だが。
「おっとそういえば名乗ってなかったね」
瞳の奥に棲まわせていたのはどこまでも深くて深すぎて絶望だけしか見えない、そんな悲しみ。
「――――――神村冬樹だ、よろしく萩月君」
そんな悲しい笑顔で差し出された右手。
そんな右手を凜はただ見つめて。
「萩月凜です。よろしくお願いします」
握り替えそうと凜も右手を差し出そうとした時――――――
――――――――――――ズグッ!!
「ぅぐっ!?」
右眼に突然、釘を打ち込まれたような鋭い痛みが奔った。
凜は右眼を押さえ、痛みに力が抜けそうになる両足に必死に力を込めてその場で痛みに堪える。
「っ…………」
「どうしたんだい? 具合でも」
凜の様子に異変を感じたのか、冬樹が顔を覗きこもうとして。
「大丈夫です、少し目眩がしただけですから」
呻くような、重苦しい声で凜が遮る。
「そう、かい?」
冬樹は凜の様子に眉を寄せたまま姿勢を正し、
「はい」
凜は痛みに声が震えそうになるのを堪える。
自分の状態を悟らせまいと痛みに引き攣る口元をつり上げ、硬いながらも笑顔で冬樹を見上げる凜。
「あ、あまり長くいてもなんですから、僕はこれで失礼します」
凜は怪訝そうに見る冬樹に小さく頭を下げ、
「少し休んでいった方が」
「それは冬樹さんの方ですよ。目の下にクマができてます、あまり寝てないのバレバレですよ」
冬樹の気遣いを遮るように言葉を重ね、もう一度ペコリと頭を下げ、会話を切るように冬樹に背を向けた。
それからすぐに「ちょっと、君っ!!」と、冬樹の呼び止めようとする声が聞こえてきたが、凜は右眼の痛みに追い出されるように神村邸を後にした。
††††††††††††††††††††††††††
「…………っ」
神村邸を出て徒歩で約二十分。商店街の脇道にある寂れた小さな公園で、凜は古びた木製のベンチに寄りかかるように座っていた。
ゴールデンウィーク、それも日曜の午後だというのに公園には凜以外の人の姿はなく……まるで世界に自分一人だけになってしまったような錯覚に捕らわれる凜。
でも、逆に今はそれがありがたかった。
激痛に悲鳴をあげていた右眼は少しずつが痛みが薄れ、
「…………はぁ」
それを吐き出すように凜は深くため息をついた。
「………………………」
右眼の痛み。それが小さくなっていくのと同時に、冬樹の姿が凜の脳裏に浮かんでくる。
――――冬樹さん、かなり無理してたな……いや、正確には夏先輩と親しい人達全員か。
夏子が亡くなってから全てが変わってしまった。
学校では生徒は勿論、成績も優秀で素直で人辺りの良い夏子を可愛がっていた教師も理不尽とも言える出来事に歯を食いしばり。帰り道ではよく話をしていた近所の奥様方や夏子の事を自分の孫みたいに可愛がっていた年配者達…………色々な人がまだ夏子の死を受けいられないようだった。
でも仕方ないとも思う。現に自分も今だに夏子が死んだという実感がないのだから。
「………………」
凜はなんとなしに顔を上げて、今の自分の心とは真逆。雲一つ無く、ただ青一色の空に消えてしまいそうな小さな声で呟く。
「………………一年、か」
いや、正確には一年もない。
――――――夏先輩と初めて会った日もこんな綺麗な青空だったっけ。
だが、あれは会ったというよりは遭ったという方が正しいかもしれない。
凜と夏子が出会ったのは昼食を摂ろうと屋上に向かっていた、屋上出入口手前の階段。
そこでちょっとしたトラブルになった。
トラブルと言っても夏子が凜の昼食を台無しにしたというものなのだが……その日をきっかけに委員会や生徒会、部活。共通した友達もいない、何の繋がりもなかった先輩後輩だった凜と夏子はよく顔を合わせるようになった。
ほぼ毎日、約束をしたわけでもないのに凜が昼食を摂っていると夏子が屋上に来ては一緒にお弁当をつつき。
「…………一緒に登校するのも多かったっけ」
登校だけではない。学校が終わっての下校も何故か狙ったようなタイミングで一緒になる事が多くなり、凜と夏子の家は商店街を挟んで正反対にあったが、いつの間にか商店街の入り口が待ち合わせ場所になっていた。
今にして思えばホントに不思議な縁もあるものだな、と思う。
かたや小学生みたいな平凡な下級生、もう一方は学校一の美少女と名高い上級生。
何の繋がりも無い二人がたったあれだけの事で……まぁ、それなりに気の知れた先輩後輩になるだなんて思いもしなかったのだから。
「……………」
夏子の事を思い出してみると、
「なんだろ……毎日、夏先輩と一緒にいたみたいだなぁ」
思っていた以上に自分は夏子と一緒にいたんだなと実感する――――――なのに。
「ははっ…………………」
それだけ一緒に、長い時間の中で側にいた記憶があるのに。
