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境界世界のブリガンテ  作者: りくつきあまね
神村 夏子
11/36

――― 結び紡ぎ ―――

 私が彼――――萩月凜と初めてであったのは四月中旬。春の陽気と雲一つない青空が気持ち良い日だった。




 晴れ晴れとした天気も目に映った陰湿な光景に押しのけられて、自分でも心が淀んでいくのがわかった。

 商店街の外れの公園で喧嘩……いや、あれはイジメだった。家の近くの河原で、私の学校の生徒だったと思う。

 何人かの男子の子達が一人の男子の子を取り囲んでいた。囲まれてた男子の子は制服は土で汚れていて顔も殴られたのか、唇が切れてて血が出てた。

 私はその状況に考えないしに止めようと駆け寄ろうとして。

「やめなよ」

 紫色の髪の小学生がそう言って現れた、と思った。でも私と同じ学校の制服を着ていて、一瞬駆け寄ろうとした事も忘れて立ち止まって――――――衝撃の光景が広がった。

 小学生みたいな男の子一人に体格ではずっと逞しい子達が全員殴り飛ばされた。勿論、凜から手を出したわけじゃない。何人かいた内の一人が凜を思いっきり殴って、それから彼が手を出したのだ。

 人を殴る事はどんな理由があっても良い事じゃないけど、人助けの為ならある程度は仕方が無いとも思う。

 いじめっ子達全員を殴り飛ばした後。凜は持っていた鞄から小さい救急セットの箱を取り出して虐められていた子の手当をし出した。その手当が程なく終わってそのまま帰るのかと思ったら、いじめっ子達の手当もし始めた。

 私はその光景に「なんで?」って驚いていたけど、黙々と手当をしている凜の姿にハッとなって慌てて駆け寄った。

 そして隣にしゃがみ込んだ私に凜は小さく会釈をするだけで何も喋ることなく黙々と手当を続けて、私も手当を手伝い、簡単ではあったものの十分で手当は終わった。

 その後、虐められていた子を見送った。それから凜も頬を殴られていたのを思い出して、

「君も手当を」

 と、声を掛けようとしたけど。

「あれ?」

 ついさっきまで隣にいた凜の姿はなかった。

 翌日、私は凜の事が少し気にかかって学校で探した。

 目立つ髪の色をしていたし、すぐに見つける事ができた。

 その時は授業合間の十分休みで、凜はクラスの男の子達と話をしていた。

 楽しそうに笑って話している姿は小学生みたいで可愛いなぁとつい微笑んでしまったけど、男の子達と話が終わったらすぐに窓際の自分の席に座ってじっと外を眺めていた。

 その表情はさっき話してた笑顔と違って、今ある現実とは違うものを見ているような表情で、私はそんな凜の様子に声を掛けようとしたところで休み時間の終わりを告げる鐘が鳴った。

 教室からだいぶ離れていたからその時は慌てて戻ったけど、昼休みもすれ違う度に声を掛けようと思うのだが、あの場で会ったはずの私の顔を見ても顔色一つ変えずに横切っていく。

 ――――まるで誰も見ていないような感じで。

 まぁ、あまり好ましい出来事じゃなかったし、無理に声を掛けずともいつか機会があれば話す事もあるかなと思った。

 そんな感じで一ヶ月が過ぎたある日、帰り道にまた凜を見掛けた。今度はイジメとか殺伐とした場ではなく、別の意味で心が痛む光景。

「……………」

 無言で足下を見つめている凜。

 凜の足下には多分、産まれてそ三ヶ月経つか経たないかの白い毛並みの子犬が一匹。その子犬は小さな段ボールに入れられていた――――捨て犬だ。

 子犬は凜に甘えるように「きゅーんきゅーんっ」と弱々しく鳴いて、凜は子犬の呼びかけに答えるようにしゃがみ込んで子犬を抱き上げた。

 凜は子犬と視線を合わせ、

「君、捨てられたの?」

小さい子供に話しかけるように子犬に言った。

 子犬はまた小さく鳴いて、凜のほっぺをペロペロなめた。

「フフッ、くすぐったいよ」

 子犬に顔を舐められて、その仕返しのように子犬に頬刷りする凜。

「君、温かくてフワフワだねぇ……ウチの子になる?」

 そう言って笑った凜の笑顔に、体が一気に熱くなって――――心の中で優しくて温かい何かが弾けた。

 それからだ、凜の姿を自然に追うようになったのは。

 それ以来、登校から始まって授業の休み時間に、体育でグランドにいる時。昼休みに下校まで。凜が視界の端に入る度にすぐ釘付けになる。

 凜を見かける度に声を掛けようとするのだが、一度会っただけの自分が気安く声を掛けて良いものか、いきなり声を掛けて変な顔されないか、馴れ馴れしい先輩だなと思われたりしなだろうかと色々な不安が頭の中を過ぎっては踏み出せないでいた。

 そんなモヤモヤする日々が一ヶ月、二ヶ月と経ち、三ヶ月目に差し掛かろうとしたある日の昼休み。

「…………あかり、来ないなぁ」

 屋上奥のベンチで私は昼食の約束をしたあかりを今か今かと待ち構えていた。

 私はブレザーのポケットかスマホを取り出して、画面を開く。今の時間は――――十二時四十五分。あと十分もすれば昼休みが終わってしまう。

「ハァ…………」

 今日は凜の事を相談してみようと思って、お昼ご飯を教室から屋上に場所を移したのに…………待てども待てども、あかりは来ない。

「なにか急用でもできたのかなぁ? そうだったらメールでもしてくれればいいのに…………」

 私はスマホをポケットにしまいながら待ちくたびれた気持ちを吐き出して、

「…………あかりには悪いけど先に食べよっと」

包みを解いて、顔を出したお弁当箱にガクッ、と肩を落とした。

 瞳に映るのは無情とも言える現実と自分の浅はかなミス。

 いつもお弁当箱の上に乗せてある箸箱がなく、包みの上に上がっているのは中身の入ったお弁当だけ。

 私はもう一小さく息を付きながらお弁当箱を包み直して、ベンチから立ち上がった。

「購買で割り箸でも貰わないと駄目かぁ…………」

 愚痴をこぼしながらお弁当片手に屋上出入口へ。

「ここから購買まで走って五分。教室まで二分…………残り三分か」

 本当ならゆっくり楽しく食べたいところだが、この量ならそれくらいの時間で食べきる事も可能。

 もしこれであかりが約束を忘れて先に昼食を済ませていたという非人道的行為を行っていたのなら…………『食べ物の恨みは怖い』ということわざを体現しなければいけないところだ。

 私はドアを開いて階段の踊り場に出て、駆け足で階段を駆け下りた。

 そして上と下の踊り場の丁度半分まで駆け下りたところで、

「もぅ、お祖母ちゃんがいない日に限って寝坊だなんてついてないなぁ…………」

まるで小学生みたいに可愛らしい声が下の階段から聞こえてきて、それに続いて綺麗な紫色が目の端に映った。

 綺麗な紫の髪に左右色違いの大きくて丸い瞳。私と同じ紫苑高校の制服で、見た目は完全に小学生の男の子――――凜が暗い様子で踊り場を歩いていた。

 突然現れた凜に注意が逸れて、

「…………へ?」

階段を踏み外して、大きくバランスを崩した私。

「っと、ととっ!?」

 何とか姿勢を保とうとするも、駆け下りた勢いもあって立て直す事ができず、そのまま突っ込むように落ちて。

「えっ?」

 階段から落ちる私に気が付いた男の子は一瞬、驚きに目を見開いた。

 この時、私は男の子にぶつかると直感して、体を引っ張る重力と諦めにを閉じた。

 でも、数秒後に来る痛みと衝撃に備え、強張った体に感じたのはドッ!! と抱き止められる柔らかくも力強い感触だった。

「あ、あぶなっ…………」

 耳元で零れる幼い声に私はパッと目を見開いて、

「ナッ!?」

目と鼻の先にある凜の顔に、一気に顔が熱くなる。

「あ、あっ…………ぁ」

「あ、あの大丈夫ですか?」

 茹で蛸みたいに顔を赤くした私を心配する凜にハッ!! と我に返って慌てて離れようとした時だった。


 ―――――――――グシャ。


 足下から紙がクシャッとなる音が聞こえたのと同時に、右足に柔らかい物を踏みつぶす感覚が。

「えっ?」

「あっ…………」

 疑問と落胆に互いに足下を眺めて、私達の瞳に映ったのは――――私が踏み潰している紙袋。そこ飛び出たプラスチックの容器と、その中に詰められていたサンドウィッチの無惨な姿。

