――― 残滓 ―――
壁に掛けらた時計が刻む時刻は午後五時。
「ふぅっ…………やっぱり、リンが煎れてくれたお茶飲むと落ち着くわね」
馴染み始めた平穏を声音にのせ、それを反響させるようにトンッと湯飲みを置くセフィリア。
「そ、そう? 前にもそんなこと言ってたけど…………」
「…………うん、セフィリアの言う通り。なんだかほっとする味ね」
緑茶の香りと味。そして煎れ手のささやかなもてなしを汲むように夏子がポツリと呟く。
綻んだ二人の笑顔に僅かだが頬を赤らめ、どこか嬉しそうに頬を掻く凜。
「別に特別な煎れ方なんてしてないんですけどね……茶葉が良い物だとか?」
「いんや、恥ずかしい話じゃがどこにでも売っとる市販品じゃな。まぁ、何の変哲もない『粗茶』じゃ」
凜よりも一音高い声が和室に響き、
「茶の味は茶葉の質が大半を占めるがの、煎れる際の湯の温度に蒸らしの時間。湯飲みの温度に注ぐ際の順序と色んな要因があるが…………茶には煎れた人間の心が染み出るでな」
経験と歳月。その二つを重ねた言葉に着物姿の幼女へと凜達の視線が集まる。
「お祖母ちゃん。それ、大袈裟すぎない?」
「何言ってんのよ、凜。ランさんの言う通りよ」
「さすが蘭さん、言葉に重みがありますね」
着物幼女改め老女の名は萩月蘭――――――凜の祖母だ。
「まぁ、言い過ぎかどうかはわからんが相手の事を思って煎れた茶でなければどんな茶葉を使っても心が和ぐ味にはなりゃせんよ」
静かに目を閉じ茶を一口。そして二人と同じようにほっこりと息をついた。
「さて、ひとまず茶の話は置いといてじゃ……セフィリアの話でも聞こうかの」
そう言って蘭は場の空気を変えるように目を開き、セフィリアへ視線を移す。
「セフィリアは僕と……」
凜も蘭に続きセフィリアへ視線を移し、
「…………………」
感情の読めない視線と無機質な無言の重圧がのし掛かる。
「夏先輩に話があって…………」
重圧に潰されるように声がすぼまり、自身へ圧を掛けるエリスへと恐る恐る視線を向ける凜。
神秘的に煌めく金髪に白雪の如き無垢な肌。澄み渡った青空を思わせる碧い瞳と涼しげに通る鼻梁、瑞々しい桜色の唇。それらが整然と納められた顔立ちは幼さが残るものの理知的で揺るぎない強い意志を感じさせる。
となりに座るセフィリアと並べての遜色ない美貌は、さすがは姉妹と感心させられる。
が、好意的な姉と無味な威圧感を放つ妹と向けられる感情が違うだけで印象がガラッと変わる。
な、なんでこんなにプレッシャー掛けられるの? 僕、エリスに何かしたっけ?
と、圧力に小さくなる凜を掬い上げるようにエリスの頭を小突くセフィリア。
「ッ!? ね、姉様!? い、いきなり何を」
「な~に、さっきからリンを睨んでんの? 何か言いたい事があるならきちんと喋る」
「も、申し訳ありません……その、髪の色が珍しかったもので」
「……まぁ、確かに珍しい色してるけど、あんまりジロジロ見ないの。リンやランさんに失礼でしょ」
「は、はい」
エリスはセフィリアの言葉に僅かに視線を伏せ、放っていた圧力を慌てて納める。
「ごめんね、ウチの妹が」
「い、いいよ。別に気にはしてないから」
「はは、そう言ってくれると助かる」
ペロッと可愛らしく舌先を出し苦笑いするセフィリア。
「……じゃあ、用件を話すわね」
と、さっきまでの可憐な少女の顔から一変、神の一端としての覇気を纏い、場に言い様のない圧がのし掛かる。
「っ」
場の変化に夏子が息を呑み、
「リンに話があるって言うのはエリスに伝えて貰ってたけど…………」
『死神』として相対するセフィリアへ凜も緊張に唾を飲んだ。
「その用件って言うのはね……」
「用件って…………」
セフィリアの緊張に張り詰めた声音に重大な事柄と凜と夏子は前のめりに身構え、
「――――――私とエリス、リンの家で住むから」
威圧感を纏っていた表情が一瞬でテヘペロッ!! っと舌出しお菓子少女の如く緩む。
