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境界世界のブリガンテ  作者: りくつきあまね
エリス=ベェルフェール
17/36

――― 不穏予兆 ―――

 湯気発つ鍋から油揚げをすくい取り、流しに置いてあったザルへ移す凜。

「………………」

 油揚げを移し終えると鍋のお湯を水と入れ替え、その鍋をまた火にかける。

「えっと、小松菜は……」

 萩月家の台所を約十年あまり支えてきた現役の冷蔵庫の中段部を開き、野菜室をあさりながら目的のものを探す。

 現在の時刻は午後六時十五分、帰宅と同時に制服から普段着のパーカーとズボンに着替え、その上には青のエプロンと、台所スタイルへとチェンジ。少々作業位置の高いキッチンがいつもの対戦相手だ。

「小松菜、小松菜はっと…………あった!!」

 発見の喜びと共に二束の小松菜を取り出し、ドアを閉める。

 そのまま袋から取り出し、水洗いの為にキッチンへと戻る。

「…………………」

 ザッと水洗いを終えた小松菜をまな板に横置きにし、

「……………………」

小松菜をザクザクッ!! と軽快な音を刻みながら一口サイズに切り分けていく。

「………………………………」

「…………っ」

 小松菜を切り終えたところで、凜は背中に感じる視線に手が止まり、

「え、えっと…………な、何かな?」

 テーブルに両腕を置き、背筋を伸ばし淡々と自分を見つめるエリスへ振り返った。

「別段、意図はない。ただ貴様が私の視界に入っているだけだ」

「そ、そう……」

 素っ気ないエリスの答えに凜は口元を引き攣らせながら笑い、エリスから逃げるように切った小松菜を手近にあったボウルに入れる。

「……………………」

 粛々と背中に感じるエリスの視線、妙な重さを有した気まずい空気に、今家にいない二人の姿を縋るように思い浮かべ。


 ――――――二人共、早く帰ってきてくれないかな?


 祈りにも煮た願望を抱きつつ、夕飯の買い出しを終えたの特の事を逃避するように思い浮かべた。


   §§§§§§§§§§§§


「あれ?」

 凜は玄関のドアノブを回そうとして動かないドアノブに目を丸くし、

「鍵掛かってる……お祖母ちゃん、どっか出掛けたのか」

手を放してつつ家の鍵を鞄から取り出そうと、鞄と買い物を片腕で持ち直す。

 それから鞄を開き、脇の小物入れを探り、

「鍵、鍵っと…………あった」

そこからお目当ての家の鍵を取り出す。

 年月の積み重ねにより所々色が変わった鍵を鍵穴に差し込み、解錠。その後は鍵を鞄にしまって家の中へ。

「さて、先に冷蔵庫に生物とか入れないと」

 靴を脱ぎ、足早にリビングへ向かう凜。

「ん?」

 リビングにはいるとテーブルの中央に置かれた二つに折りたたまれた白い紙が目に映り、

「書き置きかな?」

鞄と買い物袋をテーブルに置き、代わりに書き置きを手にとり開いてみた。

「えっと…………」

 凜は見慣れた達筆な字で書かれた文面を左眼で追い、

「……………………」

読み終えたところで疲労感に眉を寄せ瞼を閉じた。

 凜は書かれていた文面に疲れているのかもしれないと苦笑し、一呼吸後に瞼を開けもう一度書いてあった文を読み直してみる。

 左眼で一文字一文字丁寧に頭の中で並べて、出来上がったのは―――――――――。



 おっす!! オラ、萩月ら―――――――――グシャッ!!