 具材を見た限りタマゴにツナ、それに瑞々しいレタスとハム……王道とも言える部類の物。この時間帯と購買の袋に入っていた幾つものサンドウィッチ……これはもしかしなくてもお昼ご飯。

 私と凜は気まずい沈黙に足下を見下ろして、

「…………お昼抜き、か」

私の気まずさを肯定するように、諦めが滲んだ表情でため息を付く凜。

 その言葉に私は大慌てで足をどけて、

「ご、ごめんなさいっ!!」

「いえ、気にしないで下さい」

慌てる私へ苦笑いで答えて、しゃがみ込んでお昼ご飯だった物を拾い始める凜。

 私も手伝おうとすぐにしゃがみ込んで、

「それよりも怪我とかしてないみたいで良かったです」

不意に話しかけられて、ついさっきの出来事に体が少しだけ火照る。

「あっ、その……ありがとう。危ないところ助けて貰って……あなたこそ怪我とかしてない?」

「はい、どこも。それにお礼を言われる程の事はしてないと思いますけど…………」

「ううん、あなたが受け止めてくれなかったら大怪我してたかもしれないし。それにお昼ご飯も台無しにしちゃって……ほんと、ごめん」

「いえ、ほんとに気にしないで下さい」

「じ、じゃあ私のお弁当、半分こしよっか?」

 自分でいってかなり恥ずかしかったが、これも私の不注意が原因。それにこれはこれで良い機会チャンスだとも思った。

「え?」

 凜は私の提案に驚いたみたいで、首を横に振って。

「いえ、そんな事してくれなくても」

「助けてくれたお礼とお昼ご飯駄目にしちゃったお詫びってことで。それにもうすぐ昼休み終わっちゃうし、結局残す事になりそうだから……ねっ?」

「お昼の一食や二食、食べなくても」

 平気ですから、と元気付けようとしてくれた時だった。


 ――――――きゅぅぅぅぅぅぅっ!!


 と、可愛い音が凜のお腹か聞こえてきて。

「…………………」

「ははっ………」

 今度は凜が気まずそうに笑っていた。

 そんな凜の様子に私は手に持っていたお弁当を目の前に差し出して、

「はい、半分こで決まり」

の答えを待たずに強引に話を決定する。

「す、すみません……」

「いいのいいの。私の方が迷惑かけたんだし、これでおあいこってことで」

 どこか申し訳なさそうに表情を曇らせる凜に、私は笑顔で返して立ち上がる。

 凜も片付け終わった紙袋を抱えて立ち上がって、

「お、お言葉に甘えて…………え、えっと」

私を困り顔で見上げる凜にふとある事に気が付いて、小さく咳払いをして言った。

「私は二年一組、神村夏子」

「あぁ」

 私が名乗ると凜はどこか納得したように頷いて、

「先輩が『神村先輩』だったんですね。噂はかねがね」

「噂はって…………まぁ、それはご飯を食べながらでも聞こうかしら」

「ふふ、悪い噂ではないので大丈夫だと思いますよ」

ジト目で見つめる私に、屈託のない笑顔で答える凜。

 凜は人懐っこい笑顔を浮かべて、

初めまして・・・・・。僕は一年三組、萩月凜です。僕の事は凜って呼んで下さい。よろしくお願いしますね、神村先輩」

右手をそっと差し出す凜。

 私は無邪気な笑顔と凜の言葉に――――少しだけ胸がチクッ、ってした。

 だって、私と凜が会うのはこれで二度目。

 初めて会ったのは商店街の外れの公園だったのに、凜はその時の事を憶えてないみたいで……まぁ、ちゃんと名乗ったわけでもないし、あんな状況だったし仕方がないかもしれない。

 でも、それが少しだけ寂しかった。

「……こ、こちらこそ。迷惑な出会いになっちゃったけど、よろしくね」

 初対面扱いされたことに少しだけ動揺したけど、それを誤魔化すように声を少しだけ張って差し出された手を握った。

 握った凜の手は私より小さくて、温かくて……見た目だけじゃなく、触り心地も子供みたいに柔らかかった。

 それからどっちからということもなく、手を放して。

「じゃ、時間もあまりないし……屋上でもいい?」

「えぇ、お昼はいつも屋上なので大丈夫ですよ」

「じゃ、いこっか」

「はい」

 二人で階段を上がった。

 その後。箸がない事を忘れていた私は、結局凜と二人でお昼抜きになった。

 これが私と凜の出会い。どこにでもあって掛け替えのない私達の日常の始まり。




 ―――――――――――――――ドクンッ!!




「え?」

 力強い心臓の脈動に目が覚め、最初に瞳に映ったのは見慣れた淡いピンクの天井だった。

 夏子は驚きにバッと体を起こし、自分がいる場所を唖然としながら見渡す。

 今、自分がいるのは長年愛用しているベットの上で、その上パジャマ姿である。

 部屋の内装も見覚えのある淡いピンク色の壁紙にピンクのカーペット。フリル付きの白いカーテン。今は亡き母、春那が使っていた木製の化粧台が夏子を見守るように鎮座していた。

 その情景は見間違え様もなく、自分の部屋。

 夏子はあまりにも急転した状況に呻くように呟き、

「………………なんで? 私、自分の部屋にいるの?」

体感的な時間感覚でいえば恐らく数分前。その時の状況を思い起こす。

 ――――私の記憶が正しければ、凜とセフィリアと一緒に学校で死神と戦ってて、凜を助けようとして心臓を…………。

 脳裏に刻まれた心臓を貫かれた生々しい感触に身震いし、


 ―――――――――ドクンッ!!


と、再び自身の在り方を夏子に知らしめるように強く脈を打つ心臓に目を大きく見開いた。

「っ!?」

 夏子はすぐ様脈動を確かめるように胸の上に手を置き、伝わってくる確かに鼓動にポツリと言葉を漏らす。

「し、心臓が動いてる…………」

 手から伝わってくる心臓の鼓動。一瞬――――これは夢なんじゃないか、と不安になり力一杯、頬をつねる夏子。

「っ!?」

 抓った頬から感じるのは明確な痛み。それは涙が出てくるくらい痛くて、

「私、生き返ってる!!」

脳裏の過ぎった不安は、生存という確信に変わった。


 ――――――コンコンッ!!


