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「うぼへっ」

「はあ~、疲れた。よし、誰も褒めてくれないから自分で自分を褒めてあげよう。よく頑張った、しばらく休憩して良し」

「そんな。皆、思っておりますよ、領主様は実は仕事熱心だって。ところで、申し訳ないのですが仕事中でして、少々動きずらいと申しますか・・・」


 後ろから軽い衝撃を感じてうめき声を発した私は、モップがけの最中だった。そして今の私は、頭上にこの屋敷の主人の顎を載せて会話しているわけである。

 柔らかな声が直接に頭骨から響くよう。ちなみに、ウエストには、自分のものではない腕が巻きついている。


「しかし、掃除はカロルの担当じゃないはずでは?」

「ええまあ。アカリナさんとの賭けに負けましたので」

「随分仲良くなったみたいだね。まあ仲良きことは美しきことだけど、うるさいアウィスが知ったらどう言うか。怒るかもしれないもの、止めておくことをお勧めするよ」


 "・・・もの" なんてことばづかいをする成人男性を、私はここにくるまで知らなかった。こういうのも上流の流儀なのだろうか。いや多分、この方が少~しばかり、変わっているのだろう。

 どちらかといえば中性的な容貌に浮かぶ穏やかな微笑、すらりと伸びやかな手足。とりあえず、だものことばが浮かない容姿の方ではあるが。


「アウィス様は、もう戻られるんですか」

「そうだね。もうすぐだろう。今頃はうまく治めて酒池肉林のもてなしを受けてるだろうよ」


 アウィス様はこの方の弟で、見回りを兼ねて、水源の利権争いを治めるために領地の北方に出向いているのだという。私がここで働くようになったふた月ほど前には、既に出発していらした。

 だからまだお会いしたことはないのだが、領主様よりは幾分か厳しい方らしい。


「酒池、肉林。そうですか」

「そう。酒池、肉林。まあ、冗談だけどね」


 頭の上の顎だの、ウエストにまわされた腕だの、背後から張りつかれたこの状況はなかなか難儀ではあったが、一介の使用人である自分は本来そんなことで文句を言えるような立場ではない。

 それに、最初は驚いたものの、もう馴れてしまった。この方にとってはこれが挨拶がわりなのだ。こちらが本気で嫌がれば、あっさり止めてくれるだろうこともなんとなく分かっている。



 ここでの生活は、毎日が平穏だった。平穏どころか、充実してさえいる。こんな日々を過ごしていていいのかと思うほどに。

 ――少しぼんやりとふた月余りの生活を思い返していると、パタパタと近づいてくる小さな足音が聞こえた。


「お兄様、どいてよ。カロルはお兄様じゃなく、わたしのお世話係なのよ」

「おや、気難し屋の小さなお姫様がお目覚めですか。今日のお昼寝はいつもより短かったみたいだね」

「はやく。どいて」

「なにせ、私は博愛主義者なんだもの、男も女も皆大好きで離れがたく・・・はいはい、睨まないでくれよ」

「リーリお嬢様。お目覚めまでにお部屋に伺えなくて、申し訳ありませんでした」

「それはいいわ、カロル。わたし、お庭に行きたいの。はやく行きましょう」


 そう言って先に歩きだしたリーリウム様は、抑えたアプリコット色のドレス姿。肌の色が雪のように白いというよりは、ほんのり小麦色であるのを気にしていらっしゃるが、こういった色合いのドレスが本当によくお似合いになると思う。


 こちらでの私の本来の仕事は、この齢八才のお嬢様のお世話が主である。お嬢様はなかなか気難しく手ごわいと聞いていたのだが、私はこの小さな貴婦人のお世話ができることを幸運と受けとめている。

 どことなくエキゾチックなものを感じさせるリーリウム様は、領主様とはそれほど似ていないように思えるのだが、お嬢様本人がひどく無造作に口にしたところによれば、こちらの三人のご兄妹はすべて母親が違うのだという。数年前に今の領主様に呼び寄せられるまで、三人別々に暮らしていたらしい。