 ふざけた文面に思わず全力で両手で挟み潰し、書き置きをクシャクシャに握りつぶした凜。

 蘭の悪ふざけ全開で書かれた文はそっと心の中にしまい、凜は落胆に俯きそうになる顔を手で押さえ覆った。

 蘭の残していった書き置き。それを余計なモノを削ぎ、事務的に整理するとこんな内容だった。

 蘭とセフィリアの二人はどうやら一緒に出掛けたらしい。行き先は書かれてはおらず、帰ってくるのは早くて今日の晩。遅ければ数日かかるとの事だった。

「理由も行き先も書いてない上に、早いのと遅いので差がありすぎなんだけど…………」

 凜は書き置きに文句を尽きつつ、三度目のため息を付いた。

「晩ご飯前に帰ってきてくれなかったらエリスと二人っきり…………って事だよね?」

 自分の置かれた状況を確認する様に呟き、

「二人っきり…………っ」

その言葉に凜の心臓が異様な昂ぶりに跳ね上がる。

「エリスと…………二人っきり」

 そして体の奥から徐々に沸き上がってくる緊張感に。




「………………お祖母ちゃん達、早く帰ってこないかな」




 キリキリと痛む胃を抑えながら、祈るように呟いた。


   §§§§§§§§§§§§


 そこまで思い出して、

「………………」

「………………っ」

背中に感じるエリスの視線に逃げた過去から引き戻される凜。

 その視線はまるで萩月凜という人間を品定めするかのような……姑が嫁の不手際をチェックしている、そんな妙なイメージがある。

 視線といえば自分の右眼はいつも霊体や『死神』の接近に際し痛みを伴うのだが、昨日セフィリア達が同居するのが決まった所で、蘭が右眼が痛むのように術を施してくれた。

 おかげで右眼が痛むことなく、霊体や『死神』といった霊的存在が近くにいても通常運転で日常を過ごせている。

 話は戻るが普通、年頃の女子。それもとびきりの美少女と一つ屋根の下という状況は男として胸を色めきに高鳴らせるものなのだろうが…………エリスと二人きりというこの状況は正直、凜にとっては右眼が痛む方がマシだったと思える程の修羅場。

 勿論、凜自身がエリスを嫌ってるわけではなく個人としてはセフィリアの妹でもあるし、町の為に来てくれた事にとても感謝している。そう言った理由抜きにしても、友好的な関係を築きたいと思っている、が。

「………………」

「………………」

 いくら凜が仲良くしたいと思っていても、相手がそれを望んでいない上に、妙な距離の取り方をされている今の状態では良い関係を築くのは難しいだろう。そもそも凜とエリスだけで話をした事もなければ、セフィリアや蘭が間に入っても話として成立した場面がない。

「……………………」

「………………うぅっ」

 凜は同居人の理解しがたい視線に耐えながら、お湯が沸くまでの間にもう一品準備をしようと、小松菜とは別のボウルに入れてあった鶏肉にフォークで穴を開け、塩とこしょうをまぶす。

 それからだし粉を溶いて作っただし汁を入れて、鶏肉を揉み込もうとして。

「すまない」

 すぐ後ろからエリスの落ち着き払った声が聞こえて、

「っ!?」

凜は驚愕に体を震わせ、慌てて振り返った。

 すると、いつの間にかエリスが感情を読み取れない無機質な表情で凜を見下ろしていた。

「な、なに……かな?」

 驚きに裏返りそうになる声でエリスに問い掛け、凜の問い掛けにどこかぎこちない口調で答えるエリス。

「その、なんだ…………何か手伝う事はないか?」

「えっ?」

 思いがけない答えに凜は目を丸くし、その様子に照れているのか顔を逸らすエリス。

「手伝うって…………」

「調理の事だ。今、貴方は夕食の準備をしているのだろう」

「う、うん。そうだけど…………」

 エリスの意外過ぎる提案に驚きが抜けていない凜は呆気にとられながらエリスを眺めて、黒一色の制服姿にそう言えばと思い出した。

「仕事で町中飛び回って疲れたでしょ? ご飯の支度はいつもしてるから一人でも大丈夫。だから、エリスは――――――」

 ――――――ゆっくりしてて、と続けようとして。

「町の巡回と魔力調整程度ではそこまで疲れはしないさ。余計な気遣いは必要ない」

 事務的。そう、昨今の入社したての後輩を仕事終わりに労おうと歩み寄った先輩社員に対して――――――あっ、早く帰りたいんでいいです。みたいな淡泊な返し。

「そ、そう…………」

 凜はあまりにも薄い返しに上手く言葉を返せず、

「一先ず、手伝おう。エプロンはどこにあるんだ?」

そんなちっこい同居人の様子など露知らず、エプロンを探すエリス。

 台所を見渡すエリスに凜は気を取り直すように咳払いし、

「エ、エプロンはここだよ」

と、食器が入った棚の中段部。三つある引き出しの内、一番左の引き出しを開いた。

 底から顔を見せたのは綺麗に折りたたまれた数組のエプロン。

「エプロンの柄は何でも良い?」

「あぁ」

「じゃあ、女の子だし……」

 凜は何枚かあるエプロンの柄を探りながら、

「これなんてどうかな?」

個人的には一番気に入ってるエプロンをエリスに差し出した。

「これは……」

「可愛いでしょ?」

 凜が差し出した黄色地に真っ白い子犬がたくさんプリントされたエプロン。

 そのデザインに心が動いたのか、表情には出なかったが美しい碧眼を輝かせ、食い入る様に見つめる。

 ちなみにプリントされてるのは超大型犬の一種でグレートピレニーズの子犬。真っ白でふわふわな毛並みが一番の特徴で、子犬もふわふわ、大人になってもふわふわ。いつか一人暮らしする機会があれば家族に迎えたいと思っている今この頃の凜。