 生き返った喜びに浸る間もなく、ドアをノックする乾いた音が響いた。 

「夏子、入るぞ」

 ずっと聞いてきた声と共にドアが開き、部屋に入る人影に夏子の瞳が大きく揺れる。

「お、とう……さん?」

 十六年間、自分を優しく見守ってくれた父――――神村冬樹。

 冬樹は娘の様子に首を傾げながら歩み寄り、

「そんな驚いた顔してどうしたんだい? 私の顔に何か付いてるのかな?」

何か付いてるのかと頬を触りながら、夏子の隣に腰を下ろす。

 生前と変わらぬ様子の冬樹に夏子は布団をはねのけ、

「お父さんっ!!」

幼子の様に冬樹の胸に顔を埋める。

 石鹸まじりの優しい匂いと温もりに目頭が熱くなり、生き返った事をより強く実感する。

「っと、どうしたんだい、急に?」

 突然の抱擁に驚く冬樹。

 そんな冬樹へどう答えたものかと一瞬躊躇い、

「えっと……その、ちょっと怖い夢を見た的な」

ははっ、と目頭を袖で拭いつつ、乾いた笑みで濁す夏子。

「怖い夢って……まぁ、ここしばらく体の調子も悪かったし、夢見も悪くなるかぁ」

「体の調子って?」

 夏子は冬樹の言葉に首を傾げ、そんな夏子の様子に冬樹は苦笑する。

「ん? まだ熱でぼーっとしてるのかい?」

 冬樹は夏子をそっと剥がし、そう言いながら夏子の額に手をそっと当てる。

「フム、熱は無いみたいだな……夏子、口開けて」

「えっ、うん」

 夏子は指示に従って口を大きく開くき、冬樹はスラックスの右ポケットから小さなライトを取り出し、口の中を照らしながら奥を見やり、納得するように小さく頷いた。

「閉じても良いよ。見たところ喉の炎症も治まってるみたいだね、頭痛は?」

「ないけど?」

「関節の痛みはあるかい? それに体のだるさは?」

「ないってば……それより何の話してるの?」

「何の話って……起きたばかりで寝ぼけてるのかい?」

 まるで診察室での押し問答に夏子は眉間にシワを寄せ、冬樹はライトを消しながら立ち上がり、またポケットにしまう。

「まぁ、季節外れのインフルエンザで二週間も学校を休んでたんだ。少しポヤッとするか」

「に、二週間もっ!?」

 冬樹の口から出た言葉に思わず大きな声を上げる夏子。

「はは、元気にはなったみたいだね。まぁ、昨日にはほとんど治っていたし夏子が元気になって安心したよ」

「お父さん!!」

 そう言って勢い良く立ち上がり、責め立てるように冬樹の顔を覗き込む夏子。

「な、なんだい?」

「今日って何月何日!?」

「へっ?」

「だ・か・らっ!! 今日は何年の何月何日!?」

 目が覚めて生き返った事と冬樹にまた触る事ができた嬉しさで忘れていたが、自分には一番最初にしなければいけなかった事があった。

 それは今、自分が置かれている状況の把握。

 自分が殺されたのは平成――年四月二十二日。そして凜達と一緒に死神と戦っていたのは四月二十九日。

「いつって…………」

 冬樹は夏子の問い掛けに戸惑いながらも口を開き、夏子の視線が口元に釘付けになって。

「今日は平成――年の五月六日。それと週始めの月曜日、だが?」

「う、嘘!?」

 思いもしなかった日付に大声で叫ぶ夏子。

 なんで日付が進んでるの!? それも私が殺された日より二週間、お父さんが言ってた通り同じ日数で!?

「ほ、ほんとに? う、嘘じゃないの?」

「嘘じゃないさ、昨日ゴールデンウィークが終わったばかりだし。うっかりでも間違えないと思うぞ」

 平然と今の現状を肯定する冬樹に、初めてセフィリアと出会った日――――凜の家で告げられた一言が強烈に浮かんだ。


 ――――――生き返る時間が指定出来ないの。


 夏子を生き返らせる為に用いる筈だった事象操作系法術『事象回帰じしょうかいき

 それは対象者を生き返らせる事ができる反面、生きている時間を指定できないという大きな欠点があった。

 それも法術の対象者――――現在の夏子の自我を残したまま、生きた時間の中でこの世に生を受けた時から死ぬ直前までの十七年間。その長い時間の中でいつ生き返る事になるのかわからない――――――はずなのだが。

「っ…………」

 凜の家で聞いた話とは異なる状況。それを踏まえれば『事象回帰』が成立し生き返っているならば、自分が死ぬ前の時間でなければならないはずだ。

 だが、今の状況は数日とはいえ未来へ進んでいる――――明らかに話と食い違っている現在。

 自分の置かれた状況を理解していく度に、訳のわからない不安に沈んでいくような感覚。

「……………………」

 夏子は顔を俯かせ、堅く唇を閉じる。

 端から見れば情緒不安定気味な娘の様子に冬樹の表情が曇り、

「ど、どうしたんだ? 夏子、まだ具合が」

夏子の容態を確かめようと顔を覗き込もうとした時。

「学校に行くっ!!」

 冬樹の心配をはねのけるように顔をグワッ!! と、跳ね上げる夏子。

 そう宣言するのと同時に冬樹を部屋の外へと押し出し、勢い良くドアを閉める夏子。

「な、夏子!? お前、体の具合は?」

 ドアの向こうから冬樹の心配に染まった声が聞こえ、

「大丈夫、元気すぎるくらい!!」

健康を誇示するように大きな声を返す夏子。

「今何時!?」

 枕元にあったピンクの目覚まし時計を睨み付けて。


 ――――――――――――午前十一時四十二分三十六秒。


 今から行けば昼休みには間に合う!!

「と、とにかく今日が平日なら凜も学校にいるはずだし」

 パジャマのボタンをむしり取る様に一気に外し、ベットの上に乱雑に脱ぎ捨て壁に掛けてあった制服をとる。

「具合大丈夫そうなら父さん、病院に戻るが……昼ご飯くらい食べてから学校に」

「いらないっ!! 準備できたらすぐ学校に行くから!!」

 自分を気遣ってくれる冬樹に心の中で謝りながら、最短最速で制服を身につけていく夏子。

「お父さん、学校まで送っててくれない!?」

 Yシャツのボタンを流すように全部締めて、スカートを引き上げてファスナーを閉める。

「構わないが…………いいのかい? 一応、今日も休みと連絡してあったんだが」

「大丈夫よ、お父さん。ホント元気になったから!! それに今行かないと授業終わるまで凜と話できなくなるしっ!!」

 ネクタイを締めながら化粧台を開き、寝癖や制服に変なシワがついていないかに確認。

「そ、そうか…………ならいいんだ。じゃあ、父さん車で待ってるな。学校にも午後から授業に出ると連絡しておくぞ」

「うん、ありがとっ!!」

 そう言ってドアを思いっきり開けて、

「おぁっ!?」

「ごめん、お父さん!!」

冬樹がいたことを失念し、危うくドアで突き飛ばすところだった。

「ご、ごめんね!!」

 目的に執着しすぎている所為か、今はそれどころではないと一気に階段を駆け下り、洗面台に向かった。

「すごい慌て様だな。まったく、誰に似たんだか? 年頃の子はこんなものかなぁ」

 冬樹は弾丸のように洗面台に突っ走っていた娘の姿に唖然としながら呟き、

「…………それにしても」

聞き覚えのない名前に首を傾げた。




「凜、って同級生の子かな?友達だと思うが…………聞き覚えがない名前だ」




††††††††††††††††††††††††††




 今は昼休み。学校全体が教室や廊下、職員室と関係なく和やかな雰囲気になる時間。

 そんな和やかな時間と雰囲気に流れる妙な緊張感に包まれ、夏子は校舎二階二学年の教室が並ぶ廊下を急ぎ足で進む。

「えっと、凜のクラスって三組だったよね…………」

 凜のがいるクラスに向かう間、夏子は見慣れた通路を目を丸くしながら見渡す。

 自分の体感でいえばつい先程まで校舎はセフィリアと死神の戦いでガラスは全損。階段付近やに窓際の壁に至っては跡形もなく吹き飛び、間違いなく休校確定状態だった筈だ、が。

