――― 始まり紡ぎ ―――
暗い、暗いだけの世界。感覚的には何も感じていないのに、まるでそこにいて体験している様な現実味。その感覚に――――またか、と悔恨に心がざわめく。
ただ見ることしか出来ず、ただ理不尽に突き付けられる夢の世界。
「…………ぁっ」
周りの景色が変わった瞬間、無駄と理解しながらも両目を塞ぐ。
この先は絶対に視たくないのに、両目を思いっきり閉じて眼が破裂しそうなくらい両手で押さえても脳に直接映像が流れ込んで来る。
目の覚めるような青空に、周囲を飾るように生い茂る木々。
その木々にはたくさんの小鳥達が羽を休め、愛らしい声で言葉を交わす。
場所は家の近くの公園。設置されてから数年経つ遊具は、そのどれもが入念に手入れされているのか新品といかずとも、子供の遊び心を擽るのには充分すぎるほどだった。
そしてそこにいるのは小さい頃の自分と母。そして長い銀髪の女性。
そう、これだけならなんの変哲も無い普通の光景。ただ公園で会話をしているだけの平凡な日常だった…………銀髪の女性が身の丈ほどの大鎌片手に、血まみれで横たわる母を踏みつけにしていなければ。
幾度となく見せつけられてきた逃れる事の出来ない歪な情景。
幼い頃の自分はこの光景を、目の前で起きている事を信じたくなくて、認めたくなくて……ただ呆然と見ている事しかできなかった。
そんな自分へ見せつけるように、制服じみた黒衣に身を包んだ銀髪の女性は嘲り笑い、握っていた大鎌を振り上げ――――――
「――――――やめろっ!!」
これは夢だとわかりつつも、叫ばずにはいられなかった。
血まみれで横たわる母を助けようと、大鎌を振り上げる女性を止めようと走り出し。
「母さんっ!!」
助け出そうと必死で手を伸ばすが、それと同時に大鎌が振り下ろされ。
「やめろおおおおおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉっ!!」
夢の中の絶叫と同時に体が跳びはねるように起き上がり、
「っ!!」
母を助け出そうとして伸ばす手が掴むのは、見慣れた青空。
「……………………」
伸ばした手を見つめながら無言で引き戻し、
「…………」
無力感にはき出した言葉を握りつぶすように右手を握りしめる。
「なんで……最近、こんな夢ばっかり」
体中から嫌な汗が滲み出て、うっとしい程に怠さを感じる。
悪夢を見たせいか、心臓がダダっ子の様に激しく脈動する。
夢から覚めた少年は胸を押さえ、深く息をついた。
「二度寝は……無理かな」
桜舞う四月。優しく撫で付けるように柔らかい風が吹き、特異な紫色の髪が身を委ねるように揺れる。
今は昼休み。場所は学校の屋上、正確には屋上の出入口の横にある梯子を上がってもう一段高い所に少年はいた。
少年の名は萩月凜、紫苑高校二学年、十六歳。
凜は最悪の目覚めをはき出すようにため息を付きながら、淀んだ気分を押し出すように両手を突き出しながら大きく体を伸ばし、
「すっ好きです!! 俺と付き合って下さい!!」
不意に響く男の声に伸びが止まる。
「ん…………」
微かに震えを帯びたその声に、凜は身を低くしながら進む。
「その、あなたの気持ちすごく嬉しい」
男の声に続いて今度は女の声が耳に届く。
「あれ? この声って…………」
聞き慣れた女の声に首を傾げ、
「じゃ、じゃあ」
息を殺しつつ、顔半分を覘かせ下の様子を伺ってみる。
凜の視線の先には制服姿の一組の男女の姿があり、その様子と会話の組み合わせから『告白』という言葉が彼の脳裏に浮かんだ。
目の前で起こる甘酸っぱい告白イベントの行く末をひっそりと見守りながら、
「やっぱり、夏先輩だ」
見覚えのある先輩の姿に感嘆のため息をついた。
凜の通う高校―――――私立紫苑高校で他校も含め他者の追随を許さぬと名高い学校一の美少女。三年、神村夏子。
絹のように白い肌、紅みがかった澄んだ瞳。造形の良い鼻に、血色の良い柔らかそうな唇。それらがそこにあることが当然と整った顔立ち。ブレザー式の制服越しでもハッキリとわかってしまう起伏に富んだ双丘。無駄なく引き締まったくびれに、それをよりも強調するようにでたお尻。身長も女性の平均身長よりもやや高く、テレビや雑誌に出てくるモデルでさえ比較にならない程の美貌。
美しい――――その言葉を体現する夏子の姿に頬杖をする凜。
夏先輩、これで今月何人目だろう?