「僕のお気に入り。サイズは心配しないで大丈夫。僕が着ると結構大きいサイズだから、多分ピッタリだと思う」

「わ、わかった」

 凜の言葉に我に返ったのか、エリスはキリリッと目を吊り上げエプロンを受け取った。

 子犬でキュンキュンした心を落ち着けようとしたのか、小さく息を付きエプロンを身につけるエリス。

 腰の後ろでキュッと腰紐を締め、

「今日のメニューはなんだ? 今あるものを見る限り、肉がメインのようだが」

調理がストップしている台所を見やり問い掛ける。

「今日のメニューは鶏の照り焼きがメインで他には小松菜と油揚げの煮びたし、カボチャの煮物にきのこの炊き込みご飯。それに豆腐と葱のお味噌汁を作ろうと思ってるんだ」

「四品か」

「うん、あとはデザートに買ってきたアイスかな」

「ふむ…………」


 和食中心のメニューに、女子には女子特有の別腹アイス。凜の考えた献立を頭の中で想像しているのか、エリスは食べてもいないのに厳しく吟味するように黙り込む。

 先程とは違う真剣味を帯びたエリスの姿に喉が引き攣りそうになって、

「ど、どうかな……?」

「問題ないだろう。あとは姉様達が帰ってくる前に作り終えられればいいが……」

「えっといつも晩ご飯は七時半頃だから、きっとその頃に帰ってくるとは思うんだけど……あと一時間と十分。ちょっとギリギリかな」

「ならば早速取りかかるとしよう。それで? 私は何から手をつけたらいいのだ?」

エリスは制服の袖を捲り、準備完了と凜の隣に立つ。

「じゃあ、お味噌汁お願いしようかな?」

 その言葉通り、凜は味噌汁用の鍋を台所の下の引き出しから取り出し、

「お湯を沸かす間に豆腐と葱を切って貰って良い? どっちも冷蔵庫に入ってるから、僕はその間に鶏の照り焼きと小松菜と油揚げの煮出しを先に作っちゃうね」

「了解した」

鍋をエリスに手渡すと、それを合図に二人はそれぞれの行動を開始する。

 凜は途中だった鶏肉の下準備を再開して、エリスは鍋をさっと水洗いして水を溜める。

 作業音だけの空間のなんとも言えぬ重圧。それを紛らわせたい凜は、エリスとのコミュニケーションを計り、わずかでも関係改善もしくは現状の打破に努めたい所存。

 そんな決意を胸に凜は怖々と横目でエリスの様子を伺い、

「エリス、も……家でご飯とか作ったり、手伝いとかするの?」

「あぁ、幼い頃から母様に『料理は女の嗜み』と言われていたからな。ある程度の物は作れる」

まるで凜の決死の一歩を杞憂だというように、あっさりと言葉を返すエリス。

「へぇ、そうなんだ」

 その自然な返しに一瞬驚きに目を丸くするが、微笑ましい話題に口元を小さく綻ばせる凜。

「調理もそうだが家事全般、母から教わった。いつか自立する時に必要になるだろうと、少しずつ積み重ねるようにな」

「いいね、そういうの。お母さんから教わりながらご飯とか作るの楽しそうだね」

 どこか懐かしむように、どこか嬉しそうに話すエリスに凜はその光景を想像して。

「ん? 貴方とて母親から調理の術を学んだので……っ!?」

 エリスが不思議そうに首を傾げかけて、自分の言葉に何を思いだしたように慌てて口を閉じた。

「ど、どうしたの?」

「いや、その…………すまない、少しばかり配慮が足りなかった」

「は、配慮って?」

 申し訳なさそうに顔を俯けるエリスの言葉の意味がわからず、凜は思わず首を傾げた。

「その、姉様や蘭様から話は聞いていたのだが……失念していた」

「お祖母ちゃん達から聞いたって……何を?」

「貴方の…………母親の事だ」

「あぁ、母さんの事か」

 そこまで言われてやっと合点がいった凜。

「その、気分を害する事を口にした……すま」

「良いよ別に。十年も前の話だしね」

「だが」

「辛気くさい話はおしまい!! はやくご飯の準備をしないとお祖母ちゃん達が帰ってくるよ」

 納得がいかないと声を上げるエリスだったが、

「あ、あぁ…………」

凜の不自然な明るい笑みにエリスは納得できていないような様子ではあったが、我を噛み殺すように告げる。

 先程とは違う意味で硬い空気にやりとりに二人は調理に戻り、凜は鶏肉の下準備。エリスは水を溜めた鍋を火に掛けて、冷蔵庫へ向かう。

「…………」

 凜はエリスに気付かれないように横目で眺め――――――やっぱり姉妹だな、と小さく笑みを溢した。

 少し、かな? 喋り方は厳しいけど、優しいところはセフィリアと同じか。

 と、セフィリアと共に夏子の『未練』探しの為に訪れた商店街での出来事を思い出した。

 セフィリアと二人で商店街に行った時も今のように、【神】という絶対的な存在でありながら、取るに足らないものであろう人間の痛みに寄り添う――――そんな思いも寄らなかった温かな一面は今でも衝撃的だ。