「なんで……あの時、夏先輩と一緒に帰らなかったんだろ?」
あの日、あの時、夏子が殺された時。何故、自分は一人で帰ってしまったのだろう。もし、放課後に夏子と一緒に帰っていたら…………。
「夏先輩は…………死ななかったのかな?」
後悔を声に出して凜は小さく笑った。
夏子が死んでしまった後で……今更、何の意味もない『もしも』の話。
縋るように呟いてしまった自分の一言が……耳に、頭に、心に虚しく響く。
「………………っ」
虚しさを一息吐き出して、凜は見上げていた空から逃げるように顔を戻す。
「………………帰ろう、かな」
ここで悔やんでいても時間が戻る事など無く、まして夏子が生き返るわけでもない。
凜は自分の中で渦巻いてる後悔や無力感を押し込み、ベンチから腰を上げる。
「……そういえば、今日はお祖母ちゃん仕事でいないんだっけ。晩ご飯の支度もしなきゃ……それに明日はまた学校かぁ。休みの間に一日学校なんてめんどくさいなぁ」
沈んだ心を励ます様に、なんてことはない日常を無理矢理呟いてみる。
「グチグチ言ってもはじまらないし、買い物に行こう……っと、行く前に着替えないと駄目か」
喪服のまま買い物に行くなんて非常識、行った所で店も迷惑だろう。
「えっと……時間は」
凜は一度大きく背伸びをして、時刻を確認しようと公園の中央に立つ時計台に視線を向け、上時針が示す時間を確認する。
時針が示していた時間は午後二時五十六分。
「もうすぐ三時か……お昼ご飯たべてなかったし、買い物ついでにご飯も済ませちゃおうかな」
凜はそう呟くと時計台から視線を外し、虚しさを引き摺ったまま家へに戻ろうと一歩踏み出した時だった。
――――――再び右眼に奔る衝撃に、凜の足はその場に磔になる。
「ぁ、あ…………」
凜は右眼を襲う激痛にふらついて、
「くぁっ」
膝が折れそうになるをの堪えて、立ち上がったばかりのベンチに再び腰掛ける。
痛みに悲鳴を上げる右眼を手で押さえ、
「くっ…………また、か」
眼の中で暴れてるものをかみ殺すように呻いた。
「最近、は……無かったのに、な。っ、よく……忘れた頃にっていうけど…………ほんとに、そうだ」
凜は痛みに苛立ちをぶつけようとして、
「…………もう、なんとか…………ならないか」
途中で諦めた。コレばかりは物心ついた事からの悪癖……というか、能力か。
右眼の痛み。それは凜が幼い頃から何度も経験し、現在まで苛まれているが……この先、コレ(・・)に慣れる事などないのだろう。
右眼にしているコンタクト。コレは視力を矯正する為に付けている訳ではない。
よく痛む事があってもそれは別に右眼に怪我をしているわけでも、障害があるわけでもなく……コンタクトを外せば左眼と同じようにきちんと物が見える。
正確に言えば左眼よりも――――『視』えすぎる、というのが正しい。
――――――――――右眼の瞳の色が左と違うんです。
五日前の昼休み。凜が夏子と最後に共に過ごした屋上での一言が脳裏に浮かぶ。
「家以外じゃあまり外したくないんだけど…………」
右眼を押さえていた手を少しだけ離して、
「鏡がない、と外し辛いんだけど……そうも言ってられないか」
まるで外せと急かす様に痛みの感覚が速くなり、凜はそっと右眼に指を当てる。
「っと……」
右眼のコンタクトの色は黒。それは瞳の色と形を隠す為と言ってきた、だが…………本当の理由は違う。
ただ瞳の色や形を隠すだけならば黒でなくとも左眼と同じく紫色のコンタクトにするのが自然で…………黒にした理由は簡単。視界をゼロにする為だ。そうしていないとずっと視えてるから気になってしょうがない。
小さい頃から視続けてきたが、出来る事なら視たくない。
何故なら視えていても何か特別な事が出来るわけでもなし…………自分にできる事なんて、結局のところ持つ力以上の事はできないと思い知らされるだけなのだから。
「…………よっと」
右眼からコンタクトを外すのと同時に両方の瞼を閉じ、
「……………………ん」
心の中で誰へともなく……ただ、一言だけお願いしてみた。
――――――あまり、怖くありませんように。
未だ慣れぬ緊張感に息を呑み、凜は勢い良く瞼を開けた。
「……………………」
左と右。両眼に映る二つの世界。
左眼にはつい先程まで見ていた何の変哲もない世界が、
「ぁっ…………」
右眼だけに視える見慣れた制服に、凜は顔を少しだけ上げた。
「…………………」
顔を上げ、視線の先にいた人影に右眼の痛みが木っ端微塵に吹き飛んだ。
「っ………………」
腰まで伸びる綺麗な黒髪に、絹のようにまっさらな白い肌。黒みがかった澄んだ瞳に形の良い鼻。柔らかそうな唇…………その全部がそこにあることが当然と整った顔立ちはどんな事が起きても見間違える事などない。
右眼に映る世界に理解が追いつき、驚きに震える声で呟いた。
