現在(6)
その夜は、リーリお嬢様のこと、領主様のことば、アウィス様の顔、いろいろなものがぐるぐると頭の中をめぐって、眠れる気がしなかった。
寝台に腰掛けて、横の小さなテーブルに置いたろうそくの灯りが揺れるのを、長いことぼうっと眺めていた。
そうしていると、トントンと、部屋の扉をノックするような音がした。怪訝に思いながらもろうそく台を手に持って、扉の方に近付いた。
その行動を予測したように、扉の下の隙間から何かが差し込まれた。拾い上げてろうそくの灯りに近づけて見てみると、何やら文字が書かれた紙きれだった。
その文字は、アウィス、熱、というように読めた。誰かのいたずらかとも思ったが、このような字を書ける使用人は多くはないし、前に領主様から書きつけで指示をもらったときに、ちょうど同じような紙切れに、同じような文字で書かれていたことを思い出した。
昼間のずぶ濡れのアウィス様の様子が目に浮かぶ。つまりこれは、アウィス様が熱を出して、人手を必要としているということではないか。
そう思いつくといてもたってもいられなくなり、着替えもそこそこに、ろうそく台だけを手に部屋をでた。
ざわざわと騒ぐ胸を押さえつけてアウィス様の部屋の前に着いてみれば、もう大騒ぎになっているかもしれないという予想は外れ、部屋の方からは何の物音も聞こえない。
しばらく迷ったあげくに扉のとってに手をかけると、重厚な扉は音も立てず、内側に吸い込まれるように開いた。
はじめて目にしたアウィス様の部屋の中はがらんとした印象で、窓から入る月明かりがちょうどその傍らの寝台のあたりを照らしていた。他にはろうそく一本の灯りさえ、ついていない。
静かに扉をしめると、手元のろうそくの炎さえうるさすぎるように思えて、そっと息を吹きかけて灯りを消した。
しかし今度は、月明かりに浮かび上がるような寝台のあたりをのぞいて、何が配置されているのかも分からないほどに闇が濃く思えた。奥には書庫なのか、続き部屋があるようだったが、ただ暗闇が口をあけているようにしか見えなかった。
少し恐いような気がして、消した灯りを後悔する――寝台の上の人影は、身じろぎもしなかった。
まるで、息すらしていないかのように。
恐る恐る足をすすめて蒼白い寝台に近寄ると、窓枠の影が寝台の上に落ちていて、それは十字架のように見えた。
それから、注意深くその人の胸を見ると、わずかに上下しているのが分かった。心底ほっとする。
おずおずと手を伸ばし、アウィス様の額に指をあてると、微熱があるようにも思えたが、高熱を出しているわけではなさそうだった。
知らずつめていた息を口から細く吐きだした。
いけないと思いながらも、蒼白い光に照らされた繊細な顔立ちに見入ってしまった。
わずかに眉をしかめるようにして目をつむった顔は、少しさびしげに見えて、昼間のように笑った顔をもう一度見たいと思った。
首筋に見える汗をぬぐったら、そうしたら、自分の部屋に帰ろう。
そう思って寝台に備え付けられた飾り棚から布を取り上げ、代わりに火の消えたろうそく台を置いたとき、それはかしゃりとそっけない音をたてた。
身をこわばらせてアウィス様の方をうかがうと、彼がゆっくりと身を起こすところだった。
やがて彼の口が動いて、つぶやくように発せられたことばを聞くと、なぜだろう、私はとっさに何も見えない真っ暗な続き部屋の方へ逃げだしてしまった。その暗闇が自分をかくまってくれる気がして。
カロル、と。彼は、たった一言、私の名前を呼んだのだった。
何も見えはしなかったが、伸ばした手の先がひんやりとした壁にふれて、もうここから先へは進めないことが分かった。
身をひるがえそうとしたとき、肩をおさえる手を感じた。
すでに速い鼓動を刻んでいた心臓がはねあがる。
そのまま背後から抱き寄せられて、反射的に逃れようともがいても、閉じ込める腕の力は揺るがない。目の前の闇が本物なのか、自分が目をつぶっているせいなのか、混乱してそれすら分からなくなった。覆われた背中から高い体温が伝わる。
ふと腕の力が緩んだような気がした。逡巡したまま、固まったようにじっとしていると、暗がりの中で抱き直された。
今度は正面で相対した身体が、ゆっくりと彼の方に押しつけられる。
「いつも手をすり抜けて、逃げてしまう」
かすれた声が、すぐ耳元で聞こえた。
私の頭を抱かえていた手が、ひっそりと髪を撫ぜはじめた。
その手がこめかみの方に降りてきて、目じりのあたりを伝わり、やがて頬の線をたどり始める。
何も見えないのに、頬をなぞる指先が、細かく震えているのが分かった。
その途端、かちり、と頭の中で音した。寄木細工のからくり箱の蓋が開いたときみたいに、たくさんの風景が一気に私の心になだれこむ。
涙をぬぐってくれた男の子。怒ったような顔と、震える指先。きついことを言ったあとで、必ず心配そうに傾げられる顔の角度。ミルクティーの色の髪。私の名前を呼ぶ声。花のかおり。白い花。約束。
「君にとってあの約束は、何の意味も持たなかったのか」
違う。それは、違う。
あの約束は、遠くで輝く宝物。
昔とは何もかもが変わってしまったから、あれは、気の遠くなるほど隔たった場所にある星みたいに、手が届かない宝物なのだ。
それを直視すれば、まぶしすぎて目が灼かれてしまう。自分の欲しいものと、現実との距離を、残酷なほどに思い知らされてしまう。
「だって」
「だって、何?」
本当に欲しいものに、大切なものに、手を伸ばすのは、恐い。
それでも、今だけ。
今だけ、手を伸ばしてみようか。
少し後ろへ身体を離すように後ずさると、今度は背中にまわされていた腕の力が諦めたように緩んだ。
闇の中で、あのやさしい色を思い浮かべながら、彼の髪に手を差し伸べた。それから、さっき自分がしてもらったように、そっとその髪を手で梳いた。
するとふわりと身体が浮いたような気がして、なんだ夢を見ていたのかと思った。
それから少しの間つづいた浮遊感は、とすっという音とともに、唐突に終わった。
それは自分が、蒼白い光を集める寝台の上に、横座りに降ろされた音だった。