 別に意識をしていたわけではなかったが、母の話題を出してしまった時のエリスの表情は……まるで自分の事の様に悲哀を滲ませ、心から痛みを共有しようとしてくれていた。

 根はすごく優しい子なんだな、と凜の中でトゲトゲしかったエリスのイメージが崩れた時だった。

「その話は変わるのだが、貴方に一つ聞きたい事があるのだが……良いだろうか?」

 不意に弱々しく紡がれたエリス声に凜はハッとなり、

「な、なにかな?」

盗み見が気に障ったのかと強張った笑みを浮かべ振り返った凜。が、振り返り左眼に映ったエリスの姿に笑みが消える。

 凜の瞳に映ったエリスは――――――【神】というにはあまりにも弱々しいく、哀しみに押し潰されてしまいそうな一人の少女の様だった。

「貴方はジュマ=フーリスと戦い、勝利した」

「……う、うん」

「その際、あの男は何か言っていたか?」

「何かって…………【事象隷属経典アポカリプス】の事?」

「あぁ、それにも関係している事でもあるが……」

 そこで一度会話が途切れ、哀愁を纏って筈の少女から放たれるのは――――――肌を焦がすと錯覚させる程の熱。

 それはある感情・・・・を明確に感じさせる程の圧迫感を連れ立ち、エリスは冷蔵庫から凜へと視線を移し――――――ただ静かに問う。

「その下らない物を造る為に五年前・・・、自分が何をしたのか――――――話をしなかったか?」

 その問いの終わりに合わせ、威圧感に抗うように唾を飲み込む凜。

「う、ううん。【事象隷属経典アポカリプス】の能力の事とか、僕を殺すのに手間が掛かったって愚痴ってたくらい、かな」

「…………それだけか?」

「うん。僕が【事象隷属経典アポカリプス】にされてた時、もしかしたらセフィリアと話してたかもしれないけど…………少なくとも僕は聞いてないよ」

「そう、か……なら良い」

 失望――――――とは違う感情の終息。先程まで溢れ出していた熱は虚ろな悲しみへと沈み、

「エリス……?」

起伏の激しい感情の変化に不安になり、声を掛けようとした凜。だが、これ以上先は禁句タブーに触れてしまう――――――そんな確信があった。

 それから数秒。圧力も、熱も、時間さえも希薄に感じられる虚ろな沈黙が場を支配し、

「…………この話は忘れてくれ」

その沈黙を仕切り直すようにエリスが消え入りそうな声で告げ、凜はただ無言で頷き返す。

 それから話を逸らすようにエリスが冷蔵庫を開け、

「すまないな、要らぬ話で時間を取らせた。さて、夕食の支度に戻ろう」

「う、うん…………」

凜も空気を変えようと下準備に戻ろうとした時だった。

「――――――っ!!」

 突然、エリスが弾かれたように勢い良く凜へと視線を向け、

「な、何っ……?」

その行動におっかなびっくりと首を窄める凜。

 凜の問いに一瞬、迷いのような感情を瞳に灯し、すぐ様冷淡な光へと塗り替える。

「……すまない。支度の手伝いをするといったのだが、急用が出来た」

「急用って?」

「任務だ。どうやら町の南側で魔力の流れが強く乱れたようだ」

「えっ、それってかなり不味いんじゃっ!?」

「いや、それは大丈夫だ。今すぐに調整すれば現世への影響は無いからな」

 エリスは開けた冷蔵庫を静かに閉じ、エプロンの紐を解く。

「ただ魔力の調整は時間が掛かる。恐らく早くとも明日の朝までは戻らないだろうから、私の分を抜いた夕飯の支度と姉様達が帰ってきた際の状況説明を頼む」

 申し訳なさに眉を寄せつつ綺麗に折り畳んだエプロンを椅子へ掛け、

「うん、わかったよ。あぁ、それと任務が思ったより早く終わるかもしれないし、その時は夕飯ちゃんと準備しておくから温めて食べね」

と、捲り上げた袖を正すエリスに蘭へ――――家族へ向ける様に温かな笑みで告げる凜。