それから数秒ながら永劫と言える程濃密な沈黙が場を支配し、
「…………へぁっ!?」
それを素っ頓狂な声で弾き飛ばす凜。
「えっ…………と………………」
「セ、セフィリア達が住むってどういう事っ!?」
突然の話に言葉が出てこない凜の代わりに夏子が身を乗り出し、完全に泳いだ目でセフィリアに問い正す。
「い、いやぁ……言葉通りの意味で私達、ここで暮らすことになって…………」
セフィリアは眼前で動揺に目を血ばらせる夏子に降伏を示すように両手を挙げ、
「わ、私達も驚いてるんだけどね……ちゃんと訳があるのよ」
噛み合わせの悪い歯車の様に話を続ける。
――――――三日前。セフィリアがエリスに連れられて神界へ帰還した日。二人は神界において数多の『死神』達を管理する統制機関【元老院】から新しい任務を言い渡されたらしい。
そして任務の内容はジュマ=フーリスに殺された『第二級』の『死神』ジュリア=ノーマンに代わって、凜達が住む町をエリスが担当。セフィリアは期限付きでエリスの世話役として現世に留まる、との事だった。
「まぁ、もっと突っ込んだ話をするとね。今回の任務は町全体の魔力のバランスを整える事なの。凜が【事象隷属経典】になって町の魔力まで取り込んじゃったんだけど、リンが町の人達を助ける時にバランスも何も考えずに解放したみたいだから、前みたいに流れをちゃんと作ってあげなきゃ行けないの。まぁ、凜達にわかりやすく言えば水道管の修繕工事みたいなものかしら」
「崩れた魔力の流れを直すって……それって今の状況って凄く危ないことなんじゃ」
また自分の所為で無関係な人達を危険な目に遭わせているのではとテーブルを叩くと同時に立ち上がりかけ、
「そんなに慌てなくても大丈夫よ、リン。魔力のバランスが崩れただけじゃ、あまり影響は出ないから」
と、凜の考えを察してか、セフィリアが宥める。
「影響が出たとしても魔力が無い人やあっても量が少ない部類の人間に夜中『霊現体』がうっすら『視』えるくらいで」
「じゃ、じゃあ……町の皆が危険な目に遭ったりしないんだね」
「えぇ、そこは安心してくれて良いわよ」
自信満々にパチンッとウィンクするセフィリアの様子にホッと息をついて、
「ほとんどゼロスタートみたいなものだから魔力の流れとバランスを整えるのに大体三週間くらいかかるんだけど」
セフィリアは隣で無言で僕を睨んでいたエリスの頭にポンッと手を置いて苦笑い混じりに言った。
「せっかくの機会だし、その間に現世……というか人間の事をもっとしておこうと思ってね。普段は『死神』として事務的にしか関わる事しかできないんだけど、私達の事を知ってるリン達がいるし、ホームステイだっけ? 少しの間お邪魔しようかなって」
「ホームステイって…………神様が?」
一生に一度あるかないか。その言葉すら当てはまる筈などあり得なかったセフィリアの提案に凜は疑問符を浮かべて、
「意外って顔してるけど、人間の魂を管理している『死神』だからこそ必要だと思うのよね。もっと身近に人を感じて、自分がどんな事をしているのか。自分が何に対して責任を持たなきゃいけないのか、自分の力が何の為にあるのか……」
一瞬。セフィリアの視線がエリスへぶれ、途切れた声を素早く繋ぎ止める。
「自分がどういう存在であるべきかって見つめ直すには良いチャンスだと思ってね」
「そうなんだ…………でも、いきなり住むって言われても部屋の準備とか何も」
してないんだけど、って言葉を続けようとして、
「大丈夫じゃぞ、凜」
何故か蘭がドヤ顔でフンッと鼻を鳴らした。
「だ、大丈夫って」
「セフィリアから帰ってくる前に話が来ておったからの、お主が学校で夏子さんとイチャついておる間に済ませておいたぞ」
「僕は夏先輩とイチャついてなんかいないし、話を聞いてたなら教えてくれても良かったじゃないか」
流し目で夏子を弄ろうとする蘭の言葉を否定し、
「いやはや、驚かそうと思ってな」