「直ってる…………セフィリアの法術かな」

 新築、とまでいかずとも大きな損傷はなく元通りになっていた。

 自分の家の壁を壊した時もセフィリアが修復したと聞いていたが…………改めて、神様とうものは何でもありなんだと再認識させられた。

「っと、早く凜を見つけて屋上とか人がいなさそうな所に行かないと」

 感心から」目的へと意識を戻し、ある室名札が目に入り、

「あ、あった……ここだ」

目的の教室へと辿り着き、意を決してドアをノックする。

「す、すみません」

 控えめに教室のドアを横に引き、

『っ!?』

中を覗き込んだ途端に集まる教室中の視線に表情が強張る。

 昼食を摂っていた生徒達全員が驚きや羨望に固まり、

「あ、あの。このクラスの子で萩月凜君って子に用事があるんですけど…………い、いますか?」

固まったまま身動ぎも一言も喋らない後輩達に恐る恐る声を掛けてみる夏子。

「はは…………」

 一応、愛想良く笑顔で教室を見回して、ともかく凜を探してみる。

「えっと、凜の席は………」

 教室の一番後ろ、窓際の席だったはずが、そこには今まであったはずの凜の席がなかった。

「…………えっ?」

 それも最初からそこになかった様に。

「な、なんで…………?」

 まとわりつく不快感と心にのし掛かる重い驚愕に声が震え、

「あ、あの……神村先輩、ですよね」

「は、はい!! そうですけど!?」

右横から控えめな女の子の声が聞こえ、バッと勢い良くそちらを向いた。

 視線の先に立っていたのは栗毛色のセミロングで眼鏡をかけたおとなしそうな女子生徒で、やや不審げに夏子を見つめ、気まずそうに口を開く。

「あの、ウチのクラスに『萩月』って名字の生徒っていないんですけど…………」

「へっ?」

 予期していなかった女子生徒の言葉に思わず前の出入口にあった室名札をもう一度確認し、クラスを間違えていない事を確認した。

「ここ二年三組だよね?」

「はい、そうですけど?」

「ここのクラスの子のはずなんだけど……今、とかじゃなくて?」

 もう一度聞き返して、次の言葉に頭が真っ白になった。

「いえ、ホントにウチのクラス……というか。二年にそんな名字の生徒はいませんよ?」

「っ!?」

 凜が…………いない?

「学年違いとかじゃありませんか? 委員会の仕事で生徒名簿をよく借りたりするので……少なくとも二年にはいません」

 動揺に揺らず夏子に無自覚な追い打ちを掛け、女子生徒はきっぱりと告げる。

「う、嘘…………そんな筈」

 感情の揺れに合わせ足元がフラつき、告げられた言葉から逃げるように後ずさり――――――


「あれ? 夏子、今日も学校休みじゃなかったっけ?」


――――――聞き慣れた声が耳に届き、救いを求めるように背後を振り返った。

「あかり!!」

 瞳に映った親友――――あかりに縋るように掴みかかり、

「ちょっ、夏子!?」

「あ、あかりは知ってるよね!?」

当然の如くあかりは突然の夏子の行為に驚き、それでも尚、幼馴染みの問い掛けに何とか言葉を返した。

「し、知ってるって…………何を?」

「凜のこと知ってるよね?」

「凜って誰だっけ? ウチのクラス……っていうかウチの学年にそんな子いたっけ?」

 縋った親友でさえ当然とばかりに首を傾げ――――『凜』を否定する。

 夏子は自分でもわからない感情の高ぶりに声が震え、

「冗談はよしてよ、ねぇ…………」

「いや、冗談なんていってないけど? どうしたのよ、夏子? まだ風邪治ってないんじゃ…………っ!?」

あかりの肩を掴む手に力が入る。

「あかり、本当に知らないの? ここのクラスの子だよ? いつも凜のことで悩んでる時、相談に乗ってくれてたじゃない。ねぇ、あかり!! 本当に知らないのっ!?」

 それは錯乱に近い問い掛け。ただがむしゃらに自分の中に積み重なっていく不安を取り払う為に、必死で詰め寄る夏子。

「ねぇっ!? あかりってば!?」

 あかりの肩を苛立ちに激しく揺さぶり、

「ちょっ、やめてよ!! 夏子!!」

普通ではない夏子の様子にあかりは逃げるように肩を掴む手を振り解いた。

「ぁ…………」

「変だよ、夏子…………私は『凜』なんて子知らないの。嘘なんて付いてない、ホントよ?」

 夏子の感情の高ぶりを示すように余程強い力だったのか、痛みに顔を顰め肩をさするあかりに夏子は我に返り、弱々し意声で言った。

「ご、ごめん」

「いいよ、別に。それよりその『凜』って子……知り合いならスマホに番号とかアドレスとかないの?」

「…………ぁっ」

 その単純明快、至極当然な行為をあかりに言われるまで気がつかなかった。

「電話を掛ければ……」

 夏子はあかりの言葉にすぐ様ブレザーの右ポケットからスマホを取りだし、素早く画面を開く。

「えっと…………凜の番号、番号……ばん、ごう」

 不安の中に指した一縷の望みをつかみ取る為、手早く画面を操作するも暗い揺らぎに指が止まる。

「う、嘘…………番号が、ない? っ!!」

 夏子はもう一度電話帳の登録欄を最初から確認し、

「ぁ…………っ」

行き着いた結果に、夏子の両手からスマホがすり抜け、廊下に落ちた。

「な、夏子?」

「うぁ…………っ」

 あかりは墜としたスマホを拾おうともせず、動かない夏子の様子に不安げに名を呼んで、

「ねぇ、夏子って」

「っ!!」

それを振り切るように、突然夏子は弾かれた様に走った。

「ちょっ、夏子!? 待ってよ!!」

 廊下を走らない。そんな簡単な校則も守っていられなかった。守りたくなかった。目の前に突き付けられた現実から逃げたくて…………ただ走ることしかできなかった。

 逃避に縋る夏子の脳裏にあったのは最後の一手。

「っ…………」

 それはつい数時間前までいたはずの――――凜の家。

 夏子にはもう、そこに行く以外にこの悪夢のような現実を壊す方法が思い浮かばなかった。


††††††††††††††††††††††††††


「ハァ……ハァッ、ンッ………ハァ」

 弾む息、揺れる肩、暴れる心臓、汗で肌に吸い付くYシャツ。そのどれもがどうでも良かった。

「つ、ついた…………」

 木造二階建てでクリーム色の壁に青い屋根。そして石造りの外壁。

「蘭さん、ならっ…………何か知ってる筈…………」

 外壁には木で作られた表札に『萩月』と姓が達筆な書体で印字されていた。

 凜の祖母で『死神』以上に何でもありの規格外人間。その蘭なら自分の中に積み重なった不安を壊してくれるはずだと、祈るように胸の前で両手を握る。

 不安と恐れ、その両方に押し潰されそうになる心で祈りながら、夏子はインターホンのスイッチを押そうとして。

「あら、学生さん?」

 背後かから手提げバッグを肘に掛けた通りすがりのふくよかな女性に声を掛けられた。

 夏子は高ぶった感情えの横やりい思わず肩をビクッ!! と跳ね上げ、恐る恐る後ろを振り返った。

「学生さんよね? こんな時間にこんな所で何してるの? まだ学校の時間じゃないかしら?」

 この状況においてごもっともな質問に、

「私の学校、今日は午前授業で……早く終わったので友達のウチに遊びに」

こんな嘘を信じてくれる筈もない、と思いながらも愛想笑いを浮かべる夏子。

「あら、そうだったの? ごめんなさいね」

 が、女性は疑う素振りもなくあっさり信じてくれた。

 だが、女性は違う事が引っかかったのか、怪訝そうに首を傾げ、

「でも、お友達のウチに遊びに来たって…………ここのお家の方、今は誰もいないはずよ?」

夏子の心に当たり前のように否定という鋭いナイフを刺し込む。

「だ、誰も…………いないんですか?」

「正確には今は・・だけど」

「今は?」

「えぇ、そうよ」

 その言葉に夏子の心に突き刺さった否定のナイフは痛みを伴いながらも少しずつ引き抜かれ、

「ここのお家の方。見た目は小学生みたいに若いんだけど、今年で八十歳になるお祖母様がいらっしゃってね。今はどちらかに旅行に出てるはずよ。それと息子さんはお医者様で今海外にいるはずだから」

