――― そして欠片は零れ落ちる ―――
凜は机の脇に提げてた鞄を机の上に置き、課題が出た教科の教科書とプリントを詰めていった。
「………………」
今は長いような短いような授業と帰りのホームルームが終わり、帰り支度の途中。
周りの級友達も凜同様帰り支度をしているが…………皆、重苦しい顔で俯いていた。
正しく言えば不安と恐れにジワジワと心を押し潰されているような状態だろう。
普段の教室であれば授業が終わった開放感に和気藹々とした空気で下校への意志が満ち溢れているのだが、誰一人として和やかな空気を纏っている者はいなかった。
その情景に凜は小さく溜息を付き、小さな胸には昼休みに呼び出された件が重くのし掛かる。
††††††††††††††††††††††††††
昼休み。夏子達と別れ、放送の指示通り職員室の脇にある第二会議室へ向かった。
他のクラスメイト達も憩いの時間を邪魔された事に不満顔で集まっており、
「いきなり何の呼び出しだよ、まったく」
「もぅ、せっかく次のデートの話をしてたのに…………」
「カップラーメンにお湯入れなきゃ良かった…………」
と、文句を揃えて会議室に入った。
だが、そんな悪態も会議室に入った途端に歩みと共に止まり、凜はソレに首を傾げつつ脇を通り抜け――――――瞳に映った光景に思わず、目を驚愕にギョッと開いた。
会議室の一番前、議長席の長テーブルを向かって左側から理事長に校長、教頭と順に並び、長テーブルを挟んで生徒指導部の教師に学年主任、最後に自分達のクラスの副担任がズラッと待ち構えるように並んでいた。
それだけでも「何かあったの?」と思わず口にしてしまいそうだったが、理事長の左隣――――――スーツ姿の男の二人組の姿に教師達とは違う何か鋭いものを感じ、言葉を噛み殺した。
そんな見慣れた事のない光景にたじろぐ凜達に副担の教師がせっぱ詰まった表情で声を上げた。
「はい、来た人から前から順番に座っていって下さい」
緊張しているのか、ほんの少し震える声で指示を出す教師の姿に戸惑いながらも生徒達は席に向かい、凜も続くように歩き出した。
凜達が席に着いてから五分程経ち、
「四十六、四十七……四十八っと、全員揃いましたね」
人数確認が終わると、意を決するようにアイコンタクトを済ませる教師陣。
そして何か思い詰めた暗い表情で理事長が隣にいたの人達に小さく会釈をし、
「全員揃いましたので、どうぞよろしくお願いします」
弱々しい声で二人を長テーブルの前にと手で案内した。
「では、失礼して……」
二人組の内の一人、強面でビシッと決めたオールバックが渋い中年くらいの男の人が小さく会釈して前に出た。
その人物へ場に全員の視線が注がれ、
「皆さん、初めまして。私は××県警、三珠警察所属、警部の笹原洋一です」
その名乗りに凜を含め生徒達の表情が驚愕に強張り、空気が一変した。
「な、なんで警察が学校に来るんだ?」
緊張に引き摺られるように凜の隣に座っていた男子生徒が呻くように問い、
「あぁ、それはだな」
笹原は当然の疑問に脇にいた理事長へ目配りし、まるで同意するように理事長が首を縦に振った。
言質を取った、と言うように笹原は凜達へと視線を戻し――――――告げる。
「昨日、君達の担任浪岡佐枝さんとクラスメイトの箕島香夜さんが行方不明になったからだ」
その言葉に張り詰めていた緊張をどよめきが押しのけ、
「なっ!?」
「行方不明って!?」
「嘘っ!?」
思いもしなかった状況に動揺の波紋が発つ。
「っ!?」
一瞬、凜も同様に声が出そうになったが寸前の所で押し殺し、笹原の次の言葉を待つ。
笹原は生徒達のどよめきを沈めようとはせず、スーツの内ポケットから手帳を取り出し淡々と話を進める。
「これから君達全員に昨日の下校から夜の九時までのアリバイを確認させてもらおうと思っている」
「あ、アリバイって……なんで?」
また唐突な話の進行に今度は笹原の正面の席に座っていた女子生徒が声を上げ、
「この件に関して警察は誘拐、もしくは拉致とみて扱っている。そして単刀直入にいえば――――――君達も容疑者として捜査対象になっているからだ。