呆れと感嘆。その二つが混じり合った少年のため息が合図だったかのように、夏子が相手の男子に頭を下げた。
「ごめんなさい」
「うわぁ…………」
凜は心の中で男子に「よく頑張った」と賛辞を贈り、
「……っあ」
甘酸っぱい恋の花が呆気なく散ってしまった男子生徒は状況に頭が追いついていないのか、口をパクパクさせながら呆然としていた。
「ごめんなさい」
夏子がもう一度その言葉を口にして、男子生徒は我に返ったようで慌てて謝り返した。
「いえ、気にしないで下さい…………気持ちを伝えられただけで十分ですから。じゃあ、俺はこれで」
引き攣った笑顔で男子生徒は夏子へ小さく会釈をし、早足で逃げるようにドアへ。一度も振り返ることなくドアを開きバタンっ!! とドアが閉まる。
「………………」
夏子はそれからしばらく経ってから身体を起こして、
「…………ハァ」
ため息をつきながらフェンスに近寄って手をかけ、外を眺めていた。
思わぬ青春イベントを見てしまった凜は黄昏れる夏子を眺めながら「断る方も大変なんだなぁ」と、恋愛の奥深さを心に据えながら梯子を降りた。
降り切っても夏子は気づかず、なるべく驚かせない様にと声量を抑える凜。
「お、お疲れ様です。夏先輩」
「っ!?」
が、その声にビクッと夏子の肩が跳ね上がり、夏子は物凄い勢いで振り向き。
「り、凜!?」
いつの間にか背後に立っていた少年の名を叫び、驚愕にフェンスに寄り掛かるように後ずさりする夏子。
「ははっ……こ、こんにちわ」
気まずげな笑顔で挨拶をする凜。
「い、いいっ今の…………」
「はい、俺と付き合って下さい…………のところからいましたよ」
「なな、なんでっ!?」
首筋まで真っ赤にして焦る夏子。
「なんでって……いつもお昼は屋上で食べてるじゃないですか。夏先輩だっていつも屋上でご飯食べてるんだから知ってますよね」
「そ、そうだけどっ!! 来た時に姿が見えなかったから、てっきり今日はいないんだなって」
「まぁ、上の方で昼寝してましたから気がつかなかったんですね……僕が寝てるところに夏先輩達の告白イベントが発生して。ついさっき起きたんですけど」
凜は申し訳なさにほっぺを掻き、苦笑いを浮かべる。
なんか、物凄く驚いてる…………悪い事したなぁ。
「今の人、二年生ですよね」
この学校ではネクタイを学年別に一年は橙色、二年は赤、三年は青で色分けしてる。
ちなみに凜のネクタイは赤。そして先程、恋の花が散った男子生徒も赤で同学年だ。が、記憶に新しいというか、あまり憶えがない。
そんな事を思いながら朧気に男子生徒の顔を思い出して、
「結構格好よかったのにもったいない」
凜は頭一つ分高い夏子を見上げるように視線を合わせた。
「まぁ、格好よかったとは思うけど……」
「夏先輩のストライクゾーンではなかったと」
凜は気の毒にと苦笑いを浮かべて、
「そういえば凜、お昼済ませた?」
「十分くらい前に」
夏子の隣まで近寄ってフェンスに寄り掛かる。
「そう、なんだ」
凜の言葉に少し残念そうな表情を浮かべる夏子。
「夏先輩はまだですか?」
「ううん、軽く済ませたから」
「じゃあ立ち話も何ですし」
そう言って凜はすぐ近くにあったベンチに近寄り座る場所を手で払い、
「ほら、ここに座って話しましょう」
埃や汚れを一通り払い落とし、夏子をベンチにエスコートする凜。
「ありがとう」
夏子は長い髪を耳にかけて、ベンチに腰掛ける。凜も続いて座り、話を続けようとして。
「………………」
「………………?」
横目で自分を見る、というか睨んでるような目つきの夏子に首を傾げる。
――――――何だろ、僕なにかしたかな?