「もう……そうやってすぐ悪戯しようとするんだから」
孫と祖母としての立場が逆転している会話をしつつも、凜は視線を正面に戻す。
そしてその視線に申し訳なさそうに笑みを溢し、
「まぁ…………そういう事だから。三週間、妹と二人お世話になります」
「……よろしくお願いします」
未だ硬い表情で頭を下げるセフィリアとエリス。
凜もそれにつられ慌てて頭を下げ、
「こ、こちらこそ。短い間だけど、よろしくね。」
「こちらで困った事があれば遠慮無く言うのじゃぞ? 出来る限りの世話はするでの」
まるで孫が増えて嬉しいとばかりにはしゃぐ蘭。
「二人共、ここに住むのかぁ……………」
人と【神】。そんな異色すぎる交流話を聞いていた夏子がポツリと呟き、
「そう、ですね…………ははっ」
「…………良いなぁ」
「良いなぁって…………」
物欲しげに言葉を溢す夏子へ驚き気味に凜はオウム返しをする。
「っ!?」
瞬間。凜の声にハッと我に返り、茹で蛸の様に赤く煮詰まる夏子。
「い、いやっ!! い、今のは変な意味じゃなくてね!?」
「ど、どうしたんです?」
深い意味はない、と夏子は慌てて両手を力一杯左右に振り回し。
「ほっ」
その様子に蘭が何やら察したようでニタリッとねちっこい笑みを溢す。
「そ、その……ほ、ほらっ!! 私って一人っ子でしょ!? だから兄弟というか、姉妹ができたみたいで良いなぁって!! ほんとそう思っただけで他に他意はっ!!」
「は、はぁ…………?」
夏子の慌てように凜は戸惑いにどう答えればいいかわからず、
「この際、夏子さんもここに住むとよかろう。凜の嫁なんじゃし、こっヅゥァッ!?
さらりと飛んでも発言をぶっ込んできた蘭の隣へ神がかった速度で回り込み、掌で顎を貫くように跳ね上げる凜。
それと同時に歯と歯がぶつかり合い、擦れるというかすり潰すような不気味な音が響く。
「ぐおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ・・・・・・ぉ、ぉぉおおぉおおぉぉぉぉぉぉォォォォォッ」
孫の突然の強襲に蘭は猛獣の如き唸り声で顎を押さえながら、涙目で凜に叫ぶ。
「りゃんやっ!! いふぃなひゅ、にゃにしゅしゅるんしゃっ!?」
「何を言ってるかわからないけど、ごめんっ!! でも、お祖母ちゃんが悪い!!」
祖母に対して暴力行為をする事に心が罪悪感に苛まれるが、それ以上に護らなければならないものがあると本能が体を突き動かした…………あとで大好物のしろ○まくんのアイスを買ってこよう。
「うわぁ……………」
そのやりとりに痛みを共有しているようにセフィリアが呻いて、
「……今のはランさんが悪いと思いますよ」
「だっ、大丈夫ですかっ!?」
「………………ハァ」
凜とと同意見とほんのりほっぺを赤くするセフィリアと頬を赤らめながらも気遣い側に寄りそう夏子。一瞬の驚き顔の後に呆れたとばかりに深いため息をつくエリス。
少々荒れた場を正すようにセフィリアが小さく咳払いし、
「話が変な方向に逸れたけど、話がもう一つあるんだけど」
「えっ、もう一つあるの?」
「大丈夫よ、話って言ってもさっきのと違ってリンとナツコに確認したい事があるってだけだから」
「確認したい事?」
凜は涙目で睨む蘭を尻目に姿勢を正し、夏子もは蘭を気にしつつものセフィリアへと体を向ける。
「ナツコは生き返ってから三日経つけど、自分の体から魂が抜けたりとかしたりする?」
「へっ? か、体から魂が抜けるってどういう…………」
いきなりのセフィリアの質問に口元が引きつる。
「幽体離脱よ。ナツコは一度死んで生き返ったでしょう?」
「う、うん」
「一度、体と魂の繋がり……鎖みたいなものが切れた状態になった二つは元に戻るまでに少しだけ時間がかかるの。その時に肉体と魂の繋がりが弱くなる期間ができるんだけど、しばらくすると新しい鎖ができて安定期にはいるの。期間は個人差があるんだけど最低一週間は安定しにくいから、魂が抜け出る時があったりするんだけど…………」