淡々としていた声音には明確な冷徹さ練り込まれ、視線は一切の妥協などない疑いで鋭く研がれる。
そしてそこからは不満や愚痴をこぼす事すら許さない重圧が場を支配し、凜達はただただ刑事達の指示に従う事しかできなかった。
言葉通り、生徒達全員のアリバイ確認から始まり、次に二人との交友関係から消息を絶つ前までの二人の様子。そしてここ数日で学校周辺で不審な人間もしくは車の目撃の有無と多岐に渡り、それをご丁寧にも一人ずつ何度も丹念に繰り返す。
容疑者として捜査対象になっている――――その言葉が嘘偽りないものとして突き付けるように、犯人にボロを出させるかの如くだ。
ただこれだけの人数を聞き取りするに辺りやはり制限があるようで、最長でも一人十五分ほどで切り上げ、次の聴取へと移っていく。
そして十数人が聴取を終えた辺りで凜の番になり、嘘偽りなく真摯さを込め。
「――――――死神の女の子と晩ご飯の支度をしてました」
だなんて言えるわけもなく、まして言っても信じて貰えない現実に心を痛ませながら、「帰りに商店街のスーパーで夕飯の買い出しをして、その後は一人で晩ご飯の準備をしてました」
と、普段している事で辻褄合わせする凜。
「買い物をしたレシートは?」
「レシートはレジの不要箱に」
「ふむ、スーパーで買い物を済ませてからはずっと一人か?」
「は、はい。祖母も昨日から外出してるので……」
「ふむ、あとでスーパーの店員に確認をとらんとな……」
と、笹原が締め上げるような視線で凜を見据えたまま呟き、隣で話をメモしていた若手の刑事は「「萩月凜、アリバイなし。スーパーでのアリバイ確認、と」など囁きながらペンを走らせていた。
††††††††††††††††††††††††††
警察からの聴取というのは思いの外心労が募るという事を実感した生徒達は、皆意気消沈と様子でこれからの帰路もさぞ沈んだものになるのだろうと簡単に予想できる。
凜は鞄の留め金をパチンッと止め、
「まぁ、疑うのが警察の仕事だろうし……二人が無事で帰ってくるならこれくらいは我慢しないと」
場の重苦しい感覚から逃げるように教室を出る凜。
「こんな事件、はやく解決すると良いんだけど………………」
級友と担任。二人の顔を思い浮かべながら重い足取りで生徒玄関へ向かった。
††††††††††††††††††††††††††
数十年間、休むことなく生徒達を出迎え、見送り続ける年季を重ねた校門。
それに寄り添うように両手鞄を持ち立つ一人の黒髪女子生徒――――神村夏子が生徒玄関へ待ち焦がれている瞳を向け、学年別の下駄箱から顔を俯けながら歩いてくる待ち人後輩君の姿に瞳を輝かせた。
「凜っ!!」
余程待ち焦がれていたのか、他の生徒達の注意を引くのみ気にせず大きめな声で凜を呼び、大きく手を振った。
そんなはしゃぎ気味の夏子声に凜はパッと顔を上げ、手を振ってる夏子へトテトテ走り出した。
そんな凜の姿がまるで子犬の様で、夏子は癒しとは違う心の高揚に胸を押さえ、
「お待たせしました」
「ううん、私も今来たところだから」
どこかデートの待ち合わせの様な掛け合いに胸中をトキメキで輝かせる。
そんな胸の内をぽろりと溢すまいと緩みそうになる顔を気合いで引き締め、
「じゃあ、行こっか」
「はい」
何事もなく、普段通りに取り繕う夏子。
凜と夏子。二人の学校終わりはいつも校門で待ち合わせをして一緒に帰る。
初めて凜と帰った時は大体一年前くらいで、その時は互いに先輩後輩という意識があって他人行儀がったが、今ではすっかり自然な日常の一部。
その自然な日常を一歩前進させる為に夏子は意を決し、
「凜、今日はこの後予定とかあるの?」
「予定ですか? 昨日、買い物も済ませてしまいましたから特にありませんけど?」
「じっ、じゃあさ……いつもスーパーで買い物を済ませて帰ってるだけだし、たまにはどこか寄り道しない?」
いつもした事がない遊びの誘いをしてみる。
自分の口から出た言葉に内心、緊張で頭が爆発してしまいそうな夏子。
普通に考えればただの遊び誘いで、あかりや他の友達とだって学校帰りに寄り道をしていく事だってあるんだから別に緊張する必要なんてない。だがしかし、そうは思っていても相手にもよるとも思う。