「…………夏、先輩」
凜の目の前、ほんの少し高い位置には凜の様子を窺ってる夏子が浮いていた。
凜の声に夏子の肩がビクッ!! っと跳ね。
「う、嘘…………」
驚きに目を見開き、両手で口元を隠す夏子。
「私の、事…………見えてる、の?」
夏子は動揺で言葉が出てこないのか、途切れ途切れに呟き。
「…………はい」
信じられない、と動揺に揺れるの夏子の瞳。
その夏子の様子に凜は静かに頷きながら答えた。
「ちゃんと、視えてますよ…………」
もう一度、今度はもっと明確な言葉で返し、少しでも夏子と目線を合わせようと静かに立ち上がる。
「な、なんで…………私、死んじゃって」
夏子の震えている声に戸惑っているのが伝わってくる。だが、それが当然の反応であり驚いたり疑ったりしない方がおかしいのだ。
「ははっ…………」
凜は苦笑いで地面から少しだけ浮いている夏子を見上げる。
「まぁ、普通は信じてはもらえないですし……視える人も少ないですからね」
「えっ?」
言葉の意味がわからない、と夏子は疑問に小さく声を漏らし。
「僕の右眼、左の瞳と違ってちょっと特別なんです」
凜はそれに答える様に右眼を指差す。
「僕の右眼――――――【幽霊】が視えるんです」
「幽霊、が……視える?」
言葉の意味、と言うより音を確認するように夏子が言葉を繰り返す。
「はい、視える以外にも今みたいに夏先輩と話したり……他には」
視える。その事実を呑み込めていない夏子に、凜は追い打ちを掛けるようで気が咎めた。が、壊れやすいガラス細工を扱うようにそっと――――――夏子の右手を握った。。
「っ!?」
瞬間、夏子の表情がまた驚愕に強張り。
「こんな風に触れたりも……します」
「こ、こんな事って…………」
確かに触れ合っている右手。そしてそこから伝わってくる凜の温もりに夏子の視線が釘付けになる。
「やっぱり……驚きますよね」
驚きに目を見開き、左手で口元を押さえる夏子。その様子に凜は頬を掻き。
「凜が……わ、私にさ、触って…………」
夏子の驚愕と困惑に感情が揺れ、握っている右手から震えとして凜に伝わる。
「…………【魔力】って、言えばいいのかな? 僕はその力が生まれつき強いみたいなんです」
「っ…………」
夏子は凜の言葉に息を呑み、
「正確には僕っていうより、僕の家…………萩月家の皆がそうなんですけどね」
その動揺を宿す瞳が向けられ、安心させるように微笑む凜。
「萩月家の人間は代々特異な力を持って生まれてくるんです」
凜は夏子の震える右手を両手で優しく包み込み、静かに言葉を紡ぐ。
「大体は霊的な能力で、普通は何か一つぐらいなんです。幽霊の透視だったり、触れたり、話を出来たり」
大概の人間は今言った能力である事が多い。が、極希に炎や水を自在に操作する能力を有している者もいたらしい。
祖母や父、自分は歴代で五本の指に入る程ずば抜けて【魔力】が高い。
自分と父は幽霊が視えて触れて話せる。祖母はそれ以外にも能力があり、その能力で様々な幽霊関係の仕事をしているようだが…………内容までは聞いていない。
「まぁ、テレビに出てくる霊能力者の人達からすれば僕らの方が『視』えてないって言われることもありますけど」
「…………普通は『視』えてても話せたり触れたりはしないんだ」
「そうですね。『視』るのと話す、触るは動作としては別ですから…………あとは夏先輩、というか幽霊の人からも触れたりもしますね」
「つまり…………」
夏子の緊張で微かに涙で濡れる瞳。そんな瞳が今にも逃げ出したいという感情を押し殺すように揺れながら、真っ直ぐ凜だけを見つめる。
「…………凜にとっては私は幽霊だけど、普通の人間みたいにできるってこと?」
恐れと疑心。その二つに押しつぶされてしまいそうな夏子に、凜は寄り添うように一言。
「はい」
何の迷いもなく、夏子の問いへ答える。
「そう、なんだ…………」
凜の答えに消えてしまいそうな小さな声で呟く夏子。
握られている右手と反対の手――――左手を恐る恐る凜の頬に伸ばす。
「………………」
「………………」
凜は自分の頬に伸ばされた夏子の手を無言で受け入れる。
そして、頬には夏子の手が触れる感触が宿り――――――瞬間、その感触に心がざわめく。
触れている感触は確かにある。だが、その手からは熱を感じる事が出来なかった。
冷たいとも温かいとも言えない、そんな夏子の左手。
その左手が凜の頬の感触を確かめるように何度も撫で、
「ははっ…………ほんとに凜に触れるんだ、私」
左手に感じる確かな感触に、夏子の表情がクシャッと綻んだ。
「んっ…………」
夏子の瞳に張り付いていた涙の膜は大きな滴となり、
「夏先輩」
零れ落ちそうになるソレをそうさせまいと、凜が右手を夏子の目元に差し伸ばした瞬間。