そこまで夏子に説明をしてお茶を一口含んで、答えを促す様に目を細めるセフィリア。
「う、ううん…………そういうのは特に。幽体離脱って言うのがどういうものかちゃんとわかってるかわからないけど、私が幽霊になってた時みたいな感じ?」
「そう、幽体離脱した状態でも意識はしっかり残るからそんな感じね」
「そういうのなら大丈夫、一度もなってないわ」
「順調に肉体と魂が馴染んでるみたいね、良かった」
「生き返った後も結構大変なのね」
自分の事の筈なのに他人事の様にあっけらかんと感心する夏子。
凜もそんな図太い神経の夏子に感心しながら、
「僕に聞きたい事ってそれかな? だったら僕もそう言うのは……」
「あぁっ、リンは違う話よ」
先だって答えようとしてセフィリアに遮られる。
「え、違うって……」
「まぁ、そういう話も含まれてるから違うとも言えないけど、リンに聞きたい事は生活面での事よ」
「生活面?」
何で? と、首を傾げる凜にセフィリアの一瞬表情が暗くなる。
「……リンは肉体を作るのに住人の記憶と世界の事象記録を使ったでしょ」
「うん」
「その時点では『萩月凜』っていう人間はいないはずの存在。でも、現にこうして生きているのは私達の事象操作系の法術で世界の事象記録を改ざんしたから人間として存在できているんだけど…………どう? 改ざんできるところはもう無いけど、何か支障とか出てない?」
「支障かぁ…………」
セフィリアの問い掛けに凜は目を閉じ頭の中でここ三日間の生活を振り返ってみた。
夏子が生き返った次の日、自分は今までいたクラスに転入生として戻る事になった。体が病弱で産まれてすぐ国内の大学病院を転々としながらの入院生活。しかし、体調が安定し始めて今月からやっと普通の生活が出来るようになり、三日前から日常生活デビュー…………という設定になっていた。
他にも細かい事を言えば、髪と瞳の色が紫色なのは治療の副作用という事なっていて……正直、そこまで細かいところまで改ざんしなくて持って呆れるくらい感心した。
もちろん戸籍の上でもちゃんと産まれている状態になっていて、一応『萩月凜』という存在は復活していた。存在という定義設定はされたが自分が過ごしたの十六年間は綺麗に無くなっており、自分にとっては顔見知りでも周囲の人間達は全員が初対面という認識になってる。
ただ例外で自分の事を憶えている人が三人いる。
「特に困った事はないかなぁ。皆、僕の事憶えてないっていうだけで……それにお父さんとお祖母ちゃんは影響されないみたいだし。二人が憶えてくれていれば生活の上では大丈夫かな」
海外で医療従事している凜の父と蘭は魔力が高いのも要因の一つだが、二人とも少なからず『死神』と関わりを持ち、自らも法術やそれに似た力を有している為か、術に対して耐性があるようで影響を受けないらしい。それともう一人は夏子だ。
夏子は自分と魂の『核』を共有しているからか、凜に関する事象操作の変化には影響されな様だ。最初、夏子が凜の名前を呼んだ時は家族以外に憶えてくれている人がいると泣きそうになっていたのはここだけの話。
「凜がいいならそれで良いんだけどさ……生活面は大丈夫なら」
僕の答えにセフィリアは何か釈然としない表情でお祖母ちゃんへ視線を一瞬向けて、
「力の方は大丈夫?」
「うん、そっちも大丈夫。お祖母ちゃんの封印が効いてるからね」
「そう……なら大丈夫ね」
歯切れの悪さから拭いきれない不安が見え隠れするセフィリアの笑顔。
凜が『死神』との戦いで目覚めた力――――――――――【略奪者】。
名が示す通り略奪を主とする能力であり、その略奪対象は肉体、魔力、魂、存在、世界、事象とありとあらゆる定義に確立されている、いないに関わらず――――【神】を含めた万象全て。
その『在り方』を強制的に視認――――――『核』を具現化。その具現化した『核』に触れる、もしくは破壊する事で魔力へと変換し、自身の力として取り込む能力。