「それって蘭さん、ですよね」

「あら、蘭さんとお友達なの?」

「えっと、蘭さんというよりはお孫さんと友達で……」

「蘭さんの……お孫さん?」

眉間にシワを寄せた女性は引き抜きかけたナイフを深々と刺し込んだ。

「へんねぇ、萩月さんは蘭さんとその息子さん。蓮さんと二人暮らしだったはずよ」

「え?」

「息子さんは結婚はしていたはずだけど……奥様が事故で亡くなってた筈。お子さんが産まれてたって話は聞いたことないわね」

 否定のナイフは容赦なく夏子の心を抉り、

「ぁっ…………」

「ん? お嬢さん、顔色が悪いけど……どこか具合でも?」

「いえ…………大丈夫、です。お話……ありがとう、ございました」

残酷な答えに嬲られた心でなけなしの言葉を返す夏子。

「そう? じゃあ私も用事があるから行くわね、気をつけてお家に帰ってね」

 そう言って女性は小さく手を振り、路地へ姿を消した。

「…………………………………………」

 夏子は光の消えた瞳で女性が去った路地を呆然と眺め、あかりが入れ替わるように息も途切れ途切れの汗だく姿で現れた。

「や、やっと……み、見つけたぁ…………」

 もうクタクタと疲労を滲ませた足取りで夏子に歩み寄るあかり。

 あかりは夏子の正面に経つと右手に持っていたものを差し出し、

「ほら、スマホ……落としていったわよ」

「ぁ…………」

夏子はそれを恐る恐る受け取った。

 受け取ったスマホを虚ろな瞳で眺める夏子。

 あかりは夏子の様子に何かしろの意図を酌んだのか、悩みながらも小さく息を付く。

「何があったのかは……わからないっ、けど……学校に戻るよ」

意気も途切れ途切れに夏子の手をそっと握り、静かにゆったりとした足取りで歩き出す。

 あかりに連れられるように歩き出した夏子。が、その足取りは酷く重く、まるで抜け殻――――ただ生きているだけの人形の様に見えた。


††††††††††††††††††††††††††


 凜の家を後にしてから四時間後。夏子は一人、屋上にいた。

 空は朱に染まり、フェンス越しに見下ろす校庭には放課後の部活動や帰宅する生徒達の姿があり――――――当たり前の日常が広がっていた。

「…………………」

 その当たり前の光景を眺めていた夏子の瞳に光はなく、まるで虚構の演劇を眺めるような無機質さに染まっていた。

 あかりに連れられ凜の家を後にしてからの記憶は酷く曖昧で、気が付いた時には職員室にいた。そこでうっすらと覚えているのはあかりと一緒に担任の先生に怒られていた、ような気がするだけの記憶。

 勿論、説教の内容は覚えておらず、その後の授業もどんな教科でどんな内容だったのかも覚えてない――――――覚えている事があるとすれば、それはつい先程の事。

 放課後、教室であかりが部活に向かう前に言った一言だけ。

「夏子、私には夏子に何があったのかわからない。けど…………あんたの中で整理がついて話しても良いって思えたら話してよね。私、いつでも聞くからさ」

 正直、そう言ってくれた事は心から嬉しかった……だが。

「話してよ、か」

 二週間前、自分は通り魔に殺された。殺されて幽霊になり、凜に取り憑き生き長らえた。そして自分を生き返らせると『死神』が来て、怖い化け物に襲われた。それから生き返る為に『未練』を探して、敵の『死神』と対決して心臓を貫かれ………そして目が覚めて生き返ったら今日だった。

「……こんな話、話せないよ」

 夏子は校庭の日常の喧噪から赤く染まった太陽に視線を上げ、目を細める。

「凜が…………いない」

 生き返り戻ってきた自分の居場所は、酷く空虚なモノに見えた。

「凜が…………いない」

 夏子はそう呟き、胸の中で膨れ上がる感情に堪えるようにフェンスに額をぶつけ、

「何で? 何で誰も凜の事知らないの?」

目に映る日常から目を背けるように、顔を俯ける。

 日常から逃げた視界は涙で滲んで、

「何で、だれも凜の事…………覚えてないの? 何で誰も、何でっ!? 何でなのっ!?」

受け入れられない現実に声を絞り出す。

「会い、たいよぉ」

 今にも崩れそうになる心で。

「凜に、会いたいよ」

 たった一つの、なんてことのない願いを。

「会って言わないきゃいけないこと、たくさんあるのにっ!!」

 私を護る為に戦ってくれた事。忘れないって約束してくれた事。私の為に危険な目に遭わせてしまった事。私を生き返らせてくれた事…………そして。

「まだ何も言ってないのにっ!!」

 今まですぐそこにあった掛け替えのない大切な願いを。

「凜にまだ伝えてないのにっ!!」

 必死に堪えていたものが頬を伝い、

「会いたいっ! 会いたいよっ!! りーーーーーーーーーーんっ!!」

感情のままに空へと叫んだ。

 心から沸き上がる温かく、優しく、愛おしい想い。

 その全てを今ある日常へ叫ぶが夏子の願いは、掛け替えのない想いは日常にあるもの全てに届く事はなく、朱に染まった空へ無情に響き渡り――――――




「何ですか? 夏先輩」




――――――呼ばれたから答えた。そんな、ごくごく普通な声音が背後から耳に届いた。

 瞬間。夏子は弾かれるように振り返り、涙で歪む視線の先にいたのは。

「今、僕の事呼びましたよね?」

「――――――っ!?」

 いつも心を優しく包む笑顔をくれる少年。

 見間違いようのない綺麗な紫色の髪に、髪と同じ紫色の左眼と黒の右眼。可愛らしさを詰め込んだ見た目完全小学生の少年が、自分と同じ制服に身を包み、首を傾げながら夏子を見上げていた。

「りっ、凜?」

 夏子はその少年に名を呼び、

「はい、そうですけど。どうしたんで……っ!?」

凜が夏子の問い掛けに答えると同時に思いっきり抱き締めた。

「凜!!」

「んぐっ!?」

 夏子は抱きしめた凜の柔らかい感触に、伝わってくる確か温もりに心が満たされていくのがわかった。

「凜っ!!」

 私の腕の中に凜がいる。凜はちゃんといる。凜はここにいるっ!!