そんな夏子のドキドキ事情など露知らず、にぱっと笑顔で返す凜。
「良いですよ、家事も朝の内に大体済ませてきましたから大丈夫ですし」
「じゃあ大丈夫ね。ごめんね、いきなりで」
と、緊張に速まる鼓動を抑えるようにホッと胸を撫で下ろす夏子。
「いえ、別に気にしないで下さい。家に帰っても課題ぐらいしかすることないですから」
「うん、ありがと」
「いえいえ。それで行き先とかは決めてあるんですか?」
「へ? あぁっ!! 行き先ね、行き先」
突然の問いに誘う事で頭が一杯一杯だった夏子は慌てて脳内会議を開き、
「う~ん、特には決めてなかったんだけど……『ソリア』でお茶しない?」
咄嗟に思い浮かんだ馴染み深い場所を口にした。
「えっと……『ソリア』って何のお店ですか?」
初めて耳にしたのか、凜は少し困り顔で首を傾げる。
「喫茶店よ、喫茶店。商店街の真ん中くらいにお店があるんだけど……凜は『ソリア』に行った事ないの?」
「はい。いつもスーパーか本屋さん、それに服屋さんぐらいしか行かないですし……」
「じゃあ、決まり。そこ、アイスコーヒーが凄く美味しくてね。今日はまだ少し暑いし、お店の中は涼しい筈だから丁度い良いと思う」
昼間からのジリジリした暑さから逃げるように、キンキンに冷えたアイスコーヒーをストローでキュッと飲み込む光景を思い浮かべて自然と声が高くなる夏子。
「ですね、変に歩き回るよりはの良いと思いますし」
凜も夏子の同様、喉を潤す冷たい感覚を求めるように弾んだ声で頷いた。
「じゃ、行こっか」
「はいっ」
寄り道の目的地を決めた二人は目的の喫茶店がある商店街へ並んで歩き出した。
††††††††††††††††††††††††††
学校を出発してから約三十分が過ぎた頃。歩き慣れた商店街の丁度中間地点で、凜と夏子は目的の場所を見上げていた。
「凜、ここが喫茶『ソリア』よ」
「へぇ、ホントに商店街の真ん中にあったんだ……全然気が付かなかった」
二階建ての外観は黒を基調とした白の水玉模様。出入口を大きな白の水玉が覆い、そこから放射線状に徐々に水玉模様が小さくなっていくシンプルなデザイン。店名を示す看板といったものはなく、控えめに出入口のドアのガラスに小さく『Sorrir』とロゴが描かれてる。
店の名前である『ソリア』はポルトガル語で『微笑む』という意味を持ち、どんなに小さくても笑顔が溢れる店になれば最高だ、と店主が夏子に語った事がある。
ここがオープンしたのは十年前。だが、店主の手入れの玉の物か新築のような綺麗さを保っていた。
夏子は視線を正面に戻すと出入口のドアの取っ手に手を掛け、気に入ったのか外観を黙々と眺めていた凜に声を掛ける。
「凜、いつまでも眺めてないで中には入るわよ」
「あ、はい」
その催促に視線を夏子へと合わせ、慌てて後を付いていく凜。
夏子は凜が駆け寄ってきたのを見計らい、ドアを押し開く。
するとドアに備え付けられていたベルがチリンチリンッ!! と可愛らしい音を響かせた。
店内は天井や壁を木目調で揃え温かい雰囲気を、床は派手でもなければ嫌らしくもない、落ち着いた赤のカーペットが敷かれてている。そんな落ち着いた雰囲気店内を黒塗りのカウンターと九席のバラのような鮮やかな赤革イスがシックに引き締めていた。
出入口の両脇にはカウンター席と同じ赤革の長椅子の相席が五組ずつ並んでおり、
「いらっしゃい」
カウンターの奥から凜達を迎える少ししゃがれた落ち着きのある声が届き、
「こんにちわ、マスター」
「やぁ、夏子ちゃん。いらっしゃい」
出迎えの言葉と共に白のYシャツに藍色のエプロン姿の店主が笑顔で出迎える。
白髪が見え隠れする長い髪を、前髪から襟足までを項で一纏めにした初老の男性――――――『ソリア』店主、井口亮。
今から十年程前、五十九歳の時に勤めていた会社を退職し、その際の退職金で夢だった喫茶店を開業。
夏子の父、冬樹がここの常連で良く夏子を連れ、訪れていた。そのおかげもあって夏子も常連として亮に孫同然と可愛がって貰ってる。
夏子は店内に流れる馴染みのあるピアノのBGMに周りを見回すと、