「あの」
「ねぇ、凜」
凜の声を遮り、夏子が話を進める。
「何ですか?」
どこか冷たい感情が見えかくれする瞳に凜は背筋を伸ばし、一言も聞きもらさないよう身構える。
「私にはもったいないっていうけど凜は彼女作らないの?」
「彼女って……あははははっははははははは!!」
あまり聞き馴染みのない言葉に、凜は腹を抱えてて大笑いした。
「ちょっ、何で笑うのよ?」
「くははっはは、はぁはははぁっつ…………だって彼女って」
凜の唐突すぎる笑い声に戸惑う夏子。そんな夏子の言葉に答えようと、息を整えて立ち上がる凜。
「夏先輩はどう思います?」
凜は夏子の正面に立って、両腕を広げて質問した。
「どう思うって?」
「僕の事ですよ。顔は子供っぽいし、背だって低くてよく小学生とまちがわれたりして性別が男っていうくらいにカッコイイ要素全くないんですよ? 成績だってそんなに良くないし……」
イケメン属性の無さを補う程の特技があるわけでもないが……もし強いて挙げるならば幼い頃から祖母に叩き込まれた格闘術くらいだ。
格闘術と言っても基本の型は空手というくらいでほとんど我流。有段者を相手した経験がない自分の技量はわからないが、少なくとも時々絡んでくるヤンチャな同世代には負けた事はない。
「まぁ、女の子に好かれる様なところはないと思いますし…………それに髪と瞳の色が紫色って気持ち悪いでしょう?」
凜は自己嫌悪に苛まれながらも、苦い笑顔で夏子にもう一度質問してみた。
「別に。私は気にならないけど?」
それがどうしたの? と、即答しつつ首を傾げる夏子に少し驚いて。
「そ、そうですか?」
「まぁ、人の好みもあるけど私は良いと思うけどなぁ…………」
夏子は凜の言葉を確認するように視線を流していく。
サラサラで少し長めの紫の髪に、むにむにと柔らかそうな肌。小さくて控えめな可愛い鼻に、血色のよい唇。左右の色違いのクリッと大きな丸い瞳。可愛いをたくさん詰め込んだ顔立ちは人によっては男の子というよりは女の子という方がしっくりくるかもしれない。
確かに本人がいう通り男の人特有の逞しさは全然ない。けど、そこが。と、そこまで考えていたらふとあることが気になった。
「そういえば話は変わるけど」
「何ですか? 夏先輩」
夏子は凜の右眼を指差し、その動作に一瞬だが凜の表情が強張る。
「凜。右眼の色、いつもと違わない? いつもは黒いのに銀色になってるけど……カラーコンタクト?」
夏子の言葉に反応するように右眼が少し疼き――――――しまったっ!! と、驚愕に顔を強張らせ右手で覆う凜。
さっき、昼寝をする前にずれて痛くならない様にコンタクト外していた事を忘れていた。
慌てて右眼を隠した凜の様子に、夏子は何か察したように口元をにやつかせた。
「なになに? 凜もついにオシャレコンタクト勢の仲間入り?」
「オシャレコンタクト勢って……その、別にオシャレとかコンタクトしてる訳じゃないですよ」
「えっ? 違うの?」
凜の答えが意外だったのかキョトンと首を傾げる夏子。
その様子に凜は適当に誤魔化そうかと考えを巡らせたが、今後また似た状況になっても面倒だと偽ることなく告げようと決めた。
凜は口元が引きつるのを堪えて、小さく笑ってみせる。
「右眼の……瞳の色が左と違うんです」
「瞳の色?」
「はい。そのいつもの黒い状態がカラーコンタクトで、こっちが元の色なんです」
「そうだったの?」
「えぇ、目立つって言うのが一番の理由でもあるんですけど……猛禽類って言えばいいのかな? ワニとかそういった感じの瞳の形をしてて、他の人達を怖がらせるかもしれないと思って」
「別に怖くないと思うけど――――――猫みたいで可愛いじゃない」
凜の言葉に夏子はまるで陽光の様に眩しい笑顔で告げ、その笑顔にほんのり頬を赤らめ、目を丸くする凜。
それからわずかだが妙な間が空き、自分を驚いたように見つめる後輩に首を傾げる夏子。
「凜、どうかした?」
「っ!? いっいえ、何でもありませんっ!!」
と、ハッと我に返った凜はこれ以上この話題を続けたくないのと、強引に話のベクトルを元に戻す。
「ま、まぁっ!! こんな何も取り柄もない僕を好きになってくれる人なんていないですよ」
「…………そんなこと、ない」
「へ?」
取り繕う様に浮ついた凜の声とは真逆。空気に溶けて消えてしまいそうな夏子の小さな声音が静かに響く。