 夏子は自分の腕の中にいる凜の感触、温もりを放したくないと彼の小さな体を尊ぶように腕を絡め、

「凜…………」

「ムゴッ!! フゴゴッ、フゴ!? …………ッ」

抱きしめる腕にあらん限りの力を込めた時だった。

「ナツコーーーーーーーーーッ!! 凜が死んじゃうわよっ!?」

 屋上のドアが乱暴に開かれ、穏やかな夕暮れ空に似付かわしくない絶叫が轟く。

「セ、セフィリアッ!?」

理性に抉り込むような鋭い声にハッ!! と我に返る夏子。

 夏子はその声に慌てて涙を袖で拭い、それから一瞬の間もなく、もう一度絶叫じみた声が響く。

「ナツコッ!! リンを放してっ!! 窒息死させる気っ!?」

「ちっ、窒息?」

 突如、出入口から飛び出してきたセフィリアの慌てぶりに夏子は視線を凜に向けて、

「り、凜っ!?」

瞳映った凜の姿にギョッ!! と目を大きく見開いた。

 そこには夏子の胸に顔を埋め……いや、正確には夏子に胸を押しつけられた凜がいた。

 表情は豊満かつ包容力限界突破の胸に埋もれておりわからなかったが、両手は力なく垂れさがり、そよ風にふらふらと揺れ、小さな体は全身痙攣させていた。

 それは明らかに異常をきたした姿であり、無言でありながら懸命な訴え。

「り、凜っ!? しっかりしてっ!?」

 夏子はすぐに凜を放し、肩を大きく揺さぶりながら、先程とは違う意味で涙が出てくる。

「…………はっ!? あ、あれ? さっきまで綺麗な花畑にいたはずなのに…………」

「あぁっ!! 良かった!!」

 僅かばかり向こう側へいた発言に安堵の涙と共に苦笑いが溢れる夏子。

 そしてその光景にセフィリアがホッと胸を撫で下ろす。

「ほほっ!! 熱い抱擁じゃったのぅ、儂も若い頃は爺さんとよくしたもんじゃ」

 いつの間にかセフィリアの後ろで口元を着物の袖元で隠しながら笑っている蘭。

「ら、蘭さん!? あ、あのこれはっ!?」

「いやいや、皆まで言わんでもわかっとるよ。早速凜と子ヅゥゥッ!?」

 何かを言う前にセフィリアが蘭の頭にチョップをお見舞いして、

「そういう絡みは後にして下さいっ!!」

ほんのり頬を赤くしたセフィリアが蘭を睨み付けていった。

「ぐぉ…………っ、セフィリア。少しは加減を」

「ランさんなら大丈夫です!!」

 たんこぶの出来た頭を押さえながら悶絶に呻く蘭の言葉を両断。セフィリアは気を取り直すように小さく息を付き、

「ごめんね、ナツコ。せっかく生き返ったのに驚かせて」

凜の隣へと並び立つ。

 それからムッとした不機嫌な表情で凜の背中を叩き、

「ほらっ!! リンも謝って!!」

「ス、スミマセンでした」

かけ声にズバッと深く鋭い一礼をする凜とセフィリア。

「どっ、どういう事?」

 夏子は二人が頭を下げる理由がわからず目を丸くする。

「さっきリンにあった時の反応だと知ってると思うけど…………リンの事、誰も知らなかったでしょ?」

夏子の問い掛けに二人は頭を上げ、セフィリアが顔色を窺うように問う。

「う、うん!」

 曖昧な記憶を辿っているのか、夏子はこめかみを一定のリズムで人差し指で小突き、

「私、あの『死神』に胸を刺されて、凜が変な光の玉にされたところまでは覚えてるの。でも、気が付いたら生き返ってて……誰も凜の事なんて知らないって」

「ごめんね、ビックリさせちゃって……でも、大丈夫よ。最初から説明するわ――――リンが」

何の迷いなく承諾したセフィリアがサラリと凜へ横投げする。

「へっ!? ぼ、僕がするのっ!?」

 強引も強引。一切予想してなかった展開に凜が戸惑いに声をあげ、セフィリアが深く息を付いた。

「ここに来る前にも説明したけど、私とランさんは色々大急ぎで済ませなきゃいけない事があるの。それに一通りの事はアンタにもちゃんと説明したし、何の問題もないでしょうが」

「そ、それはそうだけど…………ちゃんと説明できるかなぁ?」

「まぁ、ナツコには悪いんだけどそういう事だからさ。詳しい話はリンから聞いて」

 自信なさげに考え込む凜を余所にセフィリアは夏子の肩を左手でポンと叩き、凜に見えないよう満面の笑顔を浮かべながら右手で拳を握りグッ!! と、親指を立てる。

 夏子はセフィリアの笑顔と言葉の真意がわからず、

「え? ちょっ、セフィリア?」

「じゃあ、この場はリンに任せて私達は任務に戻りましょう。ランさん」

「そうじゃの、あとは若い二人に任せて。儂等は仕事に勤しむとしようかのぅ」

意味深な言葉と共に向けられた色めき立った二人の視線に意図を悟ったのか、

「っ!?」

夏子は目を丸くし、頬を上気させた。

 セフィリアはパチンっ!! と指を弾き、蘭は夏子の様子に満足げに相槌をうつ。

「一応、話の邪魔されないように人除けの法術張ったから。あとよろしくね、リン」

「話が終わったら遅めに帰って来るんじゃぞぉ」

喜んでいるような、茶化すような言葉を残し、屋上をあとにする二人。

「あ、あのっ!?」

「二人共、仕事頑張ってね」

 狼狽する夏子の隣で一人、場の意図を理解していない凜が微笑ましい笑顔で二人を見送った。

 二人の姿がドアの奥へと消え、出入口のドアがバタンッ、と閉じた時。ふと凜の脳裏に疑問が過ぎった。

 ――――あれ? 仕事に行くなら跳んで行った方が良かったんじゃあ…………。

 そんな疑問に首を傾げつつも、凜は「まっ、いっか」と夏子へ体を向けた。

「夏先輩」

「ひっ、ひゃいっ!?」

 話を始めようと声を掛けただけだったのだが、何故か驚いたにように肩を跳ね上げ、声も変に裏返った夏子にキョトンと目を丸くする凜。

「だ、大丈夫ですか? 夏先輩」

「だ、大丈夫よっ!! 気にしなくて良いから、早く説明をお願い」

「は、はぁ………大丈夫なら良いんですけど」

 どこか腑に落ちない凜だったが夏子の言う通り、話をしなければと小さく咳払いをする。

「まず、夏先輩が気を失った辺りの事を簡単に説明します」

「うん」

 夏子の相槌に凜も小さく頷き、あの時の状況を掻い摘んで話していく。

 自分がジュマに事象を自在に操る【事象隷属経典アポカリプス】に造り換えられられた事。そしてそれを切っ掛けに目覚めた能力【略奪者ブリガンテ】で【事象隷属経典アポカリプス】を破壊。その後、ジュマと戦い勝利し、その魂を取り込んだ事を告げた。

「夏先輩が気を失った直後の事は大体こんな感じかと」

「な、なんか凄い大変な事になってたみたいね…………」

 自分も当事者とはいえ、にわかに信じがたい程の状況に陥っていた事に唖然とし、

「まぁ、それはそれで大変でしたけど…………本当に大変だったのはその後ですかね」

そんな夏子の様子に苦笑する凜。

「後の事って?」

「夏先輩を生き返らせる時ですね。夏先輩の魂…………かなり危険な状態だったんですよ」

「えっ?」

 思わぬ言葉に夏子は顔を強張らせ、その表情に凜の瞳に後悔と自責の念が灯る。

「今言ったみたいに夏先輩の魂…………霊体の『核』を『死神』に貫かれて、粉々に破壊されてたんです」

「粉々って…………」

 凜の言葉に夏子はそっと自分の胸に手を置いて心臓の鼓動を再確認し、

「セフィリアの話だと本来であればその状態からは『事象回帰』や他の儀式法術でも『核』を復元することも、夏先輩を生き返らせることも不可能だったんです」

「えっ? じゃ、じゃあ……私どうやって?」

 告げられた事実とは真逆の今の状況に夏子の表情は不安と疑問に歪み、凜がどこか気まずそうに頬を掻き、様子を伺うように呟いた。

「…………その、粉々になった『核』を他の人の『核』で代用したんです」

「『核』を代用…………っ!?」

「正確には共有なんですけど、それで儀式法術を使用できる状態にしたみたいで…………っ!?」

 話を弾き飛ばすように凜の肩に掴みかかり、

「したって!? そんな、私の為に誰かを犠牲にしたって事じゃない!?」

罪悪感に揺れる瞳と自責に焦がれる声音で問い詰める夏子。

「何でそんな事したの!? 私を助ける為に他の誰かを犠牲にしたら意味ないじゃない!!」

「お、落ち着いて下さい、夏先輩っ!!」

「落ち着いていられるわけないじゃないっ!! 私の所為で別の誰かが死ん」

「ぼ、僕です!! 夏先輩と魂の『核』を共有してるのは僕なんですっ!!」

 罪を背負うように叫ぶ夏子に、そんな事しなくて良いと懸命に声を張り上げ遮る凜。

「…………え?」

「だ、だから夏先輩と『核』を共有しているのは僕なんです!! だから誰も犠牲になんてしてないですから安心して下さい!!」

「…………凜、と?」

 先程までの激高が嘘のように消え、代わりに夏子の表情に張り付けられたのは驚愕。

「な、なんで?」

 感情の落差について行けないのか、夏子は呆然と凜を見つめ、そんな視線にばつが悪いとばかりに顔を俯ける。

「そ、その…………取り込んでしまった皆を解放する為に僕も魂を砕いたんです」

「なっ!?」

「僕も夏先輩も『核』を共有する魂が必要になってしまったので、粉々になった魂の『核』を結合して二つに分け直したと。それで僕の膨大な魔力が『楔』の役割をしてくれているらしく、常に繋がった状態で二つに分かれていても一つの『核』として作用する…………らしいです」