「あれ? 今日はお客さんが…………」
「あぁ、ご覧の通りだ。夏子ちゃんが今日初めての客だよ」
店内の様子を特に気にした風もなく、白い歯を見せて豪快に笑う亮。
普段の子の時間であれば夏子達学生は勿論の事、お母さん世代のママ友や会社帰りのサラリーマンやOLが小休憩でほとんどの席が埋まってる……のだが、今日はわざとらしい位に客いない。
「お店がこんなに暇なんて珍しいですね」
「まぁ、いつも稼がせてもらってるからな。たまには節約して貰ってもバチはあたらんさ」
普通、自営の人間であれば僅かでも不安かられる状況に、それでもありがたいと感謝の笑みを溢す亮。
「夏子ちゃんこそ珍しいじゃないか、いつもあかりちゃんと一緒に来るのに……今日は一人でのんびりしに来たのかい?」
確かにいつもなら夏子はあかりとの幼馴染みペアで訪れるのだが、
「あかりは部活で遅くなるって言ってたから今日は別の子と来たの」
「別の子? 夏子ちゃんしかいない気がするんだが…………」
と、夏子へ腑に落ちないと首を傾げる亮。
夏子も亮の言葉に――――私の後ろに凜がいるんだけど、と首を傾げそうになってふとある事に気が付いた。
凜は女の自分より背が低く、体も細い。そんな自分の後ろに立つと隠れて見えないのだ。
そのほろ苦い事実に夏子は苦笑いを浮かべ、
「えっと、私の後ろにいるんだけど…………」
いつも身長のことを気にしていた凜が落ち込んでいたらどうしようとい恐る恐る振り返ると。
「お店の中も凄く綺麗……窓の縁とか本棚の隅も綺麗に掃除してある」
夏子の心配など露知らず、亮との会話が聞こえていないのか、店内を見渡しながら小姑発言を溢しながら感心する凜。
その声に亮は凜に気がついた様で、体を横にずらし二人目のお客を視認する。
「あぁ、ホントだ。もう一人来てくれてたみたいだね、いらっしゃい」
「あ、こんにちわ」
亮の声に凜も出迎えに気が付き、お互いに小さくお辞儀をした。
夏子は二人が頭を上げるのを見計らって先に凜の紹介をする。
「この子は萩月凜っていって、学校の一学年下の後輩の子なの」
「どうも、初めまして」
凜は夏子の紹介に合わせて、もう一度小さく会釈。それを合図に今度は凜に亮の紹介をする。
「凜、この人がここの店長で名前は井口亮さん。私はマスターって呼んでるわ」
「『ソリア』の店長をしてる井口だ」
カウンターから出てきて気さくな笑顔で亮は凜へ右手を差し出して、
「よろしくな、凜くん」
「あ、はい。こちらこそ」
人懐っこい笑顔で握手する凜。
二人はしっかり握手すると、どっちからというわけでもなく手を放し。
「さて、今日初のお客様だ。しっかりもてなすとするかね」
「うん、ありがとうマスター。席だけど」
「わかってるよ、左側の一番奥の席だろ」
皆まで言うな、と得意げにウインクを決め、これまた常連さん対応する亮。
「夏子ちゃんはいつもので良いんだろ?」
「うん、お願い」
「はいよ。あとは凜くんだな。お前さんはウチは初めて、だしメニュー表を」
カウンターに置いてあったメニュー表を亮が取ろうとした所で、
「あっ、僕も夏先輩と同じもので」
「ほっ、夏子ちゃんと同じものでいいのかい?」
「はい」
凜の一言に意外と驚きで手を止める亮。
夏子も凜の一言に驚いて思わず確認する。
「ほ、ほんとに私と同じでいいの?」
「はい、大丈夫です。僕はここ初めてなので、常連の夏先輩が好きなモノなら一押しメニューだと思いますし」
その発言に亮はどこか悪戯っ子の様な笑みを見せ、
「わかった。じゃあ、凜くんも夏子ちゃんと同じモノを用意するから座って待っていてくれ」
意気揚々とカウンターの奥へと姿を消した。
二人は亮を見送り、
「じゃあ、マスターが来るまで待ってよっか」
「はい」
夏子ご指定の卓席へと向かう。
父とあかり。この二人のどちらと来ても決まって店内の一番左奥にある席に座っているからか、亮が「夏子ちゃん特別指定席だな」と言っていつも場所をとっていてくれる。
その席は商店街の通りに面してはいるものの席自体は外からは見えず、店内でも反対側には席もトイレもなく、誰からの視線も気にせずゆったり過ごせる特別空間。