 そんな凜の微笑みにエリスが想定外と目を見開き、

「ありがとう、気遣い痛み入る」

一瞬後、感謝を滲ませた笑みを返す。

 それからエリスは踵を返し、リビングを出る。

「あっ、見送り」

「いや、ここでいい。貴方は夕食の支度を再開してくれ、予定していた時間も迫っているしな」

 エリスは後ろに付いて来ようとした凜をピシャリと止め、

「そ、そう? なら良いんだけど……」

エリスの指摘通り、凜が壁に掛けてあった時計を見やると時間はいつの間にか三十分程経過。予定ではあと三十分程で作り終えなければならない状況だった。

「何も起こらないとは思うが、前例もある。一応、【空絶くうぜつ】を展開しておく」

「うん、ありがとう」

「気にするな。ではな」

 と、これ以上の会話を遮るようにエリスは玄関へと向かい、やはり見送りくらいはと続く凜だったが。


 ――――――バタンッ!!


 と、玄関のドアが閉じる乾いた音が響いた。

「はやっ」

 同居人の早業の如く外出に、見送りできなかった事へ僅かな寂しさを感じつつリビングへ戻る凜。

 それから神妙な面持ちで腕を組み、先程の情緒不安定にも見えたエリスの様子が頭の中に思い浮かび、

「………五年前、か。アイツと【事象隷属経典アポカリプス】が関わってるなら間違いなく悪い事が起きたんだろうけど」

実体験からの不快と不安が胸を満たし、溜息混じりに呟いた。

「…………もう、何も起こらなければ良いけど」




††††††††††††††††††††††††††




 ――――――午後六時四十四分。


 日は陰り、空は暗い紅へと染まりはじめ、それをいくつかの小さな星々と三日月が静かに照らす。

 その夕闇の下、学内――――――紫苑高校の敷地内では微かに届く街の喧噪とそれを飲み込まんと活気に満ち溢れた溢れた生徒達の声が軽快に飛び交っていた。

 校内においては委員会活動や吹奏楽や家庭、空手といった屋内部が。校庭では部活動事に割り振られたスペースで野球部やテニス部といった屋外部が汗を流し、青春の一ページを謳歌していた。

「ほら、さーちゃん先生。早くしないと下校時間までに間に合いませんよ」

 そんな青春溢れる情景の中、活気に満ちつつも、どこか呆れの色が聞き取れる声が廊下に響く。

校内二階、その廊下を並び歩く二つの人影が。

「ごめんねぇ、香夜ちゃん。明日の保護者会で使う資料だったかどうしても準備しないといけなくて」

「もう、明日使う資料なら前もって準備しておいてくださいよぉ」

 背中まで伸びた長い黒髪は夕日に照らされたせいか赤みがかって見え、少しだけつり上がった瞳が活発的なイメージを受ける制服に身を包んだ少女――――――二年三組、箕島香夜がジトッとした目つきで隣を歩く女性を見やる。

「ははっ、申し訳ない。部活動の事で頭がいっぱいですっかり忘れてた」

 謝罪半分感謝半分といった苦笑を浮かべる女性、名前は浪岡佐枝なみおかさえ。凜や香夜のクラス担任で愛称はさえちゃん先生やさーちゃんといったフランクな物が多く、華の二十五歳の独身。本来の事象記録であれば一年の頃からの凜達のクラス担任であったが、現在は香夜達の馴染みのある教師だ。教科は数学担当。それ以外にも若いながら生徒指導部の主任顧問だったりもする。

 ほんのりクセのある長い茶髪の髪を襟の辺りでゴムで纏め、目はいつ開いているのかわからない程細い。ただ、そのおかげなのか優しい顔つきは男女問わず好印象を与えている。

 授業は的確かつわかりやすい数学の話が六割、生徒とのコミニュケーション目的の面白トークが四割。その比率が功をそうしたかはわからないけど、少なくとも全学年通して支持率はかなり高い。