「そんなことないよ」
今度はハッキリと言い切るように、熱を帯びた声。
夏子は凜から顔を背け、凜は微かに見える夏子の頬がほんのり赤くなっているが見えた。
「夏先輩?」
どこか様子のおかしい夏子に近づこうとして、
「凜って好きな人いる?」
かなり大きくて強めな声に足が止まった。
「好きな人? 別にいないですけど……」
「ほんとに?」
「ほんとです」
「ほんとにほんと?」
「ほんとにほんと」
夏子の顔色が少しずつ赤味が増し、瞳も少しずつ潤んでいき、体調が悪いのではないかと心配になってきた。
「夏先輩、どこか具合が――――――」
と、声を掛けたところで昼休みの終わりを鐘の音が告げる。
「あ、もう終わりか」
凜はズボンのポケットからスマホを取出し、時間を確認する。
「じゃあ行くね」
「夏先輩」
夏子は凜の呼び掛けに振り向かず屋上の出入口に向かう。
ドアを開いたところで凜の方へを振り返って、
「凜!!」
これ以上ないくらい真剣な表情で凜に告げる。
「明日の放課後、話したい事があるの」
「話したいこと?」
「うん……大切な話」
大切な話。その言葉に凜は夏子に問いかけ、
「今日じゃ駄目なんですか?」
「今日はちょっと用事があるから、ごめんね」
そう言って夏子は苦笑いで返す。
「じゃあ、明日の放課後。屋上でいいですか?」
「うん、お願い」
「わかりました」
「じゃあ明日、放課後屋上で」
そう言って夏子はドアの向こうに消えた。
「…………」
その光景に、また右眼が疼いた。
「っ…………」
普段、夏子と昼食を共にした後にある光景。何気ない日常の一コマ、そのはずなのに……。
「何だろ、この感じ……」
何故か先程見た夢が鮮明に脳裏に浮かび、
「…………悪い事が起きなきゃ良いけど」
漠然とした不安を抱え、凜はドアへと歩き出した。
§§§§§§§§§§§§
「ハァ……………」
自分の不甲斐なさ……いや、情けなさにため息が出る。
「夏子、どうしたの? ため息なんか吐いて」
隣からほんの少しだけ驚いたような音を奏でる声。
「えと……昨日遅くまで頑張って書いたのに、結局口約束しちゃったなぁ、と」
夏子は声に半分程空元気を込め、隣にいる幼馴染みに笑って見せた。
「うわぁ……せっかく私も手紙の内容の相談に乗ったのに無駄骨じゃん。後で何か奢ってよね」
ジトッとした目つきで夏子を睨む学校指定の青ジャージにスカート姿の少女もとい幼馴染み。名前は小野あかり、夏子と同じく十七歳。ほんのり茶色がかった黒髪を襟元で縛って、短いシッポが歩く度に弾む。
放課後、帰宅途中に今日はあかりの付き添いでバレー部の備品の買い出し……といってももうそれも終わって商店街をぶらりと歩いている。
「それで? 無駄になった手紙は?」
あかりは害意、とまではいかないにしろ不機嫌を顔に貼り付け、棘だらけの言葉を夏子へと向け。
「あっ、教室の机に入れっぱなしだ」
「夏子の?」
「う、うん」
「普通忘れちゃ来ちゃ駄目なのでしょ、それ」
向けられた言葉の刺が容赦なく突き刺さる。
「全く、夏子はどっかぬけてる所があるからなぁ」
「はは」
夏子は乾いた笑顔であかりの言葉を受け、なんとなしにあかりを見る。
あかりの顔立ちは同い年なのだが少しだけ幼く見え、可愛い部類に入ると思う。スタイルも自分と違って胸も腰もおしりも、身長に対して物凄くバランスがとれていて羨ましいくらいだ。
だが、あかりにその話をすると「夏子に言われても嬉しくない」ってかなり怖い顔される。皆、自分のスタイルが良いとはいうが、それなりに結構コンプレックスなのだが…………特に胸とか。
「それにしてもお気の毒よね、二年の男子。昼休みに呼び出されてたけど……断ったんでしょ?」
「う、うん」
「サッカー部のエースで結構な爽やかイケメン君も同じ二年のあの子には勝てなかった訳だ」
「はは…………あっ」
「ん? 何、夏子?」
夏子とあかりは足を止め、
「夕食の買い出ししなきゃ」
いつもお世話になっているスーパーに目が向いた。
普段、食料の買い出しはいつも目の前のスーパーを利用している。
夏子の家は母子家庭ならぬ父子家庭。夏子が小学生の頃、娘と夫を残して妻――――母である春那は病死した。別に不治の病というわけではない、ただ体が弱かっただけだ。