そんなお目当ての卓席に辿り着き、夏子が上座、凜は向かい合うように下座に座って一息付いた。
「毎日通ってても三十分も歩くと、ちょっと疲れるね」
「そうですか? 僕はそんなには」
少し疲れ気味の夏子に対し、凜はケロッとした表情で答え。
「二人共、先にアイスコーヒーでもどうぞ」
カウンターの脇からアイスコーヒーを二つお盆に載せ、亮が歩いてきた。
亮は夏子達のテーブルまで来ると静かに、それでいてムダのない動きでコースターから順にアイスコーヒー、ガムシロップにミルクと乱れなく整然と置き並べる。
「他のはまた後で持ってくるよ」
「ありがとう、マスター」
「ありがとうございます、井口さん」
そう言ってカウンターに戻る亮を見やり、二人は目の前に置かれたキンキンッに冷えたアイスコーヒーに手を伸ばし話を続ける。
「ははっ、夏先輩も女の子ですからね。僕と比べてもやっぱり体力的に少し厳しいかもですね」
「当たり前じゃない。凜は男の子なんだから……って、まぁ最近は女の子より体力ない男子も増えたみたいだけどねぇ……」
と、改めてと凜を見やる夏子。
凜は誰がどう見ても小学生にしか見えない幼く華奢な体格をしている。だが……いや、やはりというべきか、凜も男。自分はYシャツの下は僅かに汗が滲んでいるというのに、凜は袖は下ろした状態――――つまり長袖のままで歩いてきたのに汗は滲んでもいない。
そんな凜の涼しげな様子に夏子はYシャツを摘みつつ汗臭くないかと不安になり、
「歩くだけじゃなくて、何か他にも運動してみれば良いじゃないんですか?」
「へっ? あっ、と……そ、そうだね」
何気なく返された凜の言葉に少しだけ反応が遅れた。
「少しずつでも何かスポーツでもすれば体力がつくと思いますけど」
「スポーツかぁ…………あかりみたいに部活とかすれば良いんだろうと思うんだけど」
凜のちょっとしたアドバイスに夏子は胸の前で腕を組んで、困り顔になる。
自分としても体を動かすこと自体は嫌いではないし、部活動にだって興味はある。
中学時代にはあかりに一度だけ「一緒にバレーをしようよっ!!」と誘われたこともあるが…………部活をするとスーパーのタイムセールには間に合わないし、夕ご飯の支度だって遅くなる。それ以外の家事も全部遅い時間に集中しちゃうから、必然的に課題だって最後の方になり負担が増える。
他の皆はその事を話すと家事を当番制で決めたらいいというが、医者さんとして毎日夜遅くまで頑張って働いてる父に家事をやって欲しいというのは酷な話だと思う。
あかりもそれを察してか、勧誘は中学時代の一度きり。
「でも、部活をしちゃうと家事とか大変になっちゃいますよね?」
そんな夏子の心情を察し、似た境遇からの問い掛けに、ちょっと嬉しさに苦笑いが零れる夏子。
「家事の事もあるんだけど……」
「だけど?」
「私としては毎日仕事で疲れて帰ってくるお父さんには家ではゆっくりして欲しいし、温かいご飯を作って笑顔で迎えてあげたいっていうのもある、かな」
話していて最後の方は少しだけ恥ずかしくて、ストローに口をつけて冷たいアイスコーヒーを一口。
「今の冬樹さんが聞いたら嬉し泣きの大泣きですね」
凜は何かを思い出し、小さく笑みを溢す。それからアイスコーヒーをストローでチュルチュルッと一口すすった。
「うれし泣きって……大袈裟よ、凜」
過大評価だと夏子は苦笑いを浮かべ、
「凜だって蘭さんと二人暮らしで家事とかしてるし、蘭さんも嬉しいと思うけど……って今はセフィリア達がいるから四人暮らしなんだね」
凜の家に居候してるセフィリア達の事を思い出した。
「まだセフィリア達が居候してから二日しか経ってないけど、どう? 二人、というかエリスとは仲良くできてる?」
自分のの気まずげな一言に凜の表情が何とも煮え切らないものになり、首を傾げる夏子。
「どうかした? もしかして何かあったの?」
「いえ、別に何かあった訳じゃないんですけど……」
凜は昨日、エリスとのやりとりを夏子へ話そうとして不意に脳裏に浮かんだエリスの姿に言葉が詰まる。
――――――その下らない物を造る為に五年前、自分が何をしたのか話をしなかったか?