 もう一つ付け加えれば魂の『核』が繋がったと言うだけで記憶や精神まで繋がる事はないらしく、そこは安心してくれて良いとの事だった。

「…………よ、よかったぁ」

「驚かせてしまってすみません」

 心の奥底から安堵に脱力する夏子に、申し訳なさに苦笑する凜。

 最初、自分の魂を犠牲に『事象回帰』を終えるまで夏子の魂を保たせるつもりだったのだが……これは心の片隅にでもしまっておこう。

 と、凜がそんな事を考えていると夏子は呼吸を整え、凜の肩からそっと手を放した。

「私達二人共大丈夫だっていうのはわかったけど……肝心の生き返った理由がわからないんだけど?」

「あっ、その話をするつもりだったのにちょっと話が逸れちゃいましたね」

「ご、ごめんね? 私が変に焦っちゃって」

「いえ、気にしないで下さい」

 そういって互いにクスッと小さく笑みを溢し、気を取り直すように凜が話を戻す。

「肝心の夏先輩が生き返った理由なんですけど」

「うん」

「『事象対価操作じしょうたいかそうさ』っていう事象操作系法術を使ったみたいです」

「事象、代価…………?」

「はい」

 ――――――『事象代価操作じしょうたいかそうさ』。

 それは当初、夏子を生き返らせる為に使用するはずだった『事象回帰』の上位法術。

 この法術は代価を一つ差し出す度に一つ、望みの事象を扱える法術。そしてこの法術に必要な代価は――――『死神』の魂。

「幸い、『死神』の魂はジュマの……アイツのが僕の中にあったので使わせて貰ったって言ってました」

 そして『事象対価操作じしょうたいかそうさ』を使って操作した事象は――――――『神村夏子の復活』。

「だから、私…………生き返れたんだ」

「はい。本当は使っちゃいけない禁術だったみたいですけど――――迷惑を掛けたお詫び、って言ってましたよ」

「お詫びって……こっちこそ迷惑かけちゃったのに」

「僕もそう言ったんですけどね――――そんな事言ってたらキリがないでしょ、って言われちゃいました」

「ははっ、セフィリアらしいね」

 素直じゃない友達の言葉に心の中で感謝し、残っていたもう疑問を凜に問い掛けた。

「私の事はだいたいわかったけど…………凜が皆から忘れられている理由って何? それに私は殺された日より前に生き返るって話だったけど、二週間も進んで生き返ってるのは何で?」

「えっと…………先に僕が忘れられている理由からいいですか?」

「うん、大丈夫」

「それはですね、僕の体を造る為に・・・・・・皆の記憶と世界の事象記録を使ったから、らしいです」

「へ?」

 凜の話の中である一言が耳に引っかかり、思わず間の抜けた声を出してしまう夏子。

 そして困惑に眉を寄せ、

「体を造るって……凜は【事象隷属経典アポカリプス】から出た時にはちゃんと体があったんでしょ?」

「その時は僕も夏先輩と同じで『幽霊』に近い状態だったらしいです」

「え? な、なんでそんな事に?」

唐突すぎる内容に動揺する夏子へ、落ち着かせるように静かな声音で話を続ける凜。

「それは僕の能力――――【略奪者ブリガンテ】の代価が原因なんです」

 略奪を主とする能力であり、その略奪対象は肉体、魔力、魂、存在、世界、事象とありとあらゆる定義に確立されている、いないに関わらず――――【神】を含めた万象全て。

 その『在り方』を強制的に視認――――――『核』を具現化。その具現化した『核』に触れる、もしくは破壊する事で魔力へと変換し、自身の力として取り込む能力。

 そんな尊大で傲慢の塊とも言える強力な無比な力の代価は――――――

「――――肉体の消失。それが僕の力の代価、らしいです」

「体の消失って…………」

「【事象隷属経典アポカリプス】に造り換えられた所為で、体が壊れちゃったのが引き金だってお祖母ちゃんが言ってました」

 そしてそれは魔力を扱う術を知らなかった凜が上位の存在である『死神』と戦い、打ち勝つ事ができた要因でもある。

 力を覚醒した凜の状態は霊体、というよりは膨大かつ強大な魔力の塊と言った方が正しいだろう。

 たとえ力の扱い方を知らずとも、力そのものとして存在している時点で力を行使しているのと同じであり、存在そのものが圧倒的な攻撃として成立する。故に力の根本である魂――――感情が高ぶれば、それにつられ力も増大。意図せずとも理不尽な力を振り回す事ができる。

 まぁ、今は力の源だったセフィリアの魔力や住民達の魂を返還し、体も元通り。

その為、弱体化した能力に蘭が封印を施し、力も今まで通りただ『幽霊』と普通に接する事ができる程度に戻った……のだが。

「そ、その…………体を造るのに皆の記憶と事象記録を使った、って言ってたけど戸籍とかそういうのも?」

「はい、僕に関する記憶は思い出や記録、それこそ出生した事実といったもの全部が無くなったみたいです」

「じゃあ、学校とかは!? それにこの先生活していくのにだって困るし、就職だって」

「あぁ、それは大丈夫だと思いますよ」

 まるで自分の事のように慌てふためく夏子に、凜が他人事のようにケロッと答える。

「今セフィリアとお祖母ちゃんが『事象に歪みが出ない程度で記録を模造する』って言ってましたから」

「模造するってそんな簡単に…………あっ、法術か」

「ですね」

 凜の肉体としての基本情報を経る為に大小、関係性の深い浅い関係なく町の住人達から記憶を、そして世界からは皆から奪ってしまった記憶の矛盾や歪みをを取り除く為に事象としての記録を代価にした。

 その為、夏子が体調不良だったり学校の生徒が凜を知らなかったり。凜の携帯の番号がなかったり、近所の人が凜だけを知らなかったりと色々書き変わっている。

「なので出生とか戸籍はなんとか…………でも、さすがに代価にしただけあって皆の記憶はどうにもできないみたいです。なのでセフィリア以外で僕の事を憶えているのは夏先輩にお祖母ちゃん……それに父くらいですね」

 蘭と父――――蓮は『死神』と深い関わりがある事と膨大な魔力を有する為、この法術の対象外になっているらしい。

「それと夏先輩が生き返る日程が進んでずれてしまったのは…………」

 本来であれば夏子は四月二十二日、つまり殺された日に生き返るはずだったが、凜と魂の『核』が共有してしまった為に、肉体を作った時の代価。記憶と事象記録上では凜がこの町にいなかった筈の時間に戻れなくなってしまったのだ。