 まぁ、それ以外にも優等生だろうが問題児であろうが分け隔てなく面倒見たり、おっとりした見た目とは裏腹に空手五段、合気道七段。そしてその実力を携えて空手部の顧問もする熱血肉体派なギャップが面白いって人気を一役買っていたりするハイスペック教師だ。

「まぁ、三年生には最後の大会ですから熱が入るのもわかりますけど…………何か忘れてる度に付き合わせられる私の立場も考えてくださいよ」

「ほんとにごめんね、どうも一つの事に集中しちゃうと他の事が疎かになっちゃって」

 教師活動や部活動ではちゃんと教師らしい姿を見せてる佐枝ではあったが、先の発言通り一つの事に集中すると他の事がすっぽり抜け落ちる癖というか難点があり、その度に学級委員長の香夜がヘルプに駆り出されているる。

 そんなほんわか天然教師は香夜のご機嫌取りに人懐っこい笑みを浮かべ、

「いやぁ、でも香夜ちゃんのおかげで何とか明日の保護者会は乗り切れそう」

「手伝ったんですからそうなって貰わないと困るんですけど……」

「はは、ごもっともです」

「まぁ、いつもの事だから良いですけど」

長年の相棒の様に呆れ混じりのため息を付く。

「すっかり遅くなっちゃったし、帰りは車で送るわね。それとお礼に帰りに夕食奢ってあげる」

 頼もしい教え子からの口に信頼を得る為、姑息ではあるが社会人賭しての力――――――財布の紐を緩め、活路を見出す佐枝。

「ラッキッー!! さっすがさーちゃん先生、話がわかってる!!」

 瞬間、呆れ顔から一転。尊敬に似て非なる感情に目を輝かせる香夜の喜び様に「現金だなぁ」と思いつつも、やはり頼もしいと言っても年頃の女の子なのだと、心の中で少々教師面してみる。

「あっ、でもお家でお母さんがご飯とか準備してくれてるでしょ?」

 と、佐枝は家庭の都合というものを思い出し、

「あぁ、それは大丈夫です。さーちゃん先生からヘルプ来た時、遅くなると思ってご飯は買い食いするからって母に電話しましたから」

「はは、さすがは学級委員長。そこまで想定済みですか」

「当然ですよ、一年の頃から何十回と付き合わされてますからね」

「あはは、長いことお世話になってます」

「いえいえ、こちらこそお世話させていただいてます」

可愛い生徒とじゃれ合うように言葉を交わす。

「あとはこの資料を生徒指導室に持っていって、冊数と欠損の確認ですよね?」

 香夜は作業の目途を確認しようと両腕で抱えている重たい資料の冊子が入っに段ボール箱に視線を向け、

「えぇ、そうよ。多分、下校時間ギリギリになるだろうから当直の先生に一応声を掛けていかないとね」

「そうですね、あまりダラダラしてると当直の先生も心配しますし」

気合いを入れ直すように段ボール箱を持ち直した時だった。


 ――――――バチッ!!


 と、廊下の蛍光灯が短い音を発て、学校全体が暗闇に染まった。

「なっ、なに!?」

「て、停電!?」

 真っ暗になった廊下で、香夜と佐枝の慌てた声が響き。


 ――――――バチッ!!


 と、再び音を発て、香夜達の声に答えるように蛍光灯が光を灯した。

 ほんの一瞬の停電に香夜がホッと胸を撫で下ろし、

「――――――えっ?」

酷く間の抜けた、それでいてどこまでも冷えた佐枝の声が響いた。

 香夜が佐枝の異様な声に気づいた時――――――二人の背筋に獰猛的な悪寒が奔った。

「…………な、何これ?」

「な、なんで………?」

 静寂を讃えていた星々の光は一欠片も残らず消え、聞き慣れた街の喧噪も、先程まで響いていた生徒達の声も――――――全てが怪異・・に塗りつぶされた情景。

 背筋に奔った悪寒は全身を余すことなく嬲り、二人の声は得体の知れない恐怖に否応なく震える。

 そして二人が自分達が置かれた状況を理解する間も無く、

「――――――いらっしゃい」

背後から届いた命が乾ききった様な冷淡な声に、全身からドッと汗が噴き出す。




「――――――まずは二つ」




 驚愕と恐怖。その二つに身動き出来ず大きく見開かれた二人の瞳に映っていた最後の光景は――――――命を否定する紅と黒。

誤字脱字ありましたら、ご指摘頂ければ幸いです。

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