自分も同質の感情を抱いたから、抱いているからわかる。あれは怒気など生温いモノではない――――――強烈な殺意。
もしソレが見当違いだったとして暗い感情ある事に間違いはない。それも色で言えば限りなく黒に近いものだ。
たった二日だが、少なくとも冷静然とした彼女があれだけ感情を高ぶらせるのだ。おいそれと話をするわけにはいかない事なのだろう。
凜は夏子に話すべき事を即座に仕分け、
「……昨日、お祖母ちゃんとセフィリアがいきなり遠出しててエリスと二人っきりだったんですよ。もう、気まずいのなんのって」
「ゴホッ!?」
瞬間、思いっきり咳き込む夏子。
アイスコーヒーを凜に向かって吹き出すという恋する乙女にあるまじき燦々たる結果にはならなかったが、思いっきり気管に入りかなり苦しい。
「だ、大丈夫ですか!?」
いきなりの事で驚いたのか、凜が慌てて立ち上がって、
「……ッ、だ、大丈……夫。ちょっと驚いただけだから」
夏子は立ち上がった凜を宥めながら乱れた息を整え、現状において最大級の問題をつつく。
「そ、それよりもエリスと二人きっりって…………蘭さんとセフィリアはどこに出かけたの?」
「それが僕にもわからなくて…………お祖母ちゃんが書き置きを残してはいたんですけど、セフィリアと一緒に出掛けることくらいしか書いてなくて」
「いつ戻るとかっていうのは?」
「それが……書き置きには早ければその日の夕食前、遅ければ数日かかるって曖昧な書き方をしててわからないんです」
凜も目的の見えない遠出に、不安混じりにため息を付き。
「セフィリアと一緒に出掛けてるので多分、また幽霊関係の仕事か何かだとは思うんですけど」
「ねぇ、凜」
凜の言葉に夏子の視線が僅かに尖る。
「――――――また私に内緒で危ない事してない?」
「…………へっ?」
突然の質問に、思わず凜が呆気にとられた。
そんな抜けた凜の表情に夏子は心を落ち着かせるように息を付き、
「私が幽霊だった時。凜、自分が命を狙われてるのに内緒にして私のこと助けようとしてくれてたでしょ。だから、また……なのかなって」
今度は自分の思いを整理して伝える。
その言葉に凜は一瞬、口元が強張るが、夏子を安心させるようにすぐに笑顔を浮かべて見せた。
「それは大丈夫ですよ、夏先輩が心配するようなことにはなってませんから」
凜は手に持っていた汗を掻いたグラスを置いて、夏子を真っ直ぐ見つめる。
「それに今は僕も夏先輩と同じで心配する側の立場だし、あの時とは違ってお祖母ちゃん達も僕をあまり関わらせたくないって感じなので」
「そう、なんだ」
凜の言葉に嘘なんかない。嘘なんかないはずなのに…………どこか心の隅に引っかかりを感じてしい、歯切れの悪い答えを返す夏子。
「でも、どうしていきなりそんなこと聞くんです? 何か気になることでもあったんですか?」
「えっと、ね」
今度は凜が夏子を心配しだし、夏子は心の引っかかりを押し込んで答えた。
「その、凜がさ。最近、元気ないなぁって思ってて…………それで気になったというか」
「僕がですか?」
「うん、何か悩み事でもあるんじゃないかなって」
夏子はストローでアイスコーヒーに浮かぶ氷を混ぜながら凜の顔色を伺い、
「特に悩み事なんてないですよ? 強いて言えば…………まぁ、身長くらいで」
背が伸びない事への悔しさと、それを女の子に話す恥ずかしさから逃げるようにアイスコーヒーを吸い上げる凜。
そんないつも通りの凜に夏子は小さく笑って、
「はいよ、お待ちどうさんっ!!」
勢いのある声と鼻を刺激する刺激的な香りに横脇へ顔を向けた。
「夏子ちゃん限定メニューの極盛りカツカレー二人前だ!!」