 そして数日ずれたのは凜と夏子、二人分の肉体生成に時間がかかってしまった所為だ。

「そんな訳で……その、夏先輩を驚かせる事になってしまったんですけど……」

「もう、ほんとにビックリしたんだからね?」

「あはは……ほんとすみませんでした」

 そういって夏子へ申し訳なさに頭を降ろし掛けた凜だったが「あっ」と、何か思い出したように声をあげる。

「どうしたの?」

「言うの忘れてた事が一つありました」

「ま、まだ何かあったの?」

 また重大な事を言われるのではないかと身構える夏子。が、それとは裏腹に凜は満面の笑みでヒョコッと夏子の前に立ち、

「夏先輩」

「な、何? 凜」

戸惑いながら身構える夏子へ告げる。

「お帰りなさい」

「あ…………」

 その言葉に目頭が熱くなり、それを誤魔化すように。それでいて嬉しさだけを詰め込んだ声で応えた。

「…………ただいま」

 そう、自分は帰ってきたのだ。あの日、通り魔に殺されてから始まった非日常的な日々から…………理不尽な結末で閉じられた世界から。

 そしてそう自覚すると同時に、夏子もまた凜へ伝えておくべき言葉を思い出し、姿勢を正す。

「凜」

「はい、なんですか?」

「私を助けてくれてありがとう」

「え?」

 唐突だった夏子の言葉に、凜は呆気に取られたが。

「私なんかの為にたくさん、たくさん迷惑かけちゃった」

「…………いえ、迷惑だなんて」

 夏子の様子に何か接してたのか、凜は夏子の言葉を待った。

「私なんかよりずっと凜の方が大変だったのに…………本当にありがとう」

 ありのままの自分を受け入れ、ずっと助けようとしてくれた凜。

「私が幽霊になっても怖がらずに接してくれたこと。私を通り魔の幽霊から護ってくれたこと」

 自らの命が危ないとわかっても、ずっと自分を助けてくれようとした凜。

「私の事を忘れないって約束してくれたこと。私を生き返らせてくれたこと」

 ここ数日の凜の姿が頭に浮かんでは、心が感謝に溢れ、

「その全部に、心から感謝してる」

嘘偽りない、何の混ざり気のない純粋な感情を言葉に込める。

「本当にありがとう」

 そんな夏子の純粋な笑顔に凜も小さく微笑み返し、

「いえ、僕も夏先輩に助けて貰いましたから……おあいこです」

「わ、私が?」

夏子を真っ直ぐ見詰める凜。

「僕の所為で巻き込まれたのに、僕の所為で夏先輩を危険な目に遭わせてしまったのに…………それなのに夏先輩は僕のことを心配してくれた」

 凜は自分の胸に手を添えて、

「こんな僕を心配してくれて、僕が背負ってるモノを一緒に、少しでも背負ってくれるって言ってくれた時…………本当に涙が出るくらい嬉しかった」

痛みを含んだ笑顔で姿は何故か、一番凜らしく見えた。

「その一言に、僕は夏先輩に助けて貰いました。だから、僕も心から感謝してます…………本当に、ありがとうございます」

 そういって勢い良く深々と頭を下げる凜に、

「こちらこそ…………どういたしまして」

夏子もゆっくり、気持ちが伝わるようにお辞儀する。

 そして合わせるわけでもなく、共に顔を上げて。

「…………ははっ」

「…………あはっ」

 心が通じ合っているような温かくも優しい感覚に笑みを溢す二人。

「……………………」

「……………………」

 それから数秒程の沈黙が流れ、互いに満ち足りた表情で見つめ合い、

「話も終わりましたし……今日も一緒に帰りましょうか、夏先輩」

今までと変わらない日常へ戻るように屋上の出入口へと凜が体を向けようとした時だ。

「…………凜」

 静かで、それでいて明確な想いが込められた夏子の声が響く。

 凜はその声に体を止め、また夏子へと向き合う。

「何ですか? 夏先輩」

「あの、ね………私、ずっと凜に言わなきゃって思ってた事があったんだ」

「僕に、ですか?」

 凜は不思議そうに首を傾げ、

「うん、そう」

夏子は凜に背を向け、フェンスへと歩み寄る。

 夏子はフェンスの側まで歩み寄るとそっと右手をフェンスにかけ、

「凜は憶えてる? ここでした約束」

恐る恐る問い掛けた。

 その問い掛けに凜は静かに頷き、そっと答える。

「はい、憶えてますよ」

 ―――――――――じゃあ明日、放課後屋上で。

 凜と夏子の日常が途切れたあの日、最後に交わした約束。

「確か、大事な話があるって言ってましたよね? それが僕に話したい事、ですか?」

「うん、そう」

「それで僕に話って言うのは…………」

 何ですか? と、問いきる前に夏子が凜へと振り返り、

「あのね、凜」

フェンスから離れて凜のすぐ正面まで歩く。

「はい?」

「凜は好きな娘いる?」

「………………へっ?」

 唐突すぎる質問に凜は普段よりも高い声をあげて、

「好きな娘って…………確かあの日もそんな話になりましたよね? 僕は『いない』って答えた気がするんですけど?」

確認するように夏子を見上げる。

 夏子は戸惑いと疑問に首を傾げる凜に、苦笑とは違う苦々しさに微笑んだ。

「そう、だったよね」

 そう、あの時。凜は自分質問にそう答えた。

 正直な話、そう言われて安心したのと一緒に――――少しだけ寂しかった。

  ――――――いない。それは自分もそういう対象として見られてないなかったという事。

 その痛みを撫でるように胸に手を添え、真っ直ぐ凜の視線に瞳を重ねる夏子。

「私はいるよ……好きな男の子」

 自分で言った言葉に体が急激に熱くなり、頬が上気するのがわかる。

「えっ!? 夏先輩、好きな人いるんですか!?」

 その言葉に夏子は心の中で苦笑し、

「好きな人がいたら悪いの?」

ジトッとした目つきで凜を睨む。

「い、いえっ!! その、夏先輩って色んな人から告白されてても全部断ってたじゃないですか。だから、なんでだろうなぁ? って不思議に思ってて。で、誰なんですか? 夏先輩の好きな人ってっ?」

 興味のあることを知りたがる子供の様に目を輝かせる凜。

「大丈夫ですよ、夏先輩!! ちゃんとここだけの秘密にしますから」

「いいよ、別に。秘密にしなくても」

「え、いいんですか?」

「うん」

 と、意外な夏子の返答に目を丸くし、

「まぁ、そう言われても別に言いふらすつもりはないですけど…………」

むやみに話をしないようにと気配りする凜。

 そして場を仕切り直すように夏子がコホンッ! と咳払いをし、

「じゃあ、私の好きな人…………発表します!!」

「っ!?」

意を決した夏子の声に、凜はピシッと姿勢を正す。

 互いに真摯さだけを込めた瞳で見つめ合う二人。

「……………………ゴクッ」

「……………………」

 何とも歯がゆい緊張感が張り詰める沈黙に凜は唾を飲み、夏子は緊張に強張った凜の様子に今までの出来事が思い浮かんだ。

 凜に取り憑き触れる事が、凜に私を感じてもらえることが嬉しかった…………まぁ、スカートの中は見られちゃったけど、それは結果オーライ。

 その次の日は凜に屋上で「嫌でも忘れてあげませんよ」って言われて大泣きしたし、初めて二人一緒に商店街に出掛けた時はちょっとしたデート気分で楽しかった。

 凜は自分が命を狙われてるのに「夏先輩を助けるっ!!」て一生懸命で、身の危険を顧みずに私を生き返らせてくれた。でも、その所為で凜は自分の十六年間の大切な時間を無くしてしまった。私の為に…………人生を捨てさせてしまった。

 そんな凜に、私ができる事なんて何もないのかもしれない。

 何も恩返しなんてできないのかもしれない――――本当ならこの想いも伝えちゃいけないのかもしれない。でも、それでも私はこの想いを伝えようと決めた。 

 だって、この想いがあったから私はこの世界にいられた。

 この想いが私を凜と繋げていてくれたから…………今、私はここにいる。

 この想いがあったから私は凜とこうしていられる。

 でも、この想いは凜から奪ってしまった時間への償いなんかじゃない。これは私が私に、私から凜に。


 ――――――私以外の全てに向ける意思表示。そう、ただの自分勝手な我が儘だ。


 これから凜が過ごしていく時間の全てに、私が隣で一緒にいる。一緒に作っていく――――――他の誰でもない、私が。

 だからこそ目の前にいる凜に伝えよう、何の打算も偽りも後悔も何もない――――私の純粋な想い。

 心の中で枯れることなく溢れ出る温かくて、優しくて、輝いていて…………私を満たしてくれているこの想いを。

 伝えよう、世界で一番大切な人へ。

 伝えよう、世界で一番愛おしい人に。


「私は」


 優しい朱色に染まる世界。

 その世界の中で凜と私の現実離れした非日常へ別れを告げて、今度は凜だけの日常じゃない、新しい日々へ一歩踏み出す。

 その始まりに私はずっと想い続けてきたこの言葉を凜に贈る。




「私、神村夏子は――――――」






 愛しさに溢れた想いと共に、朱の世界で凜と夏子の新しい日常が紡ぎ出す。


『神村夏子編』終了しました。次は『エリス編』を完結させてから再スタートします^^;

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