「ねえ、カロル。ぼうっとしちゃって、熱でもあるの?」

「いいえ。すいません、私よりお嬢様の方がよっぽどしっかりしていらっしゃいますね」

「そうかもね。少なくとも、お兄様よりはしっかりしてるでしょ。まったく、お兄様ったら、カロルの前だと壊れてしまうんだから」

「そうですか? でも、たいへんなお仕事をなさっているのですから、たまに壊れるぐらいの方が結局は長持ちするものですよ」

「ほんとにたいへんなお仕事なの? なんだか信じられない」


 お嬢様が疑わしげな顔をする。そんなお顔もかわいらしい。


「そりゃあ。前の領主様が亡くなってから三年余り、街の治安が良くなってきていることも肌で感じられますし、農地にも活力が戻ってきているそうですよ。もちろん、干ばつや冷害にみまわれなかったという幸運のおかげもあるでしょうが、徴税の方法などもかなり変革されたようですし・・・先代の領主様を悪く言うつもりはありませんが、お兄様がたや、新しい顧問官の方々の力によるところが大きいのだと思いますよ」

「へえ。カロルはよく知っているのね。どちらのお兄様も、そんなたいへんなことをしているようには見えないけど。でも、少しは尊敬してあげようかな」

「そうですね。ぜひそうしてください」


 お嬢様は口では辛辣なことを言ったりもするが、こういうときはいつも、長々とした説明をまんざらでもない顔をして聞いている。

 やはり、本心では年の離れた兄たちを慕っているのだろう。他に親しい身内もいないとあっては、当然といえないこともないが、実際、まだ若い領主様やそれを支える顧問官たちの評判が良いのも事実だった。


「ほら、見て。あなたの好きな花がまた新しく咲いたわよ」


 お屋敷の門口からそう離れていない場所で、お嬢様がしゃがみこむ。私も隣りにしゃがみこんで、可憐な白い花に見入った。

 途端、この花独特の清冽なかおりに胸を打たれる。



 ここのお庭には、ミュケの花が植えられていた。この花が植えられている一角は、お屋敷に足を踏み入れたその日から――そのときはまだつぼみもついていなかったが――ひそかなお気に入りの場所になっていた。ひそかなといっても、お嬢様にはすぐにばれてしまったが。


「どうしてこんなに地味な花が好きなの?」

「そうですね。どうしてでしょう。もともと何となく好きな花だったのですが、子どもの頃にこの花の前でたわいない約束をして・・・それから、私にとっては特別な花になったのかな」


 昔々、小さな約束をしたときと同じかおりに包まれていると、心はいとも容易くそのときに帰ろうとしてしまう。そんなことはできるはずもないのに。


「へえ。どんな約束? 約束はちゃんと守ったの?」

「約束の内容は、子どものことですから、たいしたことではないんですよ。守ったかどうかは・・・残念ながら、世の中には、守られない約束の方が多いものなんです」

「そうなの? 家庭教師のいけすかない先生方は、約束はきちんと守るのが正しい道だとおっしゃるけど」

「それは・・・正しいことをして正義を通せば、いい結果を迎えられるとは限らないでしょう? ・・・まあ、私、おかしなことを言ってしまいましたね」


 そのとき後ろの方で、ザッと土を蹴るような音がした。振り返って見ると、立木の向こうに、人影のようなものが見えた気がした。しかし、それ以上は音もしなければ、何かの気配も感じられない。

 気のせいかと視線を戻すと、お嬢様の曇りのない瞳に迎えられ、自分がどうしようもなく擦れた人間のように思えてしまう。


「今言ったことは、単に私がそう思ったというだけのことで、正解でも何でもありませんから。お嬢様には、ご自分でゆっくり考えて判断なさっていただきたいと思うんです」

「そう・・・。では、だんだんに考えてみるわ。あのね、カロルはときどき変なことを言うけど。でもわたし、そういうの嫌いじゃないから、やめないでね」

「今までそんなに変なことを申しあげましたか? きっと、お嬢様が私に言わせるんですね。お嬢様には、つい、大人に話しかけるように話しかけたくなるんです」

「ふふ。わたし、はやく本物の大人になって、もっといろいろなことを知りたいし、話したいの」


 はやく大人になりたい――そんなことを思ったこともあったっけ。そう思い起こしながら、お嬢様を促して、屋敷の中に戻った。そろそろ「いけすかない」家庭教師の先生がいらっしゃる時間だった。



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