「凄い力だよね、我ながら使えなくなって良かったって思うよ」
だが、あの戦いで目覚めた力は今はもう使えない。
凜が住民達を救う為に魂を砕き、意識の希薄と共に能力が弱体化。その隙を狙って蘭が封印術を施した為だ。
「まぁ、必要以上の力は身を滅ぼすともいうし…………でも、少しでも兆候があったら私かランさんに言うのよ?」
「うん、わかってる」
心配性の母親の様な口ぶりで釘を刺すセフィリアに、誓いを示す様に凜は黒のコンタクトレンズで塞がれた右眼を右手で覆った。
「一応、私からはこれで話は終わりよ。リンやナツコから何か聞きたい事って無い?」
「うん、僕は特にないかな」
「私もないかな」
凜と夏子はそれぞれ短く答え、
「話が終わったようじゃし、セフィリアとエリスを部屋に案内しようかの。荷物整理もしなければならんじゃろ」
場を締めようと蘭が立ち上がる。
「そうですね、お願いします」
「了解しました」
セフィリア達もその言葉に促されて立ち上がる。
「それじゃ、私もお暇しようかな」
「はい、今日はありがとうございました」
「別に気にしないで。私にとっても大事な話だったし」
そう言って凜に小さく笑いかけながら腰を上げる夏子。
凜も立ち上がりながら目だけ動かし、壁に掛けてあった時計で時間を確認する。
今は五時四十分少し過ぎたところ。今はまだ明るいが、夏子が帰る頃には真っ暗になる時間帯だ。
一瞬の逡巡もなく今後の予定を決め、
「微妙な時間ですし、送っていきます」
「えっ? い、いいよ、別に……そんなに遅い時間でもないし」
突然の申し入れに驚きながら首を小さく振り、遠慮を示す夏子。
が、
「今はまだ明るいですけど、僕の家から夏先輩の家まで一時間くらいかかりますよね? この辺はバスも大きな通りまで行かないと無いですし、帰り途中には暗くなってしまいますから」
「で、でも凜が大変じゃない? 帰りも一時間くらい歩くん……」
「お祖母ちゃん。僕、夏先輩を送ってくるから夕飯の支度お願いしても良い?」
凜は聞く耳持たずと夏子の遠慮をはねのけ、蘭に夕飯の支度を頼めるか問う。
「おぅ、しっかり夏子さんを送ってくるんじゃぞ」
「ちゃんと最後までエスコートしてきなさいよ」
凜の問いに当然と答える蘭と、どこか茶化した風な笑みを向けるセフィリア。
「も、もう二人まで……………」
「別に構わんじゃろ、最近は物騒じゃしな」
「それにこっちの不手際とはいえ前例もあるし、ね」
「二人の言う通りですよ。早く帰らないと冬樹さんも心配しますから」
と、やや強引な流れではあったが、自分の身を案じる三人の厚意に照れつつも凜から差し出された鞄を受け取る夏子。
「じゃ、じゃあ…………お言葉に甘えて」
「じゃあ、行きましょうか」
凜は夏子の横を通り、蘭へ振り返り際に告げる。
「行ってきます」
「気をつけてな」
「うん」
二言三言短いやりとりを終えて、
「お、お邪魔しました」
何故かガチガチになってる夏子と共に部屋を後にした。
††††††††††††††††††††††††††
「……………………………………」
「……………………………………」
夏子の家への帰り道、家から出て約四十分。
「……………………………………」
「……………………………………っ」
音の響きがない沈黙というものがいかに重苦しいものか、現在進行形で思い知らされているこの状況。
凜は妙な圧力に焦燥にも似たざわつきに胸中で悶々と思考を巡らす。
べ、別に夏先輩を怒らせたって事は無いはずで……いや、僕が気がついてないだけで怒らせてしまったのかもしれない。でも、家まで送っていくっていうだけで他には何もしていないはずだから怒らせる要素が見あたらないもの事実。探りをいれようにも話しかけよ夏先輩が凄い強張った表情でずっと前ばっかり見てて話しかけられる雰囲気じゃないし…………どうすればいいんだ?