――――――目に映る世界全てが紅で染まった。
「な、何……これ?」
凜は夏子から一歩離れ、周囲を見渡す。
すぐ近くにあったベンチや公園の遊具、整備されていた花壇に緑が生い茂ってた木々。顔を上に上げれば空や、そこに浮かぶ雲すらも紅で染め上がられている光景。
「い、一体何が…………」
まるで血で染め上げられた紅い世界。そんな世界に自分の眼がおかしくなってしまったのではないかと、不安に駆られる凜。
だが、
「な、何よ……これ? 全部、紅く…………」
正面で自分と同じように戸惑う夏子の様子にハッと我に返る。
「な、夏先輩も周り全部が紅く見えてるんですか?」
「う、うん」
紅く染まった世界に夏子は背を丸め、恐怖から逃げるように凜の隣へ飛び寄った。
「な、なんでこんな……周りが紅くなって」
「ぼ、僕にも」
わかりません、と言葉を続けようとして。
――――――ズキンッ!! と、落雷のように鋭く、焼き焦がす痛みが右眼を貫き、一瞬で脳幹まで奔る。
「がっ!? か、はっ…………っ」
その激痛に凜は意識が一瞬飛び、両足から力が抜けた。
「っぁ、あ…………」
凜は止まり掛けた思考で、ほとんど無意識に背後のベンチに項垂れるように倒れ込んだ。
「り、凜っ!?」
突然倒れ込んだ凜へ、夏子が慌てて沈み寄る。
「凜っ!! どうしたのっ!?」
夏子は凜の小さな肩を揺さぶり、
「どこか痛いのっ!? それとも苦しいのっ!? ねぇ、凜ってば!!」
「み、右眼が…………ぐぅっ!!」
焦りに表情を強張らせる夏子に呻くように答える凜。
「右眼? 右眼が痛いの?」
返ってきた答えに夏子は凜の顔を覗き込もうと身を屈め、
「アァッ」
短く場に響く男の声。
ただの声。その筈なのに体の奥には深々と鋭い何かが突き刺さるような感覚が沸き上がり、夏子は反射的に顔を上げた。
声がした方向。公園の入り口へと視線が定まり、
「だ、誰?…………」
そこには黒のパーカー姿の男が一人、静か佇んでいた。
フードを深くかぶっていて鼻先と口元しか表情を読み取れない。
「あ、あの人…………どこかで?」
遠目でハッキリとわからないが、フードからのぞく口元はどこかで見た憶えがある。
そんな男の姿にこめかみに鈍い痛みを感じる夏子。
「っ…………な、なんで頭痛なんか。私、死んでるはずなのに」
死んでしまった自分にはあり得ない感覚に視線が男から逸れ、
「あ、あの…………人は?」
右眼を襲う激痛を踏み台に、凜はゆっくりと立ち上がる。
「凜!! 大丈夫なのっ!?」
「は、はい。これ、くらいならまだ…………大丈夫です」
足下がおぼつき、今にも倒れてしまいそうな凜。
夏先輩には大丈夫と言ったけど…………正直、大丈夫じゃない。
視界はグルグルまわり、足下に至っては地面に足をつけてる感覚さえわからない。意識だって飛んでは痛みに引き戻されての繰り返しで、頭の中をかき混ぜられたような不快感が体全身を駆けめぐっている。
「と、とにかく……あの人に声を掛けて、みましょう」
理由はわからないが、目に見える世界が一変したこの状況で他の人間に会えたのは心強い。
あの、と凜は公園入り口付近にいる男へと声を掛けようとして。
「っ!! ぐぅあっ、ああああああああああああああああ!!」
凜はその場にうずくまって、痛む右眼を押さえ付ける。
くそっ!! 何で近くに幽霊は夏先輩しかいないはずなのに……って、まさか!?
「ぐぅっ!!」
凜はあり得ないと思いながらも右目を閉じた状態で顔を上げ、さっき男がいた場所を見る。
「…………くっ」
左眼の風景には目の前にいた男がいない。
――――やっぱり、僕の右眼が反応してるのって。
「何、あの人…………」
「あ、あの人は…………」
凜はなんとか立ち上がって、右眼を開く。
「夏先輩と、同じ……幽霊です」
夏子と同じ。だが、男から受けるドス黒く冷たい気配に異質さを感じる。
そんな異質さに心の奥であの男は危険だと、心がざわめいている。
「私と同じって」
「アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」
突如、夏子の言葉を遮り獣のように雄叫びを上げる男。その姿から伝わってくるドス黒く冷たい異質さは恐怖に変わり――――――凜のざわめきを追い立てるように風が吹く。
「っ!?」
風でフードが捲り上がり、隠れていた男の顔が現れ。
「な、にっ!?」
「っ!?」
露わになった男の顔に凜と夏子は体中から強制的に冷たい汗が噴き出させられた。
フードから現れた男の顔は……人間と言うにはかけ離れすぎていた。
全く生気を感じない灰色の肌に、充血し血の塊のような眼球と光のない暗い瞳。その不気味な瞳は左右個別に転々と視線を這わせ、まるで死んだ人間をそのまま人形にしたような無機質さが漂っていた。