「待ってましたっ!!」
亮の両手には一メートル級の大皿に豪快に盛りつけられたカツカレーが。
「いっ!?」
誇らしげな亮と笑顔満点の夏子を見ていた凜は短く悲鳴を溢し、驚愕に目を丸くする
「ライス三キロ、ルー三キロ、カツは四キロ!! 合計十キロの極盛りカツカレーだ。制限時間は一時間、喰いきれなかったら罰金一万円だぜ」
意気揚々とテーブルに怪物級カツカレーを溢さないように慎重に置く亮。
目の前に置かれたカツカレーにはしたないとわかっていてもキューーーーッ!! と腹の虫を鳴らしてしまう夏子。
「いつも通り、美味しそうな香り」
「こ、こんなにたくさん……食べれるんですか? 夏先輩」
「もちろん!!」
「えっと、夕飯は……」
「大丈夫、夕飯もちゃんと作って食べるからっ!!」
空腹全開の夏子に対し、既に満腹感溢れる凜へスラスラと答える夏子。
「まぁ、凜くんは初めてだしメニュー内容も教えなかったからな……今日は特別に二人共時間は無制限で罰金は免除にしてやるよ」
亮は凜の様子に何か察したように小さな肩をぽんぽん軽く叩き、
「あ、ありがとう……ございます」
「ありがとね、マスター!!」
苦渋と歓喜。二つのお礼がスッと店内に響く。
「じゃ、お二人さんごゆっくり」
そう言って亮はさっとカウンターに戻り、夏子はザッとスプーンを手にとって掌を合わせる。
「いっただっきまーすっ!!」
「い、いただきます」
凜もどこか遠慮だったがお行儀よく挨拶をし、夏子はチラリと壁に掛かっていた時計を確認する。
現在の時刻は――――午後五時。
いつものペースでいけば三十分くらいで食べ終わる。その後は少し休んだ後に解散すれば夕飯の支度には余裕で間に合う計算。
「いざっ!!」
夏子は大好物のカツカレーにスプーンをざっと突き立て、戦闘開始。
全力でカツカレーと戦うの夏子を凜が口元を引き攣らせながら眺め、
「な、夏先輩が大食いなの忘れてた…………」
今に倒れてしまいそうなか細い声を上げる。
それから三十分後。予定通り完食した夏子だったが…………凜が完食したのは閉店ギリギリの午後七時だった。
††††††††††††††††††††††††††
「フゥッ」
夏子はお風呂上がりで火照った体の熱を吐き出すように大きく息を吐いて、バスタオルで濡れた髪の毛を拭く。
凜と『ソリア』で別れてから二時間。時間は夜の九時を少し回ったところ。
夏子は『ソリア』での凜とのやりとりを思い出しながらリビングへ。
「凜、大丈夫かな?」
自分が特製カツカレーを食べ終わった時には凜は三分の一程度食べ進めていたが、真っ青な顔で脂汗まで垂らしていた。
そんな凜の様子に不安が過ぎらないわけはなく「――――――私も手伝おっか?」と助け船を出した。
が、男の意地なのか。はたまた注文した者の責任なのか「頼んだのは僕なのでちゃんと全部食べます」と、真っ青な顔できっぱり断られた。
全部食べ終わった頃には凄く辛そうで、帰りも送って行こうかと提案してみたが逆に遅くなったから送って行きます、と言われて嬉しかったがさすがに断った。
「まぁ、エリスもいるし大丈夫………………よね?」
夏子は自分の言葉に何故か不安が募り、後で電話してみようと思った。
夏子が『ソリア』で凜を見送った後、帰る時間が遅くなって慌てて帰宅。家に着いたのは八時より少し前で、家の灯りはまだついていなかった。
冬樹がまだ帰ってきてなかったことに安心するのと同時に、大急ぎで晩ご飯の準備をしようとして家の中に入った時。見計らったようなタイミングで家の電話が鳴った。
出てみると電話は冬樹からで「急患で今日は病院に泊まる」との事だった。