凜が胸を焦がす沈黙を何とかしようと頭の中で思案していると、
「ふぅっ」
何か「覚悟を決めた」とばかりの深いため息を付く夏子。
「り、凜も大変だね」
「な、何がですか?」
そして凜は夏子の助け船に飛び乗るように重苦しい空気から脱出する。
「いきなり神様二人と同居って…………凄く気を遣いそうじゃない?」
「そ、そうですか? 罰当たりかもしれませんけど、あまり気にはしてないですね」
正面を向いたまま話す夏子の声はまだ妙な堅さが聞き取れ、凜は今度が助け船を出す番とできるだけ場を和ませようと柔らかく言葉を続けていく。
「前にセフィリアがいた時もそれほど気にしてませんでしたし、何よりお祖母ちゃんがいますからね。女の子二人ですからお祖母ちゃんが色々と世話を焼いてくれると思いますよ」
「まぁ、確かに蘭さんがいれば色々と心配ないかもね」
「心配って?」
「ほら、二人とも神様だからこっちの常識とか生活って縛りがあって大変じゃないかな……って」
言葉を重ねる内に夏子の声が和らぎ、家を出てから初めて凜へ顔を向ける。
「前にセフィリアに聞いた話じゃ神様の世界も私達の世界とあまり変わらないみたいだけど、なれない土地って言うか……違う世界で生活するのって不便でしょう?」
「まぁ、確かに神様が人間の世界で暮らすなんて窮屈そうではありますけど…………夏先輩と一緒に僕の家にいた時はそれほど困った事とかなさそう過ごしてましたから大丈夫じゃないかと。それに今度は一人じゃなくて妹の…………ぁっ」
何の不安視もしていなかった同居生活に心配事が一つボンッ!! と、思い浮かんでしまった。
「ど、どうしたの?」
「いや、エリスの事なんですけど…………」
「あぁ………………」
夏子は凜の言葉に気まずげな表情を浮かべ、不安がより明確になる。
「ちょっと……かな? あの子、なんか凜に対して圧があるよね。こう、対抗心……っていうか」
「それも何か違う気がしますけど、なんで僕にあんな感じなのか……全く身に覚えがないんですよね」
「まぁ、三日前にあったばかりだもんね。それにまともには話をしたもの今日くらいだし…………まぁ、頑張るしかないよね」
凜の不安にしょぼくれた肩をポンポンッと軽く叩き「何かあれば私も協力するし」と、寄り添うように柔らかな笑みを見せる夏子。
「何にしてもやっと普通の生活に戻れたわけだし、めでたしめでたしだね」
その言葉に凜の胸に膨らんでいた不安は消え、変わりに心を押し潰すように黒い感情が揺らめいた。
「……そう、ですね。セフィリア達の任務やエリスの事はともかく、ほんとに……元の生活に戻れて良かったですね」
胸で揺らめき立つソレを押し隠す様に笑みを浮かべ、夏子から視線を正面へ逸らす凜。
「ほんとに…………」
ただ夏子へ告げた言葉は紛れもなく本心だ。嘘偽りのない心からの想い――――なのだが。
「…………凜?」
「……………………」
それを疑う様に釈然としない何かに心がざわめいてる。いや、コレは『何か』などという曖昧な言葉ではごまかせないものだ。
夏子を生き返らせ、当たり前の日常を取り戻し、普通に笑っていられる日々に帰り…………自分の中で驚く程の勢いで明確になっていく。
「…………ん」
自分の中でどんどん形になっていくソレは、
「り…………ん」
全てをかなぐり捨てて求めた選択を否定――――。
「凜!!」
「っぁ!?」
耳元で弾ける夏子の声。
その声に凜は驚きに一歩後ずり、動揺に揺れる瞳で夏子を捉える。
「な、何ですか? 夏先輩」
「何ですか? って……何回も呼んだのに反応しないからでしょ」
「そ、そうだったんですね……すみません、少しボーッとしちゃって」
「別に気にはしてないけど…………凜、何かあったの?」
形の綺麗な眉を心配そうに寄せ、凜の顔を覗き込む夏子。
「何か悩み事? もし何か悩んでるなら私が相談に」
「いえ」
夏子の愁いを払う様に、そして差し伸べられた手から逃げるように言葉を遮り、
「悩み事なんて何も、ただぼーっとしちゃっただけですから」