「オンナッ!! オンナ、コロスッ!! コロスコロスコロスッ!! コロスウウウウゥゥゥゥゥッ!!」
そして狂気を張り付け、歪としか言い様のない雄叫びを叫び続ける男の姿に。
「あ、あの人…………」
耳に縋り付くように響く怯えに染まった夏子の声。凜はその声に夏子へ顔を向けて、夏子は恐怖で震える体を抱きしめながら怯えを口にする。
「…………私を、殺した人」
「なっ!? 夏先輩を殺したって、そんなっ!!」
「ほ、ほんとよ……あ、あんなおかしな感じじゃなかったけど、あの顔は見間違える事なんてない」
「じゃあ、あの人が夏先輩を…………」
凜は右眼の痛みを噛み殺し、
「ウウウウウウウウウウウウウゥゥゥゥゥゥゥゥゥッ!!」
男は口から泡を吹きながら叫び、それに引き摺られる様にズボンのポケットからナイフを取り出す。
「ナ、ナイフッ!?」
凜は上擦った声で叫び、男は涎を撒き散らしながら凜達目掛け突進する。
「っ!? 夏先輩、下がって!!」
男が走り出すと同時に背に夏子を庇い、身構える凜。
「凜!?」
「夏先輩はここにいて!!」
右眼で暴れ回る痛みを吐き出すように大きく息を吐き、突進してくる男へ自ら間合いを詰める凜。
駆け出すと同時に左手を下段に構え、右で拳を握る。
「何で夏先輩を襲うんだっ!?」
凜はナイフを振り上げ襲いかかってくる男へ叫び、
「アアアッ!!」
が、男は凜の問いに答えず、何の迷いも無くナイフを凜の首元へと振り下ろす。
「シッ!!」
首元に迫る凶刃に臆することなく、ナイフの殺傷圏内から一歩分踏み込む。そこから左手でナイフを握る右手を受け止め、脇に構えていた拳を男の顔面――――鼻っ面に渾身の力で叩き付ける。
「ギッァ!?」
叩き付けた拳から伝わってくる肉と骨を砕く感触。
その感触に背中に寒気を感じたが、今はそれを気にしている場合ではないと心の中で振り払う。
凜はそのまま男を殴り飛ばし、地面を転がりながら吹き飛ぶ男の姿に構えを取り直す。
「ガアアアアアッ!?」
男は痛みに苦悶の声を上げ、顔を押さえながら地面を転げ回る。
「っ」
凜は転げ回る男の姿に油断なく構え、
「ガ、アアアッ!!」
男は痛みを投げ捨てるように押さえていた手を振り回しながら立ち上がる。
それと同時に男の顔を捉えた凜の大きな両眼が更に見開かれ、
「なっ!?」
「グガガガガッ!!」
凜の一撃で折れ曲がった鼻は血を流すことはなく、フィルムのコマ送りのように元の状態へと修復していく。
「っ」
傷の修復。その光景に凜の眉間にシワが刻まれ、奥歯を噛みしめる。
今まで幽霊を殴った事はなかったけど…………傷はすぐに元通りになっちゃうんだな。
困惑する凜を余所に男の鼻が元通りになり、獲物を狙う獣の如く、円を描くように歩き出す男。
「ググッ」
「くっ…………」
凜は男の動きに合わせながら体を向け、
「り、凜」
「何です? 夏先輩」
隣に飛び寄ってきた夏子へ一瞬だけ視線を流す。
「わ、幽霊の私が言うのもおかしいけどこんなの普通じゃないわ。に、逃げた方がいいと思う」
隣で凜の腕を引きながら、この異質な状況で最も安全な選択を口にする夏子。
「そうですね。 こんな状況で下手に相手をするよりは」
安全、と口に出そうとした時だった。
「コォォォォォォロォォォォォォスゥゥゥゥゥッゥウゥゥゥッ!!」
男が口から溢れる泡を撒き散らしながら右手を振り上げ、
「っ!! 夏先輩」
下がって!! と叫ぼうとした瞬間。
「ガアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」
男の絶叫と共に凜の眼前へ迫る男の右手。
「っ!?」
「きゃっ!?」
凜は反射的に夏子を横に突き飛ばし、その反動で自分も横へ跳び、これを回避。
そして凜は体勢を立て直す余裕もなく、夏子は目に映る光景に絶句した。
距離にして約十メートル。その距離を否定するように男の腕が伸び、
「凜っ!! 後ろ!!」
「え?」
夏子の声と共に重い衝撃が脳を揺らす。
伸びた腕は肘を折り、凜の後頭部に拳を叩き付けていた。
「がっ!?」
まるで金属バットで殴られたような衝撃に意識が飛びかけ、
「ガァッ!!」
叩き付けられていた拳が開き、そのまま凜の頭を鷲掴みに。
伸びた腕を元の長さまで引き戻し、流れ作業のように左手に握られてたナイフを凜の脇腹へと突き刺し、そのまま突き飛ばす。
「ぐぁっ!?」
凜は右脇腹に奔る鋭い痛みと地面に体を叩き付けられた衝撃に声が漏れ、
「凜!!」
痛みを共有するように青ざめた表情で夏子が慌てて凜へ飛び寄った。
「り、凜!! 大丈夫っ!?」
「な、夏先輩」
頭に残る衝撃で朦朧とする意識の中、凜は刺された脇腹を抑えながら体を起こす。