大急ぎで夕飯を準備しようとしていた身としては肩すかしを食らった気分だったが、少しだけラッキーとも思った。
それからは自分一人でご飯を食べても楽しくないし、何より凜を待ってる間にデザートも沢山摘み、カロリーオーバーは確実。幾分、食べたりない気もするが、自分の脳内会議で食事からバスタイムへと予定を変更し、一時間程のんびり入浴してして今に至る。
夏子はバスタオルを首に掛け、台所横にある冷蔵庫を開けて牛乳パックを取り出し、静かに冷蔵庫のドアを閉めた。
「これ飲んだら凜に電話でもしてみようかな」
テーブルの上に置いてあったスマホを見ながら、ほんのりお風呂の火照りとは違う熱にほっぺたが熱くなる夏子。
――――――実は凜の電話番号は知っていても一度も掛けたことがない。
あかりを含めた同級生達とは学校の事とかプライベートで愚痴話とか色々話したりする事があるが……凜は学年も違えば性別も違ってあまり電話を掛ける機会が無かった。
まぁ、それ以外で一番の理由としては…………ただただ恥ずかしいという気恥ずかしさから掛けられ無かっただけなのだが。
あかりにこの話をしたりすると「恥ずかしくて電話できないって、どこの純情小学生かっ!!」と、ツッコまれたこともあったが「その、ただ声が聞きたかっただけ」って、恋人っぽい事を言えるわけもなく。
「き、今日はほらっ!! 凜、ご飯食べ過ぎて辛そうだったし、迷惑かけちゃったし、誘ったのは私だし、気遣いの電話をするのは当然だと思うし」
自分以外誰もいないの我が家でどこか言い訳みたいな理由を並び立て、完璧な建前を言い聞かせ心を落ち着かせる為に大きく深呼吸をする夏子。
「…………………」
そこから夏子は無言でどばっ!! とコップに牛乳をなみなみとつぎ、一気に飲み下す。
飲み終わったと同時に牛乳パックとコップをテーブルに叩き付け、すぐ脇にあるスマホを睨み付ける。
「……………………」
それから数秒。脳内で電話する事への迷いと、掛けたいという乙女的欲求が激しくぶつかり合い、
「……………………ッ!!」
欲求が迷いを殴り飛ばし、夏子は意を決してスマホを手に取った。
――――――ピンポーンッ!!
ところでリビングにあったインターホンが野次馬のように騒ぎ鳴る。
夏子はその音にビクッと肩を震わせ、
「だ、誰!? こんな大事な時に!!」
僅かばかり邪魔された苛立ちをぶつける様にインターホンを睨んだ。
「あ、あれ?」
するとインターホンの画面に映し出されていたのは肩まで伸びた茶髪姿の女性。そして自分のよく知っている人で、
「蛍おばさん」
あかりの母だった。
あかりの家はすぐ近くで、歩いて一、二分くらいの所にあるのだが…………。
「なんでこんな時間に?」
画面に映る蛍の切羽詰まった表情に、何かただ事ではないと夏子はインターホンには出ず、直接玄関へ。
ドアのロックを外して、蛍にぶつからないように半分だけ開けて体を出した。
「蛍おばさん、こんな時間にどうしたんですか?」
「あっ、なっちゃん!! ごめんね、こんな夜遅くに」
蛍は焦りや不安に押し潰されてしまいそうな顔で、声も今にも崩れてしまいそうなほど震えていた。
「ウチのあかりがお邪魔してない、かしら?」
「え? あかりは来てませんけど…………」
「そんな、なっちゃんの所にもいないなんて…………」
「――――――えっ?」
蛍の言葉に夏子の中でどんどん嫌な予感めいたものが急激に膨れ上がり。
「あかり、家に帰ってきてないんですか?」
その言葉を引き金に、青ざめた顔で蛍が口を告げる。
「バレー部の先生から連絡があってね―――――――――」
震える声で響いた蛍の言葉が、夏子の中で取り戻した日常を砕く音がした。