その頃から家事は夏子が受け持つようになった。初めの内は色々と失敗を重ね、冬樹の手助けもあり今では一人で家の事は全部できるようになった。
「でも、夏子も大変だよね。毎日ご飯とか家の事しなきゃいけなくてさ」
「慣れれば平気よ、あかりだってお母さんの手伝いしてるじゃない」
「まぁ、一応はね。それでどれくらい買うの? 私も備品の買い出しに付き合ってもらったし、荷物多くなりそうなら手伝おうか?」
「ううん、大丈夫。お肉と野菜を少し買ってくるだけだから、あかりは先に帰ってていいよ」
夏子はあかりにそう言って、
「いいって、いいって。それくらいなら向かいの本屋さんで時間潰してるから、終わったら電話して」
「ありがと、ね。じゃあ、ちょっと行ってくる」
「いってらっしゃーい」
互いに鞄と荷物を持っていない手を振り、スーパーの自動ドアをくぐる。
スーパーに入り、出入口に幾つも重ね積まれた買い物カゴを手に取る夏子。
「さて、っとお肉と野菜だから…………久しぶりに肉じゃがでも作ってみようかな」
丁度、冷蔵庫にはジャガイモがあったはず。タマネギとにんじん、肉は豚バラを狩っておけばいいだろう。
「先に野菜コーナーかな」
目の前の野菜コーナーに向かい、新鮮な野菜が数多く陳列された棚からタマネギとにんじんを探し、良く吟味をしながらカゴに入れていく。
「次は、お肉か……この時間だとタイムセールしてるはず」
日頃から世話になっている為、場慣れした主婦のように把握しているお買い得時間。
「少し量が多めに買っていこうかな」
明日以降の献立を考えながら食肉コーナーに足を運ぶ夏子。
品数も少なく買い物自体はそれほど時間は掛からなかった。が、さすが夕食前。それほど長くは無かったが全てのレジに行列が並び、会計に少しだけ時間が掛かった。時間にして一五分。
あかりを少し待たせてしまったが致し方ない。
夏子はこれ以上待たせまいと少しだけ早歩きでスーパーを出た。
「確か、向かいの本屋さんだったっけ……電話してって言ってたけど別に直接呼びにいっていいよね? 私も少し覘きたいし」
目的は夕飯の材料だったのだが、一旦買い物し出すとついでで色んな物を買いたくなってしまうのが悪い癖だと再認識する。
夏子がそんな自分の短所を自覚しながら本屋に向かって足を踏み出そうとした時だった。
「ん?」
夏子の正面に黒のパーカーを着た男が行く手を阻むように現れ、
「え?」
その男の右手には鋭く冷たい光を放った物が握られていた。
夏子がソレを『ナイフ』だと認識するよりも早く、男が口元を歪め。
――――ドシュッ!!
夏子の胸元に柄元まで凶刃が深々と沈み、
「クヒッ!!」
目の前には快感を感じているのか、今にも崩れてしまいそうな程に歪んだ嫌悪感が刻まれた笑み。
「あ…………」
――――――刺されたんだ、私。
そうに頭で認識するのと同時に夏子はアスファルトの地面に倒れて、
「ヒハハハハハハハハハハハハハハハハハハハッ!!」
耳の奥に突き刺さる男の声に、小さく息が漏れる。
「っ……………」
おかしいな、胸を刺されたのに痛くない。
「…………っ!!」
「お、いっ!?」
「だ……ぶかっ!!」
「誰、か……救、車!!」
周りにいた通行人達が慌てて駆け寄り、夏子に悲鳴じみた大声で叫ぶ。が、その声は届く事は無く、夏子も声の代わりにゴポッと夥しい鮮血を吐き出す。
「っぁ…………」
鉄の味が口の中を満たし、自分の体から熱が消えていくのがわかる。
「っ!?」
「お!!」
「っ!? あ!?」
どんどん見えている景色が薄れていく。
「……………………」
自分を刺した男の姿はもうどこにもなく。
「ッ!?」
代わりに泣きながら叫んで走ってくる幼馴染みが見えた。
夏子はあかりに抱き起こされて、
「!? ッ!? ―――――――――――――――!? ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――ッ!!」
あかりが叫んでいるのに、夏子には届かない。
「……………………」
もうあかりの顔が暗闇に消えて、声も聞こえず。
――――――なん、か……眠い、なぁ…………。
夏子の瞼がゆっくりと閉じ、意識が心地良い闇に溶け込んでいった時だった。
――――――――――グシャッ!!
遠くから聞こえてきた惨たらしい音を最後に、夏子の意識は闇へ消えた。