「で、でも」
「僕の事を心配してくれるのは嬉しいですけど、夏先輩は自分の事を考えた方が良いですよ?」
まるで悪戯っ子のように笑って見せる凜。
「え? 私?」
「そうですよ、だって夏先輩。明日から女子からの告白ラッシュなんですから!!」
「なぁっ!?」
恥ずかしい青春の一ページを弾丸に不意討ちを喰らう夏子。
瞬間、愁いに沈んでいた美貌は紅く染まり、続けての羞恥の怒声が上がる。
「ちょっ!? ち、凜!! またその話なんかむし返してぇっ!!」
「ははっ」
「もうっ!! 人が心配して聞いてるのにっ!!」
「冗談ですってば」
「意地悪っ!!」
凜の頭を駄々っ子みたいに腕を交互に振り回しポカポカッ叩く夏子。
「い、痛いですってば!!」
「私の心も痛いわっ!!」
意外にもなかなかの打撃力を誇る夏子の殴打に両腕で頭部を護りながら慌てて逃げ出す凜。
「あっ、待ちなさい!!」
「い、嫌です!!」
脱兎の如く逃げ出す凜を全力出す獅子の如く追う捺子。
まるで悪戯した子供が叱る母親に追いかけられている様な……妙な気分だった。
周りから見れば「何やってるんだ?」と、冷たい視線を向けられる情景。
地味に痛い夏子の攻撃から逃げる為、何か方法はないかと辺りを見回して、
「あっ、夏先輩の家見えてきましたよ!!」
見覚えのある一件に家に凜は救われたとホッと息を付く。
「こらっ!! 話を逸らさないでよ!!」
支度が見えても殴打の手を休めない夏子。その攻撃を片腕で防ぎつつ、凜は残る右手で家の外門を指差し、帰宅を必死に促す。
「もう暗くなってますから早く家に入ってください!! じゃないと僕も安心して家に帰れないのでっ!!」
「くっ……」
自分が家に入らないと凜が帰れないというそれなりの事実に悔しそうな顔をし、振り回していた腕を止める夏子。
「こ、この続きは…………学校で!!」
「……憶えておきます」
明日になっても叩くつもりなんだ、と驚いて…………とりあえず、これ以上夏子を刺激しないように渋い顔で言葉を返す凜。
「もう……今日は送ってくれてありがとね、また明日」
「はい、また明日……」
夏子は反撃し足りないって顔で別れ際に小さく手を振って、凜も弱々しく手を振って答える。
それから少し離れたところで夏子が家の中へ入って玄関のドアを閉めるまで見送り、
「…………また明日、か」
先程交わした何の変哲もない言葉をポツリと溢す。
「……………………」
今の様に日常に戻ってきた事を実感する度に、自分の中でソレが強く、歪に、醜く形を成す。
自宅に戻ろうと夏子の家に背を向け、
「僕には、明日なんて……普通の日常なんてあって良いのかな?」
誰に話しかけるでもなく、ただ……自然にそんな言葉が出てきた。
明日、自分が迎えるのは何気ない日常で……それはごく当たり前の事なのだと理解している。
それなのに、
――――――――――――死にたくないよ。
『萩月凜』という存在全てを否定する様に、ジュマの声が頭の中で響く。
「っ」
それはまるで凜の選択を責めるように。
「…………僕は」
凜は瞳に映る世界を確かめるように静かに歩き出す。
「僕は――――」
――――――ただ、護りたかっただけなんだ……この日常を。
(いや、違う)
――――――ただ、護りたかっただけなんだ……大切な二人を。
(いや、ただ求めただけだ)
――――――ただ、護りたかっただけなんだ。だから、僕は選んだんだ……この絶望を。
(いや、絶望なんか選んでない。ただ自分の身勝手で醜い欲望に従っただけだ)
ジュマの声が冷淡に告げる。
(――――――お前はボクと同じなんだ)
ソレは決して消える事のない傷のように、決して終わる事のない悪夢のように深い闇。
「僕はアイツと――――――ジュマと同じなんだ」
その呟きは誰にも聞こえる事はなく、
「自分の願いの為なら平気で誰かを殺せる――――――『化け物』なんだ」
罪過の重さに押し潰されそうな弱々しい肯定。
戻ってきた穏やかな日常、取り戻した日々は――――――凜にとって逃れようのない呪いだった。