昔々(1)
ミュケのまっ白い花に朝つゆがおりていた。
花壇のわきにしゃがみこんで、小さなベルの形をした花の一つに手を伸ばす。
指の先がつゆに濡れた。
――これは、だれの涙?
この花の種をまいたとき、母さまはまだ元気だった。それなのに、花のように笑っていた母は、一日ごとに萎れていった。嘘みたいにあっというまに、手の届かないところにいってしまった。
あのときは、母に仕えていた人たちもみんな泣いて泣いて、奥方様は優しすぎたから天国に呼ばれてしまったんだと、私に教えてくれた。
天国になんか行かないで、いっしょにこの花が咲くのを見てほしかった。
「おい、甘えん坊」
「ウィル・・・」
「朝からめそめそしてんなよ」
「してないよ。ウィルこそ、勝手に庭に入ってこないでよ」
「おまえだって、うちの庭にしょっちゅう入り込んでるじゃないか」
ウィルはお隣に住む男の子だ。三つも年上なのに、ときどきとても意地悪なことを言う。でも、その後で必ず少し心配そうな顔をする。だから、ウィルの意地悪は本当はそんなに嫌じゃない。
「それより、ほら見て。ミュケの花が、ようやくいくつか咲いたんだ」
この花が咲くのをいっしょに見るはずだった母はもういない。それは変えることができないけれど、咲きぞめの花を、ウィルといっしょに見ることができた。
吸い込んだ朝の湿った空気は、ミュケの花の清冽なかおり。
頬をつたっていた涙を手の甲で何気なくぬぐってから、ウィルに笑いかけた。
すると、ウィルが私の肩に手をおいて、顔をのぞきこむようにする。
それからすぐ、何かが私のくちびるにふれた。何か、とても優しいものが。
――あれ?
「おれがおまえのお母さんになってあげるから、もう泣くなよ」
「・・・母さまは、さっきみたいなことしないと思う」
「ばっ、ばか! おまえの知らない広い世界には、そういうお母さんもいるんだよ」
「ふうん」
ウィルは赤くなって目をそらす。
ウィルが母さま? それは変だと思う。母さまは一人で十分。それよりも。
「でもね、ウィル。"お母さん" にはならなくていいよ」
そう言うと、ウィルは怒ったような、悲しいような、おかしな顔をした。それだけで、私はとてもあせってしまう。
「それより、大きくなったら、私と結婚して。私の旦那様になって。そうしたら、さっきみたいなこと、いっぱいできるよ」
「ばかカロルっ! 何てことを言うんだよっ」
ああ、失敗しちゃった。きっと私は、淑女にあるまじき、はしたないことを言ってしまったんだ。嫌われてしまうのかな・・・。
また胸のおくが、痛くなる。
「いいよ」
「え?」
「大きくなったら、結婚してやる。約束だ。そのかわり、さっきみたいなこと、人前で言うなよ」
歯切れ悪く言ったウィルは、まだ怒ったような顔をしていた。そんな顔をしたままで、私の顔の方に手をのばす。
目じりに残った涙をぬぐってくれたウィルの指先は、少しふるえていた。
私は心底ほっとして、それから、じんわりと嬉しくなった。だから、大事なミュケの花を一本たおって、ウィルの髪にさした。ミルクティーの色をした髪に。
「これ、約束のしるし」
「・・・おまえ、やっぱり変なやつだな」
今度は、うっすらと赤い顔をしてウィルがそう言った。
ミュケの白い花は、ウィルの繊細な顔立ちによく似合ってる、と私は思った。