刺された傷口からYシャツに血が滲み出し、
「凜!! 血が!!」
「こ、これくらい……平気、です!!」
痛みを吐き出すように叫ぶ凜。
だが、額に脂汗を滲ませた凜の言葉では説得力などなく。
「平気って、そんなわけないじゃない!! 早く手当しないとっ!!」
「手当って、そんな時間……ありませんよ」
「でも!!」
悲痛な夏子の叫びに凜は「ははっ」と苦笑いを浮かべ、力の入らない両脚にやせ我慢を込めて立ち上がる。
異常な状況に取り乱す夏子を宥めるように凜は小さく笑い、
「夏、先輩……落ち着いて? 刺されたって言っても、すぐに死ぬような傷じゃないですから…………」
「凜…………」
夏子は凜が浮かべる笑みに、どう言葉を返せばいいのかわからず押し黙る。
「アァッ…………」
男は凜達の様子に再び獲物を仕留める機会を窺うように歩き、喉の奥から込み上げてくるものを噛み殺し周囲を見渡す凜。
「っ…………」
――――おかしい。目と鼻の先に民家がいくつも建っているのだから、自分が何度も叫び声を上げている今の状況で、誰も様子を見に来る気配がない。
それに町全体がこんな風に変わってしまってだいぶ時間が経つというのに、騒ぎなるどころか気味が悪いくらいに静かで、まるで時間が止まってしまったような――――と、そこまで考えて凜は途方もない仮説が脳裏を過ぎった。
「まさか…………」
「り、凜?」
痛みとは違う感情に揺れる凜の表情に、夏子は不安をより一層深めて。
「くっ!?」
凜はぶれる視界で男を捉えながら視界の左端にあった公園の中央にある時計台に視線を合わせ、
「なっ!?」
「えっ?」
凜が愕然と呟いた一言に夏子の声も止まる。
凜は信じられないものを見るように時計台に釘付けになり、
「じ、時間が…………止まってる」
耳に響く自分の言葉が酷く陳腐に聞こえた。
時針と秒針が一ミリのズレもなく重なり、指し示していたのは午後三時ちょうど――――凜が夏子と出会って少し経った頃で時間が止まっている。
「う、嘘…………」
「嘘じゃない、ですよ」
冗談だよね? と、縋るような表情で見つめてくる夏子へ、ただ眼前の認めたくない事実を告げる。
「時針、どころか……秒針だって、進んでないですし。さっき、まで普通に秒針だって動いてましたから、故障……って事もないと思います」
凜はふらつく足で一歩前に踏み出し、
「それに世界が紅く染まって見える、のに……そんな異常事態が起きてるのに、静か過ぎませんか?」
「そ、そう言えばさっきから何も」
凜の問いに夏子も周囲を見渡しながら耳を澄ませ、
「何も、聞こえない…………」
自分達が発する声や音意外何も聞こえてこない事に今更ながら気が付いた。
「多分、ですけど……今僕達がいる公園、というか世界そのものが、別空間になってるかも」
「別空間って……そんな」
「あくまでも、かも……ですよ? 町中を探せば他に誰かいるかもしれませんし」
出血の所為なのか、ぼやける視界を拭うように目を擦る凜。
「ここは、僕に任せて……夏先輩は助けを、呼んできてください」
「な、何言ってるのよ!?」
夏子は凜の言葉に弾かれるように浮き上がり、
「理由はわからないですけど、あいつの狙いは夏先輩、みたいです……だから、僕があいつをここで引き留めておきます」
痛みに途切れ途切れだったが、凜は話を続ける。
「その間に幽霊関係のもめ事だったら、お祖母ちゃんが何とかしてくれると思います。僕の家、三丁目にあるん、ですけど……萩月、って僕の家しかないですから、わかると思います」
今はいないですけど、と心の中で付け加える凜。
だが、そんな凜の心を見透かしているのか、夏子は長い黒髪を振り乱すほど首を激しく振る。
「嫌よっ!! 凜を置いて逃げるなんて絶対に嫌っ!!」
「逃げる、だなんて…………助けを呼んできて欲しい、だけですってば」
凜は夏子へ困り顔で笑みを浮かべ、
「アァアアアッ!!」
男が凜の声を薙ぎ払うように叫び、地面すれすれまで身を屈め、二度目の疾走を開始する。
「こ、のっ!! 少しは待ってよ!!」
凜はすぐ様夏子から離れ、男と間合いを詰める。が、不意に視界が歪み、足がもつれる。
「っ!?」
薄れた意識では咄嗟に体勢を立て直す事もできず、そのまま地面に倒れ込むように体勢を崩す凜。
一瞬、そのたった一度の運命の悪戯が致命的だった。
「ウウウウウウウウウウウウウウウッ!!」
男はその一瞬を見逃すことなく一足で間合いを詰め、涎を撒き散らしながら倒れ込む凜の顔面目掛け、ナイフを突き上げる。
「っ!?」
「凜っ!?」
倒れ込む凜の体を掴もうと手を伸ばす夏子だったが、その手は無情にも凜に届く事はなく。
「アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」
男の絶叫と共に凜の顔へ凶刃が吸い込まれるように軌跡を描き、
「くっ!?」
凜の瞳がハッキリとナイフの切っ先を映し出した瞬間だった。
凜の瞳を塗りつぶすように漆黒が映し出され、その続け様に何かが砕けるけたたましい音と一共に、眼前に迫っていたナイフが掻き消えた。
「全く、情けないわね」
どこまでも澄んだ冷淡な声。その声が僅かな呆れを含み冷たく響いた。
「グッ!? ガアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!?」
その声とは正反対のドス黒く濁った男の悲鳴が響き、凜は地面と抱き合う寸前で両手を突き出し、衝突を防ぐ。
その衝撃で刺された脇腹に痛みが奔るが、声の主の正体を視界に捉えようと顔を跳ね上げ。
「っ!?」
瞳に映る黒衣に身を包んだ一人の少女の姿に息が止まる。
目の覚めるような煌めく長い金髪を高い位置で左右に束ね、ややつり上がった青空のように澄んだ大きくて丸い碧眼。背丈は夏子より少し低めだったが、その有り様は夏子にも引けを取らない美貌。
全身を黒一色の制服調の服に身を包み、黒のロングコートをはためかせる少女は地面に伏していた男から凜へと視線を変え、凜の前にしゃがみ込む。
「き、君はっ」
「ちょっとジッとしてなさい」
凜の問いかけを少女の声が切り捨て、少女は凜の肩にそっと手を置く。
その瞬間。少女の右手が淡い光を放ち、凜の体を静かに包み込んでいく。
体全体に広がる淡い光は更に脇腹の傷口を塞ぐように集まり、ほのかな心地良い熱が体を癒していくのがわかる。
傷口に集まった光の粒子はその輝きを増し、瞬間的に目映い閃光を放ち砕け散る。
「っぁ!!」
「きゃっ!?」
強烈な光に凜と夏子は小さく声を漏らし、
「これで良し、っと」
砕け散った閃光は光の粒子となって、溶けるように消えた。
光が消えると一緒に凜は体を起こし、夏子は隣へ滑り込むように座り込む。
凜は刺された脇腹をさすりながら、信じられないと声をもらす。
「き、傷が……」
「な、治ってる……」
刺され空いた穴からのぞく肌は傷どころかシミ一つ無く、全くの無傷。
「怪我も治したし、一先ず安心ってとこかしら」
言葉通り、安堵のため息を付きながら立ち上がる少女。
少女は肩から胸に掛けて掛かっていた長い金髪を後ろへ払い、
「あ、あなたは」
「あぁ、あとで自己紹介するから待ってて。先にあっちを片付けたいの」
素性を問おうとした夏子を、男へ鋭い視線を向けながら言葉で制す。
「ガッ……アアァッ……」
男は痛みに顔を押さえながら立ち上がり、
「あの悪霊……【紅境界】を組み込まれてるみたいね」
「クリムゾン、ラインって?」
少女が男を詰るように呟いた言葉に、凜が思わず問い掛けた。
少女は自分の言葉をオウム返しした凜に一瞬だけ視線を戻し、
「今アンタ達には周りの景色が紅く見えてると思うんだけど、それが【紅境界】。この町一帯を異空間に取り込んでて、あそこにいるバカ霊が人間の魂を奪えるようになってるの」
手短にと、やや早口で凜に説明する少女。
「人の魂を奪う、って」
「あぁ、もうっ……これ以上の説明は後でするから、少し下がっててよ」
少女は鬱陶しいと困惑する二人へ腕を払い、下がらせる。
「ガアアアッ!! アアアアッアアアアアァァアアアアッ!!」
怒りの咆哮とばかりに男が吠える。
そんな男を冷めた目で見つめる少女は、右手を男に向け掲げる。
「ちんけな悪霊ごときが私に勝てると思ってんの?」
存在否定。それ以外の感情が込められていない声で、冷徹な音を奏でる。
「来なさい……『処刑人』」
脇に掲げた右手が紅く光り輝く。
罪人へ執行宣告と共に、紅き閃光は一瞬の煌めきを放つと同時に巨大な黒い大鎌へと姿を変える。
その光景に凜と夏子が驚愕に目を見開くのと同時に、少女の唇が淡々と音を刻む。
「…………【漆黒境界】発動」
その少女の言葉に紅く染め上げられた世界は、絶対服従を誓うようにその姿を変えていく。
紅い世界を呑み込むように黒の波紋がいくつも起こり、波がぶつかり合う度に黒の飛沫が飛び散る。その飛び散った飛沫がまた新しい波紋を作り、いくつもの黒の波紋が重なり、ぶつかり、塗りつぶす。
黒が紅を根絶やしにし、世界を支配した瞬間。
「アッアアアアアッアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」
恐怖に歪んだ男の咆哮が黒の世界にこだまする。
少女は自身の背丈ほどの大鎌を軽々と肩に載せ、男はその姿に目を見開き。
「消えなさい」
ただ一言。少女は何の感情も感じられない冷めきった声で男に告げ、背を向ける。
少女の言葉に男の叫びが唐突に途切れ、
「ガッ!?」
男の体を縦に切り裂き、鮮血代わりの紅い光の粒子が吹き出し。
「終わりよ」
男は最後の断末魔の声さえあげることも出来ずに左右に別れ、崩れ落ち、粉々に砕け散った。
「…………っぁ」
簡潔にして壮絶。ただ二言三言、言葉を交わしていた僅かな時間での決着。
凜はその光景にただ呆然と息を漏らす事しか出来ず、
「さて、と……次はこっちか」
少女が添えるように呟き、大鎌を握り直しながら凜達へ向かって歩きだした。
「あ、あの……た、助けてくれてありがとう、ございます」
夏子は目の前で起きた出来事に困惑しながらも、小さく頭を下げ少女に感謝を示す。
「別に、お礼なんて良いわよ。アンタ達に用があって来たし、それにこれも任務の一環だから」
少女は気にしないでと手を振り、肩に載せていた大鎌を地面に突き刺す。
「えっ? 任務って?」
「死者の魂の刈り取り」
少女はつまらない事を聞くなとばかりにつれない表情で夏子を見据え、
「死んだ人間の……魂を刈り取る、って」
ごく自然に告げられた言葉の冷たさに夏子の表情が強張り。
「あぁ、そんなに警戒しなくても何もしないわよ」
慌てたように金髪少女が声を上げる。
「アンタの魂は刈り取り対象じゃないから安心して」
「ごめん、信用できないよ」
不信感一杯の声と同時に凜は夏子の手を引き、
「り、凜っ!?」
少女から飛び退くように離れ、夏子を背に回し少女を睨み付ける。
「信用できないって……」
「その、助けてくれた事には感謝してるよ」
面倒くさそうに顔をしかめる少女に、油断無く身構える凜。
「でも、周りの景色が黒くなったのって君の仕業でしょ? さっきの【紅境界】っていうのは魂を奪う為のものって言っていたけど、今度は君が夏先輩の魂を刈り取る為に何か仕掛けたんじゃないの?」
「その子の魂を刈り取る為って、そんな事しないっての…………でも、仕方ないか。普通はこんな状況にならないしね」
少女は凜の言葉にウンウン、と頷いて腰を抱えるように両腕を組んだ。
「じゃあ、なんで世界を黒くしたのさ? 何か理由があるって言うなら説明してよ」
凜は緊張と怯えを孕んだ声で問い、手間が掛かる駄々っ子を見るように少女は凜を一瞥した。
「私が発動させたのは【漆黒境界】って言って、戦闘で被害を周囲に反映させない為の戦闘用の空間操作系法術よ」
「戦闘用?」
「そっ、先の【紅境界】は人間の魂を奪う為に特化した法術で周囲の空間をそのまま取り込んでるから、派手に戦って周囲のものを破壊すると法術が解けた時に壊れたまま残っちゃうの」
そう言って少女は視線を凜から黒く染まった空へ上げ、
「でも、この【漆黒境界】は周囲の空間を模倣して擬似的に作り出した異空間だから、どれだけ暴れても元の世界に影響はないってわけ。さっき程度の悪霊相手じゃ必要ないと思ったけど、万が一ってね。これで私が【漆黒境界】を使った理由はわかった?」
やれやれと小馬鹿にするように鼻で笑いながら視線を凜に戻す。
凜は不躾な少女の態度に、ほんの僅かだが声の震えが収まり。
「…………それで、僕達に何の用?」
「アンタ達、と言うよりアンタの後ろにいる『霊現体』に用があるのよ」
「『霊現体』?」
凜は聞き慣れない単語に言葉を繰り返す。
「そっ。アンタ達で言えば『浮遊霊』って呼んでるものかしら」
簡単な説明で応える少女。
「し、死んでる私に用って……あ、あなた何者?」
凜の後ろへ隠れるように背を丸め、不安からか凜の喪服を掴みながら少女に問いかける。
凜と同じく、既に死んでいる自分が見えている所から思っていたが、男を難なく倒し、凜の傷を完治させたり…………止めに「死者の魂を刈り取る」だなんて普通に考えて、ただの人間とは到底思えない。
「あぁ、そう言えばその質問に答えてなかったわね。じゃあ、簡単だけど自己紹介」
その答えが合図だったように少女と凜達の間に一陣の風が吹く。
体を撫でつけるような優しい風に少女の長く美しい金髪が揺れ、碧の双眸が冷たい光を宿す。
「私の名前はセフィリア=ベェルフェール――――『死神』よ」
淡々と告げられた言葉の衝撃に、夏子は口元を手で押さえながら後ずさり。
「しっ、死神って!?」
「魂の刈り取りをする死神が夏先輩に何の用っだっていうのさ?」
夏子とは逆に、あたかも予見していたとばかりに冷静な凜。
そんな凜の反応にセフィリアは眉を寄せるが、
「アンタはあまり驚かないのね……って、あの人の身内なんだもんね」
別段気に止めた様子もなく告げる。
「単刀直入に言うわ」
組んでいた腕を解き、右手の人差し指で夏子を射貫くように指さすセフィリア。
「神村夏子――――アンタを生き返らせてあげる」
何の前触れもなく放たれたセフィリアの言葉に、二人はただ驚きに目を見開き、絶句するしかなかった。





